01.ものごとが激しく変わり動いて

「こっち、こっちっ」
 歩道に張り出された客席から、真琴に手を振ったのはリコだった。
「よく分かったわね、私だって」
 男装していない姿でリコに会うのは初めてである。首をかしげたい気分で真琴は椅子を引いた。
 リコはメニューを手渡しながら軽く笑った。
「内心人違いだったらどうしようって焦ってた」
「でも声をかけたってことは半分確信してたってことでしょ。そんなに分かりやすいかしら……」
「面影があったからヒントになっただけで、男装姿しか知らない人からしたら気づかないんじゃない?」

 そうであったなら女の真琴を知っている兵士から性別の疑いをかけられていることになってしまう。自分の知らないところで実は露見しているなどと考えたくないことだった。だからリコの勘が野生動物並みに鋭いということにしておこうと思った。

 ウォールローゼ市内のおしゃれなカフェテラス。非番のリコは、美味しいベーグル屋があるからと真琴を呼び出してくれた。
 この店は女性だけでなく幅広い層に人気のようだ。経済新聞を広げる帽子を被った紳士。いましがたジュースを零して慌てふためいている子連れの親子。人目を憚らず仲の良さを見せつける恋人など様様である。

 薄手のメニューを広げ、
「いろんな種類のベーグルがあるのね」
「チップチョコレートのベーグルが私のおすすめだ」
「じゃあリコを信じてそれにしてみるわ」
 メニューを閉じるとリコが手を挙げた。店員がやってきて注文を取る。
「チップチョコレートのベーグル二つと珈琲」
 飲み物はどうする? とリコが訊いてきた。
「私は紅茶をお願いします」
 真琴が言うと店員は下がっていった。

 出された水にリコが手を伸ばした。
「肋骨はもういいの?」
「うん。捻っても痛みを感じなくなったわ」
 真琴も水を飲んだ。鼻が通るような清涼感があった。レモン汁が入っているのだろう。
 背中がぽかぽかと温かかった。陽当たりがよくて秋風の冷たさも気にならないほどだ。むしろ眩しいくらいである。
 向かいに座るリコは直接日光を浴びているので、さきほどから眩しそうにしている。

「そうか。イアンも退院したよ」
「失った脚は義足で補ってるの?」
 リコが頷いた。
「切断面が当たるから痛いってぼやいてたな。いまは毎日リハビリだ」
「そう……。慣れるまで辛いでしょうね」
「でも二本脚で立てたことを喜んでたよ」
 リコの表情は穏やかなものだった。元通りの生活というわけにはいかないだろう。だがイアンには絶望しないでほしいと思っていたので、話を訊いて真琴も安心したのだった。

 やがて茶とベーグルが運ばれてきた。
 さっそく食す。しっとりした生地はほんわかと温かかった。柔いチョコチップはビター風味だ。
「美味しいっ。ほかのお店でもベーグルを食べたことがあるけど、ここが一番ね」
 でしょっ、とリコは満面の笑みをみせた。が、
「でもあんまり人に勧めたくないんだ」
「あら、どうして?」
 首を傾けるとリコが肩を竦めた。
「だって店が混んじゃうし売り切れちゃうじゃない」
「確かに大繁盛してるものね」
 口許を押さえて真琴はくつくつと笑った。

 ティータイムだからというのもあるが店は栄えていた。テラス席も合わせて店内は満席。通りまで順番待ちの列ができあがっている。
(行列といえば……)と真琴は向かいの通りを見た。

「あれはなんで並んでるの?」
 およそ五十人くらいの赤ん坊を連れた母親たちが列をなしており、先頭が市庁舎へと入っていくのである。
「予防接種だよ。年に一回のね」
 教えてくれたリコは呆れたような眼をした。
「あの光景を見たら誰だって分かるよ。何で知らないの。温室育ちなんて言わないでよね」
「……貴族出だから世間知らずなの」
 空笑いで欺いた。初耳のリコはちょっと驚いたようだ。
「冗談で言ったのにほんとに温室だったんだ」

 知らない理由を騙せたので真琴はほっとした。そうなの、と頷けばリコは詳しく説明してくれる。
「定められた予防接種はいくつかあるんだけど、あれだけは強制なんだよね」
 言って顎で示した。
「何の予防接種なの?」
「大昔に蔓延した病気の抗原。こればかりは、地下街まで憲兵が足を運んで接種させるほど徹底されてる」
「国民の全員が接種済みってわけね」

 何の病気なのだろう。真琴はそれに対して抗体など持っていないだろうから不安になった。けれど接種は義務化しているという。ならばその病原体とやらは、ほぼ撲滅できていると捉えてもよいのかもしれないが。

