02※
「……先輩……、起きてください、先輩……」
……。微睡んだ意識の中、どっかで聞いたことのあるような声がすぐ傍から聞こえてくる。
頬に濡れた熱を持った肉のようなものが触れ、俺は慌てて目を開いた。
「う、うわ!」
目を開くと、すぐ目の前にあの鉄パイプを持った男子生徒の顔が映り込む。
顔を近付けてくる男子生徒に、俺は全身から血の気が失せていくのを感じる。
壁にもたれ掛かるようにして眠らされていた俺の上に馬乗りになったそいつは、真っ赤に染まった舌を出して熱っぽい目で俺の顔を見詰めている。
どうやら、今俺が感じていた頬の感触はやつの舌だったらしい。
「良かった。俺、先輩が起きなかったらどうしようかと思って……本当にごめんなさい。殴るつもりはなかったんです、許してください。ちょっと脅すつもりだけだったんです」
馬乗りになる男子生徒に青ざめる俺を他所に、男子生徒は本気で俺のことを心配していたかのように泣きそうな声で続ける。
問答無用で鉄パイプを人の頭に振りかぶったやつが言う言葉とは思えなかったが、この状況で相手を煽るようなことを言ったらトドメを刺されかねない。
「わ……わかったから、退けよ」
言葉を発する度に男子生徒に殴られた頭部がズキズキと鈍く痛んだ。
小さく呻きながら、俺はそう声を絞り出す。
至近距離で俺を見据えていたそいつは、瞬きもせずに「ダメです」と即答した。
やはり、交渉はできないらしい。それでもまだ日本語が通じる相手でよかったと安心してしまう俺は大分疲れているようだ。
「先輩が俺と付き合ってくれるまで離しません」
俺の背中に腕を回した男子生徒は、そう言いながら俺の肩口に顔を埋める。
やつの髪が首元を掠り、なんとなくくすぐったかった。
「やめろっ」抱き着いてくる男子生徒に嫌悪を抱いた俺は、そう声を荒げ男子生徒の肩を掴み無理矢理離そうとする。瞬間、持ち上げようとした腕に激痛が走った。
「うぁ……ッ」
ズキズキと激しく疼き出す腕に、俺は顔をしかめ脂汗を滲ませる。
気を失う前、鉄パイプから身を守るため咄嗟に頭部を覆ったときに打ってしまったようだ。
熱くじんじんと痛む腕に、俺は壁に体を預け必死に痛みを堪える。
「あっ先輩、あまり力まないでください。せっかく止まっていたのに、ほら、傷口が開いてます。でも、大丈夫です。俺が、止血しますから」
呻く俺を心配したのか、ふと顔をあげた男子生徒はそう言って俺の前髪に指を絡め、そのまま前髪を掻きあげた。
止血……?
あまりの痛みで混濁する意識の中、男子生徒の言葉に疑問を覚える。
止血って、俺、血出てんのか。自分で自分の状況を確かめることができない俺は、顔を近付けてくる男子生徒をじっと見据える。
視界に映り込む薄暗い暗闇の中でも映える男子生徒の青白い肌は、頬は微かに赤くなっていた。
「な、に……」
いきなり顔を近付けてくる男子生徒に驚いた俺は、慌てて身を引こうとして背後の壁に背中をぶつけた。
うわ、嘘だろ。
腕が使えず上手く立ち上がることができず、俺は目の前の男子生徒から顔を背けようとするがすぐに伸びてきた手に顎を固定され無理矢理正面を向かされた。
男子生徒の濡れた舌が額から頬へと流れる血を舐めとるように触れ、俺はその生々しい感触に体を震わせる。
「……っにやってんだよ、やめろ!汚いだろ!」
犬のように人の顔を舐める男子生徒に、俺は声を上げながら男子生徒の髪を引っ張った。
「汚いわけないじゃないですか」顔を赤らめた男子生徒は、そう口許に笑みを浮かべながら即答する。
「先輩のですよ?……だって、飲まないと勿体ないじゃないですか」
興奮しているのか、その声は僅かに震えていた。耳元に生暖かい吐息がかかり、俺は顔を強張らせる。勿体ないというその考え方が理解できなかった。
傷口に触れないよう気をつけながら傷口の周りを丹念に舐めてくる男子生徒に、俺はピクリと肩を震わせる。
無理矢理にでもやめさせたいのに、まともに腕が上がらないこの状況で男子生徒から逃げれる自信がなかった。
