02.彼に与えられる愛

 カフェテラスはようやくもとの雰囲気に回復した。店側に責任は一切ないのだが、お詫びと称して客に茶をサービスしてくれた。
 花柄の絵付けがされたソーサーに、添えられている焼き菓子を口に放り込んだ。ふいにリコが真琴の背後に向かって笑顔で手を挙げた。

「なんだ、友人と一緒だったのか」
 松葉杖をついたイアンだった。片脚がずいぶん不自然なのは義足のせいだろうと思った。
 リコは立ち上がってイアンを補助する。
「気にしないでいいよ、リハビリはどうだった?」
「まあまあだ。数週間で義足に慣れるものでもないしな」
 真顔で答えたイアン。リコは彼が腰掛けるのを手伝った。

 真琴は肩を緊張させてもじもじしていた。気にしないでいいとリコは言ったが、イアンはともかく真琴は気にする。いまは調査兵団の真琴ではない。初対面を装わなければならないだろう。

 引き攣りそうな笑みを浮かべ、
「ど、どなた?」
 訊けばイアンは眼を瞬いてみせた。少し首をかしげる。
「どこかで……」
 小さく呟いたイアンの腕を、服の上からリコが抓った。表情からして妬いているように見えた。
「初対面のはずだけど?」
「――そうだな、そうだ」
 痛がりもせず、取り繕うこともせずに頷いた。

 イアンにメニューを見せるリコの向かいで、真琴は控えめに窺った。
「私、お邪魔じゃない……?」
「すまない、俺が帰ったほうがいいな」
 困った顔でイアンが松葉杖を握った。リコが引き止めながら真琴を見てくる。
「なに遠慮してんの。イアンのことなら気にしないでいいって」
「そういうわけにも……いかないっていうか」

 居てもいいのだろうかと迷っていたら、ふとリコとイアンの左手薬指に目がいった。陽を受けて銀色に光ったためだった。

「……それってなに?」
 そっと指を差すと二人揃って照れてみせた。
「いまごろ気づくとか鈍臭いな」
「け、結婚したの!?」
 目を点にして思わず腰を浮かしてしまった。それはどうみても結婚指輪ではないか。

 リコが飲んでいた珈琲を吹き飛ばしてきた。真っ赤な顔で否定してくる。
「ばかっ、早とちりだな。結婚なんかまだだよっ」
 結婚していないと言うならばそれは何なのか。真琴はきょとんとして、恥ずかしげにリコは言う。
「つ、つき合ってる……」
 なるほど、と真琴は何度か頷いてから腰を降ろした。
「銀の指輪だからつい……」
「結婚のときにそのまま使えるからな」
 平然と述べたイアンのせいで、リコはまた飲みかけていた珈琲を吹いた。

 なんて熱々カップルなのだろう。入れたての紅茶より熱そうだ。と思いながら真琴はカップを口につけた。(熱っ!)舌をやけどしてしまった。
 リコがイアンに好意を持っていることは薄々感じていた。――はっきり聞いていたわけではないが。恋が成就したのなら、友人と思っている真琴も嬉しい。

「つき合うことになったきっかけって?」
 ハムがサンドされたベーグルに、リコはフォークを入れている。頬を染めて口籠る。代わりにイアンが口を開いた。
「成り行きだが……そうだな、強いて言えば感動したからか」
「何に感動したんですか?」
 優しそうな瞳を伏せてイアンがカップを手に取った。
「俺の覚悟をまっとうしてくれたことだ」

 奪還線のときのことを言っているのだと真琴には分かった。生死の境を彷徨いながら、イアンはリコの覚悟を聞いてくれていたのだ。
 リコは顔を逸らした。照れているようだ。

「そ、そんな脚になっちゃったしな。誰かそばにいてやらないと不便だから」
「そうだな。いつもこうしてリハビリの帰りを付き添ってくれることを、俺は感謝している」
 穏やかな面持ちでリコに向かって目を細めた。

 とても幸せそうに見えた。互いの想いがこちらにまで伝わってくるようだった。反面ちょっとずつ哀調を帯びていく真琴がいた。
 紅の太陽が厚めの雲で姿を消した。訪れた翳り、急に冷たく感じた風が波のように髪をうねらせる。
 何が原因なのか知るために、静かに物問うことにした。

「……リコにあのとき覚悟させたものって、何だったの」
 切り分けたベーグルを、口に入れる手前でリコは瞳を上げた。
「どうしたの急に。婉曲で分かんないよ」
「……逃げ出そうとした兵士が戻ってきたのは、何がそうさせたの」
 ピクシスの喝で踵を返した兵士たち。あのとき彼らの胸の内にあったものは何だったのか。
「マコも同じ思いがあったから、あの場に残ったんでしょ」
「その思いって……なに?」
 真琴が暗いからリコは息を詰まらせたようだ。しみじみした様相でイアンが回答をくれた。

