安心して眠れるくらいの光度で
「アイツらだって、聞いてねぇんだけど」
御影くんや凪くんたちが見えなくなったころ、背後にいる凛くんがぽつりとそう言った。
「だって言ってないし……」
「言えよ」
「まさかこんなふうになるなんて思ってなかったんだもん」
もしかしたら会うかもしれないな、くらいに思っていた程度だった。けれども凛くんは納得がいかないのか、不満そうに表情を歪め、わたしを見下ろしている。
「凛くんは行かなくて平気なの?」
「食堂で飯食うだけだ」
「じゃあ行かなくちゃ。疲れただろうし、お腹も空いてるでしょ?」
「……なまえは、」
「うん?」
「今から兄貴んとこ行くの?」
不満の奥に潜む不安。それは瞳のなかで、ゆらゆらと揺れている。きっとわたしがここにいるのも、冴くんのお陰だと気づいているのだろう。
「嫌だ?」
試合に勝利したのは間違いなく凛くんたちなのに、彼の表情は全然そんなふうには見えなかった。チームとしての最終的な勝利を収めたのは潔選手だったから、凛くんにとっては満足していないのかもしれない。
彼は躊躇うように黙り込んだ。素直に頷くこともできず、かといって送り出すこともできないのだろう。意地悪な質問をしたことはわかっている。
わたしは背伸びをして、彼がブルーロックに来る前と同じように頭を撫でた。本当は会ったすぐにしたかったのだけれど、みんなの前だったのでやめたのだ。
「ちゃんと見てたよ、凛くんのこと」
「……」
「それはこの先も。冴くんのところに行ったからって凛くんのことを見ないなんてこと、絶対にないよ」
あの瞬間、間違いなく勝利したのは凛くんだった。
そう言うと、彼はくしゃりと顔を歪めた。なんだか今日はすごく表情豊かだ。それくらい余裕がないのかもしれない。
「本当にお疲れ様」
「……ん」
「今日はちゃんと休むんだよ?」
返事がなかったので名前を呼ぶと、凛くんはくしゃりと前髪を握りしめながら「ああ」と小さく答えた。やはり相当悔しかったのだろう。けれども彼は、その悔しさや怒りをエネルギーに変えて前に進める人だからきっと大丈夫だ。なんていったって冴くんがスペインに行ったあとの彼を、ずっと見てきたのだから。
その姿を目にした瞬間、わたしは衝動的に彼に飛びついていた。冷えた夜の空気。風に揺られる木々の音。そして冴くんの匂い。シャワーを浴びたのか、彼自身の匂いのほかにせっけんのような香りもする。
「随分熱烈だな」
「……」
結果を否定するつもりはひとつもなくて、もちろんそんなこと思ってもいなくて。しっかりと受け止めて、お疲れ様と言うはずだった。それなのに、冴くんの顔を見た途端、色んな感情がまぜこぜになって言葉が出てこなくなった。
「なまえ。顔上げろ」
しがみついたまま顔を上げると、夜空と冴くんの顔が見えた。瞬間、額にぺちっと衝撃が走る。遅れて数秒後、彼の指先で額を弾かれたのだと気づいた。
「……痛い」
「痛くねぇだろ」
「うん、痛くない」
冴くん。そう呼ぶと、彼はわたしの髪を梳きながらじっと見下ろした。
「おつかれさま」
「ん」
冴くんのお陰で、ようやく言えた。すると胸のうちで絡まっていた様々な感情も、すとんとほどけていく。本当はちゃんと自分から言おうと思っていたのに。結局こうして、彼の優しさで導かれている。
「行くか」
冴くんはわたしの手を引いて、メインスタジアムから遠ざかっていった。どうやら近くでマネージャーさんが車を停めて待っているらしい。
試合が終わった直後、フィールド上でも彼はそれほど悔しそうな態度を見せなかった。至って平常で、結果を素直に受け止めている様子だった。その切り替えの早さと意識の持ち方が違いなのだと思う。世界を目指し掴み取る者と、そうでない者の。それはきっと、彼が四年の間に嫌というほど感じたものだ。もちろん彼にとってこの試合が、青い監獄チームの実力を測る、などの、別の目的を持っていたということもあるのだろうが。
