愛の囀りと金木犀




 気が付いたら私は白い部屋の真ん中で眠っていた。先程まで感じていた熱は既に波が引いている。どうやら抑制剤を投与されたようだ。
 軽くなった体を起こし、辺りを見渡す。病院であることには違いないだろうが、私は一体どれほど眠っていたのだろうか。
 ふと、友人と約束していたことを思い出すと慌ててスマホを探し出し、ホーム画面を開く。そこには友人達からの着信で埋まっており、時間は既に約束の時間から2時間ほど経っていた。私は慌てて掛け直した。

『あ!なまえ?もう〜!今起きたの?』

「……ちょっと体調悪くて」

『え?!大丈夫なの?!』

「体調はもう大丈夫。ごめん、今日は休んでおく」

 電話越しに友人達の心配する声が聞こえてくる。彼女達からの暖かい心配の声が、逆に私の重荷に変化してしまったのは一体いつからだっただろう。本当は、またか、って思っているのではないだろうか。一体いつまで、彼女達に嘘をつかなければならないのだろう。
 扉をノックする音が響く。「はい」と、小さく返事をすれば控えめに扉が開き、ツナくんとあの小さい赤ん坊、リボーンくんが現れた。

「ツナくん……」

「なまえさん、あの……大丈夫ですか?」

「うん、もう大丈夫。ありがとうね」

 ツナくんの肩に乗っていたリボーンくんは、ひょい、と身軽に彼の肩から降りると、少し離れた椅子に座った。私達の会話に混ざる気は無いらしい。

「やっぱりツナくんは私がオメガだってこと、知っていたよね」

「あ、その……」

「私も知っていたよ。ツナくんがアルファだってこと」

「なまえさん……」

「何であの人があそこにいたのかな?」

 ツナくんは目を見開いた後、困ったように視線を下げる。すると我関せずと遠くの席で黙り込んでいたリボーンくんが彼に言葉を投げ掛けた。

「ツナ、そいつはもうあの夢を見ちまってんだ」

「分かってるけど……」

 見た目とは裏腹に話せば随分と大人びて見えるリボーンくんに私は少しだけ驚いた。でもそういえば、あの夢でも言っていた気がする。

「彼はツナくんの家庭教師、なんだっけ?」

「っ!」

 うる覚えな夢の話をしてみれば、目の前の彼はやはり驚いたように体をびくりと揺らす。私に何かを話そうと迷っている彼の表情は苦痛に満ちていた。

「前に言いましたよね、あの夢が夢じゃなかったらって」

「うん」

「なまえさんが見たあの夢は、本当は夢じゃ無いんです。未来で起きた、現実なんです」

 あまり驚きはしなかった。だって、もうあの夢の中の男に出会ってしまったから。

「じゃあやっぱりあの人は未来の運命の番なんだね」

「オレは未来に飛んで、なまえさんが苦しんでいる姿を見ました」

 ツナくんは固く拳を握る。
 あの人が未来で犯した罪はとても大きく、この時代ではとある場所で身柄を確保され、ずっと監視をされていたらしい。未来のようなことを起こす確率はかなり低いと想定されているらしいが、私に起きたあの出来事はどれだけあの人の危険値が下がっていようと関係ない。あれは本能で求めてしまうものであるからだ。

「ボンゴレは二度となまえさんが傷つかないように守ると、そう言っていました」

「そう……」

「なまえさん?」

 あの夢の中にいた私は確かに苦しんでいた。あの夢のようにはなりたくないと思っていた筈なのに、この心の中にあるもやもやは一体なんなのだろう。もしかしたらこれも運命によるものなのだろうか。

「ううん。ありがとうツナくん」

「いや!オレは何も」

「それにしても、ツナくんがマフィアのボスだなんて凄いね」

「オレはボスにはならないんで!」

 ツナくんは取り乱しながら力強く両手を振る。事情は分からないが、彼はマフィアのボスを望んでいる訳ではいないらしい。まあ、彼の性格を考えればそれもそうだろうと納得が出来るが、彼の本質的には誰かの上に立つことは案外合っているのかもしれないとも思う。