傷口に触れそうになる度に背筋に小さな刺激が走り傷口が酷く疼く。
男子生徒の口が肌に流れる血を吸い、じゅるじゅると嫌な水音が立った。
舌で顔中を舐められ、下腹部からくすぐったいようなもどかしい感覚が込み上げてくる。
「先輩、先輩の血……甘くて、すごく美味しいです」
吐息混じりに囁く男子生徒は、いいながら舌舐めずりをした。
ちろりと赤い舌が薄い唇から覗き、その仕草に一種の薄気味悪さを覚えた俺は冷や汗を滲ませる。
先程からなんでこんなに男子生徒の舌が赤いのか気になっていたが、その理由がよくわかった。
血だ。
こいつは俺が目を覚ます前から血を舐めていたのだろう。
男子生徒の舌の赤さは、恐らく血が滲んだせいだ。
納得は出来たが、その考えはあまり気持ちいいものではなく、寧ろ俺からしてみれば気味が悪くて仕方なかった。
「……っ、ん、せんぱい、先輩、好き。好きです、無視しないでください」
呆れてなにも言えない俺に対し、言いながら男子生徒は俺の唇に舌を這わせる。
妙な声を出しながら唇をなぞるように舐める男子生徒に、つい俺は悲鳴をあげそうになった。
上唇を舌で捲ろうとする男子生徒に、俺は固く唇を閉じる。
そのまま俺はギュッと目を瞑り男子生徒から顔を背けた。
「ん、んん……っふ、う」
俺の唇を抉じ開けようと舌を出した男子生徒の口からやけに艶かしい吐息が漏れる。
唾液でたっぷりと濡れた舌が唇を濡らし、男子生徒は夢中になって俺の唇に吸い付いてきた。鼻孔を掠める濃い鉄の臭いに、俺は気が遠くなるのを感じる。
不意に、男子生徒の唇が離れた。頬を紅潮させぷはっと息を吐き出す男子生徒。
やがて、自分の口から溢れた唾液で濡れた男子生徒の唇が歪み笑みが浮かんだ。
「っは、ははは、俺、先輩とキスしちゃいました。あは、キス、どうしよう、俺、すごい幸せです。夢みたい。あ、先輩、唇真っ赤になってますよ」
俺から顔を離した男子生徒はそう笑いながら舌舐めずりをし、そのまま唇の唾液を飲み込む。
いきなり声をあげて笑い出す男子生徒に驚いた俺は、目を丸くして目の前のそいつを見た。
「あはは、俺、すっげー幸せです。……亜紀先輩のそんな顔が見れるなんて」
キョトンとする俺の顔を覗き込んできた男子生徒は、言いながら嬉しそうに微笑む。
なにかを期待するような熱っぽく潤んだ瞳で俺を見つめる男子生徒。
なにかを求めるように俺に擦り寄ってくる男子生徒の思惑を他所に、俺は男子生徒の口から出てきた固有名詞に目を見開いた。
いまこいつ、確かに俺の名前を呼んだよな。自然と出てきた聞き慣れた自分の名前がこの男子生徒の口から出てきたことに、俺はただただ困惑する。
間違いない、こいつの目的はやはり俺であってたんだ。
不意に男子生徒に自分の名前を呼ばれ、その可能性を信じたくなかった俺は益々自分の置かれている状況がわからなくなってくる。
背中に腕を回し、すりすりと愛しそうに俺の胸元に顔を埋める男子生徒の頭部に目を向け、俺はただ動けずにいた。
「先輩の体あったかい……。このまま、一つになればいいのに」
ぎゅっと俺を抱き締める男子生徒は、そうぽつりと譫言のように呟く。
冗談だろ。
恍惚とした顔で背筋が寒くなるようなことを口にする男子生徒に、俺は顔を引きつらせた。
なんでこの男子生徒がこんなに自分に惚れ込んでいるのかがわからず、俺は抱き着いてくる男子生徒が不思議で仕方なくて。
「……お前、なんで俺のこと知ってんの?」
男子生徒の好きにさせておいたらそのうち脱がされそうな気がした俺は、とにかく気になったことをそのまま男子生徒に尋ねた。
俺の言葉に、不意に俺の上半身にくっついていた男子生徒は顔を上げ、驚いたように目を見開く。
「なんでって……え?なに言ってるんですか?先輩、頭打っちゃって可笑しくなっちゃったんですか?」
なにか俺は不味いことをいってしまったのだろうか。
先程まで嬉しそうに綻んでいた男子生徒の顔は、あり得ないとでもいうかのように強張る。
「変なこと言ってからかうのはやめてくださいよ」怒りますよ、と付け加える男子生徒の顔は少なからず動揺の色がに滲んでいた。
