君が溶かす夜でも



 少しずつ、少しずつ草花が色づいていくように、春を迎え、やがて夏の兆しが見えてくる。そうしてそれはわたしたちも同じように、膨らんで、二人の間で花開いていく。
 これはわたしたちが恋人という関係になってから、幾日か経ったころの話だ。


 桜の花びらも見えなくなって青々しい緑が増えていくと、途端に春から夏の空気に変わっていく。四月に高校三年、つまり受験生となって、今年は以前よりも緊張感のある春を迎えていた(と言っても白宝高校は進学校のため、実際はもっと前から受験の話はあったのだけれど)。そして現在は今年度最初の大型連休に差しかかったところである。
 春の気配はすっかりと見えなくなって、燦々と強い陽射しが降り注いでいる。風がまだ涼やかであるので暑くて耐えられないというほどでもないけれど、日中は半袖でも過ごせるほどの暖かさだ。実際、あと数日もすれば暦上でも夏が始まろうとしていた。
 普段持ち歩くよりも大きなバッグを握って目的地へと急ぐ。連休中のため、駅構内は人で溢れかえっていた。

「冴くん」

 待ち合わせ場所が見えてくると、そこにはすでに冴くんがいて、彼はぼんやりと道行く人を眺めていた。大きなサングラスに、シンプルな白いシャツと落ち着いた色合いのパンツ。爽やかで清潔感のあるスタイルは、今日のような夏めいた日にぴったりだ。
 冴くんはわたしの声に気がつくと、ふっと視線をこちらに向けて表情を和らげる。以前よりも甘やかに感じるのは、きっと勘違いではないだろう。少し擽ったい気持ちになって、彼の元に駆け寄る。

「ごめんね、お待たせ」
「んな待ってねぇから平気だ」

 彼はわたしの手に握られた大きなボストンバッグを認めると、「ん」と小さく呟いてするりとそれを抜き取った。そうしてそのまま踵を返して歩き出す。

「え、自分で持つよ」
「いいから」

 それほど大きくはないけれど、たくさん中身を詰め込んだので見た目以上に重量はあるはずだ。けれども彼はそれを感じさせないほど軽々と持ち上げ運んでいく。三歩ほど距離ができたところで、わたしは慌てて彼を追った。

「……ありがとう」

 冴くんは少しだけ目元を緩めて、わたしを見下ろした。やはりこれでよかったらしい。こういうときは素直に受け取っておけ、と彼に散々言われたのだ。お陰で以前よりも甘やかされているような気がするけれど、断り続けると脅されるので(すごく怖い)最近はできる限り素直にお願いをしている。
 エキシビションマッチ以降、冴くんは前よりも高い頻度で日本に帰ってくるようになった。と言っても週末はなかなか難しく、基本的には平日、その上滞在期間も限られているのだが。
 そのため彼と会うときは基本的に学校が終わったあとか、そこから週末一日のみなど、ある程度限られていた。とはいえ彼が最初にスペインに行ったときと比べれば、うんと増えたので不満はない。むしろこちらが心配するようなスケジュールで帰国してきたりするので、もう少しゆっくり休んで欲しいと思うくらいだ。
 けれども今週はゴールデンウィークだ。世間は祝日であるし、もちろん学校も休み。そして冴くんも数日日本に滞在することになっている。つまり彼とお付き合いをするようになってから、初めて数日に渡る長い時間、彼と過ごせるということだ。
 冴くんは行き交う人の間を迷わず進んでいき、ふらりとコンビニエンスストアにでも立ち寄るかのように大きな建物のエントランスへと向かっていく。見上げると首が痛くなってしまうほど高いビル。以前泊まったことのあるあのホテルだ。彼は一昨日帰国してからここに泊まっているらしい。
 大型連休ということで、冴くんから泊まりの提案をされたのだ。どこか遠出をしようかという話もあったのだけれど、帰国してそうそう旅行となれば負担になるだろうと思ったので(そんなヤワじゃねぇと本人には言われそうだが)今回は見送ることにした。正直なところ、彼と過ごせるならどこでもよかった。
 そんな形で今回のお泊まりが決まってから昨晩まで、それはもう緊張した。今でも少ししている。前回もそうだったけれど、お互いの家族がいない二人きりの状況で泊まるのはなんだか気恥ずかしいのだ。その上今回は恋人関係になってから初めてのお泊まりでもある。緊張しないわけがない。
 今回は彼が連泊ということもあってスイートルームではないらしい。わたしが泊まる日のみ変えてもいいと言われたが、移動も大変だろうし、そもそもこのホテルに泊まること自体わたしにとってはすごいことで緊張してしまうため丁重にお断りしておいた。そのときスマートフォン越しに聞こえた彼の声は少々不満気だったけれど、ただでさえお邪魔する側であるのにそんな我儘はしたくなかったので、心を強く持って断った。そうでないと冴くんに簡単なわたしはすぐに流されてしまうからだ。

「お、お邪魔しまーす……」

 扉を開けてくれた冴くんの横を抜け、室内に入る。スイートではないと言っていたけれど、なかは非常に広くて綺麗だ。一番奥には大きな窓があって、眺めながら寛げるようにソファやテーブルなどが設置されている。部屋自体、高層階にあるため眺望もいい。今日は雲ひとつない晴天なので尚更だ。