◇◇◇



 マフィア絡みで何やら色々あるらしく、夢の中のあの人は暫く日本にいるらしい。

「なるべくオレの家には近付かないで下さい」

 先日病院でツナくんにそう言われてから早数日が経っている。あの夢を見た時もそうであったが、彼から聞かされた未来の話や彼自身の話は、正直夢と言われた方が納得するのではないかと思えるような内容であった。
 現在はリボーンくんの為に戦っているらしい。
 そもそも彼はツナくんを立派なマフィアのボスにさせる為に訪れた家庭教師なのだと言う。子供や赤ん坊まで巻き込むマフィアの世界というのは随分難しく、私には理解が出来そうにもない。だが未来の夢を見てしまっている上に、あの人と未来で運命の番でもあった私は既にマフィアと無関係とは言い辛い立ち位置まで来てしまっているらしく、今後縁を切ることは難しいそうだ。私の人生は突然見たあの夢によってがらりと変わってしまった。

「あの人と運命な時点で逃れられないのかも」

 この世の中はとても非情だ。バース性に縛りつけられ、オメガなんかに産まれてしまえばまず間違いなく自分の未来は他者よりも暗く茨の道になる。
 あの夢を見たか見ていないかの時点ではなく、私がオメガに産まれ落ちた瞬間からこうなることは決まっていたのかもしれない。

 今日はなるべく家から出ないで欲しいとツナくんやボンゴレの者に告げられた。
 あの人とこの時代で偶然出会ってしまった日に、私はボンゴレの者に護衛されていることを知った。流石に家の中まで来ることは無いが、外に出れば見えないところで私の周りの警備や監視をしているらしい。一般人である私は人の気配に敏感という訳でもないので、今まで気付きもしなかった上に、正直言われてから外に出てみても全く分からなかった。

「何で今日なんだろ」

 参考書とノートを開き、ペンを走らせる。勉強はやれば身についていくし、しっかりと行い点数が伴えば、自分がオメガでは無いと偽れる理由にもなる。好きでもないが嫌いでも無い。それに大学受験も控えているので予定の無い日は基本的に参考書を開いていた。
 朗らかな気候の中、薄らと金木犀の香りが開けた窓から漂う。心地よい香りを目一杯肺に流し込めば、気分は幾らか晴れやかになれた。だがそれとは別の心地よい香りが微かに感じたかと思えば、窓の外に見えるのは白い翼。

「なに……」

 しっかりと向き直ってみれば、窓の縁には夢の中のあの人が座っていた。心臓がどくりと跳ねたが、先日会ってしまった時よりも幾らか落ち着いていた。大丈夫、ヒートは少し前に終わっている。
 何も言わずに小さな翼をしまうとあの人は私の部屋の中へ足を踏み入れた。御丁寧に靴まで脱いで、一歩ずつ私の前まで進んでいく。私はその様子を椅子に座ったまま動けずに見つめていた。
 白くて柔らかそうな髪から、細くて長い指先、すらりと伸びた足の先端まで、無意識にあの人のことを凝視していた。まるで体はあの人に触れられるのを待ち侘びているかのように。

「なまえ」

 殆ど声は出ていなかったが、それでもあの人の口は私の名を呼んだのだと動きでわかる。ゆっくりと手が伸びてきて私の腕に触れると、力強く引っ張り上げられ、そして私を抱き締めた。
 瞬間、何かが外れたように私の体は運命の人を求めた。あの人の体温に、匂いに、私の全てが喜んでいる。無意識に擦り寄れば彼もまた私の頭を撫で、そのまま顎を掬う。目が合えばどちらからともなく唇を重ねた。

「ん…………は……」

 ひたすら夢中になってあの人の唇を舐めて、吸い続ける。唇はとても甘く、だが本能はもっと、とあの人を求めて私は舌を伸ばした。

「ぅ、ぁ……んぅ……はぁ」

 唾液が絡まる音とお互いから漏れる声が響く。既に口の端からは唾液が垂れているが、拭う余裕が無いほど私達は目の前の運命を求め合っていた。あの人の匂いと吐息にぞくぞくとした何かが体中を駆け回る。私がこの人を求めているように、あの人もまた私のことを求めているのだと分かると子宮がきゅう、と切なく疼いた。あの人が欲しい。
 肩に指がくい込みそうなほど私を強く抱く手を取って、自らの胸元へと導いていく。だがあの人は私の服に手をかける前に唇を離していった。

「なんで……」

「僕はっ、ただ君に会いに……っ」

 目の前のあの人は熱に浮かされた表情をしながらも眉だけは顰めていて、自分の中の本能と戦っているように見えた。

「そんな顔で見ないで」

 私は強請るように見つめてしまっていたらしい。手が私の瞼の上に置かれると、あの人は再び私の肩を強く握り、額を肩に添えた手の甲に乗せた。

「ごめん、また会いに来る」

 苦しそうに呟くと、あの人は小さな翼を再び羽ばたかせて、窓から空へと飛んで行った。




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