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「これで僕は立派な間男というわけだ」
オリオンはわたしと向かい合って座りながら、そう肩をすくめて言った。
ここは三本の箒だ。雪が降っているせいで、暖を取ろうと中はごった返している。
「間男なんて人聞きが悪いわ」
わたしは紅茶のカップに目を落としたまま、そう答える。わたしたちの姿を好奇の目で見ている生徒がいることは気づいていた。意に介しても無駄なことだ。
「トムと君は公認の仲、というわけでもないようだが」
オリオンはわたしの注文した糖蜜パイを一口分切り分けて、その口に運ぶ。
「仲も何も、そういう関係を望んでるんじゃないのよ」
あれからわたしたちは、以前と何も変わらない生活を送っていた。ただの同寮の間柄として。しかし、わたしたちが少しでも挨拶を交わしたりすれば、囁き声が耳につくようになった。トムの次の恋人に、生徒たちの関心が集まっているのだ。
あの子は普段通りの生活を送っているけれど、その表情はどこか暗い。スリザリンの生徒ではなく、レイブンクローやハッフルパフの女子生徒たちと行動を共にするようになっているようだった。
わたしと彼女はもともとそこまで親しいわけでもないので顔を合わせることも少なく、今まで鉢合わせになったこともない。生徒たちの噂話を別とすれば、わたしの生活に何ら変わりはなかった。
「はた迷惑な話よね」
わたしがそう言うと、わたしたちの周りに座っていた生徒たちが静まり返る。どうやら、熱心に噂話に勤しんでいたらしい。
オリオンはそれに気づいたのか、にやりといたずらっぽくわたしの手に指を絡めてきた。「君の手はいつもなめらかで美しい」だなんて、白々しいことを熱っぽく囁きながら。
「わたし、明日にはもうスリザリンの男を手玉に取る悪女に仕立て上げられてるわね」
今度はわたしが肩をすくめる番だった。オリオンはこの遊びが相当楽しいのか、いつまでも笑みを浮かべている。
すると、何の前触れもなく店の中が静まり返った。そしてそれに加えて目の前に座るオリオンまで、少し目を見開いたあととびきり面白いものを見つけた、とでもいいそうな顔をする。
わたしが振り返ると、入り口にはあの赤毛の少女が立っていた。隣にはどうやら友人らしいハッフルパフの女子生徒たちが、少女を囲みながらわたしを見てあんぐりと口を開けている。友人の恋人を奪ったと噂されている女が、別の男といるのだ。その上、手まで繋いでいる。
「この店はゴシップに尽きないわね」
わたしが思わずそう囁くと、オリオンはとうとう吹き出した。わたしの指の間に手を滑らせ、「キスのひとつでも見せてやるのがサービスか?」と囁き返してくる。
ハッフルパフの女子生徒たちは、本人より憤慨しているようだったけれど、さすがに勇気が出ないのかわたしたちに直接文句をつけることはしなかった。けれど、わたしたちから一番遠い席を選び、時折鋭い視線を向けてくる。
「オリオン、わたしの頬を撫でて、目を見つめて」
わたしが指先で彼の手の甲を撫でながらそう言うと、オリオンはその通りにわたしに手を伸ばした。彼の大きな手がわたしの頬を撫でる。わたしはそれに頬をすり寄せることで応えた。
向こうで、ナイフの柄を机に打ち付けるような音が聞こえる。「落ち着いて、お願い」と鈴の鳴るような声が聞こえた。彼女の声だ。「もう出ましょう、」と彼女は友人を促しているらしい。
「わたしにキスするのを許すわ、オリオン」
わたしが甘ったるくそう言うと、オリオンは心得たとばかりにわたしの顎をすくうように上げた。彼の整った顔が近づいてくる。わたしは目を伏せてそれを待っていた。
しかし、彼の唇を感じることはなかった。
またもや店内が静まり返って、視線が集まっているのがわかる。それは、わたしたちが顔を近づけあっているせいではなかった。
「やあ。僕がここに座るのも許してくれるかい、ナマエ」
