花に埋もれて夢を見たい



 夕暮れ時は陽が低くなるので、部屋にまで光が入り込んでくるから厄介だ。
 暑い日々もあっという間に過ぎ去り、暖かい陽射しと冷たい空気が心地良い季節になった頃、縁側には沢山の黄色い花が並んでいた。

「なにこれ」

「菊だよ」

「それは知っている」

 大きな板のような物の上に乗せられた菊の花は、陽の光に当てられて随分と萎びてきている。まるで自分のようだと思いながら、陽が入らない場所に腰を下ろすと、あの子は萎びた菊の花を一つ摘んで見せた。

「これを干して枕にするのよ」

「へえ……」

「菊枕って言ってね」

 その枕で寝ると邪気を払い、体の調子が良くなるのだと言う。大して効果は無さそうだが、口にしてしまえばあの子が悲しむ気がして言うのをやめた。
 文机の上にある小さな巾着袋を取ってくれと言われたので、陰からあの子に向かって放り投げる。「そうそう、これ」と、あの子は小さな袋の口を開けて、摘み上げた菊の花を詰めていった。

「はい」

 詰め終わると僕の隣まで移動して、掌に収まる程の小さな巾着袋が乗せられる。紫色の青海波模様の布地で出来たそれからは微かに花の香りがした。

「なんで……」

「いい香りもするし、匂い袋だと思って」

 それにもしかしたら陽の光にも強くなれるかも知れないし。と、あの子は夢物語のようなことを呟く。大して効果は期待していないが、あの子がくれたものならば黙って受け取っておこうと懐にしまった。

「大事にしてね」

 その言葉がやけに頭の中に残った気がした。
 あの時はあの子が言った言葉なんて、叶うはずないと思っていたんだ。







 今年の新入生は随分と厄介な者達が揃っているらしい。だがその厄介な人物達と共にいる小さな赤ん坊に、僕は最近興味が湧いていた。
 学校というものは不思議な所で、一年に一度体育祭という行事が行われる。この学校では棒倒しというものが代々伝わる最大種目らしく、僕はずっと気になっているあの赤ん坊に会いたくて、珍しく体育祭に参加した。
 結果、会うことは叶わなかったが。
 遠い昔、あの子に言われた言葉を思い出した。陽の下で過ごせることなど一生来ないと、そう思っていた筈なのに、今僕は陽の下を歩き、人間と共に学校行事に参加している。あの子から貰ったあの菊の花のお陰だろうか。それとも、あの巾着に込められていたあの子の願いのお陰なのだろうか。
 体を動かす行事は怪我も増える。血の匂いに敏感な僕は少しだけ煩わしさを感じるけれど、あの子の血の匂いに比べれば大したことなど無い。
 ふと、保健室の近くから記憶のある香りに気付く。もしかしてと思い保健室の扉を開けてみれば、案の定、部屋の中にはみょうじなまえがいた。

「あれ?雲雀先輩?」

 保健医はどうやら留守らしく、彼女は絆創膏を手にしたまま明け放れた扉に視線を向けた。

「怪我をしたのかい」

「はい……何故だか昔からよく怪我をするんです……」

 その理由を僕は何となく分かってしまったが、本人に伝えたところで信じる筈も無いだろう。嗅ぎなれたあの血の匂いに少しだけ動揺が走ったが、これくらいであればまだ我慢出来る。

「先輩はどうしてここに?……あ、さっきの棒倒しで怪我されたんですか?」

 終盤は最早乱闘騒ぎになってしまったあの棒倒しのせいで怪我人は多く、そろそろこの保健室にも人が流れ込んでくる頃であろう。その時に同じく怪我をしたのかと勘違いをした彼女は、引き出しの中から絆創膏を取り出すと僕に差し出した。

「使いますか?」

「いいや、僕は怪我をしていないからね」

 怪我も大きく無さそうであるし、人が来る前に退出しようと踵を返す。瞬間、内ポケットから何かが落ちる音と、背後から「あっ」という声が重なる。素早く落ちた物に駆け寄った彼女はそれを拾い上げた。

「はい」

 紫色の青海波模様が描かれたそれ──あの子がくれた小さな巾着袋はもう色褪せていて、とてもじゃないが綺麗とは言えない。あの子と同じ顔をしたみょうじがそれを持って手渡した瞬間、もうしない筈の菊の花の香りがしたような気がした。

「何か入っているんですか?」

「……いや」

 もう既にこの中に菊の花は無い。それでもあの子から貰ったこの小さな巾着袋を捨てることなんて出来なくて、薄汚れてしまっても未練がましくずっと持っていた。袋の色が褪せてしまったように、あの子との短かった思い出なんてもうずっとずっと遠い昔の話だというのに。

「……じゃあ」

 彼女は反対側の手で持っていた絆創膏を持ち上げて、巾着袋の上に置いた。

「雲雀先輩は強いって聞いていますけど、もしかしたらいつか必要になるかもしれないですし」

 この中に絆創膏入れるっていうのはどうですか?
 もうずっと何年も中身も無く、役目を果たしていない古びた袋に、新たな贈り物が生まれたことを僕は数瞬受け止めきることが出来なかった。
 まだこの小さな袋を持っていていいのだと、そう言われているような気がした。

「あ、ごめんなさい。また勝手に……」

「いや、貰っておくよ」

 落ち込んだり、喜んだり、忙しい子だなと思った。あの子もよく表情を変える子であったけれど、瞳には憂いが満ちていたから、何処か儚げな印象が付き纏っていた。
 絆創膏がぴったりと収まった巾着袋は、何となく先程よりも存在感を放っているようにも見える。あの子に似たみょうじからの小さな贈り物に、僕はここ暫く感じ得なかった心の奥に広がる暖かくて心地の良い温度に懐かしくて笑ってしまいたくなった。


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