28.溝はすぐには埋まらない

 広い牧草地帯。いつごろ放棄されたのか知らないが、腐りかけの木製な柵が数年の劣化を思い起こさせていた。 
 同じように劣化した小さな小屋付近に、石造りの涸れ井戸があった。いまエレンはその中にいる。
 深い井戸の底で巨人化すれば、周囲に及ぶ危険を少なからず回避できるだろうというハンジの案だった。

 真琴を含むリヴァイ班らは、騎乗したまま離れたところで井戸を見守っている。
 さわさわと柔らかい風が、枯れ草が混じる青緑色の牧草をなびかせていた。爽やかとはいえない青草臭が真琴の鼻を突いていった。
 巨人化してもよいとハンジが合図である煙弾を打ってから、もう数十分が過ぎていた。待機している面々は、どうしたのかというような、少々不安の色を浮かべて顔を見合わせている。

 反対におよそ動じていないハンジがやや眼を丸くして、
「どうしたのかな? 合図が見えなかったのかな?」
 と顎に人差し指を当てた。
「確実性の高い代物でもねぇだろ」
 同様に、動じていないリヴァイが馬の腹を蹴った。ゆっくりと駆けていく方向には井戸がある。
 リヴァイの後ろからハンジがついていくのが見えた。ほかの者たちはここで待機だ。

 井戸のそばまで寄ったリヴァイとハンジが底を覗き込む。転瞬、彼らが驚いたような顔をしたのが遠目に見えた。
 それがなぜなのか真琴が知ったのは、エレンが井戸から這い上がってこちらに戻ってきてからだった。元気がなさそうに俯いて、リヴァイたちに引きつられてきたエレンのその両手は、酷い咬み傷で血だらけだった。

 キャンプで見かける木製のテーブルに面々は腰を降ろしていた。置きざらしのテーブルは、柵と同等に劣化していて脚が不安定だ。
 エレンの隣にいる真琴は、彼の手の応急処置をしていた。彼の手のひらや甲は何箇所も皮膚が破けており、生々しい肉の色が見える。

「どうしてこんなになるまで……」
 自分まで痛い、そう思ってつい責め口調になってしまった。
 血に対するトラウマで消毒する真琴の手が震えている。けれど不思議と向き合えるのは相手が大事な仲間だからだろうか。
 俯いているエレンは少し焦っているように見えた。

「何でなれないんだ」
「巨人になんてなれなくていいよ。だって、巨人化したあとは調子悪くなるんでしょ」
 真琴は傷口に塗り薬をそっと広げた。治療中だというのにいきなりエレンは拳を握りしめる。
「みんなに認められたいんだ……ただの化け物じゃないって。信じてもらいたいんだ……仲間だって」

 消え入りそうな声は周囲には聞こえなかっただろう。真琴の耳にはしかと聞こえたけれど。
「エレン、気持ちは分からなくないけれど君の身体は」

 続きの言葉は言えなかった。草を踏む音が近づいてきたのと、合わせてエレンに放たれた声のためだ。
「自分で噛んだ手は傷が塞がったか?」
 話しかけてきたのはリヴァイだった。持っている金属カップから珈琲の芳ばしい匂いが湯気とともにたゆたう。
「……いえ」
「そういえば、傷治らないね」

 エレンの手はまだ出血が止まらず、薄く塗った塗り薬が赤色に滲んできていた。再生機能は万能ではないのだろうか。そう思いながら真琴はエレンの手に包帯を巻いていった。
 リヴァイが珈琲を一口飲んでから片眉を上げた。
「折れた歯はすぐに生えてきたじゃねぇか」

 思わず相槌を打ちそうになった。半分実行しかけた動作をはぐらかすために無意味に頭を振ってみせる。頬にかかる髪の毛が煩わしいというふうに見せかけた。審議所にはいなかったことになっているのだから、真琴が知っているのは可怪しく思われる。

「……俺にも分かりません」
「お前が巨人になれないとなると、ウォールマリアを塞ぐという大義もクソもなくなる」
 エレンを見降ろすリヴァイの眼は、下から見上げるといっそう眼つきが悪く見える。続いて絶対的な語気で言いつけた。
「命令だ。次までになんとかしろ」
「はい……」
 呟いたエレンは、さっきにもまして元気がなさそうに見えた。