なんで男子生徒がこんな反応をするのかわからなかった俺は、その隙を狙って言葉を続ける。
「悪いけど……俺、君のこと知らないんだけど。もしかして、真紀と間違えてるんじゃない?」
恐る恐る、そう俺は弟の名前を口にした。そう、弟だ。この男子生徒が勝手に弟を俺と勘違いしている可能性だってある。
俺の言葉に黙り込む男子生徒。先程まで饒舌だったのに急に静かになる男子生徒が段々心配になってきた俺は、視線を持ち上げ男子生徒の顔に目を向けた。
俺の言葉を聞いた男子生徒の顔が、みるみるうちに面白いくらい青ざめていく。
「本当……やめてくださいよ、なに言ってるんですか。違います、いくら似てるからって俺が真紀先輩と亜紀先輩を間違えるわけないじゃないですか。俺が好きな先輩は亜紀先輩だけです。なんで信じてくれないんですか」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐ男子生徒は、心なしか焦っているように見えた。
自分に言い聞かせるように語気を強くする男子生徒の顔に、焦燥感が滲む。
もしかしなくても、これは間違いなく男子生徒は俺と真紀を間違えているようにしか思えない。
「なんですか、その顔。俺が間違えているっていうんですか?酷いです。そうやって俺を試してるんでしょう。わかってます、わかってますけど、俺は絶対先輩を間違えません。間違えるわけないじゃないですか。信じてください」
無言で男子生徒を見据えると、男子生徒はじわじわと涙を溜め、今にも泣きそうな顔をした。
俺が「うん、俺で合ってるよ!冗談冗談!」とでもいうのを待っているのだろう。
すがるように俺を見上げてくる男子生徒に、俺は言葉に詰まった。
「君の気持ちはわかった、わかったから」
潤む目で見詰められ、なんとも言えない気分になった俺は言いながら男子生徒から顔を逸らす。
「……先輩」我ながら煮え切らない反応だと思ったが、男子生徒にはこれで十分だったようだ。
泣きそうな顔をしていた男子生徒は、ぱぁっと表情を明るくさせる。
「悪いけど、君が言っているそれは俺じゃない」
ハッキリと、尚且つわかりやすく俺は男子生徒に告げた。
瞬間、いきなり殴られる。殴られた痛みは対して無かったが、反動で頭を壁に打ってしまった俺は小さく呻いた。
「……なんで、なんで……そんなこというんですか……俺が先輩だって言ってるんだから間違ってるわけないじゃないですか……そこまでして、先輩、俺と付き合いたくないんですか?俺のことが嫌いなんですか?」
泣きそうに顔を歪める男子生徒は俺の胸ぐらを掴み、そのまま壁に押し付けた。
顔を近付け威圧してくる男子生徒は、確かに内心迷っているように見える。
あと少しだ。あと少しで男子生徒を納得させることができる。
男子生徒も男子生徒でさっきからの俺の反応から人違いだと薄々感じているのかもしれない。
そして、それを認めたくないのだろう。
「好き嫌い以前に、俺は君のことを知らない」
「知らないはずないじゃないです。俺、毎日先輩に挨拶してるじゃないですか」
「それは俺じゃない。弟だ」
「違います、先輩です。だって先輩、俺が名前聞いたとき自分で名乗ってたじゃないですか。まさか、それも、真紀先輩だって言うんですか?冗談はやめてください、本当に怒りますよ」
そう必死になって言う男子生徒の言葉に、俺は確信した。
間違えない、男子生徒は俺と真紀を間違えている。
俺はこの男子生徒を知らないし、恐らく男子生徒が言っていることも本当なのだろう。
そう考えると、ひとつだけわからないことが出てきた。
真紀……弟だ。あいつがなにを考えてこの男子生徒に俺の名前を名乗って接していたのかがまるで理解できなかった。
「……なんで、そこで黙るんですか……やめてくださいよ……」
黙り込む俺から概ね察しついたのだろう。不安で声を上擦らせた男子生徒の声は、酷く弱々しいものになっていた。
「……もうわかっただろ。退いてくれ、今なら全部なかったことにするから」
