短編


 三代黄の下心

 私がお仕えしている瑞穂お嬢様に恋人が出来たそうです。

「黄、今度から迎えはいらないから」

 町外れの山の側。
 資産家である柊家が所有する広い領地に佇む大きな洋館の中、長女である瑞穂お嬢様はドレッサーの前でメイドに髪をとかせながらそう鏡越しに私を捉える。
 なんとなく嫌な予感がして、無意識に背筋が伸びた。

「……理由を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
「彼氏が出来たの」

 だから、彼と帰る。短いお嬢様の言葉にはその意が確かに込められていて、しかし彼氏のことについて語るにはあまりにも淡々としたお嬢様の声に狼狽える私は「彼氏……ですか」と繰り返す。
 口先が器用ではないお嬢様は嘘をつかない。それだけにその言葉は私を動揺させる。

「しかし、栄嗣さんは」
「婚約は破棄するから」
「え」
「最初から乗り気じゃなかったし構わないわよ。……嫌いなの、あの男。にやにやにやにやして気持ち悪い」

 鏡越しに自分の顔を睨むお嬢様。その声は手にとるようにわかる嫌悪感が含まれていて、この場にいないお嬢様の婚約者である栄嗣さんに同情せずにいられない。
 お嬢様のおめかしをしていたメイドたちがどうしたらいいのか戸惑うのを見兼ね、「お嬢様」となだめれば私を横目に見上げたお嬢様は「なに?」と悪戯っこのような笑みを浮かべた。

「……口は慎んだ方がいいかと」

 そう唇に人指し指を添え、ジェスチャーをすればお嬢様は「ふふ」と小さく微笑み、そして「もういいわ」とメイドを部屋から追い払う。
 部屋の中に二人きりになったのを確認し、お嬢様は後ろ髪を軽く撫で付けて私を見た。

「嬉しいでしょう、黄。私と彼が婚約破棄すると聞いて。あなた、彼のこと気に入ってたみたいだしね。なんなら好きにしてもいいのよ」

 また始まった。無遠慮に胸を抉るような言葉を吐くお嬢様に私は全身を緊張させた。

「そのようなこと……」

 言わないでください。栄嗣さんに失礼ですよ。
 その一言が口から出なくて、脳裏に浮かぶその人の顔に動悸が乱れ始めるのを感じた。
 俯き、視線をさ迷わせる私に楽しそうに笑うお嬢様は「まあいいわ」とだけ呟き、そして腰を掛けていた椅子から立ち上がる。

「とにかく、送り迎えはいらないから。他の皆にも伝えておいて」

 もう既にそれは決定事項のようで。
 お嬢様の父親であるご主人様が愛娘の彼氏できた発言にどのような反応をするのか想像しただけで胃が痛む。
 しかし、お嬢様の専属執事をやらせていただいている時点で私に発言権はなく「承りました」とだけ答えた。そんな私の返答に満足そうに頷くお嬢様はなにか思い出したようだ。

「ああ、栄嗣がなんか喚いても放っておいていいから」

「その代わり、私の半径五メートル以内近付けないようにして」冷たく、毒を孕んだお嬢様の命令に私は言葉に詰まった。
 なにも答えない私に目を向けたお嬢様は「黄」と再度私の名前を呼ぶ。
 威圧を含んだ声。この声に私は逆らえない。そういう風に出来ている。

「……承りました」

 肺に溜まった息を吐くように私はそう答えた。
 お嬢様は知っている。私が栄嗣さんを密かに思っていることを。
 そして、その理由を。

 三
 代
 黄
 の
下心


 私は元々柊家のご当主でありお嬢様の父親である柊茉人様に仕えていた。
 というよりも、拾われて面倒を見ていただいていたと言った方が適切なのだろう。
 茉人様は無一文でやさぐれて悪さばかりしていた不良少年だった私をここまで育てていただいた。
 父親からまともに愛情を受けなかった私は茉人様から褒められる度に生き甲斐を覚え、その親愛を向けられることに夢中になり気が付いたら依存に似た恋情を茉人様に抱くようになっていて。
 私なんか取るに足らない才色兼備な立派な奥さまを既に持っている茉人様に無謀にも愛されたいと考えた私は茉人様に想いを告げ、その日から私は茉人様の専属執事という役職を取り上げられた。
 その代わり、私は茉人様の長女である瑞穂お嬢様の専属執事を任されるようになる。

