どこにもどこかにもいない人



 暖かく柔らかな春は過ぎ去り、夏が始まりそうな頃、空から水が零れ落ちる時期がやってきた。梅雨だ。
 雨の日はいつもより嬉しかった。何故ならば、あの子と並んで縁側に座れるから。
 それまで少しだけ蒸し暑かった空気が、零れ落ちてきた水によって段々と温度が下がっていく。暖かいお茶を入れ直そうと、火鉢に置いてある茶葉が入った土瓶から、乳白色の湯呑へと注ぐ。既に街では急須というものが普及しているようだが、街に出向くことの無いあの子の家にはそんなものは無かった。

「入れてくれたの?わざわざありがとう」

 ほんのり暖かい湯呑みを両手で持ち、暖をとる姿は子供のようだった。けれど、真っ直ぐ外を見つめる視線は憂いに満ちていて、とても子供とは言えないような表情をしていた。

「雨は好き?」

「嫌いじゃないな」

「私は好きよ、だって」

 隣にいる僕を見ながらあの子は優しく微笑んだ気がした。
 あの言葉の続きは何て言っていただろうか。







 目を覚ましたら、視界に広がったのはいつもの応接室であった。なんだか、懐かしい夢を見ていたような気がする。
 音がしたので外に視線を向けてみれば、沢山の雨粒が零れ落ちていた。もう梅雨かと思いながら、ソファで寝転んで固くなった体を伸ばす。
 気晴らしに校舎内を見回ろうか。新入生が入ってきて、校内には何処と無く浮ついた空気が漂っている。もう暫くすれば落ち着いてくる頃だと思うが、年には念のためだ。

 一通り歩いて一番最後に訪れたのは三階にある図書室であった。昼休み、わざわざ此処を訪れる者はそう多くはない。次の授業までの調べ物のためか、本が好きな者、あとは静かに過ごしたい者、くらいだろうか。
 騒いでいる者もいないようだし応接室まで戻ろうかと踵を返そうとした瞬間だった。甘い香りがしたのだ。
 まさかと思い、少しだけ開いている扉の隙間から覗き込めば、見えたのはあの子によく似た顔の。
 殆ど無意識だった。ガラリと音を立て扉を開き、あの子の元へと歩き出す。昼休みの受付担当をしている図書委員の生徒も、読書をしていた生徒も、突然現れた僕の姿に驚いたようで視線が集まる。睨み付けるように左右に視線を向けてみれば、今度は目を合わさぬよう、周りの生徒は一斉に下を向いた。
 ただ一人。あの子は僕の姿を捉えること無く、手元の本に視線を向けたままだった。それが何だか面白くなくて、真っ直ぐ向かって机越しの目の前に立つと、足音が止まったことに気付いたのか、あの子はゆっくりと顔を上げた。

「あの……」

 何処と無く困った表情を浮かべながら声を掛けられて、僕はやっと気が付いた。
 目の前の子は、あの子では無く、みょうじなまえだ。いくら似た顔立ちをしていたって、あの甘い香りを撒き散らしていたって、その中身はまるで違うのだと。

「それ」

「え……?あ、もしかしてこれ……借りますか?」

 一瞬驚いたような顔をしたけれど、何かを勘違いしたのかまだ読み始めたばかりであろう手元にある本を少しだけ持ち上げた。最近映画にもなったと誰かが噂をしていた恋愛小説。所詮作り話の下らないものだ。
 人間、特に女性はこういうものが昔から好きなようで、いつの時代にもこういうものは存在する。そういえば、あの子はそういう類のものは興味が無さそうに見えたけれど、環境のせいで手にしていなかっただけで、他の人間のように胸をときめかせたりしたのだろうかと、ぼんやりと考えた。

「あの……」

「いらないよ」

 黙り込んだ僕に少しだけ怯えた様子で再び声を掛けられる。既に他に読書をしていた生徒は関わらないように席を外していて、入口にいる図書委員の生徒のみだけであった。
 あの子ではないと分かっている筈なのに、僕は動くことが出来なくて、目の前にいるみょうじも困った様子で見上げている。視線が合うと、やはり懐かしさを感じてしまい、珍しく自分に少しだけ苛立った。

「雨は好きかい」

 遠い昔、あの子から掛けられた言葉を無意識に口にしてきた。自分でも驚いて、案の定目の前のみょうじも驚いたように目を見開いている。今更後には引けなくなってしまって黙ったまま答えを待ち続けていると、少しだけ考える素振りを見せてから、窓の外に視線を向けて呟いた。

「雨はどちらかと言えば好きです」

「どうして?」

「ええっと……読書も静かに出来ますし、あと何となく好きです」

 最もらしい答えに、僕は気付かぬ内に抱いていた期待から外れたことにがっかりとした。

「そう」

 今度こそ踵を返し図書室から退出する。薄らと記憶にあるあの夢の中の続きを思い出すことが出来るのではないかと思ったが、やはり彼女はあの子では無いのだ。
 例え容姿や血が同じだって、記憶が無ければ他人と殆ど変わりない。僕は、あの時のあの子が欲しいんだ。


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