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彼の機嫌がすこぶる悪いことはすでに察していたので、約束など忘れているだろうと踏んでいたものの、トムが三本の箒の前で立ち止まった時、わたしはそれが先ほどの口約束のためだということに気づかなかった。

「身体が冷えたと言ったろう」

そう静かに言ったトムは、怒りを隠しているのかどうかさえ分からなかった。彼の顔には、何の感情も浮かんでいなかったからだ。死喰い人たちの待つホッグズ・ヘッドでいいのよ、と言うのも構わず、トムはさっさと中に入ってしまう。わたしがその背中を追いかけて中に入ると、その中は珍しくわたしたち以外に誰もいなかった。一番端の席を取ると、わたしはマダム・ロスメルタの元に二つ注文しに行く。

「あなた…ミス・ミョウジ?」

わたしの顔をまじまじと見た彼女がそう言うので、わたしは思わず眉を寄せた。それに対し彼女はごめんなさいね、と前置きしつつ言った。

「あなた、殺されたって噂になっていたのよ。ほら、最近なにかと物騒でしょう」

そう言ってマダムがトムをちらりと見た。トムはこちらに背を向け、フードまでかぶっているので彼とは気づかれないだろうけれど。もっとも、ずいぶん容貌までも変容しているため、顔が見えていたところで彼があの “トム・リドル”であることはマダムには分からなかっただろうが。

しかしわたしは彼女の言葉に思わずくすりと笑いをこぼしてしまう。

「わたしも何故今まで生きてこれたのか分からないのよ、マダム・ロスメルタ。自分でも不思議なの」

その言葉にマダムは目を白黒させながらも、「そうよね、いついなくなったって分からないものね……」と言いながらバタービールを二つ、手渡してくれる。

「ミス・ミョウジ、悪い男に捕まってはダメよ。きちんと愛してくれる男を選ばなければ」

シックルを渡した時にこっそりと囁かれたその言葉に、わたしはまた笑みが深くなる。マダムは、いかにも怪しい男を連れたわたしに、親切に忠告してくれているのだ。そうね、ありがとう、と応えて二つ分のバタービールを抱えたわたしは、マダムの言葉が全て正しいと分かっていた。わたしは、悪い男に捕まっている。いや、むしろ、悪い男を追いかけずにはいられないのだ。

トムの前に一つ差し出すと、彼はそれを光に透かすようにして見た。懐かしんでいるのかもしれないし、ただそうしてみただけかもしれない。しかし、思えばわたしが彼と二人きりでホグズミードに来たことはなかった。ただの一度も。結局のところ、わたしは日陰者だったのだ。光の下で、彼の隣に立ったことなどない。きっと、唯一、あのダンスパーティーだけ。

「あなたが鼻の下に泡をつけた姿なんて、わたし以外に見せられないわね」

わたしがそう言うと、トムは片方の眉をつり上げて一口飲み込んだ。そうしてジョッキから口を離すと、不思議と泡は付いていない。変なところで見栄っ張りなのね、とわたしは彼に直接言いはしないけれど頭の中に浮かんでしまって、くすりと笑みをこぼす。こんなふうに笑ったのは久しぶりだと考えていると、目の前のトムが言った。

「君のそんな顔を見たのはずいぶん昔のようだ」

そんな言葉をこぼした彼の声が、存外穏やかに響いて、わたしは最近感じていなかった胸をくすぐるようなざわめきが起こるのを確かに気づいていた。わたしの中の幼い感受性が、まるで恋人のようだと浮かれるのを、馬鹿ねと一蹴する自分がいる。今、頬でも、頭でも、優しく触れてくれたらいいのに。そう考えてしまうのをやめられなくて、わたしは誤魔化すようにバタービールを口に含んだ。

「今日はここに泊まるの?」

わたしはトムから視線を外して、横の窓から外を覗き込む。ずいぶん雪が降っていた。ホッグズ・ヘッドの近くの宿に荷物を置かせていたので、きっとそこで一晩泊まるのだろう。わたしがそう考えていると、トムは「いや、」と小さく言った。彼をちらりと窺い見ると、わたしと同じように外を眺めていた。面影を残しているとはいえ、蝋で作ったような彼の顔は昔のようなハンサムな男とは決して言えないのに、なぜだか惹かれてしまう。

「君は奴らと一緒にここに留まれ。私は行くところがある」

わたしが思わず彼を凝視すると、トムはなんてことないようにわたしを一瞥した。「別に、同じ部屋に泊まれなどとは言っていない」と言うものの、わたしが言いたかったのはそういうことではなかった。

「あなたがいないなら、わたしも屋敷に戻るわ」

わたしがそう言うと、トムは珍しく少し迷うようなそぶりを見せた。けれど、しばらくすると静かに首を横に振って、ここにいろ、と有無を言わせぬ声で断じた。

退屈だわ、と囁くように言うと、トムはわたしの含んだ意味に気づいたのか、猫をあやすように喉元をくすぐってくる。トムの指先は乾燥していた。さらりとしたその感触にさえ、わたしはどこか切望するような気持ちになる。

「すぐに退屈しのぎが見つかるさ」

トムはそう言い残し、ホグズミードを去っていった。彼がどこにいったのかを、わたしは知らない。

次の日、予言者新聞の一面を飾ったのは、ある魔女の惨殺事件だった。

どうかガラスのくつは脱いでおいて




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