ひとりふたり色どり



安心して眠れるくらいの光度で のあとの話



 ──俺の我儘一個聞いて。

「一個と言わず、何個でも。わたしに叶えられることなら」

 そう言うと冴くんは、「お前にしかできねぇよ」と少し困ったような笑顔を浮かべてわたしにもたれかかった。背中に感じる重みが増して、とくとくと脈が早くなっていく。

「……まだ、帰んな」

 耳元で囁くような、ほんの小さな声。同時に擦り寄るように顔を近づけた冴くんに視線を向けると、彼はさらに声をひそめて「朝までいて」と囁いた。
 彼が望むのなら、いくらでも傍にいよう。しかしそれとは別に、彼の珍しい様子にわたしは少なからず驚いた。可愛らしい我儘を言うこともそうだけれど、わたしの肩口に顔をうずめる姿が、少し弱々しく、照れているように見えたからだ。

「うん……冴くんがいいのならわたしもここにいたい……けど……」

 こんなふうに甘えられると、どきどきしてどんな反応をするべきかわからなくなってしまう。軽いパニック状態だ。可愛い、なんて言ったら怒られてしまいそうだけれど、普段そういうことを言わないぶん、なんだか威力がすごい。
 しかし冴くんはわたしの態度に困惑していると思ったのか(実際に困惑はしていたけれど)、苦笑いを浮かべわたしを見た。

「無理する必要はねぇよ」

 別に、冴くんと朝まで一緒に過ごすのはこれが初めてではない。むしろ小さいころはよく糸師家にお泊まりすることだってあったし、冴くんや凛くんが我が家に泊まりに来たことだってある。
 とはいえそれは随分とむかしの話で、最後に泊まったのはそれこそ五年以上前の話だ。それに今回はホテルに二人きり。……なにを一番心配しているかって、わたしの心臓が持つかどうかの話だ。

「お前が嫌がるようなことはしたくない」
「冴くんにされて嫌なことなんて、思いつかないけど……」

 むしろまだ一緒にいられるのだ。嬉しいに決まっている。しかし素直に喜べるかはまた別問題なのだ。散々一緒に過ごしておいて今さらなにを言っているんだと思われるかもしれないけれど、昼間十二時間一緒に過ごすのと、夜中十二時間一緒に過ごすのとじゃ全く心持ちが違ってくる。たとえその半分が睡眠に宛てがわれたとしても、だ。
 冴くんは大きく目を見開いたのち、咎めるような冷たい視線をわたしに向けた。

「……おい。それ、他の奴には絶対言うんじゃねぇぞ」
「こんな話、冴くん以外にすることないと思うけど……」
「それでもだ。いいな?」
「……うん」

 ぎろり、と睨みつける視線はひどく鋭い。そんなに怒らなくてもいいのに。
 本当のことなんだけどな。
 冴くんがどういうことを言っているのか、わたしだって一応わかっているつもりだ。幼馴染だけれどわたしたちは男女で、たとえ長い付き合いだったとしても、わたしが「あなたにされて嫌なことなんてない」と発言するのは些か警戒心が弱いと思われるだろう。わたしだってそう思う。つまり、わかった上でああ言ったのだ。誰に対してもあんなことを言うわけじゃない。冴くんだからこそ……。きっと彼はわたしがこんなことを考えているだなんて、露ほども思っていないのだろうが。


 冴くんが取った部屋はいわゆるスイートルームにあたる場所らしい。そのなかでも様々なランクがあるらしく、ここは上からみっつ目の部屋なのだとか。なんてことないように彼は言っていたけれど、そもそも十八歳にしてスイートルームを平気で取れるような人はほとんどいない。部屋は広いし、浴室からも夜景が見えるし、洗面台はふたつあるし……。規格外すぎて、置いてけぼりにされそうだ。
 大きなバスタブにお湯を張って、そこに一人ぽつんと体育座りになって浸かる。そうしてそのまま膝に顎を乗せて、乳白色の水面を眺めた。もちろんここにはわたし以外誰もいないのでもっとのびのび入ってもいいのだけれど、緊張のあまり足を伸ばす気になれなかったのだ。
 我儘を言うくらいだからもっと弱っているのかと思いきや、そのあとの冴くんは案外普通で、わたしにもたれかかって目を瞑っていたり、ぼんやりテレビを眺めたりしていた。お風呂も彼が準備をしてくれて、先に入ってこい、なんて言われて今に至る。
 このままだと結局彼になにもできないまま朝を迎えてしまいそうな気がする。とはいえ冴くんからは、ここにいて、以外なにもお願いはされていないのだけれど。
 それでも、なにかできることがあるのならしたいと思う。ぱちっ、と頬を軽く叩いて、わたしはお風呂から上がった。