「ゼロ歳児のときに接種するからな。真琴が覚えてなくても当然だよ、私だって記憶にないし」
 と、湯気が風になびく珈琲にリコは口をつけた。
「ゼロ歳じゃ痛みも何も分からずに終わりそうね。そのほうがいいわ」

 母親の話を思い出していた。真琴が幼少のころ、予防接種をしに病院へ連れていかされたときのことだ。注射は嫌だとギャンギャン泣いて、病院中を駆け回る真琴を捕まえるのに苦労したと言っていた。
 成人しても注射は苦手だ。毎年受けるインフルエンザの予防接種。子供のように逃げはしないが、針を刺す瞬間はいまでも恐い。顔を逸らしてじっと耐えるのが平素であった。
 予防接種待ちの行列から視線を外した。と、カップの取っ手を取ろうとした真琴の手が止まる。

 ――一枚の紙がひらひらと飛んできて、リコの顔面に張りついたからである。
「ぶっ」っとカエルが潰れたような声を出し、「よりによって何で顔に飛んでくるかな」とリコが紙を引き剥がした。
「ゴミ?」
 黄味を帯びた粗末な半紙だ。何か印刷されているようだが。
 細かい皺がある紙にリコが眼を通している。すぐさま真琴に差し出してきた。

「ちまたで流行の物語だ」
「小人姫……?」
 タイトルを読んだ真琴は、そのあとに続く物語に眼を見張った。真琴が静止しているなんてお構いなしに、リコがベーグルを噛み千切った。
「ちなみにそれ、私は金魚姫って聞いた。同僚からはメダカ姫ともね」
 タイトルが曲解されているらしい。物語も随所で違う。
(だけどこのテーマって)
 紙を凝視するだけで真琴は紡げなかった。

「海を取り入れた物語だから斬新だけど、ちょっとヤバいよね」
 他人事のように言い、リコは手を挙げて店員を呼んだ。二個目のベーグルを頼むようだ。
 真琴はチョコレート味の唾を飲み込んだ。
 伝言ゲームのように間違った伝わり方で広まってしまっているが、人魚姫の物語だった。ヤバいと言ったリコの言葉が、冷水のように真琴の頭に被ってきた。

「ヤバいって……何か拙いの?」
「だって海を題材にしてる時点で危ない橋を渡ってるよ」
「そ、そうよね。……禁忌だものね」
 震える手からリコが紙を取って眺めた。
「どこのどいつがこんな話作ったんだろ。想像力豊だよね」
「流行ってるって、そんなに街に広まってるの……?」

 さほど外出しないから真琴は流行に疎い。実際知らなかった。リヴァイ班が留守だから、雑談できるような気が置けない人間がいないせいもあったが。

「トロスト区内ではだいぶね。ここまでは来てないと思ってたけど」
 とリコは紙を揺らし、
「これが落ちてるくらいだからね。憲兵団が事態を収拾するために本腰を入れたって聞いたな」
「そ、そう……早く沈静化するといいわね」
「けど、もぐりの版元が刷ってるらしいんだよね。誰かが煽ってんのかな」
 リコは首を捻って紙を破った。運ばれてきたクリームチーズのベーグルを掴む。真琴の空笑いを変に思う素振りもなく、「食べないの?」と言ってきた。
「うん……」とぎごちなく返して、半分残っているベーグルを手に取った。食欲が急激に落ちてしまい、食べたいと思えなくなっていた。

「事態の収拾って、どういうことするのかしら」
 含んだベーグルはビターな味すら感じられなかった。飲み込みづらいので水で流し込む。
「版元の規制じゃないかな。読んじゃった人たちはもうどうしようもないよね。箝口令を敷いたって効果あるのかどうか」

 もはや相槌しかできなかった。
 人魚姫のでどころはトロスト区で出会った少女からだろうか。まさか少女の身に危険が迫るなんてことはないと思いたい。事の発端は真琴だけに責任を感じていた。警告しようにも少女の家を知らないので何もできないではないか。

 それに合わせて、とリコが話題を変えた。
「放火が多発してる。それも貴族の屋敷ばかりが狙われてるみたい」
「……やだ、物騒ね」
 眉を寄せた。貴族の屋敷と言われては他人事ではない。
 リコが気にかけてくる。
「しかも強硬派一辺倒だから。……真琴のとこ派閥は?」

 紅茶を飲もうとした手がまた止まる。硬直した真琴を見て、リコは表情を読み取ったようだ。
「タカ派か」
「放火犯は捕まっていないの?」
「手口はどれも一緒だから、単独犯じゃないかって言われてる。憲兵団が積極的じゃないのもあって、犯人の好き放題になってるね」
 人魚姫の話が吹き飛ぶくらい、いまはフェンデル邸が心配だった。大丈夫だろうか。

