04.凛然とした声が響く

 甘辛いジンジャーティー。含むとお腹の辺りにぽかぽかと熱を感じた。
 マグカップをそっと置いて真琴は密かに溜息をついた。原因は、目の前で激しい議論という名の口論をしている二人である。

「いいじゃんっ、一口くらい飲んでくれたってさっ」
 むっとした顔つきのハンジ。傍らのモブリットに、手つきビーカーを滑らせた。
「自分で飲んだらいいでしょうっ。毎回僕に損な役回りをさせないでくださいっ。いままでに何度腹を壊したことかっ」

 突っ撥ねたモブリットは、ビーカーをハンジのほうに返した。小豆色の液体が左右に揺さぶられる。火にかけていないのに、なぜかモクモクと煙草のような煙を放っている。しかもブクブクと泡立ってさえいた。
 魔女の薬みたいだ。飲んだら一発で気絶しそうな気がする。そう思いながら、真琴は息を顰めて二人を見守っていた。

 昼食が終わった食堂は、午後の訓練まで団らんの場として使われていた。耳をすませば、リコの話を聞くまでは気にも留めなかった会話がいやでも入ってくる。
 一つ向こうの食卓から、人魚姫だろう話を女兵士たちがしているようだ。ただし不審そうではなく楽しげに聞こえる。王子様に憧れる乙女の表情に見えた。
 タイトルはやはり聞き覚えのないもので、新たに知ったのは「カエル姫」「カメ姫」だった。舞台が「海」であるということだけは共通しているようだが。

 後ろめたい気持ちで、でも気になってしまい耳をダンボにしていた。そんなおり、真琴のほうへビーカーが滑ってきた。
 中身を見降ろし、「えっ……」と真琴は半身を引いた。ハンジが眼鏡の奥でにっこりと笑う。
「効果がちゃんと出るか検証したいから、飲んでくれる? 万が一お腹がピーピーになっても、特製整腸薬があるから心配しなくていいよ」
 人当りの良い顔で首を傾けられても困る。こんな怪しげなもの、一口たりとも体内に入れたくはなかった。そもそも何の薬かも知らないのだ。特製整腸薬というのも信用ならない。

 色からして碌でもなさそうな気はするが、
「どういう効果が期待できるお薬なんですか?」
「飲んだ途端、頭がふさふさになる薬。『毛はえ〜ル』っていうんだけど、死んだ毛根を活性化して発毛を促すんだ」
「残念です……ボク、毛の悩みはありませんし死んでいる毛根もないと思いますし、臨床試験に適していないので、遠慮しておきますね」
 向かいのハンジにそっと返す。液体が揺れたことで空気と臭いが混じった。すえた臭いがした。

 悪臭に堪え兼ねたのか、モブリットが鼻を覆った。
「もっと世のためになるものを作ってくださいよ。そんなもの誰が必要とするんですか。というか酷い臭いなんですけど」
「そんなに臭う?」
 ビーカーを持ってハンジは鼻に近づけた。瞬く間にえづく。
「くっさ! マムシの血を入れ過ぎたっぽいな」
 真琴とモブリットは声を揃えた。
「飲まなくてよかった」

 ハンジはビーカーをできるだけ遠くに追いやり、
「でもでも! 髪の毛が薄くて悩んでる男は世の中にいっぱいいるんだよ。出せばヒット間違いなしでしょ。それにエルヴィンが欲しがってるんじゃないかと思ってさ」
 真琴は首をかしげた。
「団長が? 頭ふさふさしてますよね? おでこがちょっと広い気もしますけど」

 真面目さを欠いた顔で、ハンジが顔を突き出してきた。小声で、
「ここだけの話あれね、実はヅラなんだよね」
「えっ、ウソ! ヅラって……一部ですか? それとも全部?」
 目を白黒させた。禁断の秘密を知ってしまった気分である。でも興味本位でつい真琴は訊いてしまったのだった。
 ハンジがさらにトーンを落とす。
「つるっぱげ」

 衝撃に眼を見開いた真琴は、ついと口許を覆った。
「虚言を弄するのはやめてくださいっ」
 愛想を尽きたような様相で眼を伏せたモブリットがハンジを引っ張り、
「真っ赤な嘘だからね。信じちゃ駄目だよ、遊び半分に言いふらしたりしないように」
 と真琴に念を押すように言ってきた。

