短編


 01

 昨日、双子の弟が入院した。
 原因は、酷い外傷。
 誰かにぶん殴られてめちゃくちゃにされた弟は、家の近所の公園の草むらで発見された。

 と言っても、まだ気を失っていなかった弟が自分で救急車を呼び、そこへ駆け付けた救急車が力尽きた弟を見つけたらしい。
 全身の打撲や骨折が酷かったらしく、病院で治療を受けた弟はまだ眠ったままだ。
 まあ、命に別状はないだけましなのだろうけれど。

 そんなことを暢気に考える俺とは違い、両親はリンチに遭った弟に酷くショックを受けていた。
 無理もない。
 弟は人から好かれる性格をしていたからこんな酷い目に遭わされると思っていなかったのだろう。

 正直な話、俺はいつか弟がこんな目に遭うだろうと思っていた。

 実際、弟は周りから好かれていた。
 というか、好かれすぎていたのだ。
 誰にでも愛想よく、弟は周りが避けるようなやつにも隔てなく接していた。
 弟は、俗に言うタラシというタイプの人間だった。
 弟のことを好きになる人間は多く、その弟を好きになる人間の中には既に恋人がいるようなやつも少なくはなかった。
 それはもう我が校の別れ話や修羅場騒動などスキャンダラスなことには大体弟の名前が上がるくらいのタラシっぷりで、大勢から好かれる代わりに弟は一部の人間からかなり恨まれていた。
 その弟と同じ顔だという理由だけで、その怒りの矛先が兄の俺に飛んでくることも少なくはなかった。
 本気で勘違いしているのか、それともただの八つ当たりかどうかはわからなかったが弟と俺を勘違いしたやつが俺に襲撃してくることはまじである。
 どいつもこいつも弟のことを恨んでいるやつも好いているやつも関係無しにバカみたいに俺の前にやってくる。そう、例えば、今とか。

「先輩、俺、やっぱり先輩のこと諦められないんです。一生のお願いです、俺を先輩の恋人にしてください。パシリでもなんでも先輩が言うんならなんでもしますのでお願いします。俺、先輩のことが好きなんです」

 あー、またか。また、俺とあいつを間違えてるのか。
 と、いつもなら「俺は兄の亜紀です」と断りを入れてはいさようならと別れる俺だったが、今回は流石にやばいと額に冷や汗を滲ませる。
 学校帰り、近道代わりに昨日弟が発見された公園の前を通りかかった時だった。
 時間帯はすでに遅く、辺りは暗闇に包まれていて公園の前はほぼ無人の状態だった。
 俺と、目の前に立つこの男を除いて。
 同じ制服を着たそいつは、間違いなく俺と同じ学校の生徒だろう。
 俺のことを先輩と呼ぶくらいだから下の学年のやつに違いない。
 辺りに街灯がないからよくやつの顔は見えなかったが、声からすれば間違いなく男だ。
 別に、弟と間違えて男から告白されたこともあるので今更驚きはしない。
 そう、それだけだったら俺は驚きはしない。

「先輩……なんで黙ってるんですか?返事を聞かせてください。俺を、恋人にするだけでいいので。他に恋人がいても構わないんです、先輩を一人で独占しようなんて思ってないので」

 そう震えた声で俺にすがるような言葉を投げ掛けてくる男とは裏腹に、男の手に握りしめられたそれは月明かりを反射し鈍く光っていた。
 包丁。それも、人に向けるにはジョークにならないくらいの大きさの家庭包丁だ。
 いくら弟と間違えられて美人な子からきっついビンタを食らっても笑っていた俺でも、流石に包丁を向けられて笑ってられるような神経はしていない。
 あいつ、どんなたぶらかし方したんだよ……!
 包丁を持ったままじりじりとにじりよってくる男に、俺は引け腰のまま後ずさる。

「……あのさ、君、なにそれ。なんでそんなもん持ち歩いてんの?危ないから直しなよ、それ」

 なるべく相手を刺激しないようにと言葉に気を付けながら男に声をかけるが、やはり動揺のせいか語気が強くなった。

「付き合うんですか?付き合わないんですか?……早く……答えてください」

 しかし、男はまったくと言っていいほど俺の話を聞いていない。
 俺に向けられた、包丁の先端が僅かに震えていた。
 男自身も、人間に刃物を向けているこの状況に緊張しているようだ。そう急かすように言う男は、一歩、また一歩と俺に近付いてくる。
 やばいな、こりゃ。和解狙って話かけるよりも先に逃げた方がいいかも知れない。
 今にも刃物を振り回してきそうな男の様子に、俺は公園の奥に目を向けた。
 ここからが一番家に近いのだが、こうなったら仕方ない。とにかく人がいる場所へ逃げた方がいいだろう。
 このままでは、男がなにしだすかわからない。

