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「美しいお姫様は、悪い魔法使いに羽を折られてしまいました」

「弱いからそうなる」

わたしが不意に読み上げた本の一節を、トムは目も向けないままでそう切り捨てた。わたしは退屈してきていたのでその本を未練なくぱたんと閉じると、トムのベッドサイドに置かれた机の、分厚い本が積み上がった一番上にのせる。

「王子様が悪い魔法使いだったなんて、誰も想像だにしないでしょう」

わたしはトムがそれに答えないことを知りつつも、彼の背中にそう言って布団に潜り込んだ。

季節は巡り、もう布団に包まれなくても寒くはない。けれど、そうしているとなんとなく落ち着くのだ。

彼によって何もかもを奪われた少女にとって、時が過ぎるのはずいぶん遅く感じるだろう。今は、まるで彼女が存在していないかのように毎日が続いている。わたしは彼女に対して同情を禁じ得なかった。彼女に手を差し伸べることは、一度もしなかったけれど。

風の噂で、彼女がダームストラングの生徒と婚約したと聞いた。父親の采配だろう。彼女は卒業したら、顔も見たことがない男と結婚するのだ。トムに出会いさえしなかったら、トムに利用されさえしなかったら、このホグワーツで愛する人を見つけ、恋をして、祝福されながら可愛らしいウエディング・ドレスを身にまとったろうに。

トムはそのことを知ってか知らずか、まだ手の中の本に目を落としたままだ。覗き込んだって、どうせこの世のものとは思えないほど残酷な記述ばかりが並んでいるであろうことは想像できるのでしない。今日はこのまま寝てしまおうか、とトムに背を向けてベッドの上で体を丸めていると、しばらくしてトムがテーブルに本を置く音がした。そうして、布団に体を滑り込ませてくる。

わたしを当たり前のように後ろから抱きしめて、トムは髪のかかった首筋に鼻先を埋めた。

「調べごとはもう済んだの?」

「ただ確認していただけだ」

トムはくぐもった声でそう言うと、たわむれにわたしの首筋に唇を寄せる。乾いた唇が肌をくすぐるのを感じた。

トムはしばらくそうしていると、少し体を起こしてベッドサイドにあった黒い表紙の日記帳を手に取り、わたしに差し出した。これはわたしが贈ったものだ。

「触ってみろ。何か感じるか?」

わたしがそれを受け取ると、トムは注意深くわたしを見つめた。

「何も感じないわ。これがどうしたの?」

ぱらぱらとめくると、そこには何も書かれていなかった。何かに活用するといいと思って贈ったものだったけれど、トムが日記を書いているところは想像もつかない。何か雑多なことを書き留めることもしなかったようで、中は真っさらだ。

「あなたが日記を書くとは思っていなかったけれど、せめて何かしら書くくらいの誠意は見せてもいいんじゃないかしら」

わたしは特に憤慨したわけでもないけれどそう言った。トムは少し笑うと、わたしの手から日記をひょいと取り上げ、今度は大切そうにトムのトランクへしまった。彼が何をしたかったのかはわからない。ただ、わたしの贈ったものに彼が自らの蔵書として印を残していたことは、なんだか嬉しさを感じさせた。

「時期が来たら、あの日記がどんな意味を持つか教えてやろう」

トムはもう一度わたしを抱き直すと、布団に肩まで潜り込む。途端に、トムの香水や体臭が混じった彼だけの匂いに包まれた。わたしはもっと、それで満たされようと彼の腕の中で寝返りを打ち、彼の胸元に顔を寄せた。彼は血も通っていないような冷たい男だというのに、心臓はきちんと脈打ち、体温はわたしより低いもののあたたかかい。

「薪代わりに使える、だとか、そういうことじゃないといいけど」

わたしが顔のほとんどを布団の中に埋め、くぐもった声で彼に言うと、トムは喉で笑いながら「命と同等に大事な品だ」と囁いた。
これほど嘘っぽい言葉はないだろう、彼が口にする中で。彼ほど、自らの存在に執着している
人間は他にいないだろうから。

「もうすぐ卒業ね」

わたしはその言葉を、ほとんど彼が起きているか確かめるためだけに言った。

彼はしばらく黙っていたけれど、わたしが寝てしまったのかと顔を覗き込んだ瞬間、ぱちりと目を開いてわたしの額に唇を落とす。そうして、わたしの瞳を見つめた。何を考えているのかわからないような目を、トムはしていた。

「君は僕に対して心を開いていないな」

唐突にトムが言うので、わたしは目をぱちくりと瞬かせてしまう。心ですって?トムがそんな、曖昧で詩的な台詞を吐くなんて、と怪訝な目をしてしまったのに気づいたのか、トムは肩をすくめる。「勘違いしてるだろう」と、そう言って。

「スラグホーンですら、僕の前に全てを曝け出したというのに。君の心は読めない」

「もしかして、今わたしに開心術をかけていたの?」

トムは悪びれることなく「そうだ」と肯定した。わたしは呆れて、彼に背中を向ける。そんなわたしをあやすように、トムはうなじに唇を何度も落とした。けれどわたしが振り向くことはなかった。

もし、彼がわたしの考えていることを全て読んでしまったら、わたしにとっても、それから彼にとっても、重大な”不都合”が生まれることを、トムは知らないのだ。これほど闇の魔法に精通し、そして誰しもを魅了するすべを知るトムが、ただそれだけを知らない。彼が手の内を明かした女が、トムの最も忌み嫌う愛を彼に向けているということを。

彼の腕の中で眠る、それが彼を愛した人間にとってどれだけ幸せなのかを、知らないままでいるのが彼にとって一番いいのだ。

「僕に何か隠し事を?常に警戒しているのか」

トムはそうからかうように耳に囁いてくる。もしかしたら、トムは彼への裏切りを疑っているのかもしれない。彼の計画を、彼の天敵――ダンブルドアに、漏らすだとか。

「いいえ、トム。あなたの思っているようなことは何も」

わたしがそう言うと、トムはつまらなそうに鼻を鳴らし、わたしの腰に手を回して彼の方へと強引に引き寄せる。わたしが彼の腕の中に収まってしまうと、トムは満足げに耳を食んだ。

頭の中にどんよりと靄がかかり、そろそろ眠りに落ちるな、となんとなく悟った時、トムが唐突に、彼も少し眠気の混じった声で囁いた。

「君、知っていたか。ダンブルドアがグリンデルバルドを破ったらしい」

きっと、明日の朝刊に乗るだろうさ、とトムは付け加えて、とうとう眠りに落ちた。

身を強張らせたわたしに気づくことなく。

まどろむ者たち




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