03.闇の空には細かい硝子の破片が
闇の空には細かい硝子の破片が散ったような星々。真琴の情動を無視してちらちらと瞬いていた。
見事な夜空だったが、とても眺めたいと思える気分ではなかった。呑気に輝く星を見てしまったら、憎いと感じてしまいそうだったからだ。
一人になりたくて勝手に足先が向かったのは、ヴァールハイトの地下アジトだった。人間が住んでいるのだろうかと、無人を想像させてしまうような街の静けさ。こんな夜中ならばもうエリザートたちもいないだろう。
地下に降りて、燭台の操作をしようと手を伸ばした。
と、操作をする前に隠し扉が開いた。鈍い軋みと、壁から仄かな明かりが直角に切れ込んでゆく。
聖母のような微笑のフュルストが内側から顔を覗かせた。あまりにも慈悲深い面差しだったので真琴の鼻の奥が熱くなった。引っ込んでいた涙を誘うような、そんな気持ちにさせるのである。
その顔を見たら、一人になりたかったことなど小波に攫われてなくなってしまったのだった。
フュルストが首を傾けた。
「どうしたの?」
「来ちゃいけなかった?」
ううん、と首を振ってフュルストに手首を引かれた。
「外、寒かったでしょ。ストーブの前で温まりなさい」
一歩踏み入れると、冷えた身体に優しい温もりが迎えてくれた。やや乾燥感があるアジト内は、ほんのりと植物性香料の香りがした。フュルストが普段つけている香水である。
薪ストーブの前で真琴は両肩をやんわりと押された。素直に体育座りし、それからふわりと背に暖かいものが掛かった。弁柄色のチェックが入ったストールだった。
ストールで身を包み、
「ありがとう」
と礼をするとフュルストはただ首を振った。
薪ストーブの上ではケトルがしゅんしゅんと音を立てている。木製の飾り棚から、彼は白いマグカップを一つ手に取った。
「甘いものがいいかな」
返答を求めていない感じで言い、同じく飾り棚から丸い缶を取った。カップの持ち手を指に引っ掛け、両の手で缶の蓋を開けた。
ふわっと香ってきたビターに、真琴は思わず反応する。
「ココア?」
「好き?」
「うん」と答えればフュルストは笑みだけをくれた。
ココアの粉を入れたカップにケトルから湯を注げば、甘い香りがもっと強く漂ってきた。「はい」と、真琴の前にココアを置き、次いでフュルストは自分の分も作り始める。
「いただきます」
包むように持って唇を近づけた。「熱いから気をつけて」と背中を見せたままフュルストが言った。
やけどしないように息を吹きかけた。もの柔らかな湯気が反対側にたゆたっていく。
一口含んだ。濃い甘さに、身内の淋しさがようやく収まっていくようだった。
「落ち着くわ」
傍らにフュルストが腰を降ろした。彼も両手でカップを持ち、ふ――っと息を吹きかけている。仕草が子供のように可愛らしくて、真琴は小さく笑った。
フュルストがきょとんとする。なに? とその眼が言っているようだ。
「可愛いことするのね」
でも不思議と違和感がないのは、フュルストがたまに見せる無邪気さのせいだろう。だから「男のくせに」とか「似合わない」とか、そういうふうには思わないのだ。
「冷まさないと舌をやけどしちゃうじゃない」
「そうよね。ごめんなさい、変なことを言ったわ」
ケトルの注ぎ口からはずっと湯気が噴き出していた。笛付きの蓋は上がっているので、鳥のような音を鳴らすことはない。
カップから伝導する熱を、両手に感じながら真琴は口を開いた。
「燭台の仕掛けが作動する前に、扉を開けたら危ないじゃないの」
言ってから、もしやと思って急いで付け足す。
「帰ろうとしてた? ごめんなさい、つき合ってくれなくていいのよ」
「違うよ。帰ろうとしてたんじゃない」
と言って背後に首を回した。視線のほうには卓の上に気球の球皮がある。継ぎ接ぎされた布は幾重にも折り畳まれており、小山のように置かれていた。
「ロゥに頼まれたんだ。得意なんだから縫っておいてくれって。縫い目の甘い部分が多くて、解いては縫い直しての繰り返し」
肩を竦めた。
「そのせいで進んでないけど、いざ飛ばして空中分解でもしたら洒落にならないしね」
「そうだったの。私もあとで手伝うわ。……強度はどうであれ、だいぶ仕上がってきたわよね、球皮。空を飛ぶのも夢じゃなくなってきた気がする」
発語が弱くて真琴の語尾が掠れてしまった。完成が待ち遠しかったはずなのに心が踊らないのはなぜだろう。