 そこまで言われると何かあるのではと勘ぐってしまう。もしかすると、あながち真っ赤な嘘ではないのかもしれない。と真琴はいらぬ想像をしてしまったのだった。

 急に食堂がざわっとしだした。さきほどまでの愉快な騒がしさではない。何事だという緊張からのものだった。
 床板にブーツを響かせる音。ズカズカと食堂に入ってきたのは、中年男の二人組だった。ぎょろりとした濁った眼に、威圧的な態度の男たちは憲兵団のようである。胸許にユニコーンの紋章が確認できたからだ。

 目線を憲兵団に合わせてハンジが声を顰めた。
「何だろ、……視察じゃないよね?」
「今月の予定表にはなかったですよ。時期的にも違うかと」
 とモブリットが応じた。

 憲兵団の男二人は、何かを探しているのか首を振っている。威張った感じの声を張り上げた。
「真琴・デッセルというものはいるか!」
 自分の名前が出たことに驚いた真琴は、思わず席を立とうとした。立つなというふうに、その腕をハンジが引く。厳しい表情だ。
「待って、少し様子を見よう」

 憲兵団は再び声を上げる。
「いないのか!」
 真琴のことを知っているほかの調査兵が、ちらちらと視線を寄越してくる。だが告げるつもりはないようだ。
 ハンジがモブリットに眼で合図した。モブリットは凛と立ち上がる。
「その者にどのような用件でしょうか」
 つっと憲兵が視線を向けた。
「詰問したいことがある。我々と来てもらいたい」
「用件を伺いたい」
「一介の調査兵に口述することではない。妙な庇い立てをすると、貴様らの団長に皺寄せがくるぞ」

 ばっさりと切り捨てられたモブリットは、ハンジに視線を落とした。すっくとハンジは立つ。
「私はハンジ・ゾエ。第四分隊長だ」
「貴様の下にいるのか、真琴とやらは。出せ」
 ハンジはそれには答えない。
「強引ですね。用件を、と訊いているのですが」

 憲兵がこちらへやってきた。虫けらを見るような眼をハンジは差し向けられている。彼らの胸許を見て眼を剥く。
「……中央、憲兵」
 周囲の調査兵たちが息を呑む気配を感じた。
 中央憲兵団。真琴が聞いたことのない兵団だ。一般的な憲兵団とは違うのだろうか。
 ハンジがやにわに緊張感を纏わせた気がした。
「どうして中央憲兵が、それこそ一介の兵士に何の」
「たかが分隊長じゃ話にならないな。早く真琴という奴を呼び寄せろ」
 小馬鹿にしたように口許を歪ませ、
「それとも団長を連れてくるか?」

 ハンジははっと眼を見開き、モブリットを振り返った。彼は耳に口を寄せる。
「エルヴィン団長は不在です」
 ハンジは口惜しそうに舌打ちをした。くっ、と中央憲兵は嫌な笑みをみせる。
「いないのか? ならば大人しく引き渡すしかないな」

 今日エルヴィンは本部にいない。いまごろ行われているであろう新兵勧誘式に出向いているからである。
 ともすると、中央憲兵の男はそれを見越してやってきたのだろうか。偉そうな態度から、真琴の推測は間違っていないような気がした。

「庇っていても詳しく調べればおいおい分かることだが。しかし」
 にやりとし、
「いたいけな一般市民を、見殺しにすることになりかねんがな」

 どういうことだろう。用件も何も分からないから、そんなことを言われても現実みが湧かない。だが危険な臭いを含ませていることだけは伝わってきた。
 平明でないからハンジは声が出せないでいるようだ。握りこぶしを何度も擦り合せている。
 しかしながら一般市民を引き合いに出されては、知らぬを通すわけにもいかない。真琴は咽喉を上下させる。立ち上がれば椅子が音を立てた。