 分厚いふわふわのバスローブが似合う十八歳ナンバーワンは、きっと冴くんだと思う。
 わたしと入れ違いでお風呂に入った彼は、バスタオルで髪をがしがしと拭きながら部屋へと戻ってきた。のんびりとした足取り。ワックスなども落ちてセットが取れたお陰か、その姿は普段よりも少し幼く見える。
 彼がお風呂に入っている間、それはそれはもう念入りにブローをして髪を整えた。ただでさえメイクも落としてしまったぶん(といっても彼がスペインに行く前は当然ながらメイクなどしていなかったので、全体で見れば素顔を見られている期間のほうが圧倒的に長いのだが)、髪だけはきちんとしていたかったのだ。
 ぺたりと下ろされた前髪はなんだかむかしの冴くんのようだった。以前のようにまっすぐ切り揃えられているわけではないけれど、ちょうど眉毛にかかる辺りに前髪がある。

「髪をセットするのって結構時間かかるの?」
「いや、五分とか」
「えっ、そうなの?」
「まあ朝風呂入って乾かす時間含めたら全然もっとかかるけど」

 そうなんだ、とタオルドライをする彼を見つめていると、隙間からぱちっと目が合う。正面からまっすぐ注がれるそれに、わたしは落ち着かなくなって思わずソファから立ち上がった。

「っドライヤー、持ってくる」
「……おう」

 勘のいい冴くんのことだ。わたしが緊張していることなんて全部バレているだろう。足早に洗面所へと逃げ込み、小さく息を吐き出す。今まで意識してなかった、なんてことない部分までわからなくなりそうだ。いつもどんなふうに会話をしていたっけ。目が合ったときどんな顔をすればいいんだろう。こんなことまで悩む始末だ。
 ドライヤーを持って戻ると、冴くんはベッドの上で軽いストレッチをしていた。邪魔にならないように大きく回り込んで、サイドテーブルのコンセントにプラグを差し込む。

「ストレッチ終わってからにする?」
「いや、もう使う」

 さんきゅ、と言いながら冴くんは腕を伸ばした。けれども一向に手渡さないわたしに、彼は小さく首を傾げる。

「わたしが乾かすよ」

 目を見開く冴くんを横目に見ながらドライヤーのスイッチを入れる。ごうっと、低い送風音が鳴り出した。

「ほら、早く」

 急かすようにそう言えば、冴くんは観念したように背中を向けた。一歩ベッドに近づいて、彼の髪にそっと触れる。お風呂から上がって少し時間が経っているからか、三割くらいは乾き始めていた。
 温風を当てながら手櫛で髪を梳いていく。しなやかで、強さもある髪だ。一本一本しっかりとしているけれど、手触りは柔らかく、指の間をするすると流れる。
 自分で言っておいて、なんだかとんでもないことをしているような気がした。冴くんはわたしにされるがまま、静かに奉仕を受けている。わたしたちの身長差はそれなりにあるので、彼を見下ろすのも、つむじが見えるのも不思議な感じだ。

「……なんだよ」
「え? あ……いや、冴くんのつむじを見ることなんてそうそうないなと思って……」
「だからって無言で押すのはやめろ」

 咎めるような声に、ごめんごめんと謝罪をしてからドライヤーの電源を落とす。セットのされていない彼の髪は動くたびにさらさらと揺れた。

「はい、おしまい」
「さんきゅ」

 振り向いた冴くんが自分の隣をぽん、と叩いた。座れ、ということだろう。わたしはドライヤーのコードをまとめてから、ちょこんと彼の隣に座った。

「ちょっとはほぐれたか?」

 なにが、とは言わなかったけれど、きっとそういうことだろう。やはり彼には全部バレていたらしい。少し躊躇って、わたしはこくんと頷いた。

「じゃあ寝るか」
「……うん」
「ん。さっさと歯磨いて寝ようぜ。明日も朝はえーし」

 そう言って冴くんはわたしの頭を軽く撫でると、ドライヤーを拾って立ち上がった。そうしてぺたぺたとスリッパを鳴らしながら洗面所へ向かう。

「……なまえ?」

 つん、と少し伸びた冴くんのバスローブ。黙り込んだままのわたしに、彼は柔らかな声で「どうした?」と尋ねた。

「わたし、冴くんになにもできてない」

 ここままじゃ結局、なにもできないまま朝になってしまう。
 すると沈むわたしとは裏腹に、冴くんは穏やかな表情を浮かべた。

「んなことねぇよ。俺はもうお前から色々もらってる」
「そんなことしたつもり、ないけど」
「だからだ。ほら、お前も早く来い」

 今度こそ冴くんはわたしの手を引いて洗面所へと向かった。そうして言われるがままに歯を磨き、再びベッドに戻っていく。
 ……本当にいいのかな。
 色々、と言っていたけれど、わたしがここに来てからしたことなんて、さっきの髪を乾かしたことくらいだ。それ以外は本当にただ彼と会話をしていただけ、というよりも緊張していたせいでそれさえもまともにできていないというのに。
 ベッドに腰かけた冴くんがぐっと伸びるように腕を上げて息を吐いた。今日は試合もあったし、疲れているに決まっている。ならばこれ以上無理に聞き出すのは、彼にとってかえって迷惑かもしれない。