 草むしりの予定を変更してまで実験をしにきたというのに、何の成果も得られなかったことでリヴァイは機嫌を崩しているようだった。
 席を立ったペトラが、宥めるために去っていくリヴァイを追っていった。

「今日の実験はこれで終いだな」
 向かいに座るエルドがコップの取っ手を親指で撫でて、
「そう気を落とすな」
 とエレンに言った。
「し、しかし……」
 包帯で巻かれた手をさすってエレンが呟いた。

 腕を組んだオルオが言う。
「思ったよりお前は人間だったってことだ」
「うなじを裂いてお前を救出する兵長の案も、絶対とは言いきれない。焦って命を落とすよりはずっとよかったじゃないか」
 言葉自体はエレンを思うものだが、そう言うエルドの表情からは慰めているようには見て取れない。
 エルドと同じく硬い表情でグンタが頷いた。
「慎重が過ぎるってことはないだろう」

 みんなエレンには期待していないのだろうか。彼が真琴に耳打ちしてきた。
「なんで先輩方、失望してないんだろ。俺が巨人になれなかったらウォールマリアの奪還が遠のくのに」
「分かんない」
「真琴さんはなんで失望してないの?」
 エレンにだけ聞こえるように声を出す。

「自分よりも遥かに質量の大きい物体になれたり、傷が再生したり、そんな都合の良いことあってはならないんだ。それが成せるということは必ず埋め合わせを求められるんだよ」
「心配してくれてんのか?」

 憂慮して頷けばエレンは儚くはにかんだ。と、表情に影を落とす。
「先輩方も同じなのかな……?」
 積極的な様子が見られないみんなを、眺め回したあとで真琴は口にした。
「そういうのとは違う気がする」
「だよな……。何だか、現状を変えることを望んでないみたいな、そんな感じだよな」

 俯いたエレンはスプーンを手に取った。包帯だらけの手で持ちにくそうにしながらも珈琲を混ぜている。
 やはりエレンの存在を恐れているのだろう。噂に聞いただけでまだ巨人になった彼を見たことがないので、なおさらかもしれない。

 立ち上がった真琴は、少し離れたところにいるリヴァイのもとへ足を進める。本当に今日の実験はこれで終了なのか念を押すためだ。
「リヴァイ兵士長」
 ペトラと一緒に珈琲を飲んでいるリヴァイに背後から話しかけたときだった。
 ――雷が落ちたような轟音と、背後から甚だしく吹きつける風圧で真琴の背中が反り返った。

 牧草が激しくたなびき、細かい塵混じりの爆風に緑色の草が狂ったように舞っている。何かが爆発した音の次には、重いものがひっくり返ったような鈍い音もした。
 そのまま数メートルくらい飛んでいけそうなほどの爆風だった。それなのに真琴が怪我もなくその場に留まっていられたのは、リヴァイが覆うように庇ってくれたからだった。
 踞っている真琴の、その頭ごと守るように覆い被さっているリヴァイが声を上げた。
「ペトラ! 大丈夫か!?」
「は、はい!」

 頬に牧草が当たってかゆい。リヴァイの腕の隙間から真琴は横目で見た。ペトラも片膝を突いて頭を庇い、身を丸めている。
 ごく近いところで緊迫感を伴う声がした。

「大丈夫か、怪我はないか」
「あ、はい……ありがとうございます」
 声が震えてしまった。腹にリヴァイの腕が強く絡まっている。まるで大事に守られている子供な気がして、胸が熱くなった。
「何だっていうんだ、いまのは」
 不可解そうなぼやき声と、のしかかっていたリヴァイの重みがなくなった。そのあとでひゅっと息を呑む音が聞こえてきた。
 真琴は呑気に、
「突風でしょうか? 遠くまで飛んでいけそうでしたけど」
 と乱れた髪に手櫛を入れながら背後に首を回した。リヴァイが息を呑んだ理由に気づく。

 さっきまで真琴が座っていた場所に、リヴァイとペトラの視線は捕らわれていた。だがあったはずのテーブルや椅子はなく、なぜか辺りに散らばっていた。
 そこは濃い塵煙に包み隠されており、差し込む陽光を受けて何やら影が見えた。影はごそごそと動いている。どうやらそこが爆発の起因となったらしい。