「積極的じゃないって、どうして?」
「強硬派は王政から嫌われてるからね。体面上だけあつらって、むしろこれを機にうるさい強硬派を一掃したいとか目論んでんじゃないのかな」
「そんな……政治的ないざこざと、犯罪の取り締まりは別物でしょ。ひどいわ」
 非難を口にすれば、リコはぽりぽりと頭を掻いた。

 強硬派ばかりを狙う犯人像とは何だろう。彼らを面白く思っていない穏健派の仕業だろうか。しかし平和的解決を望む彼らが、こんな過激な手段にでるだろうか。
 怒声が響き渡ったのは、真琴が物思いに耽っているときのことだった。

「またお前らか! 待て、このやろう!」
 声がしたほうへカフェテラスにいる客のほとんどが顔を向けた。言うまでもなく真琴とリコもだ。
 黒茶色のハンチングを被った三人の少年が、向かいの通りから駆けてくる。馬車道を横切ったから、往来していた馬車の馭者が慌てた様子で手綱を引くのが見えた。
 後ろからは腰にエプロンを巻いた恰幅のよい男が続く。怒鳴り声を上げたのはどうやらこの男で、前を駆ける少年を追いかけているようだ。

「少年窃盗団か」
 とリコが呟いたのが聞こえた。

 少年たちは大きく膨らんだ鞄を肩掛けしていた。走る反動で揺れる鞄から、赤く丸いものが零れて転がっていった。眼を凝らしてみればリンゴなのだと分かった。リコの発言から推測するに、盗んだものかもしれないと真琴は思った。
 少年との距離が近くなっている。明らかにこちらへ向かって逃げてきていた。

「捕まえてくれ!」
 叫ぶ男は手を振り上げた。息が相当あがっているようだ。
 リコの椅子が音を立てから咄嗟に真琴も腰を上げた。
「え!? 捕まえるの!?」
「管轄外だけど、これでも国に雇われてる身だからねっ」
 顔を引き締めたリコは腕まくりをしている。
「だめっ、見逃してあげてっ」
「は!? だって泥棒だよ!?」
 リコは眼を丸くした。真琴は引き止めるために腕を強く掴んだ。

 物を盗むのは悪いことだ。けれども彼らの服装からは生活苦が窺えたのだ。盗んだものは食べ物。きっと困窮しているに違いない。これがリヴァイの言っていた現実なのだ。真琴が知ろうとも思わなかった裏側なのだ。
 いたるところで椅子の音が鳴る。テラス席の客たちが狼狽えた様子で立ち上がった。悲鳴が飛び交う。
 少年たちが突っ込んできた。卓子の上に飛び乗り、椅子をひっくり返し、皿やカップを割りながら、つむじ風のごとく通り過ぎていった。
 店内から店員が駆けつけてきて、めちゃくちゃになったテラス席の片付けを始めた。

「ごめん……」
 止めたことを真琴は謝った。リコが動いていれば、テラスはこれほどまでに悲惨にならなかったし怪我人もでなかったと思う。けれど止めなければ少年たちは憲兵に捕まったであろう。ただの偽善だったのか。どちらが正しかったのかおそらく一生答えはでない気がした。
 立ち竦んでいるリコはうなじ付近を撫でている。
「……管轄外だし非番だし別にいいよ」
 二人してテーブルと椅子を直した。再度腰掛けたリコが重そうな口を開いた。
「トロスト区襲撃以来、治安が悪くなってるな」
「民衆の反感が高まってるって聞いたわ」

 トロスト区の復興がいまだままならない。だが住民はほかに行く当てもなく、そこで暮らしているのだ。商売をしている者からしたら、なおさら移り住むなど難しい。元ウォールマリアの住民だって、肩身の狭い暮らしを強いられているのだ。路上生活者が出る始末だ。
 そんな住民からの不満が、ここ最近になって顕著になっているらしいと聞いた。

「実際王政に反抗して、あちこちで蜂起が起こってる。この前も憲兵団本部に徒党が集まって、抵抗運動があったらしい」
「……参加した住民はどうなったの?」
「自分たちの不始末だからね。彼らの主張はもっともだから手は出せないよ」
 黒装束のフュルストが真琴の脳裏でにやりと笑った。確実に彼の望む方向へ民衆が動き出している。
 濡れた卓子に指が触れてしまったリコは、払うような仕草をした。茶色い液体が広がっていた。
「一部の情報では影で民衆を煽ってる奴がいる、って話だけど」
「煽動者がいるってことね……」

 まさかヴァールハイトの所業だろうか。(頭が痛いわ)と真琴は額を覆った。ものごとが激しく変わり動いている。この国に変革のときが訪れたのかもしれなかった。


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