「ん」

 マットレスに手を置いた冴くんがこちらを見やる。迎えるような視線に、わたしは頷いて彼の隣に潜り込んだ。


◇ ◇ ◇


 ぱち、と目が覚めた瞬間、なんだかとても深く眠れたような気がする、と思った。体が包み込まれているような適度な重み。普段よりもぬくぬくとしたあたたかな温度。きっとこのまま二度寝をしたら幸せな気持ちになれるだろう。そう思うような心地よさに、わたしは半分無意識のまま柔らかい温もりに擦り寄った。するとまるでそれを後押しするかのようにそっと後頭部を撫でられたような気がして、簡単に意識がとろとろと落ちていく。
 ぴたり。
 しかし完全に落ちきる前に、わたしの意識は一気に浮上した。深く眠れたため、目覚めもまた普段よりもよかったのだ。そうして思い出す。昨晩なにがあって、わたしが今どこにいるのかということを。
 今度こそ目を開く。すると目の前に見えたのは肌触りのいいふわふわの生地と、肌色の壁だった。あたたかくて、柔らかい。そして安心する匂い。

「っ!?」

 それが冴くんだと気づいたときには、わたしは完全にやらかしたあとだった。ほんの少しだけ乱れたガウン姿の冴くんに自ら、もうこれ以上ないというほどくっついている。まるで枕のように頭の下に差し込まれた彼の腕。そうして上からも腕が回されていて、もう完全に包み込まれている状態だ。ど、どうしてこんなことに。
 このスイートルームのベッドはとても大きなキングサイズだ。そして昨晩わたしたちはその大きなベッドに枕を適度な距離感を持ってふたつ並べ、それぞれ寝たはず、だった。
 それが今やわたしたちの間はゼロ距離だ。当然ながら上半身はぴたりとくっついているし、足においては少し重なっているくらい……。自覚した途端、どっと心臓が跳ねて呼吸も少し止まった。もしかしたらこのまま意識を失うんじゃないかと思えたくらい。
 顛末がまるっきり不明だけれど、とにかく今すぐ離れなくちゃいけないことはわかる。そう思い、そっと冴くんから距離を取ろうとした。

(……全っ然、びくともしない)

 なんとか腕から抜け出そう試みてみるも、冴くんの腕が思ったよりも強く動かすことができない。それどころかどんどん力が強くなっているような気がして、わたしは内心小さく悲鳴を上げながら、彼の胸板に顔がつかないように抵抗した。こんなにも筋肉質で感触が硬いんだ、なんて、決して思ってなどいない。
  そうっと体を傾けて頭上に視線を向けてみるけれど、彼は未だ眠っているようだった。長い睫毛はぴたりと上下ともにくっつき、すうすうと寝息も聞こえる。

「さ、冴……くん?」

 身動ぎひとつなく変わらない様子の彼に、少しずつ焦りが募っていく。このままだと、本当に心臓がもたないかも。
 とんとん、と彼の胸元を軽く叩く。そうしてもう一度名前を呼んだとき、ようやく彼はもぞもぞと動き出した。

「……冴くん」
「ん……」
「お、起きてぇ…………ひぃ」

 離してもらうどころか、まるで抱き枕のように彼の腕に固定される。うずめるように顔を寄せるから、結局最初の形に戻ってしまった。冴くん〜!? と心のなかで彼の名前を叫ぶ。もちろん目の前の彼はすやすやと眠ったままだが。
 確かにむかしから寝起きはよくなかったけれど、こんなにもひどかっただろうか。
 幸か不幸か、目覚ましが鳴る時間まであともう少しある。さすがにここまで起きてしまえばもう一眠りするのは難しいので(こんな状態で寝れるわけがない)このままひっそりと息をひそめて、時間が来たらもう一度試してみよう。最悪叩き起してでも。
 そう、心のなかで意気込んだときだった。
 するり、とわたしを包んでいた彼の腕が離れていく。起きた様子はない。寝返りをうつように、横向きから仰向けになったようだった。チャンスが訪れたと思った。できるだけ迅速に、そして物音を立てないように彼の腕から抜け出す。そうしてそのまま全速力で洗面所に駆け込んだ。ナイトガウンがぐちゃぐちゃになりかけていたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。とにかく、一刻も早くベッドから離れなくちゃいけないと思ったのだ。

(どきどきしすぎて、死んじゃうかと思った……!)

 シャワーを浴びよう。もうこの際水でもいい。それで一度心を落ち着かせて、なんてことない顔で冴くんにおはようと言わなくちゃ。


 結局、そんなことを思っていたら本当に水を浴びてひっくり返りそうになった上に、顔を合わせたときも色んなことを思い出してしまって冴くんに変な顔をされてしまったのだけれど。

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