青と夕凪



 EXHIBITION MATCH U-20 JAPAN VS. BLUE LOCK ELEVEN が終了した翌日から、凛くんたち青い監獄ブルーロックチームは二週間の休暇をもらえたらしい。またしばらく会えないかと思っていたけれど、凛くんからすぐに連絡が来たので少し驚いた。


 それから数日経った週末の午後。わたしは一人渋谷を訪れていた。昨晩冴くんからランチを一緒に食べないかと誘われたからだ。場所は駅から少し離れたテラス席のあるカフェ。すでにお店の予約はしてあるらしく、彼は午前中仕事だったため現地集合の予定である。
 あの日から毎日、テレビでは試合のニュースが流れている。SNSでも試合内容や、それぞれの選手をピックアップした記事や動画が流れ、今も閲覧、視聴数は上昇中だ。噂では数日前にU-20日本代表選手と青い監獄ブルーロック選手たちが、渋谷でボーリングしていたという目撃情報も出回っているほど。それくらい、彼らの名は知られるようになった。

「あれ、みょうじじゃん」

 外出中のときに、無意識のところから突然自分の名前を呼ばれるのは少しびっくりするものだ。くるりと振り返ると、そこには御影くんと凪くんという見慣れた、けれども少し新鮮さもある二人。後者は私服姿だったためそう感じたのだろう。注目を浴びていることに気づいているのかいないのか、二人はひらひらとわたしに手を振っている。

「御影くんと凪くんだ。ここで会うなんて、すごい偶然。お休みもらえたんだっけ?」
「そーそー。二週間」

 凪くんがブイサインを作る隣で、御影くんは「そりゃ凛から聞いてるよな」と言った。

「ショキは? なんでここにいるの?」
「ちょっと遅めのランチを食べに……なんだけど、ちょっと道に迷ってて」

 むかしと比べればそれほど道に迷うことも少なくなってきたと思っていたのだが、渋谷という大きな駅と初めて向かう場所だということもあって、わたしはすっかり道に迷っていた。迷子になるなよ、と今朝冴くんから送られてきたメッセージと、呆れた顔をした冴くんが脳内に浮かぶ。待ち合わせ時間よりも大幅に余裕をもってきたので遅刻などはないだろうが、しっかりと迷子にはなりました。ごめんなさい冴くん。
 迷子だ、と凪くんがストレートに痛いところをつくなか、御影くんは「どこ? 地図アプリ出せる?」と言った。わたしは言われるがまま地図アプリを開いて、あらかじめ保存していた今回行く予定のカフェのページを開く。

「あー、ここか。方向的には間違ってないけどこの辺むずいから。送ってくよ」
「え、いいよ。二人だって予定あるでしょう?」
「平気平気。別に大した用じゃないから」

 そうは言っても凪くんは面倒くさがるんじゃないだろうか、なんて思っていると、彼もまたスマートフォンを覗きこんで「この辺ね」と珍しく肯定的な返事をした。青い監獄ブルーロックに行ったことで、もしかして面倒くさがりも少しは改善されたのだろうか(後日御影くんに聞いたがとくに改善されていないらしい)。びっくりして思わず固まっていると、再び無意識の部分から名前を呼ばれる。御影くんや凪くんとは違うところから聞こえてきたので、また別の誰かだろう。渋谷で偶然知り合い会うなんて、滅多にないことだと思うんだけどな。

「……あ、冴くん」

 名前を呼んだのはどうやら冴くんだったらしい。先ほど二人と遭遇する前に送ったメッセージを見て、わざわざ迎えに来てくれたのだろう。少しだけ不機嫌そうな顔をしているので、もしかしたら怒っているのかもしれない。

「やっぱりこうなるか」
「ごめんなさい」
「いやいい。最初から俺が迎えに行けばよかっただけの話だ」

 出た、糸師兄。と凪くんがわたしにしか聞こえない声量でそう言った。なんだかラスボスみたいな言い方だ。御影くんはそんな凪くんを呆れたような目で見やって、彼の着ているパーカーのフードを掴む。ぐえ、と凪くんから蛙のような声が零れた。

「迎えに来た感じ?」
「あ、うん……」
「んじゃ俺ら行くよ。今度学校にも顔出すから」

 御影くんに引きずられながら、凪くんは「またこのパターン……」とぼやいていた。この間といい、御影くんには気を遣わせてしまってばっかりだ。ひらひらと手を振る凪くんにわたしも手を振る。次学校で会ったときは彼の我儘をなんでもひとつ聞いてあげよう。すると隣に並んだ冴くんもまた二人に視線を向けて、無表情のままじっと見つめた。

「……あいつらか」
「二人となにかあったの?」
「いや別に。なんもねぇよ」

 そう言って冴くんはすぐに踵を返した。なにもないというわりには怖い顔をしているように見えたけれど。もしかしたらこの間の試合中になにかあったのかもしれない。今度こっそり凪くんに聞いてみようと思った。

◇ ◇ ◇


  鎌倉まで戻ってきたころにはすでに夕方で、わたしたちは沈み始めた夕日を眺めながら海沿いを歩いていた。ほんのりと冷たい潮風と、さざなみの音が横から流れていく。

「凛とはあのあと会ったのか?」

 あのあと、というのはおそらくあの試合のことだろう。最近はホテルに泊まることが多いとはいえ、こうしてときどき鎌倉に戻ってきているのだから凛くんが休暇中だということも知っていて当然だ。どんなふうに同じ家で過ごしているかは、まだ二人から聞いたことがないけれど。