「愛念――なんじゃないのか」
 そうだ、あのときみんなを思い留めたのは愛。では真琴があのとき強くいれたのはなぜなのだ。リヴァイが真琴の愛を受け入れてくれなかったから分からなくなってしまったが。
「守りたいものがあったから、私は残ったの」
 一語一句、自分に馴染ませるように真琴は口にしていく。
「あの人と同じものを見たと思ったから、私は残ったの」
 リコとイアンが神妙な様子でただ頷いてくれている。
「同じ未来を夢みたから。同じ道を歩いていると思ったから」

「間違いない。あの日真琴を奮い立たせたのは愛念だ」
 イアンが力強く言ってくれた。リコがイアンを見て一瞬眼を見張ったが、すぐに表情を戻した。

 あの日、真琴の主流を占めていたものはリヴァイへの想いだったのだと、ようやく身内に溶け込ませることができた。
「だから私は真の精強でいれた」

 立体機動を使いこなせない真琴が役に立てたかは分からない。それでも精神を強く保っていられたのは、リヴァイが悔やまないように、彼の代わりに少しでも未来を守りたいと思ったからだ。未来を一緒に築いていきたいと強く思ったからだ。――でも、

「人を強くさせる愛が、あの人には凶器だったのよ。ならあの人を突き動かしている思いって何? 精強でいられるのはどうしてなの。……守るものがないからなの?」
「違う、それは愛だ。愛といっても一括りではなく、いろんな種類がある。未来を憂う、自由を勝ち取る、同志の思いを継ぐ。すべて愛だ」
 イアンが答えてくれた。重みのある言葉だった。

 悄然と俯く真琴は、膝元をきつく握っていた。泣きたい思いだ。口を衝いて出る言の葉は独語に近かった。
「そこに私が入れないのはどうしてなの……。同じように愛してとは言わない。でもみんなを強くさせた愛念が、入る余地がないのはどうしてなの」

 イアンが遣る瀬ないような溜息をついた。
「その愛が一番重いからだ。だから彼は恐れているんだろう。駐屯兵団の俺には計り知れないような、調査兵団ゆえの過酷さが歯止めになってしまっているのだろうな」

 あの日の選択はやはり過ちだったのだ。
「あの人にそれを気づかせてしまったのは私なの。私の独りよがりのせいだったの」
 良かれと思った行いが、後悔となって身に跳ね返ってくるだなんて思いもしなかった。そんな未来を予知できていたなら、過去の真琴は引き返しただろうか。
 それでも突き通した気がしてならないけれど――想いを。

「独りよがりだろうか。愛は暖かく、じんわりと与えるものだ。決して押しつけがましいものじゃない」
 卓の上でイアンは手を組み、真情の籠る語気で言い含める。
「彼は本当の愛を知らないだけだ。愛することほど人間を強くさせるものはないと俺は思う」

「だから私も、あのとき立ち直れたんだ」
 リコが少し身を乗り出し、必死に訴えてきた。
「だが俺は思う。彼はもう愛を知ってる。ただそれが真実の愛なのだと、気づきたくないのか気づいてないのかは分からないが。しかし気づいたとき、彼はいまよりもっと強くなる。弱くなるなどあり得ない」

 愛は何よりも人を強くさせる。だがそのことをリヴァイに伝えるよりも早く、愛は己を弱くさせると歪んだ認識を授けてしまったのは、誰でもなく真琴であったのだ。
 飛び続けて傷ついた羽を、安める場所があることを恐れることなどないのに。幸せの微睡みから覚めて羽が癒えたら、また闘えるのに。

「……いつまで待てばいいの。あの人が愛に気づくまで、どれくらいっ」
 暗澹な圧迫を胸に受けた真琴は、言い終わる前に喉を詰まらせた。咄嗟に口許を覆った。
 ポケットからハンカチを取り出したリコが、卓にそっと滑らせてきた。指を伝うものが泣きの涙なのだと、それでようやく心づいた。押し殺した声が喉の奥で籠る。
「時間はたっぷりあるんだから、そのあいだにゆっくり愛を育めばいいじゃない……」
 やりきれない思いで真琴は頭を横に振った。
「そんな時間ないのよ……」

 熱気球の開発は順調に進んでいる。真琴が海に出れる日も近い。本当に帰れるかは分からないが、帰れなかった場合でも、もう二度とここへは戻ってこれないだろうと思う。海までの距離は分からないが、帰りまで燃料が持つとは思えない。だからその覚悟で真琴は臨むのだ。
 そして初めて気づかされた。戸惑いで揺れる瞳を見張る。
 自分勝手な思いじゃないか。リヴァイのことなど考慮せずに想いを貫こうとしている。

