▼ 無数の眼差し
平日の通勤快速ほどではないが、身動きに難儀する程度に混雑した土曜朝の車内。
周囲にはデート中と思しきカップルや若い友人グループ、夜勤明けらしきスーツ姿の男性などが犇めいている。他人だらけの空間で、男は一人の少女を背後から睨み付けた。
念入りに手入れしているのだろう長いサラサラの黒髪。華奢な体躯。白く輝くような肌に、細く伸びた手足。胸の膨らみは制服の上から微かに窺える程度で、いかにも発育途中らしい稚さが斜め上からでも見て取れる。
大事に大事に、蝶よ花よと育てられた世間知らずの女。男はそれが大嫌いだった。
愛されて育ったがゆえに苦労を知らず、ただ生きているだけで周りを足蹴にしている。靴の裏をただ拭うために存在する玄関マットだと思っているそれが、自分が踏みにじってきた人間なのだと思いもしない傲慢な生き物だ。
男は電車の揺れで押し出されるのを装って私立聖心女子高等学校の制服を纏った少女の真後ろに立つと、スカートの中に手を差し入れた。すると、指先が微かにぬるりとした感触を捕らえ、眉を顰めた。
(なんだ、この女……電車で触られる妄想でもして、既に濡らしてやがったのか……?)
そんなに触られたいのならと、更に奥へと手を差し込んだ、次の瞬間。
「この人痴漢です!」
横から手が伸びてきて、男の手を掴み上げた。
見れば妨害した人物も聖心女子の制服を着た女子高生だ。茶色のボブカットに猫のマスコットがついたピンクのヘアピンと、男の興味の範疇外な格好だったため視界にも映っていなかったせいで存在を認識していなかったようだ。
恐らくは、ターゲットの友人だろう。それならば却って好都合だと、男は漏れそうになる笑みを抑え込んで声を荒げた。
「なにを馬鹿な! 冤罪ふっかけて示談金でもせしめようっていうのか!」
友人がいたほうが、友達連れで冤罪ビジネスに手を染めているというシナリオに説得力が出るというものだ。
男が声を上げれば、サクラとして連れてきた別の男が同意をする。そのはずだった。が、周りを見ると、男に向けて車両内の人間が悉くスマートフォンを構えていた。サクラの男は傍におらず、声を上げてくれる様子もない。
「冤罪? この手を見てもまだそんなこというのかなぁ?」
「ぐっ……! なにを……っうわああ!?」
周りの人間に見えるように掴み上げられ、男は自らの手に目をやった。其処には真っ赤な塗料がべったりとついており、男は思わず手を振り払って叫び声を上げた。
それとほぼ同時に電車が緩やかに停車し、男は周りの人間を押しやって外へ飛び出した。
「うわっ!」
「えっ、な、なに? いまの人、手ぇ赤かった……?」
突然飛び出してきた中年男性に驚いているホームの人々に聞こえるように、わざと大声で友人の少女が車内から叫ぶ。
「痴漢ー! 友達に謝れ!!」
俯いて泣いているように見える少女を抱きしめながら友人の少女が叫んだ直後、扉が閉まった。ホームでは多くの人々が驚愕の表情で男を見送り、中にはSNSに書き込もうとスマートフォンを取り出す人までいる。
ゆっくりと発車すると、友人の胸に縋っていた少女が小さく身動ぎをして顔を上げた。
「ありがとうございます、苺さん」
「いいって。姫ちゃんの頼みだし、百合ちゃんも体張るって言ってたからね」
ウィンクをしながら、友人の少女は自らの髪を掴んで剥ぎ取った。茶髪の下から、薄桃と薄紫の二色に染めた髪が現れると、車両内から歓声が上がる。
「いちごちゃーん!」
「かっこよかったよー!」
まるでライブ会場かなにかになったかのような盛り上がりに、甘い髪色とピンクの瞳の少女――天使苺(あまつかいちご)は手を振って応えた。
彼女は姫花と百合の共通の友人で、七桁のフォロワーを持つインフルエンサー配信者だ。彼女の動画や生配信はどれほど非常識な時間帯に突発で行おうとも最低五桁の視聴がつき、アーカイブが投稿されれば更に伸びる。誕生日などにはプレゼントが溢れ、そうでない日も差し入れが途切れることなく送られて来るほどだという。
この車両だけは、ごく少数の人間を除いて苺のフォロワーで埋め尽くされている。板谷が痴漢をするため人の多い車両を選ぶことを想定して、一車両だけ満員に近い状態にしていたのだ。
「みんなー! 百合ちゃんの顔が映ってない映像だけネットに上げてね! 孝造おじさんの手元と顔はバッチリ乗せちゃっていいよっ」
「仰せのままにー!」
アイドルライブのコールアンドレスポンスのような熱い一体感の中、板谷孝造の行いはSNSを中心に拡散されることとなった。