 テーブルを囲っていたエルドたちは、間近から爆風を受けて派手に吹き飛ばされたようだった。
 腰に手を当てていたり、痛そうに後頭部をさすっていたり。うつ伏せに倒れこんで手を突き、起き上がろうとしていたり。そうして各々警戒しながらゆっくりと起き上がり、爆発の中心へ眼を凝らしていた。
 風が吹いて塵煙が横にたなびいていくと、中心にある影があきらかになっていった。
 エレンだと眼を見開いたのと、リヴァイが真琴の肩に手を添えたのは同時だった。
「真琴はここにいろ、いいな」
 口を開きかける前に、リヴァイは大股で煙の中心へと歩いていった。

 いよいよ塵煙は薄くなり、人影はエレンだとはっきり分かった。その時点で真琴の心臓が恐怖に怯えたのは、皮膚のない生々しい筋肉を露出した巨人の上に、エレンがいるという事実が目に飛び込んできたからだった。
 エレンの巨人化を見るのは三度目。慣れたといえばそうでもない。それがエレンと分かっていても、非現実的なものを前にして、恐怖で膝が笑わない者はいようか。

 起き上がろうと片手を突くも、笑った膝は言うことを聞いてくれなかった。ただ正面だけを見据える。
 エレンの巨人化は中途半端だった。頭部のない上半身だけの巨人で、右腕以外はほとんど肉付けされていない。そしてエレン本人はというと、その巨人の右肩と自分の右腕が繋がっているだけで、全身は巨人の外にある。
 なんでこんなことになってしまったのか、そんなふうな動揺を露わにした様相でエレンが声を上げた。

「何でいまごろ!?」
「落ち着け」
 わりかし強い口調にエレンが反応した。
「リヴァイ兵長っ。これは」
 エレンはすぐさま応えたがしかし、リヴァイの解き放った声は彼に向けられたものではないのだ。
「落ち着けと言っているんだ。お前ら」
 エレンの前に立ち塞がるリヴァイは冷静に見えた。制するように片手を突き出す。
 正面には剣呑な顔をしたリヴァイ班が抜剣していた。エレンに敵意を剥き出しにしている。

「エレン! どういうことだ!? なぜ許可もなくやった!?」
「い、いえ! これは」
 凄まじい形相でエルドが責めたから、エレンは気後れしているようだ。
 リヴァイが視線だけを流してエルドにはっきりと制する。
「エルド。待て」

 オルオが刃を携えてにじり寄り、
「答えろ!! どういうつもりだ!!」
 と威勢よく声を荒げるが、けれども腰は引けていた。
 エレンは何も答えない。青ざめた顔で、彼自身が浴びる敵意に警戒しているように見える。

 弾かれたようにエレンが首を回した。そちらには堅い表情で近づいてくるグンタがいた。
「そりゃあ、あとだオルオ。俺たちに、人類に敵意がないことを証明しろ!」
「え!?」
 エレンの戸惑うさまは明白だった。おろおろする彼からは敵意など感じない。むしろそれを剥き出しにしているのは、リヴァイ班に違いないと真琴は思った。

 グンタは低く唸るように言う。
「証明してくれ、早く! お前にはその責任がある!」
「その腕をぴくりとでも動かしてみろ!! その瞬間にお前の首が飛ぶ!!」
 恐れからくるオルオの罵声だった。あのときのキッツと似ている。あまりにも怖すぎて、声を張り上げることで自我を保っているのかもしれない。
「できるぜ、俺は!! 試してみるか!?」
「オルオ! 落ち着けと言ってる!」
 リヴァイが平静な面持ちのままで語気だけを強めた。

 これは拙いかもしれない。みんなはいまにも切りかかんばかりの勢いだ。
 ようやく笑いが収まった膝に手を突いて真琴は立ち上がった。みんなと同じように両手に刃を構えるペトラのもとへ駆けつける。
 引き下がらせようとペトラの肩を掴み、
「エレンの顔をよく見て! 大丈夫だよ、敵意なんてない!」
「真琴、危ないから離れて!」
 ペトラは逆に腕を広げて真琴を後ろへ下がらせた。続いてリヴァイに向かって強く懸念する。彼女の顔はとても強張っていた。

「エレンから離れてください! 近すぎます!」
「いいや、離れるべきはお前らのほうだ」
「なぜです!?」
 悲鳴じみたペトラの声に、リヴァイは明瞭な語気で答えてみせた。
「俺の勘だ」