「あの人を幸せにしてあげたいの」
 切なげにイアンが言う。
「してやったらいい」
「あの人の哀しみと苦しみを、半分背負ってあげたいの」
「背負ってやったらいい」
 囁くが、真琴は頭を横に振る。
「……でもそれはできない、できないじゃないっ――だって」

 ――自分の世界へ帰るんだもの。愛する人を捨てて帰るんだもの。
 そんな真琴にリヴァイを愛する資格があるというのか。愛される資格があるというのか。

「やっぱりただの独りよがりなんだわ……。あの人を幸せにすることなんてできないのにっ」
 いてもたってもいられなくなったのかリコが立ち上がった。回り込んで真琴の背中を優しくさすってくれる。かける言葉が見つからないのだろう。イアンに請うような眼をした。
「なぜ幸せにすることができないのか事情は知らないが……。愛の形は一つじゃない。幸せの形も一つじゃない。自分の愛の形が必ず見つかるはずだ」

 イアンの暖かみのある言の葉は、胸に深く落ちてきた。あとどれくらいの時間が残されているのかは分からない。そのあいだに、真琴がリヴァイに与えられる愛が見つかればいいと、そう強く思ったのだった。

 イアンとの会話は不思議なものだった。リヴァイの名前など出していないのに、違和感がまったくなかったのだから。もしかすると調査兵団の真琴だと分かっていたのかもしれない。
 それならばもうそれでいい。――今日は少し疲れてしまったから。

 ※ ※ ※

 夕暮れに溶け込んでいく真琴の後ろ姿は悲しげだった。どんどん小さくなっていく背中。その様子を、リコとイアンは心残りな面容でずっと見守っていた。夕方になると雲が増え、風も刺すように冷やこい。
 イアンを支えるため、腰に腕を回しているリコ。遣る瀬なさが含まれていそうな溜息をついた。

「一人で大丈夫かな。心配なんだけど」
「本人がそう言ったんだ。歩きながら考えたいことでもあるんだろう」
 リコがイアンを見上げた。
「いつから気づいてたの? 調査兵団の真琴だって」
「席に着いたときからだ。洞察力には自信がある、すぐに分かった」
「真琴が言ってた『あの人』のことも分かってたの?」
「リコは知らないのか?」
 意外そうに眼を微かに丸くした。リコが頷く。

「調査兵団の誰かなの?」
「本人がいないのに吐露していいものか判断に迷う」
「私、口は堅いつもり」
 真剣な眼差しのリコを見て、イアンは名前を出すことを決めたらしい。
「リヴァイ兵士長だ」

 リコが眼を大きくした。しかしそのあとで顎に手をやった。思い当たる節でもあったのだろうか。
「そういえば、奪還線でリヴァイ兵士長が応戦にきたとき、真琴の安否に対して尋常じゃない焦りようだったな……」
「初耳だな、もうちょっと詳しく教えてくれ」
 自分の眼で見た範囲をリコが説明すると、イアンは低く唸った。
「そのときに知ったのかもしれないな……愛の重さを」
「イアンは真琴の好きな人がリヴァイ兵士長だって、何で知ってたの?」

 エルヴィン宛へ向けた弁明の手紙を、真琴がリコに書いてほしいと頼んだ日のことを話し出した。
「リコがお茶を貰いに席を外したときだ。リヴァイ兵士長が真琴を連れ戻しにやってきてな」
「そんなことがあったんだ」
「あのときはただ可怪しいと思っただけだったんだが。俺と真琴が話し込んでいる様子に、感情は押さえていたようだがひどく激怒しててな。いま思えば何か勘違いしていたんだろう。あれはどうみても嫉妬だった」

 嫉妬させるようなこととはどんなことだ。そう詰問したそうな眼つきでリコはイアンを睨んでいる。
 恋人の嫉妬は可愛いものだ。そんな年上ならではの余裕でイアンがリコの頭をぽんと叩いた。

「それで今日真琴が女だと知って、話を聞いてるうちに『もしや』と思った。リヴァイ兵士長だと思って俺は合わせていたが、会話に矛盾はなかっただろう?」
「そういうわけ」
 まだ頬がフグみたいになっているリコを見て、イアンが穏和に微笑した。肩を軽く押し、
「さあ、もう帰るか。今夜は芯まであったまるようなものが食べたい気分だ」
「じゃあボルシチでも作るよ」
「リコのボルシチは絶品だからな、楽しみだ」

 帰路の途中、夕日を背に微笑み合うイアンとリコ。そして遠くのほうでは夕焼けに呑まれてゆく真琴。
 互いの背中は対照的にみえて、それを浮き立たせるような物悲しい風が、枯れ葉を控えめに踊らせ、乾いた音を鳴らすのだった。


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