「ボクが真琴・デッセルです」
 中央憲兵の男はほくそ笑んで、顎だけで入り口を示した。堂々とそちらへ歩いていくから真琴も続こうとした。
 ハンジに引き止められる。
「悪い予感がする。中央憲兵が出てくるなんて、ただ事じゃないんだよ。真琴だけじゃ無理だ」
 何とか笑みを作る。
「発言力のある団長はいないですし、みんなに迷惑をかけるわけにもいきませんから。それに、何の心当たりもないんですよ、ボク。たぶん事故現場に居合わせたとか、そういう目撃証言を聞きたいだけじゃないでしょうか。大丈夫ですよ、すぐ戻ってこれますって」

 本当は心臓が爆発しそうなほどに恐怖していた。心当たりがありすぎて、頭の中でいろんな要因を探しているのだ。
 中央憲兵団の目的は何だろう。秘密結社のことがバレたのか。真琴が異世界の人間だとバレたのか。巨人だと疑われているのか。ほかに何かあるだろうか――と。

 ほかの調査兵たちの視線が、卓のほうからひしひしと身に刺さってくる。中央憲兵に従って食堂を出ていこうとする真琴を、懸念するようなものか、珍しい仏事に対しての好奇心かは分からないが。

(恐い、どうなってしまうのかしら。一人で釈明できると思う? ……自信がないわ)
 ふと頭に浮かんだのはリヴァイだった。真琴は無意味な念願を払うように頭を振る。
 絶体絶命のときに、いつも映画のように彼が助けにきてくれるから、もしかしたらいまこの瞬間にも来てくれるのではないかと思ってしまった。けれどそれはありえないのだ。

 ありえないと分かっていつつ、針の穴ほどしかない望みにしがみつく思いで、食堂の扉口を真琴は見つめた。
 出入りする人間すらいまはおらず、ましてや求めている人の気配だって当然なかった。

 意味のないことに最後の望みをかけようとするだなんて、相当追い詰められているということだろうか。自信がなくても、真琴は一人で何とかしなければならないのだ。自分しか頼れないのだから。
 そのとき、食堂の外から駆けてくる足音がしてきた。

 ――息を切らしたリヴァイが、食堂の入り口から現れたのだった。

 幻でも見ているのであろうか。そんなことを思い、真琴は瞳を揺らした。だってここにいるはずがない。彼は旧調査兵団本部にいるはずなのだから。
 しばし肩で呼吸をしていたリヴァイは、ようやく息が整ったようだ。豪然たる面持ちで、真琴と中央憲兵のあいだに立ちはだかる。

「なんで、ここに」
 真琴が発した蚊の鳴くような声を、リヴァイは無視する。憲兵の胸許をちらりと目視してから見上げた。
「中央憲兵が、俺の部下に何のようだ」
「リヴァイか。貴様がなぜ本部にいる」
 面白くなさそうに、憲兵は低く唸るように言う。
「こんなところで油を売って、巨人のガキの世話はどうした。審議で定められた事項を履行せんで、許されると思ってるのか」

「エレンなら、いまごろエルヴィンとともに新兵勧誘式に立ち会ってるころだろ。最高責任者である団長に加え、抑止として優秀な部下もついてる。俺がいなくても問題はない」
「ものも言いようだな。団長に責任を押しつけたか」
 リヴァイの視線が背後に流れる。
「で、なぜ中央憲兵が訪ねてきたのか。用向きは訊いたのか、ハンジ」
 後ろに向かって投げられた声で、ハンジが肩をぴくりとさせた。

「い、いや。エルヴィンじゃなければ取り合わないと一蹴された」
「それで? 言うなりに大人しく引き渡そうとしたってのか」
 厳しい物言いにハンジはたじろぐ。
「だって、聞く耳を持ってくれないから。相手が中央憲兵じゃ為す術もなくて」

 失望したというふうにリヴァイは緩く首を振った。
「どうやら突然のことで、お前の頭から基本的なことが抜け落ちてしまったらしい」
 鋭い眼つきで憲兵を見る。
「兵法第十二条。他兵団への介入は、行政手続きなくして行使を認めず」
 ぴしゃりと言い、
「正式な令状はあるのか。持ち合わせてない限り許可できん」

 憲兵は口を歪めて鼻で笑う。
「地下のゴロツキ風情が、馬鹿の一つ覚えか知らんが、まさか兵法を利してくるとはな」
 内ポケットから筒状に丸めた紙を取り出す。厚手の上質なものに見えた。
 突き出してきた紙はおそらく令状なのだろう。手にしたリヴァイが眼を伏せてすっと広げた。
 肩越しに真琴は覗き込んでみた。達筆な筆記体で綴られた文字。右下には、総統であるザックレーのサインに四角い印が押してあった。