 焦りを抑えきれずに、リヴァイ班の面々は次々とエレンを捲し立てる。
「どうした!? 何か喋ろよ!!」
 言い訳しようとしたのか、身じろぎして大きく口を開けたエレンだが、それよりも早く怒声が上がる。
「妙な動きはするな!!」
「早く証明しろ!!」
「答えろ!!」

 弾丸のごとく飛び交う攻撃的な声に、エレンは大きな瞳をさらに見開いている。青ざめた色の面様が、きつく引き結んだ唇を細かに震えさせた。そうして目許に深く皺が寄っていく。
 あれはエレンが怒る前兆だった。真琴は腕を突き出して足を踏み込む。

「エレン!! 癇癪を起こさないで!!」
 殺されてしまう、そんな悲痛な叫びを上げた真琴の声はエレンに掻き消された。

「ちょっと!! 黙っててくださいよ!!」
 烈々たる語調だった。
 転瞬にしてリヴァイ班は怯んだ。びりっと電気が走ったかのように肩をびくつかせたのだ。顔色は変えないもののリヴァイでさえ一瞬瞠目してみせた。
 一触即発の中、この場にそぐわない興奮した声が轟いた。

「エレーン!! その腕、触っていい――っ!?」

 顔を紅潮させて、好奇心旺盛な子供のように走ってくるハンジだった。実験が中止になってどこかへ行っていたのだが、轟音を聞いて急いで戻ってきたのだろう。後ろからついてくるモブリットは息を切らしていた。
「いいよね!? 触るだけだから!!」
「ちょっと待ってっ――」
 あきらかにエレンは惑っている。ハンジはお構いなしに臆することなく、巨人化した腕の部分を触った。
 その瞬間フライパンで肉を焼くあの音が真琴の耳へ微かに届いた。紛れもなくハンジの両手を焦がすものだった。

「あっ――つい!!」
 叫んだハンジは飛び跳ねてから、その場に両膝を突いて空を仰ぐ。痛かっただろうけれど、興奮のほうが勝っているようだ。
「皮膚ないとクッソ熱いぜ!!」
「分隊長、生き急ぎすぎです!」
 そばでモブリットが悲痛な声を上げた。
 ハンジの突飛な行動に、リヴァイ班は呆気にとられていた。ハンジは続ける。
「エレンは熱くないの!? その右手の繋ぎ目、どうなってんの!? すごく見たい!!」

 訊かれたエレンは何かに気づいたように目を見張らせた。顔を伏せて自分の右腕を引き抜こうとする。
「うぁぁ――――っ!」
 両足を踏ん張って背中を反る彼は、一生懸命腕を抜こうとしている。その動きにオルオが我に返ったのか再び語気を荒らげた。

「お、おい! 妙なことをするな!」
 ふん!! とかけ声と合わせて、エレンが巨人の半身から転がり落ちた。腕が抜けたのだ。
 エレンと巨人の繋がりがなくなった途端、宿主を失った巨体は蒸気を発して溶けていく。

「早すぎるよ、エレン! まだ調べたいことがあったのに!」
 どんどん骨組みになっていく巨体を見ながら、ハンジが悔しそうに頭を掻きむしって悶える。次の瞬間、何かに気づいたように動きがはたと止まった。彼女の横顔が向く先には巨体の右腕があるがどうしたというのだろうか。

 真琴はエレンの元に駆けつけた。リヴァイの少し後ろまで後転した彼は頭を押さえて丸まっている。どこか痛いのだろうか。
「身体大丈夫? どこか打った?」
 屈んで様子を覗き込むと、エレンが後頭部をさすって唸った。

「頭……打った」
「ここ!? 結構な勢いで転がったからね」
 さする手をどけてエレンの頭をよく見てみる。外傷が確認できなかったことに胸を撫で下ろす。が、触ると大きな瘤の触感があった。

「傷はないみたいだけど、立派な瘤ができちゃったみたいだ……」
「まじか……」
「ほかにどこか」
 どこか調子の悪い箇所はあるかと真琴が言いかけたとき、リヴァイが数歩後退してきた。まだ激しい蒸気を発する巨体を、鋭い眼つきで見据えながらエレンに声をかける。

「気分はどうだ」
 問われたエレンはずっと伏せていた顔を上げた。その顔色の悪さを初めてみた真琴はびっくりした。顔面蒼白だったからだ。出来事によるものだけではなさそうである。
「あまり……よくありません」
 息も切れ切れに軟弱なさまで答えた。呼吸は乱れていて肩で息をしている。くりっとした目許は落ち窪んでしまっており、気力を感じられない。疲労感がこちらにもひしひしと伝わってくるほどだった。