「……なぁ、お前もしかしてなんか勘違いしてないか?俺は」
「なんで話を逸らすんですか?早く答えてくださいよ、先輩。……早くしてください、人が来たらどうするんですか!」

 弟じゃなくて、兄の方だけど。そういいかけて、焦れた男はヒステリックな怒声を上げた。
 なかなか答えようとしない俺にイラついたのか、全身から焦燥感を滲ませた男は「なんで逃げるんですか」と口許に引きつったような笑みを浮かべる。
 やはり、男は第三者がやってくることを恐れているようだ。
 もしかしたらと思って声をかけたが、駄目だ。逃げた方がいい。
 後退る俺は男との距離を測り、そのまま一気に走り出した。
 いつもは軽い鞄がやけに重たく感じ、俺はただひたすら走る。
 背後から男の声が聞こえてきたが、俺はそれに気を取られないよう聞き流しながらそのまま下り坂を駆けていった。
 全力疾走なんて、何年振りだろうか。
 そうなことを思いながら、俺は肩から下がるショルダーバッグを振り落とさないように気を付け人通りのある歩道を目指して静まり返った住宅街を走り抜ける。

 住宅街を出て、車の通りが多い大通りまで引き返してきたときにはもう俺の体力は限界に近いところまで来ていた。
 大通りには俺同様学校帰りらしき見慣れた制服の生徒たちがいて、俺は外野という存在に内心ほっと安堵の胸を撫で下ろす。
 様々な人間が歩く中、先ほどの包丁を持った男はいない。

 どうやら、ちゃんと撒いたようだ。
 肩で息をしながら、俺は重い足を動かし別の道を通って自宅を目指すことにする。
 しかし、なんだったんださっきのやつは。弟もまた変なやつを引っ掛けたなと呆れながらも、いまだ胸の動悸は静まる気配はない。
 いきなりの出来事に、俺自身混乱しているようだ。
 そりゃ、そうだろう。
 昨日の今日で弟が襲われたばっかなのに、次の日になって俺まで大怪我なんて流石に笑えない。

 そこまで考えて、俺は全身の血の気が引いていくのを感じた。
 そういや、弟が襲われたのもさっきの公園じゃなかったか。
 ……ただの偶然なのだろうか。
 でも、ただの偶然で俺たちが同じ場所で暴漢に襲われるのは出来すぎているような気がする。
 もしかして、昨日弟を襲ったやつもさっきの妙な刃物持ったやつなんじゃないだろうか。
 そう考えれば、同じ場所で兄弟である俺たちが襲われるのは偶然なんて非現実的な言葉を使わずに済む。
 が、だとしたら兄である俺を襲う必要性を感じない。
 昨日、弟は確かにあの場所で襲われたはずだ。
 そこまで考えて、ひとつの可能性が脳裏を過る。

 ……まさか、最初から目的は俺だったんじゃないだろうか。
 いや、まさかな。まさか。そんな馬鹿馬鹿しい。
 男から逃げるため長い距離を走ったせいでアドレナリンを放出してしまったようだ。
 思考が段々こんがらがって、俺は益々混乱してしまう。
 取り敢えず、落ち着こう。
 可能性としてはないこともないかもしれないが、『男の目的が俺』ということよりも『ただ男は弟が入院したことを知らない』と考えた方がいいかもしれない。
 確かに、大してなにも努力をしていない俺が後輩に告白されるよりよっぽど後者の方が確率が高いだろう。