 リヴァイは親指で印をこすっている。赤い朱肉が薄らと伸びていった。
 はっ、と憲兵が吐き捨てた。
「偽物だとでも疑ってるのか? 本物に決まってるだろうが」
「そのようだ」
 印刷されたものかそうでないかを見定めたのだろう。朱肉が伸びたということは原本ということである。
 やはり憲兵についていくしかないようだった。正式な召喚ならばもう何も逆らえない。
 だがリヴァイは動じない。
「尋問が目的のようだが、主旨が記されていない」
 眼で殺せそうな気迫を向けられ、憲兵はやむなしと思ったのだろう。憎らしげに口を開いた。
「国家反逆罪の容疑を問うためだ」

「国家――」
 動揺したリヴァイが言葉を詰まらせ、僅かに眼を見張った。
 そして真琴はもっと動揺した。いよいよ秘密結社のことかもしれない。
 リヴァイが歯の隙間から絞り出すような語気で、
「国に不利益をもたらしたとでも言うのか」
「そいつは危険思想の持ち主なんでな。のさばらしておくにはいかんのだ」

 国を危うくする思想。それはやはり変革を望むヴァールハイトのことだろうか。

「危険思想? もったいぶってねぇではっきりと言わねぇか!」
「口にするのも反吐が出るが」
 気分悪そうに一度流し目をし、怒ったように言う。
「人魚姫という馬鹿げた物語を、民衆に流布させた罪だ」

 さぁ――っ、と血潮が落ちていった。真琴の顔は血の気が失せている。危険思想とはヴァールハイトのことではなく、いま流行している人魚姫のことだったのだ。
 リヴァイは眉を寄せている。もしや聞いたことがないのだろうか。

「――は?」
「どうやらほかにもタイトルがあるようでな。小人姫やメダカ姫とかか。耳にしたことぐらいはあるだろ。海を題材にした話だ」
 多少困惑気味に、リヴァイはますます眉を寄せた。

 旧調査兵団本部に籠っているリヴァイは、やはり耳にしたことがなかったのだろう。そうでないとしても、物語など興味がなさそうなので結果は変わらなかったかもしれないが。
 ただ少なからず、「海」という単語に反応を示した。ことの拙さを、そこで認識したように見えた。

「ずいぶんと断定的だが。こいつが広めたという証拠はどうせねぇんだろ。議論の余地はある」
「それはたっぷりと絞れば分かることだ」
 中央憲兵は不適に笑い、
「無駄話をしすぎた、我々も暇じゃないんでな。――連行する!」
 腕を無理矢理引っ張られ、真琴は入り口へ誘導されそうになる。不服従を許されない高姿勢に、例えられない絶望感が頭から被さってきた。
 顔を青ざめ、救いの手を求めてリヴァイを振り返る。

 ――凛然とした声が響く。片脚を踏み出したリヴァイだった。

「兵法第三十九条! 被告人はいかなる場合でも、利益を保護する補助者を、依頼することができる!」

 立ち止まった中央憲兵の背中から、舌打ちの音が聞こえた。
「何なんだ、あいつは。馬鹿の一つ覚えじゃなかったのか」
 忌々しそうな感じだった。
 絶望の淵に光が差す。真琴は弁護人を立てることができるのだ。
 瞬きを忘れてリヴァイを見つめた。真摯な瞳と視線が絡む。

 ああ、どうしてこの男はこんなにも必死になってくれるのか。必要としているときに、頼もしい手を差し伸べてくれるのか。見捨てずに、そばにいてくれようとしてくれるのか。

「誰を依頼する! 真琴が信頼できると思う代弁者を選んでいい! ここに居ないのなら俺が急いで連れてくる!」
 ぎゅっと拳を作り、真琴は一度眼をきつく瞑った。
(私は一人じゃなかった。あなたを頼っていいのね)
 身を捧げる思いで懇願する。
「一緒にきて、リヴァイ」
 リヴァイは浅く、けれども力強く頷いてくれた。首肯の意思だった。そして表情を少し緩めてみせる。
「ったく、馬鹿な奴だ」


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