車に乗り込んでから、わたしたちは一言も話さなかった。それは決して話しづらい空気があったからとか、マネージャーさんがいたからとかそういうわけではなく、今のわたしたちには必要ないと感じたからだ。二人の手は繋がったまま。少し握る力をこめれば、冴くんもまたわたしの手を強く握るから。それだけで、大丈夫だと思えたのだ。
車が自宅のほうへ向かっていないと気づいたのは、見覚えのある都心部の道に出てきたからだった。依然静かなままだった車は、高層ビルが並ぶ道をまっすぐと走り抜けていく。そうして一際大きな建物が見えてきたとき、車は曲がり、ゆっくりと速度を落として停車した。場所は、以前彼とお茶をしたホテルのエントランス前だった。
「あ、あの、冴くん」
手を引かれたまま車を降り、ロビーへと向かう。そのときにマネージャーさんからカードを受け取っていたので、あらかじめチェックインは済ませてあるのだろう。見覚えのある大きなエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。そうしてぐんぐんとそれは上昇していって、小さくぽん、と到着の合図を鳴らした。
冴くんは終始無言だった。彼にしては珍しい態度だと思った。それがどこかあの数年前の通話のときと重なって、微かな焦燥感に襲われた。
部屋はエレベーターから三番目に遠い場所だった。カードキーをかざし、部屋へと入る。瞬間、目に飛び込んできたのは大きな窓とその奥に広がるまばゆい夜景だったけれど、驚くよりも先に後ろから抱きしめられたことによってその意識は瞬時に切り替わった。ふわりと包まれる感覚。あまりにも突然のことだったので、わたしは息をのんで固まった。
「さえ、くん……?」
彼の腕がわたしの肩を抱くようにして目の前で交差している。するとぐっと距離が近づいて、頭の左側に微かな重みを感じた。背後に感じる熱。小さく聞こえる吐息の音。途端に緊張して、心拍数が上がっていく。後ろを振り向けない。
冴くんはなにも答えないままじっとそうしていた。その間、わたしは彼のことを考えていた。すると少しずつ緊張はほぐれていって、もっとたくさんくっついていたくなった。もちろん心臓は変わらずどきどきしていたけれど、彼の言葉を逃さないように耳を傾けられるくらいの余裕はできた。
「……冴くんあのね。あの日、冴くんが電話をくれた日。本当は今すぐ冴くんを抱きしめて、わたしはここにいるよって言いたかったよ」
「……」
「ちゃんと見てたよ、冴くんのこと。それはこれからもずっと。目を逸らさないで見てるから」
試合前、冴くんが言っていたように。
冴くんは静かにわたしの言葉を聞いて、それから「ああ」と頷きわたしの髪に鼻をうずめた。長い月日を経て、ようやくほんとうの気持ちを言葉として彼に届けられた気がする。それはきっと、わたしが本当にしたいことを見つけられたからだ。
「俺の我儘一個聞いて」
冴くんはぽつりとそう言った。そんなの、いくらでも聞くというのに。いつもわたしの我儘をたくさん聞いてくれているのだから。もちろん理由がなくたって、彼の我儘ならいくらでも聞きたいと思える。むかしは俺様冴様なんてふざけて言っていたけれど、彼はずっと、ずっと優しかった。
わたしは目の前にある腕にそっと触れた。本当は正面から抱きつきたかったのだけれど、冴くんの腕が思ったよりも強くてできなかった。スペインに行く前とはうんと違う、筋肉質でわたしが動かそうと思ってもびくともしない腕。……それくらいの月日が流れたということだ。
「一個と言わず、何個でも。わたしに叶えられることなら」
あの日とは違う。今度は手を伸ばせる距離にいる。
抱きしめる腕がさらに強くなる。隙間がなくなるくらい密着して、なんでも伝わってしまいそうだった。目眩がするほど熱くなっていることも、本当は少し泣きそうなことも、冴くんが好きでたまらないことも。
「お前にしかできねぇよ」
そう言って冴くんはわたしにもたれかかった。その重みはあの日感じたかった愛おしい重みだった。