ここまでくれば後はすぐに折れてくれるだろう。そう思った俺は、男子生徒から目を逸らしそう言いにくそうに言葉を紡いだ。
しかし、男子生徒は簡単には折れようとはしなかった。
「嫌です、嫌です嫌です嫌です嫌です……っ」
俺の上半身に抱き着いた男子生徒はそうヒステリックに叫ぶ。
なんでここまで好条件を出されておいて頑なにって認めようとしないのかが理解できなかったが、男子生徒は意固地になっているようにしか見えなかった。
「おい……」
胸に顔を埋めてくる男子生徒に焦った俺は、恐る恐る怪我をしていない方の腕を動かし男子生徒の肩を掴もうとした瞬間、怪我をした腕に男子生徒の手が伸びる。
「はあ……っ、っふ、うぐ……っ!」
骨にヒビが入ったのか、熱を持ち腫れたそこを遠慮なく強く掴んだ。
瞬間、頭から爪先まで激痛が走り、開いた俺の口から絶叫に近い声が漏れる。
触れられただけで全身に電気が走ったように体が跳ね上がり、脂汗がドッと滲んだ。
「……じゃあ、なんですか。俺が好きになった人は、亜紀先輩を名乗った真紀先輩ってことですか?……そんなわけないじゃないですか。俺、真紀先輩のこと知ってますけどあんな人じゃなかったです、俺の亜紀先輩は。先輩は先輩だけです。冗談はやめてください。そんなの、なんで真紀先輩がそんなことしなきゃいけないんですか!おかしいじゃないですか!」
男子生徒は相当混乱しているようだ。
ヒビが入っているであろう腕を掴む男子生徒は、皮膚をえぐるように爪を立てる。
そんなの、俺が聞きたい。
「おち、つ……っ」
落ち着けと言おうとして声を絞り出すが、メキメキと軋む腕の痛みに耐えきれず俺の声は途切れる。その後はもう声にならなかった。
あまりの痛みに全身が打ち震え、もはや自分が泣いているのかどうかさえわからない。
「……そうだ、二人でグルになって俺のことを弄ぼうとしてるんでしょう。そうなんでしょう?ねえ、亜紀先輩。亜紀先輩ったら、……なんか言ってくださいよ。先輩、ねえったら」
いまだ自分の意識があることが苦痛で仕方なかった。
耳に入ってくる男子生徒の声を言葉として認識することもままならず、あまりの痛みに感覚が麻痺してきた俺はぼんやりと目の前の男を眺める。
なにを怒ってるんだ、こいつは。うつらうつらとした意識の中、大きく口を開き罵倒してくる男子生徒を眺めながら俺は辺りに視線を巡らせる。薄暗いそこは、見覚えのある小路だった。
……とにかく、警察に通報しないと。俺が死ぬ。
痺れた手先を動かし、俺は制服のポケットの中に入っているであろう携帯電話に軽く触れた。
大丈夫、男子生徒に抜き取られてはいないようだ。
手持ちの中に存在しているそれに内心安堵しながら、俺はすぐにポケットから手を離す。男子生徒が俺の動きに気付いたのだ。
「……先輩、いまなんかしませんでしたか?」
先程までやかましく喚き散らしていた男子生徒は急に静かになり、いいながらじっと俺の手元に目を向ける。全身の筋肉が緊張し、俺は胸の鼓動が早くなるのを感じた。
「……ちが……っ」
やばい。バレた。
慌てて首を横に振る俺を他所に、俺から手を離した男子生徒はそのまま俺の制服に手を伸ばす。
ゆっくりと伸びてくる男子生徒の手は、そのまま俺の制服の中をまさぐった。
「……っ」
もぞもぞとポケットをまさぐる男子生徒の手付きに俺は僅かに反応する。
男子生徒が俺の携帯電話を見つけるまで、然程時間はかからなかった。
「……ああ、なるほど。これで誰か呼ぶつもりだったんですか?……俺から逃げるために」
携帯電話を手にした男子生徒は、わざとらしく俺に見せ付けるように目の前に差し出してくる。
あながち間違っていないだけに否定できなかった。
口を紡ぎ、黙り込む俺に苛立ったのだろう。いきなり男子生徒は、「ふざけんな!」と怒鳴った。
そのまま男子生徒は持っていた俺の携帯電話を壁に投げ付ける。音を立て、携帯電話は地面の上に落ちた。
携帯電話本体に目立った損傷はなかったが、中の方が無事かどうかは怪しい。
