薔薇は無慈悲な庭の女王


▼ 崩れたメッキ


 逃げ出した板谷は駅のトイレで手を洗い、タクシーで会社に向かった。ホームに行けばまだあの騒ぎを知る人間が残っている可能性がある。
 会社の前でタクシーに支払いを済ませると、自動で閉じるのも待たずに、叩きつけるようにして扉を閉めた。

「クソッ……! 女の分際で……」

 苛々しながらエントランスをくぐった板谷を、不穏なざわめきが出迎えた。

「ほら、あの人……」
「うわ……どの面下げて……」
「確か、受付の子が鬱になったのって……」

 潜めた声が、木々のさざめきのように辺りから押し寄せてくる。
 嫌な気配を感じながらも自身の部署に向かうと、上司がツカツカと歩み寄ってきた。

「君、どの面下げて出社してきたのかね」
「は……?」

 口を開け目を丸くした間抜けな表情で、板谷が聞き返す。すると上司は机を手のひらで思い切り叩いて、部署中に響き渡る声で怒鳴った。

「君に任せていた仕事の情報が漏洩していた! しかも痴漢の常習犯だったとSNSに掲載されて抗議の電話が引っ切りなしだ! この責任、どう取ってくれるつもりなんだ!?」

 部長の怒鳴り声が止むと、辺りの音が漸く板谷の耳にも届くようになった。先ほどから、電話が止め方を忘れたアラームのように鳴り続けている。対応に追われている社員の迷惑そうな視線が、板谷に集中して突き刺さる。

「聞けば君は、受付の女性社員に関係を迫って、退職に追い込んだそうだね」
「あ……い、いや、あれは……あの女から言い寄って……」
「嘘です!!」

 しどろもどろで答えた板谷の背後から、女性の悲痛な声が響いた。板谷が振り向くと、受付嬢の制服を着た女性社員がいた。辞めた例の女性社員と入れ替わりに、ごく最近入った人員だろうか。板谷には見覚えがない顔だった。

「私、ずっと鈴原さんに相談されてました。課長が不倫を迫って、断ろうとすると会社の居場所をなくしてやるって言われてるって。証拠がないと誰も動いてくれないから、隠れて録音したほうがいいって奨めたんですけど、話せばわかってくれるはずって言い続けて……」

 女性社員は板谷を睨み付けながら、女性が使うには少々大ぶりな万年筆を取り出した。よくよく見れば、側面にボタンのようなものがついている。

「……だから、私があの子に仕込んでたことがあったんです。録音だけでも隠し撮りは違法だし、いざというときが来なければ消してしまおうと思っていましたけど……あの子のせいにするなら、これも上に提出します!」

 そう宣言すると、女性社員は再生ボタンを押した。

『俺の誘いを断るとは、偉くなったものだな? あぁ? お前のようなアバズレなんか簡単に外を歩けなくしてやれるんだぞ! 課長である俺と入りたてのお前、どちらの言い分が通じるかすらもわからないほど頭が弱いのか?』
『これだから女は。お前みたいなのは男にへらへら愛想を振りまいていればいいんだよ』
『会社を辞めても無駄だぞ! お前の住所はわかってるんだからな!』

 オフィスが水を打ったように鎮まり返り、板谷は蒼白な顔色で立ち尽くした。
 血圧が心配になるほど顔を赤くして怒鳴っていた部長までもがじっと押し黙り、録音再生機から発せられるノイズ交じりの汚い言葉の数々に聞き入っていた。

「……首だけでは済まないと覚悟しておけ」

 部長はひどく冷え切った声でそれだけ言うと、オフィスを去って行った。
 社員たちも暫し呆然としていたが、ハッとなって対応に駆け回り始める。板谷を置き去りにして忙しなく動き回るオフィスから一人の女性社員が姿を消しても、誰も気付くことはなかった。










<< INDEX >>


- ナノ -