 旧調査兵団本部への帰路は重苦しいものだった。みんな一言も口にせず、ただ馬の蹄の音だけが目立った。
 夕日が差し込む食堂で、リヴァイ班はおのおの感慨に耽っているようだった。けれどもこの中にリヴァイとエレンはいない。
 別の食卓ではハンジとモブリットが膝をつき合わせている。現場で起こったことを振り返り、事実検証をしているのだ。話が纏まるまでエレンはリヴァイとともに廊下で待機しているのだった。
 真剣な顔のハンジは手に何か持っている。それを見せるようにモブリットに揺らした。日暮れの光線がそれに反射し、ときおり真琴の眼に刺さって刺激を感じていた。

 窓から吹きすさぶ風が冷たくて、食堂上部にある窓を閉めようと立ち上がった。梯子に登って雨戸を閉めていく。順に閉めていくと室内は少しずつ暗くなっていく。最後の窓を閉めようとしたとき、室内がうすら明るくなり、壁に真琴の影が伸びていった。誰かがランプを灯したのだろう。

 梯子を降りると、丁度ハンジが椅子を引いて立ち上がるところだった。やや難しい顔をしているが、どこか確信めいた自信も伝わる。何か分かったのだろうか。
 ハンジはリヴァイ班がいる食卓まで歩いていった。真琴もあとを追う。

「これ見てくれる」
 少しすっきりした表情で、ハンジは食卓にあるものを置いた。座っているペトラがそれを手にして呟く。
「銀のティースプーン……」
 ハンジが頷く。
「エレンの巨人化した右手が、これをつまんでいたんだ」

 あのときハンジが、巨体の右腕を気にしたのはこれのためだったらしい。真琴は屈んでペトラが掲げるスプーンを見つめた。
「これが何を意味するというんですか?」
「考えてみてくれる? 巨人の体は熱を発するんだよ。しかもこんな小さなスプーン、あんな大きな指が持っていたとしたら」
「溶けたり、変形したりしていないと可怪しい……ってことですか?」
 ハンジが真琴に相槌を打った。

「何か意味がある、このスプーンに。直前までエレンは何してたか覚えてる?」
 とハンジは面々に視線を投げた。
「そのスプーンで珈琲を混ぜてました」
 真琴が言うとエルドが瞳を上げた。彼は壁に凭れて腕を組んでいる。
「俺はエレンの向かいに座っていたんですが。そういえばそのあと、スプーンを落として拾おうとしていました」
「スプーンを拾おうと?」
 ハンジがゆっくり復唱してエルドを見る。
「はい。その直後でした。あの大爆発は」

「巨人を殺す。砲弾を防ぐ。岩を持ち上げる……」
 腕を組んでハンジは唸る。
「どれも巨人化前の明確な目的だ。そして今回は」
「スプーンを拾う」
 真琴はハンジの眼を見ながら言った。

 これは単に自傷行為をすれば巨人になれる、というわけではないことを示す。目的もなく井戸で巨人化しようとしたエレンは、だからなれなかったのだとハンジは結論づけたのだろう。
「拾うのが目的だからスプーンは無事だった。――こんなところかな」
 自分に納得させるように頷いたあとでハンジは、
「モブリット。リヴァイとエレンを呼んできて。検証が済んだ、ってね」
 と指示をした。

 エルドのそばで立つグンタがぽつりと呟いた。
「たかがスプーンを拾うために巨人化したっていうのか」
「それが本当だったら、俺たちに歯向かうわけじゃなかったってことになる」
 些か顔を伏せてエルドが返した。

 エレンに敵意などないと分かってくれただろうか。
「計りかねない存在を恐れるのはよく分かります。ボクだってエレンの巨人化に怯みました」
 真琴は切に訴える。
「でも信じてほしいんです。エレンはボクたちに害を加えようだなんて思ってません。彼には夢があるんです、巨人を撲滅して世界を見て回りたいって夢が。純粋な少年なんです」

 ペトラがほのかに笑みをみせた。
「そっか。真琴はエレンたち訓練兵と講義をともにしてたんだっけ。私たちよりよく知っているものね」
「悪い子じゃありません。ちょっと怒りっぽいけど、情熱にあふれた元気な子です」
 情熱……。とエルドが独言してから、切なげに笑った。
「そんなのちっとも見せなかったな。俺が知ってるエレンは、いつもビクビクしてた」