「実はあの試合の直後、冴くんに会う前に偶然会ったんだ。凛くんだけじゃなくて、ほかのブルーロックチームの人たちとも」

 反対に休暇に入ってからは、まだ一度も凛くんには会っていない。なので具体的な日時は決めていないけれど、来週あたりには会えたらいいなと思っていた。
 冴くんは「そうか」とだけ答えたのち、口を噤み黙り込んでしまった。なにか凛くんについて聞きたいことがあるのかと思っていたのだけれど、違ったのだろうか。

「なにか気になることでもあった?」

 そう問うと、彼はその場で足を止めてわたしをじっと見下ろした。なんだか今日の冴くんはいつもと少し違う気がする。具体的に説明するのが難しいけれど、黙り込むときが多いというか……決して怒っている様子ではなく、なにかを考え込んでいるような雰囲気だ。もちろん今までだってそういう場面はいくつもあったけれど、こんなふうに一日に何回もそうなるのは滅多にないことだった。だからこそ少し不安になる。またなにかあったんじゃないかって。彼は自分に起きたことや見えているものを、あまり他人に言わない人だから。

「冴くん?」

 それは唐突に、けれどもあくまでも自然な流れで起きた。再び黙り込んだ彼の様子を窺うように下から覗き込むと、頬に彼の手のひらが添えられ、ふっと柔らかく微笑んだ彼と目が合った。あまりにも突然だったことと、その向けられたまなざしにわたしはひどく驚いた。

「なまえ、あの約束覚えてるか?」

 約束? わたしの頭のなかに言の葉が静かに浮かんだ。冴くんとの約束は、小さなころから数えれば実はかなりたくさんの数がある。たとえばそれは堤防の近くで走ってはいけないだとか、なにか困ったことがあればほかの子に言うよりも先に冴くんや凛くんに相談をするだとか。最近で言えば、二人のサッカーを目を逸らさずに見る、というのもそうだ。けれどもきっと、今彼が言っている約束はそれらではない。
 わたしは自分の頬が熱くなるのを感じていた。わたしの思い過ごしじゃなければ、きっとあの約束のことを言っているのだろうとわかってしまったからだ。そんなわたしを見て、冴くんは小さく笑いを零す。

「忘れてないならいい」
「えっと、その……あの約束って、まだ続いてたの?」
「……逆になまえは俺が簡単に約束事を破るような男だと思ってんのか?」
「……それは、思ってないけど……」

 つまりそれはわたしと同じように、冴くんもまたその約束を忘れずに今まで過ごしていたということだろうか。その上、必ずそれを果たすと思っていて。あまりにも熱くなりすぎて、目眩までしてきそうだった。そうだったらいいなと思っていたし、わたしだってあの約束を忘れたことなんて一度もなかったけれど、どこか子供の約束だからと言い聞かせていた部分もあったのだ。そうじゃないと、いつか取り返しがつかなくなるような気がして。
 冴くんは口ごもるわたしを見て、「なるほど。今のでよくわかった」と呟いた。勝手に見て勝手にわからないで欲しい。わたしは全然今の状況についてこれていないというのに。嬉しい気持ちと少しだけ恨めしい気持ちが入り混ざり、半分睨みつけるような形で彼を見やった。海のような瞳と目が合う。その瞬間、全ての音が止まったような気がした。

「今さら手放す気なんてねぇよ。ちゃんと俺のだって、自覚しろ」

 そう言った次の瞬間には、冴くんの顔が目前まで迫っていて、くちびるが、触れた。
 ファーストキスだ。
 そんなことを思っている間に次の波は迫っていて、二、三度彼はわたしにくちづけを落とした。そうして思い出す。確かあの約束をしたときも、こんなふうに音のない海辺でだった。
 まばゆいオレンジ色と深い青色が広がる空。静かな海。そこで交わされた、子供らしくてごくありふれた約束。けれどもわたしは心からそう願っていたし、また彼もそうだと信じていた。それは、あのころからたくさんの月日が経った今も。
 御伽噺のようだと誰かは言うかもしれない。実際にわたしも、子供のころの約束だからって言い聞かせていた部分もあった。けれども本心では、ずっとそうであったらいいのにと思っていた。どれだけ子供らしい約束でも、御伽噺のような夢物語だとしても、そんな恋がひとつくらい本当にあったって、いいじゃないかって。
 信じたいって。



 ──わたし、大人になったら冴くんのお嫁さんになりたい。それでずーっと冴くんのサッカー見るの。
 ──サッカーを見るためだけか?
 ──ううん。なんていうか冴くんの一番近いところにいたいの。それでいつもたくさん頑張ってる冴くんに、一番最初に会って、たくさんのことを一番最初に言いたい。

 お疲れ様も、頑張ったねも、大好きだよも。

 ──その言葉、絶対忘れんなよ。
 ──忘れないよ。絶対ね。



「返事は?」

 鼻先がくっつきそうな距離でそう問われる。わたしは目の前に見えるきらきらとした青い瞳をまっすぐと見つめ、うん、と大きく頷いて抱きついた。

- ナノ -