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「マートル!…マートル!」
悲痛な声が廊下に響いている。担架に乗せられた体に、すがりつくようにして泣いている少女の髪は赤毛だ。
「三階の女子トイレでレイブンクローの穢れた血が殺されたのよ、秘密の部屋が開かれたの」
「どうしてあの子は泣いてるの?」
「あの子がお得意の博愛精神よ、最近熱心に彼女を慰めていたみたい」
目の前に立つスリザリンの女子生徒の集団は、どこか興奮した様子で言った。恐ろしさと好奇心が混じって、高揚しているようだ。そうして、赤毛の少女の話題になると、どこか小馬鹿にしたような声色に変えた。
「継承者ねえ」
オリオンが、彼の顎を撫でながらそう言った。
わたしとオリオンは、それを遠くから眺めていた。高みの見物をしているつもりはない。ただ、何の感情もない。
「誰だと思う?」
オリオンがわたしの顔を覗き込んだ。わたしの顔に何の表情も浮かんでいないのを見ると、眉をあげてにやりと笑う。彼はスリザリンらしく、穢れた血が一人死んだとしても痛くもかゆくもないらしい。
ただ、彼にとって興味があるのは”スリザリンの継承者”のことだった。純血貴族の一人として、それは見逃せない問題らしい。もっとも、彼はただ面白がっているだけだろう。
「さあ、わからないわ。アブラクサスだったらもう、廊下中にマグル生まれの死体が並んでいるでしょうけれど」
「違いない。彼奴はよく馬鹿になる」
まだ遠くで泣き声が響いていたけれど、わたしは背を向けた。オリオンも女子生徒が乗った担架に興味を失ったのか、わたしに倣って廊下を歩き始める。
トムはどこにいるのだろうか、と不意に思った。彼の部屋に戻っているのだろうか。けれど急いで彼のもとに行く必要もないだろう、とわたしはオリオンの誘いに乗って広間へ向かった。
広間はどんよりと、暗くよどんだ空気が流れていた。校長は落ち着きなく周りの教師たちと耳打ちをしている。ダンブルドアは悲痛な面持ちで、目を閉じていた。
「諸君、起きてはいけないことが起きてしまった」
校長が厳かに言う。生徒たちは皆うつむきがちだ。スリザリンの生徒でさえ。わたしは遠くに座るトムを見つけた。監督生たちと、テーブルの一番前に座っていた。トムは校長をまっすぐ見上げている。その鼻梁はうつくしかった。
「何かもっと、興味深いことを言うのかと思ったら拍子抜けだ、ただ追悼するだけか」
「オリオン、誰が聞いているかわからないのに」
わたしは夕食をつまみながら、彼をたしなめた。けれどわたしが心から止めようとしているわけではないと彼は知っているのか、言葉を続ける。
「さて、誰だろう。スリザリンの生徒なのは間違いないだろうが」
「あなたじゃないの?オリオン」
わたしがそう言ってみると、オリオンはとてつもなくおかしい冗談を聞いたと言いたげに笑ったけれど、場にふさわしくないことを思い出したのか口をつぐんだ。
「きっと他の寮の奴らは思うだろうさ。僕か、アブラクサスか、そうして、君のうちの誰かだろうと」
「わたし?」
オリオンのささやきにわたしは思わず眉をひそめた。周りを見回すと、他の寮の生徒の何人かが、わたしとオリオンの様子を伺っていることに気づいた。
「どうしてわたしなの」
わたしが眉をひそめたままそう囁き返すと、オリオンはわたしの耳に息がかかるほど近づけて来る。まるで、わたしたちへの疑惑を煽るように。
「君が美しいからだ」
オリオンの態とらしい気障な台詞に彼を押し返すと、わたしはぶどうの実を口に含んだ。したたるほど汁を含んだそれは、どこまでも甘い。
オリオンの送るという申し出を断って、私は図書室への道を一人で歩いていた。”スリザリンの継承者”だなんて一切興味がなかったので、すこし知識だけでも入れておきたかったのだ。明日から、その話で持ちきりになるだろうけれど。
しかし、わたしの道を阻む者がいた。揃いも揃ってグリフィンドール・カラーのローブを着ている。四人だ。
わたしは無言で彼らの隣をすり抜けようとしたけれど、彼らはまたわたしの前に立ちふさがった。
「何の用?」
わたしは自分が思いの外呆れた声を出していることに気づいた。