『君がそういう嗜好の持ち主だということには驚いたが、そうだな。私は君の想いには答えられないし、君をこのまま傍に置いておくのも酷だろう。しかし、君みたいな子を安易に切り捨てるのも勿体ない。……どうだ、君さえよかったら瑞穂の面倒を見てくれないか。私のような人間を好きになる君ならきっと瑞穂の面倒も見きれるだろう』

 今でも鮮明に蘇る、茉人様の高揚のない声。
 お嬢様の不器用は茉人様ゆずりで、上手事すら口にしない茉人様から私は確かな気遣いを感じた。
 お嬢様の婚約者が当主を務める馬場家は柊家の遠縁の親戚であり、皮肉にも栄嗣さんは親戚である茉人さんの若い頃によく似ていた。


 お嬢様の予想通り、栄嗣さんは柊家の屋敷へとやってきた。
 屋敷内、客室。
 なかなか現れない待ち人に待ち草臥れたらしい栄嗣さんは扉を開きやってきた私を見るなり食いかかってくる。

「おい糞執事、瑞穂はどこだ。さっさと連れてこい」

 顔の造形そのものは美丈夫である茉人様にそっくりだが、髪型、まとう雰囲気、その顔に浮かべる多彩な表情までは流石に似ていない。
 ソファーの上で長い足を組み換える栄嗣さんは私を睨み、そう怒声を上げる。

「……申し訳ございません、栄嗣様。お嬢様は級友の方と外出しております」
「なら今すぐ呼び出せよ、大好きな婚約者が待ってるぞーってな。ほら、早くしろ」
「それは……できません」

 胸が高鳴るのを必死に堪えながら唸るように続ければ、眉を釣り上げた栄嗣さんは「あぁ?」と声を上げる。

「てめぇ、召し使いの分際で俺に楯突くつもりか?」

 ソファーから立ち上がった栄嗣さんは乱暴に私の胸ぐらを掴んだ。
 そして、躊躇いもなく私の顔面を殴りつける。

「ぐ……っ」

 一瞬視界が白ばみ、殴られた頬が焼き付けたように熱くなった。
 歯を食い縛り、なんとか堪えるがすかさず栄嗣さんは私の腹に膝をのめり込ませる。

「っかは……ッ!」

 胃液が込み上げ、喉が焼けるように痛い。
 その場に踞りえずく私の足を蹴り、栄嗣さんはそのまま私を見下ろす。

「早く呼べって言ってんだろ。お前の首なんかな、簡単に飛ばすことも出来るんだぞ」

 お嬢様たちの前で見せる優しい声とは打って変わって冷めた声。
 確かに、ある程度地位を持っている栄嗣さんなら私を社会的にも物理的にも抹消することは容易いだろう。
 それでもやはり屈することはできず、呻きながら起き上がろうとすれば栄嗣さんは舌打ちをして乱暴に私の腹を再度蹴りあげた。今度は声にならなかった。

「使い物になんねえな、クソっ!」

 服に足跡がついてしまった。
 思いながら視線を上げれば栄嗣さんはそのまま部屋から出ていこうとしていて。
 節々の痛みを堪え立ち上がった私は出ていこうとする栄嗣さんを引き留める。

「ってぇな、なにすんだよ!」
「どちらに……行くつもりですか」
「……決まってんだろ、あいつの学校だよ」
「それは出来ません」
「は……?」

 強い口調で念を押せば、栄嗣さんはきょとんと目を丸くさせる。
 明らかに出来た隙を狙い、私は栄嗣さんの体を壁に押し付け身動きが取れないよう肩口を掴んだ。
 腕の中、無理に体を動かし痛みで顔を歪める栄嗣さんは私を睨み付けた。

「いっ、てめぇ、俺にこんな真似してただで済むと……っ!」
「……もちろん、思ってません」

「ですが、私の主はお嬢様です。……お嬢様の命令は、絶対ですので」そう、暴れる栄嗣さんの腕を捻り上げ、いつも私に対する悪態ばかり吐いてくるその口から呻き声が漏れる。

 申し訳ございません、お嬢様。自分の欲望を優先させるためにお嬢様を使うなんて、私は執事失格です。
 今ごろ好きな人とデートをしているであろうまだ幼い主を思い浮かべながら私は目の前の青ざめた栄嗣さんを見据え、微笑んだ。

 おしまい


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