投げるか、普通。いきなりキレ出す男子生徒に内心ビビりながら、俺は地面の上の携帯電話に目を向ける。
そのときだった。
「……どいつもこいつも俺のことをバカにして、なんなんですか?俺のこと、そんなに嫌いなんですか?いいですよ、もう。別に」
「……そんなに俺から離れたいのでしたら、真紀先輩と同じ場所に連れていってあげますよ」開き直ったように男子生徒は、いきなり俺の太股を持ち上げるようにして人の下半身をまさぐりだす。
男子生徒の行動に気を取られた俺が、その言葉の意味に気づくのに時間がかかった。
「おい、やめろっ」
乱暴にズボンのファスナーを下ろしウエストをゆるめた男子生徒は、そのまま下着越しに人の性器を鷲掴んだ。
「は……っ」あまりにも雑な手付きで全体を揉まれ、ビクリと全身が跳ねる。
「勃ちませんね。……ちょっとアドレナリン出しすぎちゃったんじゃないんですか?」
「なら、俺が挿れる方でいいですね」本当は先輩に種付けされたかったんですが、と素面でそんなことを口走る男子生徒に、俺は全身に冷や汗を滲ませた。
挿れるだとか種付けとか男相手にいうような言葉とは思えないことを口にする男子生徒に、俺はただ純粋な恐怖を覚える。
「っやめろ、触んな……っ」
下着のウエストから手を滑り込ませる男子生徒に、俺は咄嗟に足を動かし男子生徒の上半身に蹴りを入れた。
薄い男子生徒の体は予想通り軽く、その場に尻餅をついた男子生徒は目玉だけを動かし上目で俺を睨み付ける。
「なんですか……触んなって。真紀先輩も、亜紀先輩も、俺のことを汚物みたいに扱って……。いくら自分たちが好かれてるからって酷いじゃないですか」
歯を食い縛り、よろりと地面から腰を浮かした男子生徒の手には見覚えのあるものが握られていた。
大通りから差し込む光を受け怪しく光る包丁を手に、男子生徒はゆっくりと俺に近付く。
「……っ、悪い、癪に触ったんなら悪かった。だから、それをなおしてくれ」
目が男子生徒の持つ包丁の刃に釘付けになり、俺はそれから目が離せなくなった。
一瞬でも目を離したらすぐに刺されてしまいそうで、緊張しきった俺の体は僅かに震える。
立ち上がりたいのに、腰が抜けてしまい片腕だけじゃうまく立ちそうにない。
呼吸が乱れ、顔面から血の気が引いていった。背後の壁に背中を擦りつけた俺は、そうすがるような声で目の前の男子生徒に許しを請う。
「……やめてください。俺は、そんな言葉が聞きたいんじゃないんです」
そう言う男子生徒の顔は歪み、地面に放り出していた俺の足首を掴みあげた。
悲しそうに言う男子生徒は、言いながら俺の靴を脱がし、それを地面の上へ転がす。
携帯電話の側へと転がっていく、靴を目で追う余裕はなかった。
慌てて足を動かそうとするが、体勢からして男子生徒の方が有利だった。
くるぶしの靴下の中に人差し指を滑り込ませた男子生徒は、そのまま俺の靴下を脱がせる。
丸まった靴下が俺の体の側に落ち、俺の足首をギリギリの高さまで持ち上げた男子生徒は俺の足首に包丁の刃を当てた。
ゆっくりと筋に近付いていく包丁に、動悸が激しくなる。
恐らく、この男は俺のアキレス腱を切るつもりだ。それがわかっていたからこそ、俺は男子生徒が次にこの足首に当てた包丁をどうするかが安易に想像がついてしまい、尚更恐ろしくてたまらない。
「亜紀先輩って意外と涙脆いんですね。真紀先輩はそんなに泣きませんでしたよ」
全身を冷や汗でびっしょりと濡らす俺を見下ろす男子生徒は、そう言って俺の足首に包丁を乱暴に捩じ込んだ。
ぶちぶちと肉を裂く冷たい感触が酷く不愉快で。
どっかから声にならない悲鳴が聞こえたのを最後に、痛みよりも自分の足首に入り込んでくるその感覚に耐えられなくなった俺はいとも容易く意識を手放す。
聞こえてくる絶叫が自分の口から出ていることに気付いたときにはもう、すでに俺の目の前は真っ暗になっていた。
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