短編


 03

 誰かの言いなりになる。産まれて十七年目にしてそれが僕が身に着けた処世術だった。

「……亜太郎、帰ってきてたのか」

 そろりそろりとなるべく足音を立てないように自室へと向かおうとしたとき、廊下の途中、その書斎の扉が開く。 そして現れたのは頭一個分高い位置にある影。

「……遅かったな」

 煙の匂い、タバコの火。鼓動が、加速する。切れ長な目、真っ黒な髪、神経質そうなその男は僕を見るなり片眉を釣り上げる。黒い眼が僕を見下ろすのだ。
 この男を兄と呼んでいいのか、僕はまだ決めあぐねていた。
 中学生の頃、親が死んで、僕の元に残った家族は年の離れた兄ただ一人だった。
 両親と仲が悪く、僕が幼い頃には既に家を出ていたその男との思い出は欠片ほどない。
 無口、無表情、無愛想。何を考えてるのかわからない、それなのに妙な圧がある人で、そして、僕を引き取ってくれた人。

「に、い……さん。すみません、その……」
「学校から連絡があった。まだ秋庭倫冶とつるんでるようだな」
「……ごめんなさい」
「謝罪はどうでもいい。遊んでるのか、と聞いてる」

 兄は、当たり前だが、怒るときは両親とよく似ていた。
 畳み掛けるような圧のかけたに、汗がじんわりと滲んだ。恐ろしくなって頷き返せば、その目がすっと細められる。

「……アイツとは会うなと言ったはずだ」

 早鐘打つ心臓を抑えるのが精一杯だった。
 自分でも、愚かだと思う。兄に怒られると分かっててアキちゃんと会うのをやめないなんて。
 それ以上に、兄が何故ここまでアキちゃんを嫌うのか……いや、嫌いそうなタイプだと思うけど、それでも、なんだか兄はアキちゃんのことになると普段以上に怒るのだ。

「……亜太郎、こっちへ来い」

 名前を呼ばれれば逆らえない。
 書斎の扉を開く兄に、僕は何も言わずにふらりと踏み込んだ。
 部屋の中には目に見えるほどの紫煙が広がっている。
 兄の匂いに、あれほど甘かったアキちゃんの香水も掻き消される。

「今すぐその臭い服を脱ぐんだ」

「全部だ」背後で扉が閉まる。
 僕は、兄が苦手だ。普段はぶっきらぼうだが優しくて、僕のことを気遣ってくれる。
 けれど、向ける目は一緒だ。僕を思い通りにしようとする目。だからだろう、死んだはずの両親の亡霊がまだそこにいるようで、兄の前だと弱かった頃の僕に戻ってしまうのだ。

「はい……わかりました」

 兄が普段何をしてる人なのか知らない。
 自分のことを話さないからだ。けど大半を部屋で引きこもって過ごす。そして時たまに上等のスーツを着て外へ出かけるのだ。
 それでも僕を養うだけの金は余ってるという。
 初対面時、どつして僕を引き取ってくれたのか聞いたら「家政婦がほしかった」なんて言う人だ。

 兄に引き取られた最初の頃はよかった。
 兄は自室に引き篭もって仕事してることが多いので過干渉どころか無干渉に等しい、多少悪い点数取っても怒らない、寧ろ放任主義だと思うくらいだった。
 それなのに。
 一度、兄に引き取られて一度だけ、アキちゃんを部屋に連れてきたときがある。
 その日からだ、兄と僕の関係がおかしくなったのは。

 初めてのセックスは十五歳の頃、僕の部屋で兄にレイプされた。
 アキちゃんはセックスは気持ちいいものだと言っていたけど、そんなのは嘘だと思った。血の匂いと精液の匂い、苦痛と激痛。甘い会話すらありゃしない。
 それからだ、兄は僕に触れることに躊躇することはなくなっていた。

 自分の意見を言うのは苦手だった。
 拒否することも抵抗することも苦手だった。
 逆らった暁にはもっと酷い仕打ちを受けると躰で分かっていたからだ。

 後頭部を掴まれ、唇を重ねられる。アキちゃんの方がまだ優しい。躊躇のないその口づけに呼吸する暇もなかった。息を殺す。天井の染みを探すがこんなキレイな部屋じゃ見つかりやしない。
 剥き出しになった下腹部を大きな手のひらで弄ばれ、全身が痙攣する。性器から垂れた体液が腿から滑り落ちた。
 いつからか僕はこの男から逃げることを諦めていた。あとはいち早くこの行為が終わることを考えるだけだ。そうすれば、終わる。のに。

「……っ、……」

 散々挿入されたそこは簡単に兄の指を数本も飲み込むようになっていた。腫れ上がり熱を持ったそこを撫でられるだけで全身が反応する。いつもの感触を思い出し、勝手に体が反応してしまうのだ。
 行為中に会話などはない。ただ、貪られる。静まり返った部屋に時計の音と自分の呼吸、心音、それと、下腹部から濡れた音だけが響いた。
 気持ちいいと思いたくなかった。反応などしたくない。けれど、生理反応というのはどうしようもないのだ。初体験は最悪だったが、それから毎晩のように全身を性器のように捏ね繰り回され、射精するということを頭に直接叩き込まれた。
 だから、兄と会うのは怖かった。
 今では兄の愛用してるタバコの匂いを嗅ぐだけで体が熱を持ってしまうのだ。

 口や鼻から内部に入り込んでくるヤニの匂いに、内臓までも兄に犯されてるような錯覚に陥ってしまう。
 気持ちよくなり始めたら、まだいい。痛いのは、嫌いだから。それならまだ、気持ちいい方がいい。

「ッ、――ッ!!」

 性器の裏側を指の先で捏ねられ、突っ張った性器の先端から大量の精液が溢れた。目の前が真っ白になる。
 痙攣する下腹部を掴まれ、指を引き抜かれた。くっぽりと異物の感触を求めるように収縮しはじめる内壁に、京ヶ瀬さんは自らのベルトを緩める。
 ……嫌だ、嫌だな、嫌……なのに。
 加速する心音、これからされることを想像しては口の中にじわりと唾液が溢れるのだ。

 アキちゃんは兄の本性を知らない。
 厳しそうな人だと言っていたが、特に興味もなさそうだった。
 兄に犯されてから僕もアキちゃんを自室に連れて行ってはいない。
 アキちゃんには知られたくなかった。

 兄に抱かれるようになってから、なんだか自分の体がおかしくなっているようだった。
 普段は気にならなかった乳首が腫れぼったく感じるようになるし、お尻も、なんか、変だ。何も入ってないのにまだ入ってるみたいにムズムズするようになる。
 服を着てるときはまだよかった。
 けれど、もしアキちゃんや他の人たちに自分の体の異変を指摘されたらと思うと気が気ではなかった。

 気付けば僕は自室のベッドの上で眠っていた。
 これも、いつものことだった。いつの間にか意識が飛んで、そしていつものように朝を迎える。
 アキちゃんとは違う、兄とは情事後の会話すらない。だからだろう、僕の体を心配してくれるアキちゃんの優しさが今は余計身に染みてしまう。

 アキちゃんに、この体を見られたら嫌われるだろう。全身余すことなくあの男に貪り尽くされた体を、消えない痣を、キスマークを。
 アキちゃんと一線を超えれば何かが変わると思った。
 ……その通りだ。アキちゃんに愛されてみたいなどと思ってしまった瞬間自分の汚さが浮き彫りになったみたいでより一層惨めになる。
 隣の芝生は青い。いっそのこと、淡い期待など持てぬように芝生をすべて焼き尽くせればいいのに。

【おしまい】

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