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屋敷は普段と変わらない、静かな空気をまとっている。
すでにトムの部屋と化した祖父の書斎には、彼の姿はなかった。どこかへ出かけたままらしい。けれど屋敷の扉が開く音がして、誰かの革靴がこの書斎のある廊下へ続く階段をのぼるのが聞こえる。トムのものではない。わたしは来客があるのを知らなかったため、行き場もなく書斎の扉を閉めた。誰かは知らないが、死喰い人の一人だろう。トムがいないことに気づけばここを去るはずだ。
書斎を覗いて部屋に戻るつもりだったのに、と考えつつ扉の近くに潜んでいるのも妙な話なので中へと進むと、そこに黒い日記帳があるのに気づいた。これは――わたしが贈ったものだ。見間違えることはない。あの、彼がクリスマス休暇をホグワーツで過ごした唯一の日の。
まだ手元に残していたのね、とそれを手のひらでなぞった瞬間、ノックもなしに扉が開いた。わたしは思わずびくりと体を揺らして、そちらを見る。そこにいたのはアブラクサスだった。
「我が君がお呼びだ」
相変わらずそっけない声で彼は言う。トムが屋敷にいないことを知っていたらしい。
「何のために?」
わたしがそう尋ねると、アブラクサスは不愉快そうに眉間にしわを寄せる。つくづく彼は、自分の主君への従順さをわたしにまで求めたいらしい。
「ただ、ミョウジを呼べと仰せつかったまでだ。余計な詮索をせずさっさと来い」
彼が歩幅を大きくして距離を詰めたので、あっという間にわたしたちは向き合う羽目になる。ここには助け出してくれるオリオンもいない、と考えたところで、昔もこんな出来事があったことを思い出す。
「前は名前で呼んでくれたのに。ナマエ、と」
わたしがアブラクサスの胸元に手を添えてあだっぽく言うと、彼の眉間のしわはますます深くなった。それがおかしくて、彼の胸にしなだれ掛かる。厚みのある胸板は、よろけることなくわたしを受け止めた。
「今日は売女め、なんて振り払わないのね」
アブラクサスがあまりに口を開かないので見上げると、彼はわたしをまっすぐに見下ろしていた。そのせいで、熱っぽく見つめ合う恋人同士のようになって、余計に可笑しい。
「……ずいぶん頼りなくなった」
彼は胸元にあったわたしの手首を掴むと、確かめるように握り込んだ。それは痛めつけるようなものではなく、優しく壊れ物を扱うような触れ方だった。いつかのトムにも、痩せたと言われたことを思い出す。
そして思ってもみなかったことが起こった。彼はわたしをすっぽりと、何者からも隠すように抱きしめた。そのせいで、わたしは彼がずいぶん長身で、男らしい体格をしていることを思い知らされる羽目になる。彼をからかうつもりでいたのに、どうしてこんなことに、と考えながらも彼にペースを譲ることが癪でわたしは背中に手を回した。トムの体温に慣れたわたしには、彼はずいぶんあたたかかった。
アブラクサスはわたしの耳元に唇を寄せると、抑えた声で一瞬囁いた。わたしがそれに目を見開いているうちに、アブラクサスはまるで何事もなかったように体を離す。
わたしが彼の言葉の意図を探るように見つめた時だった。閉じていた書斎の扉が、もう一度開いたのは。
「ずいぶん時間がかかったようだな、アブラクサス」
そこにいたのは他でもない、トムだ。彼の部屋に呼ばれざる客が二人いるのを不愉快そうに見つめると、トムはわたしの手を引いて彼のそばへと連れ出した。
「申し訳ありません、我が君」
アブラクサスは慇懃に腰を折る。トムはその姿を一瞥して「まあいい」と吐き捨てると、さっさと行けとでも言うように扉を開け放った。アブラクサスは早々にその場を立ち去り、しばらくすると屋敷の扉が閉じる音がした。この屋敷にいるのは、わたしたちだけになる。
「……貴族の男をたぶらかすのが相当気に入ったようだな」
彼がわたしの方をちらりとも見ずにそう言うので、わたしは肩をすくめた。もう元どおりというわけなの?あの日――みっともなく彼の前で泣きわめいた日――のことを蒸し返されても、わたし自身どうしようもないということはわかっていたけれど。
「あら、嫉妬?珍しいわね」
わたしはそう答えると、机にもたれて腕を組んだ。彼がその気なら、大人の態度で接することは造作もない。彼がわたしの気持ちを理解するなど、期待するべきではないのだから。
トムはそんなわたしに「はぐらかすな」と咎めながら、机にあった日記帳を手に取った。そしてそれを彼の後ろにあった本棚の、ちょうどそれのために空いていたようなスペースに滑り込ませると、やっとわたしに向き直る。
「マーキングのつもりか?鼻に付く匂いだ」
トムはわたしの首筋に顔を寄せると、アブラクサスがそうしたように囁く。アブラクサスがわたしを抱きしめたのなんて、ほんの少しの間だ。残り香なんて、あったとしても微々たるものだろうに――。そのままわたしの耳に噛み付いて舌を這わせるので思わずトムの胸にすがると、その手を掴まれてしまう。彼の口づけを受けながら、わたしはアブラクサスが耳打ちした言葉を思い出していた。
『ここから早く逃げろ。幼い頃君に恋心を抱いた愚かな男としての忠告だ』
――そうして、オリオンと同じ言葉を吐いたのだ。『君が望むなら、私が君を護ろう』、と。
わたしが彼の手を取って逃げることのできる女なら、どれほどいいか。
深くなっていく口づけを受け止めつつ、わたしはトムの手を握り返した。
危うげなまぶたの線を追いかけて