05.ふたつの選択肢で天秤が大きく揺れる
ウォールシーナにある中央憲兵団南支部へ馬車は向かっていた。憲兵の男二人は真琴とリヴァイを見張ることなく馭者席にいる。別段馬を引くわけでもなく、ちゃんと馭者がいるというのにだ。
逃走しないか見張る必要がないのは外側から鍵を掛けられているから、というのもある。しかしそれだけだろうかと、真琴は隣で脚を組むリヴァイを窺った。纏う雰囲気がすっかり強面だ。
おそらく何らかの危害を加えられることを恐れたのだろう。だから憲兵の二人は相席を嫌がったのかもしれなかった。
分隊長であるハンジをものともしなかった憲兵。相手が女だということもあったのだろうけれど。だがリヴァイが現れた途端彼らは顔色を変えた。「厄介な奴がきた」というふうに見て取れたものだ。
傍らで禍々しいオーラを放つ男は、調査兵たちが息を呑むほど緊張しても平然としていた。そんなリヴァイを憲兵は悪い意味で一目置いているのかもしれない、と真琴は思うのだった。
リヴァイが腕を組み直した。
「どうしてこうなったのか、心当たりをすべて説明しろ。物語のこともだ」
真琴は自分に支障が出ない程度に、かつ擁護してもらうためには必要な情報を話した。
防衛戦のときに出会った少女に人魚姫の話を聞かせたこと。知らない間にその物語が一人歩きして街で流行ってしまったこと。内容もしかりだが様様なタイトルが存在すること――などだ。
「嘘はついてねぇだろうな」
睨まれてしまった。よほど信用されていないらしい。
「駐屯兵団にいる友人に聞いた話なので確かかと」
「にんぎょ姫の話はどこで知った」
つと真琴は息を詰まらせた。
人魚姫の物語は真琴の世界にあるアンデルセン童話である。この世界にアンデルセンなど存在するはずもないので、もちろん絵本が存在するはずもない。
似たような物語があるかもしれないという考えははなからない。海の存在があやふやな世界では想像することすら難しいと思うからだ。
であるならばリヴァイには何と説明したらよいだろうか。
リヴァイは再度警告してくる。
「嘘はつくな。中途半端な言い訳は相手に隙を突かれる。俺はすべてをしっかり把握していないといけない」
そうでないと真琴を守れないからだ。しかしいまさら異世界人です――とは白状できない。なので人魚姫の話は自分の世界の童話です、とも言えなかった。
大昔の文献で見た、という手を使うのも危ない。この場でリヴァイが信用しても、憲兵まで騙せるだろうかと考えると危険だ。
「……ボクの創作です」
こう言っておくのが最前だろう。リヴァイはしばし黙った。少し経って、
「ならば原作はお前しか知り得なかった、ということだな?」
「はい、ボクが作った物語ですから」
組んだ腕をリヴァイは指先でとんとんと叩いている。壁にぶち当たったというふうな小さな溜息をついて眉を寄せた。
「お前が広めたのは間違いないってことか」
真琴以外にも物語自体を知っている人物がいたのではないか、という可能性が消えたことでの溜息だったらしい。
「吹聴したわけではないんですが……まさか流行るとは思わなくて」
「その少女、いつかの遠征のときのガキだったらしいな」
真琴は頷いた。名前を教えていたのかと訊かれたので首を横に振った。
「なぜお前に行き着いたと思う。そのガキから訊き出したとしてもだ」
「容姿とかからでしょうか?」
調査兵団の誰かまでは簡単に辿り着きそうだ。そこからは背格好などで見当をつけたのだろう。
リヴァイは真琴を眺めて、頭から視線をゆっくり落としていく。
「髪の色、背格好、似ている奴はほかにもいるな」
「それがどういう?」
「しらを切る」
きっぱりと言った。
「そんな方法で切り抜けられるでしょうか」
「切り抜けられねぇと、お前は殺されるだろうな」
頭皮の毛穴が悪寒で逆立った。
「海の話って、そこまで罪が重いんですか?」
死罪になるほど大変なことだろうか。アルミンのように世界の本を所持している人間も中にはいるはずだ。禁忌だとしても、ちっとも海の存在を信じていない人間ばかりではない。それらの人を次々と死罪にしていっては人口は減るばかりだと思う。
「広めてしまったことに責任は感じていますが、誇張しすぎでは?」
「問題は、相手が中央憲兵ということだ」
真琴はよく知らない。首をかしげるとリヴァイは先を続けた。
「俺も内情をよく知らない。というかほとんど表には出てこねぇからな」
「憲兵団とどう違うんですか?」
「表の顔が憲兵団なら裏の顔が中央憲兵団……そんなところか」
裏という響きが良いものに感じなかった。
「管轄は国なんですよね?」
「国というよりも王政府直属だと聞いた。黒い噂しか聞かない」
黒い噂。瞬間あることと糸が繋がって眼を見開いた。
フェンデルの息子や密かに禁止されている科学技術の進歩に携わった人間。その人たちが秘密裏に姿をくらましてしまうのは、憲兵団ではなく中央憲兵らが手をくだしていたのかもしれない。フュルストが拉致されたと言っていたことも、もしや真実なのではないかとさえ思えてくる。
正直、とリヴァイは深刻そうに言う。
「正式な令状を持っていたことに驚いた。エルヴィンが不在というタイミングを狙ってきたことも含めれば、奴らはお前を殺したがってる」
言い切り、
「計算外だったのは俺が現れたことだろうな。始めから尋問なんざするつもりはなかったってことだ。あのまま連行されていれば、お前はいまごろ空を浮遊していたかもれん」