 ……いや、それは有り得ない。
 俺は今朝学校のHRのことを思い出す。
 学校側はうちの学校の生徒が暴漢に襲われたことを説明し、生徒たちに帰りなど単独行動をとらないよう呼び掛けていた。
 クラスによっては被害者である弟の名前を公表した教師もいたらしく、人気者で顔が広い弟のことが学校中に広まるまで大して時間はかからなかった。
 さっきの男だって、制服を着ていたし今日学校にいたはずだ。
 包丁持って脅すくらい好きな相手が暴漢に襲われたなんて噂が流れたら、嫌でも耳に入るだろう。
 あくまで俺の予想でしかなかったが、今日学校に行って弟のことを聞かなかったという可能性は低い。
 じゃあ、やっぱり……。
 真剣に自惚れた考えを巡らせる自分が可笑しいことはわかったが、やはり状況が状況なだけに笑えない。
 もしかしたら、目的の脅迫する相手が俺でも弟でもない人違いな可能性もあるかもしれない。
 逸る気持ちを抑えながら、俺は歩道を歩く足を加速させる。
 そうだ、あの公園は暗かった。もしかしたら男は俺と誰かを勘違いしてたのではないだろうか。あの暗さだ、俺の顔もよく見えなかっただろう。そこまで考えて、自分がとんでもないことを見落としていたことに気付いた。
 様々な学生で賑わう大通り。俺は、あの男の顔を見ていない。

 もしかしたら俺を追い掛けてもうすでにここに来ているかもしれない。
 全身が強張り、嫌な予感が体内を駆け巡る。
 いや、さっき自分で言ったじゃないか。あの男は俺を誰かと勘違いしてたんじゃないのかって。だとしたら、男が俺を追ってくる必要はない。
 もしあるとすれば、脅迫に失敗したときの口止めをするためだ。いや、それって尚更やばくないか。
 こういうとき、どうしたらいいんだ。

 答えが返ってくるわけがないとわかっているのに、問い掛けられずにはいられなかった。
 焦る脳は自問自答を繰り返し、俺はハッと思い付く。

 ……そうだ、警察だ。警察に行こう。もしあの男の目的が俺じゃないとしても、包丁を人に向けるようなやつをこの街に放っておくわけにはいかない。

 交番か?いや、この辺に交番はない。
 じゃあどうする。そうだ、電話だ。警察に通報すればいいんだ。俺は制服のポケットの中に入っている携帯を衣類越しに撫で、辺りに視線を巡らせる。
 どこもかしこも同じ制服の生徒たちがいて、同じ制服の男子というだけで全員が全員怪しく見えてきた。
 取り敢えず、うちの生徒がいないところまで逃げよう。
 あの男がどこにいるのかわからない状況で警察に通報するのは自殺行為としか思えない。
 とにかく、どっか人が少ないところへ……。

 そう口の中で呟きながら俺は頻りに辺りを見渡し、そのまま路地裏へと繋がる小路に入り込んだ。
 ここから路地裏に行けば、ある程度は人目を避けることはできるだろう。
 そこで警察に電話して、それからあの男を捕まえてもらえばいい。
 頭の中で段取りを組み立てながら、俺は足早に小路を進もうとした。が、それは急に目の前に現れた人影によって制される。
 いきなり現れたその人影は、走ってやってくる俺を避けるわけでもなくそのまま俺を邪魔するかのように小路の真ん中に突っ立っていた。現れた人影に驚いた俺は慌てて避けようとするが、あまり反射神経がよろしくない俺はそのまま人影に真っ正面からぶつかる。

「うわ、わ、悪い……」

 反動でよろめいた俺は、いいながら目の前に立つ人影に謝った。
 薄暗い小路に、大通りのきらびやかな明かりが差し込む。足元に目を向けていた俺は、とっさに顔を上げた。明かりに照らされた人影は、見慣れた制服を着ていた。
 黒い髪。白い顔。暗く、虚ろな目。その手には、錆びた鉄パイプが握られていた。
 初めてみる顔だったが、直感で俺は身の危険を感じる。
 もしかしてこいつ、さっき公園にいた……。
 目の前の男子生徒が持つ独特の雰囲気をついさっき感じたばかりの俺は、咄嗟にこの男子生徒を先程の男だと判断する。
 やばい、逃げないと。そう思って俺が後ずさろうとしたときには、もうなにもかもが遅かった。
 後ずさったその先にあったなにかの生ゴミを踏んだ俺は、靴の下のそのぬるりとした感触を感じた瞬間派手に転倒する。
 尻餅をつき、慌てて俺は立ち上がろうとするが、気付いたときにはもう男子生徒の振り下ろした鉄パイプが目の前まで迫っていた。

 やべぇ、双子揃って暴漢に襲われるなんて笑えねえよ。
 思いながら、俺はきつく目を瞑って咄嗟に腕で頭部を覆う。
 俺の意識はそれを最後に途切れた。

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