「嬉しそうじゃないね。少し前までは、今か今かって具合にロゥを急かしてたじゃない」
(やっぱり読まれちゃった)
でも顔を見れば誰だってそう言うだろう。表情に表れてしまっていたからだ。
はぐらかそうと首を横に振った。
「そんなことない。いまからとても楽しみだし、空を飛べたら雲を掴んで食べてみたいと思ってるんだから」
「それ僕も興味あるな。どんな味がするんだろうね。綿菓子みたいに甘いのかな」
「子供のころはそう信じてたな。知らずにいたほうが夢見がちでいられたんだと思うと、幼いころが羨ましく思えてきちゃう」
「雲を食べたことがあるみたいな言い草だね。美味しかった?」
普通の雑談のように訊いてきた。
雲が何でできているか。海が幻のこの世界で知っていていい知識ではない。脱線した話を戻すことで、雲の話題に蓋をする。
「そんなことよりも。帰ろうとしていたんじゃなかったなら、どうして扉を開けたの?」
フュルストは口の中で笑う。
「外からの足音で君だと気づいたんだ」
「やだ、まるっきり犬じゃない」
真琴は可笑しそうにした。まだ胸に蔓延する侘しさのせいで少々ぎごちないが。
だがフュルストは微笑を見せこそ可笑しそうにはしなかった。
「寂しそうな足音だった。そのまま消えてしまいそうな儚さだった」
足音からでさえ感情を読み取ってしまうというのか。言わなくても察してくれる。分かっているくせに、何があったのかと聞いてこないのは優しさなのだろう。
「前に言ってたわね。心が読めてしまう眼は、嬉しい特技じゃないって」
「だってそうでしょ、いいことなんて一つもないよ。逆に気持ち悪がられる」
真琴はゆるゆると首を振った。
「その眼に、救われている人もいると思うわ」
「真琴は――救われた?」
柔らかく笑って真琴は頷いてみせた。
安心したのかフュルストは眼を伏せる。
「その表情、好きだな。似てるんだよ」
「似てる? 誰に?」
「いつか話したでしょ、僕の秘密。夢の中に出てくる美玉な女性のこと」
「その人に私が?」
うん、とフュルストは足許を見つめながら頷いた。
美玉な女性だという話だから、そのような人と比べられるのはおおいに恐れ多かった。からかわれているのだろうかと思った。が、安らかなフュルストの表情からは、悪戯さなど微塵も窺えなかった。
「その夢の女性って誰なのかしら。知らない人なんでしょう?」
「知らないような……知っているような」
微笑を消し、真顔で小さく言った。予感はあるが確証はない、と真琴にはそう取れた。
もう一つあるんだ、とフュルストは赤々と燃ゆる炎を見つめた。瞳には炎が映されているが何も見ていないようだ。
「朧げな記憶なんだけど、僕が幼少のころだと思う」
真琴はただフュルストの碧眼を見つめた。
「そこはすごく眩しいんだ。うなじがジリジリと熱かった。足許が不安定で、僕は気分がひどく悪くなってる」
「気分が悪い? むしゃくしゃするとかそういうの?」
否定を表すようにフュルストは首を振った。
「気持ち悪いとか目眩とか、そんな感じだったと思う」
ジリジリと熱いというから季節は夏だろうか。すると気分が悪くなったのは熱中症を起こしたからなのかもしれない。
昔話をするようにフュルストはゆっくり語る。
「とうとう我慢できなくて吐きそうになった。そうしたら男が僕の襟ぐりを掴んだ。顔を突き出された視線の下は、キラキラと白く煌めていたんだ」
白く煌めく。雪だろうか。だがしかし季節が合わなくなる。とすれば最初に思った夏が間違いだったのか。
「それは反射して顔にもっと眩しかった。ひとしきり吐いたあと、僕は振り向いたんだ」
やはり雪かもしれない。雪に反射した日光が眩しかったのだろう。ではジリジリと熱い、とは雪焼けで間違いなさそうだ。
マグカップを持つ手にフュルストが力を込めたのが見て取れた。
「僕の襟ぐりを掴んだ男の背中には、馬の絵があった」
「それって」
頭に浮かんだ絵に心当たりがあったから、真琴は絶句してしまった。
「ユニコーンの紋章。憲兵団のものだった」
話が抽象的すぎてまるで分からないが、その朧げな記憶をフュルストはどう捉えているのだろう。
「その記憶、どういうものだと思ってるの」
「その場にいた子供は僕だけじゃないんだ。幼い泣き声が耳の奥から聴こえてくる」
一旦区切り、フュルストが仇のような眼で炎を見据えた。