「一人歩きは危ない、特に今は」
ブロンドの髪の男が、わたしの目の前に手をついてそう言った。
「お気遣いどうも」
わたしがそっけなく答えると、わたしの心配をしに来たわけでは当然ないだろう彼は不機嫌そうな顔をした。
「人が一人死んだっていうのに、ずいぶん冷静なんだな」
オリオンの言ったことはあながち間違いではないらしい。彼の言った馬鹿げた理由は置いておくにしても。オリオンや、アブラクサスといった純血主義の筆頭ともいうべき貴族たちに手を出すことは難しいので、わたしへ矛先を向けたのだろう。
「心の底から悲しんでいるわ。死んだあの子とわたし、出会っていればきっと親友になれたでしょうに」
わたしがこれ以上ないくらい悲しげな表情を浮かべると、煙に巻かれていると思ったのか金髪のグリフィンドール生がわたしの喉元に杖を向けた。
「あら、今度はグリフィンドールの継承者のおでまし?トイレも廊下もおちおち歩けたものじゃないわ」
わたしが思わず笑ってしまうと、杖先がわたしの肌に食い込んだ。魔力が漏れているのか、ちりちりと肌を焦がす音がする。
正義感に駆られた人間は厄介だ、的外れにもほどがあるというのに。
わたしが肩をすくめたその時だった、後ろから鋭い声がかかる。
「何をしている!」
その瞬間、パッと杖が離れた。
「何もしてやいないさ、ただ僕たちと遊んでくれ、と言っていただけで」
言い訳がましく先ほどまで杖を向けていたグリフィンドール生が言う。振り向けば、トムが実直な監督生の仮面を貼り付けてそこに立っていた。トムは彼の話に眉をひそめると、「悪いが、遠くからでも杖を向けているかどうかくらいわかる」と毅然として言った。
「抵抗していない女子生徒を囲んで杖を向けるなんて、あるまじき行為だ。こんなことをしたくはないが…グリフィンドール、1点減点。今は生徒たちが団結するべきだろう」
トムの模範的な監督生らしい言葉に、彼らは蜘蛛の子を散らすように去っていった。後に残されたわたしたちは、その背中が消えるのを確かめると向き直る。
「グリフィンドールの継承者の名推理ぶりには恐れ入るよ」
君が継承者だなんて、とトムは先ほどまで浮かべていた義憤に駆られた表情を崩し、口元を押さえてくつくつと笑う。
「ひどい目にあったわ」
わたしはそう呟くと、杖を突きつけられた喉元をさする。もしかしたら跡になっているかもしれない。トムはわたしの首元を覗き込むと、「ついてこい」と言って、わたしの前を歩き始めた。
彼が向かった先は、8階の石壁の前だ。もうすでに、彼が望んだのであろう部屋のドアノブが現れている。そこを開けると、ソファーやテーブルが置かれた、一般的なリビングのような部屋が広がっている。
トムはソファーにわたしを座らせ、わたしの顎を持ち上げて首を晒させると、先ほどの杖を突きつけられた場所を親指でゆっくりとなぞった。その途端、先ほどまでのひりつく痛みが消えていたので、わたしは思わずトムを見上げた。
「あの程度の力で、よく君に手を出そうと思えたものだ」
トムはわたしを見下ろすと、もうすでに傷跡も全く残っていないであろう喉元を猫をあやすように撫でた。その瞳の中に、赤い光が混じっているのを、わたしは見た。
「トム、あなたが彼女に、レイブンクローのマグル生まれがあそこで泣いていることを教えたんでしょう」
わたしは隣に座ったトムに向かって、まるで独り言のように言った。トムはそれを肯定しなかったが、同時に否定もせず、ただ笑いをこらえているような表情を浮かべるだけだ。
「ああいう、醜いものなど見たことがないという顔をした人間の絶望する様は、この世で一番可笑しい」
トムは、彼女が担架に乗せられた冷たい体にすがりつくのをどこかで見ていたのだろうか?隣に寄り添って、慰めの綺麗事を並べてやることもせずに。
トムはわたしに向き直ると、まるで人殺しのあとのような高揚を隠しもせずに、口付けた。しかしわたしは動こうとしなかった。そのせいで、彼はきっと冷たい骸に口付けをしているような心地だろう。
しかし、だんだん深くなっていけば、わたしの吐息も熱くなる。彼が熱を与えるのだ、わたしに、いつも。
禁断の漿果を食めば