「俺たちが押さえつけてたからだろうな、無意識に」
 グンタがしみじみ言った。ペトラは眉を下げて微笑する。
「心が安めなかったのね。私たちが迫害の目でエレンを見ていたから」
「び、びびってただけだろう。俺たちが調査兵の中でも精鋭だからって」
 椅子に座っているオルオが少し踏ん反り返った。唇を曲げた彼は偉そうに見えるがあきらかに口籠っていた。

 素直に認めるのが恥ずかしいだけだ。きっと胸の内はみんなと同じ思いなのだろう。
「ともに命をかける仲間ですもんね、エレンも」
 真琴が微笑んで言うと、リヴァイ班の面々はくすぐったそうに小さく笑った。
 肩をぽんと叩かれる。笑顔のハンジだった。
「いい班ができそうじゃん。今日は悪いことばかりじゃなかったね」
 そう言ってみんなに笑いかけた。

 モブリットがリヴァイとエレンを連れて戻ってきた。最後に足を踏み入れたエレンは後ろ手に扉を閉めてくれた。表情はとても堅いが、現場での顔色の悪さは改善したように見えた。
 だがエレンは扉前から動こうとしない。いろいろ躊躇させるものがあるのだろう。

 リヴァイがハンジのそばまで歩きながら、
「待たせやがって、すっかり日も暮れたじゃねぇか。クソでも長引いたか」
「そんなことないよ、快便だったけど。検証に時間かかっちゃって」
「てめぇらだけぬくぬくしやがって」
 と眉を吊り上げ、暖炉に向かって顎を尖らせた。ずっと廊下で待機していたから寒かったのだろう。そのせいか分からないが機嫌も悪そうに見えた。
「それで?」
 リヴァイがハンジに説明を求めると、さきほど真琴たちに話した内容を彼女が述べた。

 するとエレンが、
「確かに、砲弾を防いだときと状況が似てます」
 変なものを見る目で自分の手を食い入る。
「でもスプーンを拾うために巨人化したなんて。何なんだ、これは……」
 ぐーぱーしているエレンの手をハンジも食い入る。思考を巡らすように唸ってから、真琴の腕を引き寄せて耳打ちしてきた。

「前に『しょくもつれんさ』の話してくれたよね」
「は、はい」
「人を食べる存在の巨人。これが頂点なんだっけ?」
 思案して真琴は視線を彷徨わせる。
「……ですが連鎖のサイクルにのらないんですよね。数も多いし自分で生産もできないし、食べなくても生きていける。人間がサイクルにのらないのとは、ちょっと違うような気もして」

「増え過ぎた人類がどうのこうのってやつは?」
「人間の数を減らしたいだけの虐殺であっても、やっぱり可怪しいと思います。彼らは生物ですから」
「『しょくもつれんさ』の摂理に反するか」
 言ってから耳打ちをやめて独りごちる。
「これが自然に発生したものとは思えないな。……となると何の意味があるんだ」

 それは真琴も考えていたことだ。例えば生物の進化には必ず意味があるのだ。海で誕生した生物が陸に上がるために進化したように、環境に適応するために必要だからだ。
 では巨人はどうだろう。彼らが突然生まれたわけがない。ならば何の生物から進化したのかと考えたとき、その理由が見つからないのだ。

 であるならば進化ではなくて意図的に発生させられたのだろうか。(それは誰に? 何のために?)
 ここまで考えを膨らませた真琴はかぶりを振った。意図的になどもっとあり得ない。そんな科学技術がこの世界のどこにあるというのだ。
(でもそうなるとエレンを巨人化に導いた注射の液体ってどこで製造されたのかしら。それとも注射は巨人化とは関係ないの?)