「拉致――されたんじゃないかな、僕は」
「拉致?」と訊き返そうとした。けれど思いもよらなかったから舌を巻けず、ただ口を薄く開けることしかできなかった。
ぱちっと快活な音。薪が割れて火の粉が飛び散った。
もう一度声を出そうとした。今度は舌を巻けた。
「拉致? それは闇ブローカーに攫われたとか、そういうのだったのかしら」
フュルストは東洋人ではない。だが闇ブローカーが狙うのは、何も珍しい人種だけではないだろう。
考え込んでいるから真琴は自分の推測を述べた。
「誘拐された子供たちを、憲兵団が救出した記憶とか?」
「そうだろうか」
そう呟いたフュルストの眼は、瞳孔が赤くて些か恐く思った。真琴は首を傾けて先を促した。
「拉致したのは憲兵団だったんじゃないかな」
真琴は一瞬言葉を失くすが、
「だって彼らは国の組織よ。どうしてそんなことをする必要があるのよ」
「分からない。だけど襟ぐりを掴まれた感触が、どうにも恐怖を感じさせるものだった。救出されたのだとしたら、恐怖心なんて湧かないんじゃないだろうか」
「待ってよ、じゃあ彼らに拉致されたとしてよ? フュルストはどうやって助かったっていうのよ」
フュルストは片手で頭を抱えた。苦悩が垣間見えた。
「分からないっ、次の瞬間には僕は母と庭で遊んでるっ。記憶が飛んでるのとは違う、変に継ぎ接ぎされてるような、そんな感じなんだ」
「そのときは混乱してたからじゃない? それに子供のころの記憶なんてそんなものよ」
真琴はフュルストの大きな背中を撫でてやった。
「怖い思いをしたから刺激が過ぎて、ごっちゃになってるんだわ。乱暴した人間と助けにきた憲兵が入れ替わっちゃってるとか……よくあるじゃない、そういうのって」
人間の記憶は当てにならない。幼少のときの記憶ならばなおのこと、勝手に作りあげてしまった勘違いということもある。
国の組織である憲兵団が子供を拉致する。フュルストの主張は飛躍しすぎな気がしてならなかった。仮にそうだとして、そもそも何の意味があるというのか。
だか事実ならば、国が関わっているということだ。
「だからなの? あなたが国を傾けたいのは」
「真実を知りたいんだ、この国に隠された秘密を。国が弱ったときが付け入るチャンスなんだ」
「そうね……何か秘密があるのかもしれないとは私も思うわ」
でも、と真琴は胸が痛くなった。
「あなたが非道でいられるのがどうしてなのか、それだけじゃ分からない。捕まってしまう危険性だってあるのに、不確かな記憶をもとに、ただ行動を起こしているだけとは思えないの」
「裏切られたからだよ。――国に」
ほとんど声量はなかったが恨みを感じられた。
どういうこと? と聞きたかったが、その先を話してくれるような雰囲気には見えなかった。だからひとまず諦めることにした。
ココアに口をつけると、まだ半分も残っているのに温くなってしまっていた。
「各地で起きてる抵抗運動を、煽動しているのはヴァールハイトなの?」
「真琴に協力してもらおうとは思ってないから安心してよ。関わらない代わりに、邪魔だけはしないでもらいたい」
そう言ったフュルストの声は冷たいものだった。組織の活動になると途端に彼は人が変わるのだ。
協力したいという意気込みはもちろんない。けれど、仲間から逸れているような疎外感は何とも言えなかった。恐ろしいと思っていた秘密結社は、いつの間にか真琴の中で大切な存在になっていたのだ。
真琴は頭を垂れた。
「無茶……しないでね。あなた前に言ったわ、命を投げ打ってはいけないって。そんなことになったら嫌だから」
透明度が増した瞳を瞬かせたフュルスト。瞳の力が物憂げに抜ける。
「君は優しい言葉をくれるね。いま一番悲しいのは真琴だろうに、僕の命を心配して心を痛めてくれてるの?」
肩に手が触れてフュルストに引き寄せられた。広い胸の中で真琴は頭を横に振る。
「優しい言葉をくれるのはフュルストよ。一緒にいてくれて今夜私は救われたんだわ」
温かい胸にいまだけ縋らせてもらおう。どうして幸せが掴めないのだろうと、自分勝手にも虚しく落ち込んでいってしまうから。
そばにいてほしい人がいない寂しさを、いま甘えさせてくれる人に身を委ねることで風穴を埋めるしか、自分を慰めてやる方法が見つからなかったのだ。
[ 105/154 ]*prev next#
mokuji
しおりを挟む