いとしくて涙が零れそうだ



 あの子がまだ家の周りにある田んぼや、裏にある山の存在を自分の瞳で見ることが可能だった時。
 一日中歩き回ることは出来なかったが、それでもたまに街に降りることも、飯を一人で作ることだって出来ていた。
 暮れが押し詰まる頃、あの子は買い出しのために街へ降りたり、隣に住む親戚にお遣いを頼んだりして材料を揃え、予祝の準備を始めていた。
 火の音、水の音、木の板に包丁がぶつかる音、いつもよりも沢山の音が響く家の中で、珍しく動き回るあの子の姿を、土間が見える部屋からずっと眺めていた。

「やっと出来た」

 既に部屋には食べ物の匂いで満ちている。穀物や野菜や魚を食べなくたって生きていくことは出来るのだが、あの子が一緒に食べたいと言うので何度も一緒に食事をしていた。

「今日はまだ駄目よ」

 煮物や黒豆などが詰められた重箱を畳の上に並べる。冷めたら蓋をして明日まで取っておくのだとか。
 火を使ったので部屋は幾分暖かいが、それでも肌を突き刺すような冷たい空気が消えることは無い。

「明日は早くにおいでよ」

 初日の出は無理でも、初御空ならば出来るでしょう?
 そう言ってから、重箱に入り切らなかった黒豆と、湯呑みに入れたお茶を置いて隣にあの子は腰掛けた。

「うん、そうだね」

 穏やかな日々だった。出会いこそ酷かったかも知れなかったけれど、捕食する者と、される者が同じ屋根の下で過ごし、去年今年を跨いで共にいる。
 他の者が見たら笑うだろうか。それとも冷たい視線を向けるだろうか。どちらしてもあの子と共に生きられるなら何でも良かった。終わりを迎えるまできっとあともう少し。それまで僕は、決してあの子の隣を離れるつもりは無い。







 淑気に満ち溢れた日。神社の周りには初詣のために人間達が集まっている。祈りを捧げることなど、僕には全く興味のないことであるし、無意味であるが、人が集まる場所では必ず風紀を乱す者が現れるため、こうしてわざわざ神社まで赴いている。
 既に数人、風紀を乱す者を取り締まったが、未だに神社付近は混雑しているため、まだまだ油断は出来ない。
 ふと、石段から降りてくる人混みの中に、あの子によく似た子がいることに気付く。どうやら相手も僕のことに気付いたようで、視線が合うと少しだけ驚いた表情をしてから微笑んで、真っ直ぐ僕の元にやってきた。

「あけましておめでとうございます。雲雀先輩」

 不覚にも、僕はあの子の姿に目を奪われた。
 白地に撫子色と若葉色が所々に染められた生地。桜の花は上から舞い散るように、鶴は空高く羽ばたくように刺繍がされており、金糸が混ぜられているのか、陽の光に反射してきらきらと輝いて見える。
 あの子はいつも落ち着いた色を選びがちであったから、明るく華やかな色に新鮮さを感じたのもあるだろう。しかし、他の参列者だって振袖を着ている者は沢山いる筈なのに、誰よりも美しく見えた。

「先輩?」

「ああ……おめでとう」

 なんて残酷なんだろう。目の前の子はあの子では無いのに、あの子と同じ顔をして美しい着物を纏いながら青空の下で僕の目の前に立っている。こうなることをどれほど夢見ていただろう。それなのに、手を伸ばしたくてもそれすら出来なくて、みょうじにあの子を重ねては昔のことを思い出している。
 突然黙り込んだ僕に、みょうじは首を傾げながら下から顔を覗き込んだ。あの時だって、初空を見て、こうして二人で冷たい空気を吸って、隣を歩きたかった。
 どうして君は、あの子じゃないんだろう。

「雲雀先輩は見回りですか?」

「うん」

「今日もありがとうございます」

 感謝を述べられ、少しだけ気分が良くなったことで、先程よりも幾分気持ちは落ち着いた気がする。
 再び着物に視線を移せば、やはりその美しさに心を奪われそうだ。華やかではあるが、鮮やかすぎない色を選んでいるため上品さがあり、あの子の顔にもよく似合っている。暫く眺めて目に焼き付けてから、僕は彼女の背後に視線を向けた。

「待っているんじゃないの?」

「あ、そうでした。では先輩、また」

 共に初詣に来た友人達は僕のことを知っているのか、恐れて遠巻きで見ているだけであった。
 みょうじが踵を返し、歩きづらそうに友人達に駆け寄る瞬間、引き止めたくなったのを何とか堪えて、僕は再び神社に足を向けた。


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