 同じことを思っているのかさだかではないが、ハンジも深刻そうに考え込んでいるようだ。ようやく顔を上げた彼女はさらに難しい顔をして口にした。
「やはり巨人は未知数だ。となると人類の味方をするエレンは貴重だし、人に戻る方法を考え直したほうがいい」
「むやみに傷つけるべきではないと?」
 リヴァイが横目を投げるとハンジは重く頷いた。
「下手をしてエレンを失う損失は計り知れないかもしれない」
 言ったあとでハンジは取り繕う。
「リヴァイ班のみなさんの腕を疑ってるわけじゃないんだけどさ。でも次の壁外調査まで時間ないしな……」

 陣形の全体訓練も控えているし、ハンジがじっくりと方法を練り直す時間を確保することは難しいのだろう。旨意を汲み取ったのかリヴァイが首肯の姿勢をみせた。

「分かってる。作戦を破綻しかねないような無茶はしたくないってことだろ」
「うん……今回のところは」
 よかったと真琴は思った。少なく見積もっても次の壁外調査まではエレンの検証はおこなわれずにすみそうだ。

 そしてそれは突然起きた。
 ――リヴァイ班の四人が自分の手の甲を噛んだのだ。
 彼らは真剣味を帯びた瞳で見交わし、浅く頷いたあとでエレンと同じことをした。エレンが驚いて眼を見張っている。
「な、何やってんですか!?」

「これはキツイな。お前よくこんなの噛み切れる」
 手をさするエルドにグンタが同意する。
「俺たちは判断を間違えた。そのささやかな代償だ」と言って、「だから何だって話だがな」と表情堅く笑う。

 呆然とするエレンを見てオルオが吠えた。噛んだ手が痛いのか震えているようだ。
「お前を抑えるのが俺たちの仕事だ。それ自体は間違ってねぇんだからな!」
 ごめんね、エレン。とペトラは謝った。
「私たちってビクビクして間抜けで失望したでしょ。ひとりの力じゃたいしたことできない。だから組織で活動するの」
 だから、とペトラはエレンに摯実さをみせた。
「私たちはあなたを頼るし、私たちを頼ってほしい。私たちを信じて」

 エレンは戸惑っているようだった。頷くこともせずにただペトラを見つめていた。敵意が剥き出しだった彼らに、突として信用しろと言われても心がついていかないのかもしれなかった。
 溝はすぐには埋まらない。けれどこれからゆっくり築いていけばいいじゃないか。――信頼関係を。

 真琴は自分の手の甲を見つめた。「きっととても痛い」そんなことに少々恐れながら、みんなに倣って噛み切ろうとした。
 唇に触れる寸でのところで手首を掴まれた。力んだ両目を微かに開ける。冷めた表情に唖然さが滲むリヴァイがそばにいた。

「お前はいい」
「でもボクもっ。……リヴァイ班じゃないですけど」
 付け加えた語句は寂しさを感じさせた。
 リヴァイが少し気まずそうに眼を泳がす。それから表情を取りなして瞳を上げた。
「お前はあいつらとは違うだろ。エレンをはなから信じてたじゃねぇか」
「あっ、そうか……」
 眼をしばたたかせた。はじめからエレンを疑っていない真琴がいまさら誠実さを証明する必要はなかった。

「馬鹿な奴だ。いらねぇ傷を増やすこたないだろ」
「本当はちょっと躊躇ってたんで。痛いだろうなって」
 手を見せるふうにして真琴は困り笑いをした。それからみんなを見る。

「リヴァイ班、絆が深まりましたね」
「どうなることやら」
 そう言うリヴァイは満更でもなさそうだった。まだ痛む手をさすって、それでも笑顔を見せている彼らを柔和な瞳で眺め入る。
 そんな瞳を見て改めて思ったのだった。この人は真に仲間を大切に思っているのだと。
 後ろで手を組んだ真琴は悪戯に覗き込んだ。

「リヴァイ兵士長はやらないんですか?」
「何をだ」
 向き直るリヴァイに手を噛むふりをしてみせた。つんとリヴァイは顎を上げる。
「俺はもうやった」
 真琴は一瞬眼を瞬かせてから合点がいった。ああ、と笑う。
「そういえばそうでしたねっ」

 リヴァイがまっすぐな瞳で射抜いてきた。
 一拍して真琴はひやりとした。慌てて軽い口を覆うが言ってしまったものは巻き戻せない。
 胸中は荒れ狂う風雨みたいだった。そんな真琴を一瞥してリヴァイがふっと瞳を逸らした。
「適当に相槌打つのはやめたほうがいい。そういう奴は嫌われる」

 どうやら何でも話を合わせる奴だとリヴァイは判断したらしい。とても不本意だがこの場はそれで通すしかない。

「考えなしによくやっちゃうんですよねっ」
 苦虫を噛み潰して真琴は笑うしかなかった。


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