トムは温和な優等生の仮面を被ったままそう言うと、彼が注文したらしいバタービールをわたしの隣に置いた。そして、当たり前のように横に座る。
「トム、君ってやつは最高だな」
オリオンは今にも腹を抱えて笑いだしそうだ。それに耐えているようで、唇の端が震えている。
「君もだ、オリオン。我らが愛しき間男」
トムがそう答えながら片方の眉を上げる。オリオンの前では取り繕うのをやめることにしたらしい。そもそも、オリオンがトムの裏の顔を知らないわけがないのだ。アブラクサスをはじめとする純血貴族たちを従え始めているトムのことを、スリザリンで最も影響力のあるオリオンが知らないはずなど。
「いつから聞いていたの?」
わたしは思わずそう言ってしまったけれど、彼は肩をすくめるだけで答えることはしなかった。
「こんなところでキスを始めるなんてナンセンスにもほどがあると思わないか」
「あなたが取り巻きたちに噂話をやめさせないからこうなるのよ」
わたしはトムのまだ口をつけていないバタービールを一口飲んだ。するとトムはわたしの手からそれを取り、手を伸ばしてわたしの唇についた白い泡を拭うとそのまま泡のついた指をわたしの唇の前に突きつけた。わたしが彼の目を見つめながらそれをちろりと舐めとると、トムは満足げな表情を浮かべる。
「キスまでしかけたっていうのに、もう僕のことは用無しか?本当にひどい女だ」
目の前でオリオンが肩をすくめる。わたしは彼とまだ手を繋いだままだというのに。
「誰よりも今の状況を面白がってるのはあなたでしょう、オリオン。全部お見通しよ」
わたしは口直しに紅茶を一口飲んだ。バタービールは今のわたしにはあまりに甘い。
「トム」
わたしたちの後ろで、か細い声がトムを呼んだ。トムは一瞬顔を小馬鹿にするような表情に歪めたものの、すぐに穏やかな笑みを作って振り返る。
「おや。どうしたんだい」
そこにいたのは褐色の肌をしたハッフルパフの女子生徒を連れた、彼女だった。どうやら女子生徒に引っ張ってこられたらしい。友人としての正義感が、女子生徒を突き動かしているらしかった。
「ナマエと付き合い始めたのね」
先ほどと同じく、彼女は遠慮がちに言う。
トムはその言葉に少し困ったような表情を浮かべた。
「ただの噂だ。僕と彼女はただの友人だよ」
「じゃあ、この子のことはどう思ってるの?」
ハッフルパフの女子生徒が口を挟んだ。トムは彼女の名前を知っているのか挨拶したけれど、女子生徒は知られていることに驚いたのか少したじろいだ。けれど、目的を思い出したのか小さく咳払いをする。
「どうって……。僕はどちらかと言うと、彼女に捨てられた側なのではないかな?」
トムはこれ以上ないほど、悲哀に満ちた声を出す。
「捨てられたってどういうこと?」
女子生徒は眉をひそめた。
「彼女のお父上が、僕との交際は当然遊びだろうと、そう彼女に言っているのを聞いたが」
少女の肩が跳ねた。「ちがうの、トムそれは、」と彼女が言う。彼女はトムに対する父親の差別的な言葉を撤回しようとしたのだろうが、周りからは別の意味で取られるはずだ。
例えば――。
「あなた、そんな――」
ハッフルパフの女子生徒は絶句したようで、口元に手をやる。女子生徒の目に映る、男を手玉にとった悪女は、いったい誰なのだろうか。前提として、トムは誰の目から見ても”好青年”なのだ。真剣な交際を望んでいた彼と、学生時代の火遊びのつもりだった少女、そんな筋書きによって、彼らの破局にはトムへの同情心が多分に寄せられるだろう。
「あなたに同情するわ」
女子生徒が立ち去ったあと、一人で私たちの後ろに立ち尽くす少女に、わたしは紅茶にミルクを足しながら小さく呟くように言った。あなたは何も悪くないのよ。ただ、悪いひとを好きになってしまっただけ。わたしのように。
「僕は君を敵に回したくはないな」
オリオンがそう言ったのを、きっとわたしとトム以外には誰も聞いていなかった。オリオンはくつくつと笑いながら、彼の前にあった紅茶を飲み干した。
お望み通りの絶望でしたか