「荷物向こう置いとく」
「あ、ありがとう」
「昼飯は? 食ってきた?」
「まだ食べてない」

 今日は映画を見て、お買い物をしてからホテルでゆっくりと過ごす予定だ。どこも混んでいるだろうから、無理せず遊ぼうという話になったのだ。

「じゃあ食べてから行くか」

 高層ビルと青空を眺めているうちに、冴くんはてきぱきとわたしの荷物などをまとめてくれていた。そうして外を眺めるわたしの後ろに立つと、目線を合わせるように少し屈み、同じ方向を眺める。背中がほんのり暖かくなって、ぐっと彼と距離が近づく。

「……冴くん?」
「思ったより低いな」
「もしかしてわたしの身長のこと言ってる?」

 振り向いて、彼のほうに視線を向けると、冴くんはわたしを見やって小さく笑った。なんだか馬鹿にされているような気がする。むかしは冴くんとそんなに変わらなかったはずなのに。
 これでも平均身長はあるんだよ、と視線で訴えれば、彼はもう一度笑って、ちゅ、とわたしに口づけを落とした。あまりにも不意打ちだったため、わたしは魔法にかかったようにぴしりと固まる。そんな、急に。あとから追うように、じわじわと首元から熱が上っていく。

「行くか」
「あっ……待って」

 驚くわたしにしたり顔をした彼は、そのままひらりと踵を返して出口へと向かった。慌ててあとを追い、彼に着いていく。
 こんなふうに、以前よりも彼に振り回されることが多くなった。元より優しくてエスコート上手だった彼が、もっとパワーアップして、さらにはスキンシップまでたくさん増えたからだ。恋人なのだから当然なのかもしれないけれど、やっぱりまだどきどきして慣れない部分がある。そんな様子も彼からすれば面白いようで、からかわれることもままあるのだが。

「どこで食べる?」
「上にラウンジがある。そこなら下ほど混んでねぇと思う」
「そうなんだ」
「行ける人間が限られてるからな」
「……どういうこと?」
「階によって部屋のグレードが分けられてんだよ。この上と、あと下みっつくらいまではそのラウンジに行けるようになってる」

 入った時点でなんとなく気づいてはいたけれど、今日の部屋もそれなりにお高い部屋だということだ。ちなみに前回泊まったスイートルームは、そのラウンジよりも上の階になる。
 隣に並んでエレベーターを待つ。廊下には誰もおらず、わたしたち二人だけだ。最後に会ったのは桜が咲いていたころだったので、彼と会うのはおよそ一ヶ月ぶりになる。むかしと比べてしまえばそれほど長い期間ではないけれど、会うときは毎回久しぶりな感覚がするし、嬉しい。
 わたしよりもうんと背の高い冴くんを見上げていると、エレベーターの現在地を知らせるライトを眺めていた彼がこちらに視線を下ろした。なに、と言いたげな顔だ。実際視線で訴えかけているつもりなのだろう。

「明日まで一緒にいられるの、嬉しいなぁって思って」

 きっと今のわたしはゆるゆるとだらしない顔をしているはずだ。冴くんはそんなわたしに少しだけ目を見張ってから、柔らかいまなざしを浮かべた。頭の上に手のひらが乗って、優しく撫でられる。その仕草は、前よりも一段と甘さを含んでいるような気がした。


◇ ◇ ◇


 一通り遊んでからホテルでゆっくりと過ごしているうちに、辺りはすっかり夜になっていた。大きな窓は濃藍色の空を透かせ、ありとあらゆる光がきらきらと瞬いている。

 お風呂に入ってから身支度を軽く整え、ころりとベッドに横になる。今回はあらかじめお泊まりが決まっていたので準備は万端だ。
 するとナイトウェアに着替えた冴くんも反対側からベッドに乗り上げ、つけっぱなしだったテレビに視線を向ける。
 もしかしたら今日はそういうことも有り得るのかもしれない。なんて、考えなかったと言えば嘘になる。むしろそうなっても大丈夫なように準備をしたし、できるなら、わたしも冴くんにもう少し触れてみたかった。わたしはもちろん初めてで、そもそもお付き合いをすることでさえ彼が初めてだからわからないことだらけだけれど、その先に進んでみたい、とは思う。
 そわそわと落ち着かないわたしとは裏腹に、彼は随分とリラックスした様子だった。すでにテレビからは興味が失せたのか、スマートフォンを確認して、くあ、と欠伸を零してわたしの隣に寝そべる。

「寝る?」
「ん」
「じゃあテレビ消しちゃうね」

 すっと音が消えると、途端に室内は静まり返った。このあと、普通に寝るのかな。妙にどきどきしながらも平静を装って、ベッドのなかに潜り込む。冷たいシーツが少しだけ心地いいと思った。
 ベッドは前回同様、大きなキングサイズがひとつだ。ふたつ並んだ枕に頭を預け、向かい合うように寝そべると、彼も反対側から潜り込む。そうしてベッドのサイドランプ以外を消灯してから、真ん中のほうまで近づいた。

「ほら」

 迎えるように彼の腕が差し出される。ここまで来い、ということだろう。つまりそれは腕枕を意味していた。
 そろそろと近づいて、そっと彼の腕に頭を乗せる。するともう片方の腕がわたしの腰を引き寄せて、ぴったりとくっついた。突然縮まった距離に思わず息をのんで固まる。
 髪を優しく梳くように、冴くんの手が後頭部を滑る。まるで愛でるような手つきに、擽ったい気持ちになって、頬が少しずつ熱を帯びていく。

(こんな状態じゃ寝れないかも)

 ゆっくりと滑る冴くんの手に心地よさを覚えながらも、わたしの心臓の音はどんどん早くなっていった。

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