幽霊になっていたということか。けれどもどこか納得いかなそうな様相だ。何か気にかかることでもあるのだろうか。
リヴァイがそう断言するから真琴は空恐ろしい感覚に捕らわれていた。背中がぞくぞくと寒くなってくる。
「それはやっぱり海が関連する物語を広めてしまったためですか」
闇に呑まれそうな小声にリヴァイが返事をすることはなかった。彼は一人まだ訝しげにしており、組んだ足先に視線が固定されている。
「何か思うことでもあるんですか?」
上目すれば、「いや」と吐息混じりに言ってリヴァイが眉間の皺をといた。語気を強めて言う。
「要するに、知らぬ存ぜぬを通すしかないってことだ。でなければ今後も暗殺され兼ねん」
逃げ切れるだろうか。憲兵に信じさせられるだろうか。だがそうしないと今回は免れても一生命を狙われることになりそうだ、ということは分かった。無意識で溜めていた粘り気のある唾を、真琴はごくんと飲み込んだのだった。
かくんと半身が揺れた。小窓から見える風景が止まっている。通り沿いに品のある街並。馬車道で人の横断でもあったのだろう。数分の経過ののち、再び身体が前後に揺さぶられる感覚がした。また馬車は走り出した。
そういえば真琴には気になることがあったのだった。
「どうして今日、本部へ来たんですか?」
リヴァイが堅い表情をほんの少し解いた。
「気に入りのカップが割れたからだ」
真琴は眼をぱちぱちした。カップが割れたことと本部へ来たことが繋がらない。
「不吉だろ」
横目でリヴァイはそう言った。朝紅茶を飲もうとしたところ、手に持ったらピシッとヒビが入ったのだそうだ。嫌な予感の前兆でよく聞くアレだ。
「本部に着きゃ、門番が腹を下したような顔をしてやがる。どうしたんだと聞いてみれば、真琴を連行しに憲兵が訪ねてきたって言うじゃねぇか。またぞろ悪戯でもしたのかと一瞬で白髪に染まりかけたぞ。……相手がまさか中央憲兵団だとは思いもしなかったが」
白髪になってしまうかと思うくらい心配をかけたようだ。
「食堂に駆け込んできたときには、もう大体分かってたんですね。でもそういう迷信、信じるほうでしたっけ?」
「いいや。そんなのにいちいち振り回されてたら、足が百本あっても足りないだろ」
基本は信じないらしい。今回は何か第六感みたいなものが働いたのだろうか。だが疑問が浮かんだ。
「信じる信じないは置いといて。――どうしてその不吉が本部へ呼んだんですか?」
顔をゆるりと逸らし、リヴァイは外を眺め入った。
「最後の茶葉だったってのに、そのせいで飲み損ねたからだ」
どうやらその最後の茶葉を堪能できなかったことが原因のようだ。それが何で本部へ呼んだのか、真琴には結局分からずじまいだったのだけれど。
だが、とリヴァイは一旦言葉を切り、
「おかげで間に合った」
とささめく声には安堵が込められていたように思う。
いつか気にしていたことを言っているのだと分かった。
――俺はいつも間に合っていない。いつも後手に回ってるじゃねぇか。
いまだからこう感じる暖かい思い出。真琴は感涙で潤んでいく眼を緩く伏せ、眉を下げて微笑んだ。そんなことはない。いつも助けられているのだとそう思いながら。
景色を見ているリヴァイの首の後ろ側が気になった。生え際付近の襟が内側に捲れているのだ。
(気づいていないのかしら)
潔癖性のうえ几帳面だから、衣服の乱れなどいままで目にしたことがなかったというのに、珍しいこともあるものだ。息を切らしてリヴァイは肩を激しく上下させていた。それだけ慌てていたということだろうか。
真琴は指を伸ばし、そと直してやった。指先が襟足に当たってくすぐったかったのだろう、リヴァイが微弱に首を竦める。
「ごめんなさい、襟が捲れてたので」
正面を向いたリヴァイがうなじ付近に手をやった。久しぶりに出したような枯れた声で、
「直してくれたのか……助かる。朝っぱらから忙しなかったからな」
ごく自然で柔らかな言葉は、真琴に幸せな未来を夢見させた。いましがたしてやったこともそうだ。
真琴の父親は会社勤めなのだがちょっとがさつだ。朝の支度の際、ワイシャツを着るときも襟が捲れていたって気づかないし気にしないのである。玄関先で父親を見送るときにいつも母親が気づくのだが――
(あなた、また襟が捲れてますよ)
(んん?)
靴べらで革靴を履こうとしている父親が、後ろに首を捻ろうとした。
すかさず母親が指を伸ばす。微笑んで、
(だらしないんだから。はい、直しておきましたよ)
(……助かる)
毎回そう礼を言う父親。だがその言葉は柔らかいものだった。
そんな当たり前のような日常をリヴァイとともに歩んでいくことは、本当に叶わないことなのだろうか。
選択肢は本当に、自分の世界へ帰ることしか残されていないのだろうか。ここで、この大地で、ともに年老いていく未来を望んでもよいのではないだろうか。
人間は自分の人生を選べる生き物だ。結婚して嫁げば、それまで育ててくれた両親から離れて新しい時を刻んでいく。それは故郷を捨てることではない。新しい人生の出発点なのだ。
――二つの選択肢で天秤が大きく揺れる。真琴の胸襟に、初めて生まれた惑いだった。
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mokuji
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