27.のけ者にされているようで気が滅入る

 一人食堂で夜明けを待つなど、のけ者にされているようで気が滅入る。
 誰も居なくなった食堂で、真琴は消極的になりつつある思考を振り払った。一人ならば堂々と顕微鏡が使えるではないか――と。

 荷物の奥のほうに隠してある顕微鏡を、引っ張り出して卓子に置いた。あらかじめセットされている五十倍レンズを取り外して、三百倍に変える。
 これはもしものときの保険だ。顕微鏡を所持しているだけでも珍しがられてしまうが、もっと拙いのは三百倍レンズが露見されてしまうことだ。だから国で認可されている五十倍も一緒に用意してくれたのだった。

 まずは誰のから見てみようか。比較対象のエレンは最後がいいかもしれない。
 ペトラのスライドガラスを手に取った。前もって作っておいた酢酸溶液をスポイトで一滴垂らすと、薄い紅色が乾いた唾液の跡に広がっていった。
 中学三年生のとき似たような実験を理科で行った。このとき先生が言っていたのだが、細胞は染色してやらないと核まで見えないのである。適しているのは酢酸カーミンだが、代用品を簡単に作れることも教わった。酢酸と食紅を混合することで可能なのだ。

 スライドガラスを顕微鏡にセットして観察してみた。薄紅色に染まった丸形の細胞の中に、やや濃く染まったごくごく小さな核が見えた。何個も点在していて、きらきら光る粒子も確認できる。
 同じようにして真琴とエレン以外の細胞も観察した。結果は異ならず、変わった箇所はなかったように思えた。

 次いで真琴は自分のスライドガラスをセットした。レンズ越しに拡大された細胞はみんなのものと大差ないようだ。ただし光る粒子は見当たらなかったので、みんなのものには埃でも混ざってしまったのかもしれなかった。

 今度は目玉であるエレンのスライドガラスを手に取った。顕微鏡にセットして覗き込もうと眼を近づけた。
 背後に空気の流れと人間の気配がして脊髄反射で振り返った。強張った真琴の眼に映っていたのは表情のないリヴァイだった。
「なんで……寝たのでは」
 開いた口内が瞬く間に干上がっていく。思ったよりも集中しすぎていて背後に立たれるまで気づけなかった。

 顕微鏡に向かってリヴァイが顎をしゃくった。
「そんなもの、なぜお前が持ってる」
 名称を知っているのであろうか。真琴は一向に分泌されてこない唾液を無理に嚥下した。
「確か顕微鏡といったか。以前、憲兵団の研究室へ巡検したとき、それを見たハンジがひどく欲しがっていた」
「これは、その……」
「とても高価なものだと聞いた。城をひとつ建てられるほどらしい」

 そんなに値打ちのあるものなのか。真琴は緊張の咽喉を下げた。えらい唾が苦く感じる。
「ボクの……家は、えっと」
 途切れ途切れに言いかけたら、リヴァイが語をさらってきた。
「お前は貴族出だったな。ならばそんな物の一つや二つ、所持していても可怪しくはないか」
「そ、そうなんです。何個も……あります」

 百歩譲ったって言葉通りには聴こえなかったが、リヴァイがそう言うのならいまはそれに乗っかっておこうと思った。
 それよりも拙いことがある。
「あいつらから採取した組織を見ていたのか。ルーペよりもさぞ良く見えるんだろう」
 言いながら真琴を覆い挟むようにしてリヴァイが背凭れと卓に片手を突いた。
(拙いわ。いまセットされているのは三百倍レンズなのに)
 誤魔化し笑いをする。背中に粘りのある汗が伝う感触。

「あ、あの! レンズが曇っちゃってるのでほかのに」
 変えます、と語尾まで言わせてもらえなかった。リヴァイが顕微鏡を覗き込んでこようとしたからである。
 焦った真琴はリヴァイの胸許を押しのけようとした。だが微動だにせず迫ってくる。「だめ!」と心の中で叫んだときにはもう手遅れだった。

「ほう」覗き込んだままのリヴァイから関心したような声が上がった。「これが組織か。いやにめちゃくちゃだが」
「めちゃくちゃ?」
 焦りが吹き飛ぶくらいに真琴は眼を見張った。
「間抜けな面になってるぞ」
 視線を顕微鏡から外したリヴァイが怪訝に見てきた。
 おそらく彼は初めて細胞を見たに違いない。だから「めちゃくちゃ」だなんて表現になったのかもしれなかった。
「これエレンのなんですけど、ボクまだ見てないんです」

 頭の片隅に何か引っかかるものを予感しながら、真琴も顕微鏡を覗き込んでみた。
 と、思わず眼を見開いた。――なるほど。これではリヴァイが「めちゃくちゃ」と言うのも分かる。
 核も核を取り巻く細胞も、全体に渡って形は歪に崩れていた。加えて真琴たちのものと比べると、細胞が重なり合うように密集していて中心の核が肥大化している。それに核の色がずいぶん濃い。採取に失敗したのだろうか。

「ほんと……めちゃくちゃですね」
 覗き込みながら呟くと、真琴の頭に柔らかく触れたものがあった。咄嗟にこめかみ付近を押さえて横を向く。
 眼前にリヴァイがいて、切れ長の瞳と視線が絡んだ。
「いま何か……しましたか?」
 いや? とどこかクールに彼は首を傾けて、
「エレンのなのか? ほかの奴のを見せてみろ」
 いくぶん興味ありげに催促してきた。
(唇? ううん、そんなわけないわ。だっていまは男なのよ)
 大人しく指示に従う真琴は、いましがたの感触に心当たりがあって耳を熱くさせていた。

「これが、エルドさんのです」
 確認したリヴァイが顎をさすった。
「普通はこう見えるのか。最初に見たのがエレンと言われなければ、年寄りのものと勘違いしそうになる」
「年寄り……?」
 真琴は眼をしばたたいた。リヴァイが片眉を上げる。
「普通は円形を帯びてるんだろ? それが歪んでいるということは、年齢を重ねたせいだと漠然と思っただけだ」
「老化……」

 自分で口をついた言葉に眼を見開いた。
 似たような事例を知ってはいまいか。――あれは冬場の乾燥が激しい季節。化粧水を選ぶため、美容部員に肌診断をしてもらったときのことである。
 乾燥が激しい頬の部分を特殊カメラで拡大すると、きめが荒くボロボロだった。反対に手首の裏側はきめが細やかだった。
 エレンの細胞と似てはいまいか。問題はそれが内側で起きているという事実だ。

 そういえば巨人化のあと、エレンは身体がだるいと不調を訴え、鼻血が出たと言っていた。巨人化と引き換えにエレンの身体が蝕まれているのだろうか。老化というよりは細胞を壊されている可能性があり、本当ならば命に関わる。
 まだ手を突いているリヴァイとの距離がとても近い。意識してしまい、真琴は吐息を極力押さえて口を開いた。

「組織を取るのに失敗したのか、これが正しい結果なのか、曖昧なんですが」
「言ってみろ」
「老化……なのだとしたら、巨人化が影響してると思うんです」
「それで?」
「身体を蝕んでいるということです。むやみに巨人化させては危険だと思います」

 リヴァイが真意を問うように眼を細めた。
「エレンの実験は必要だ。曖昧だからこそ俺たちはしっかりと認識しておかなくてはならない」
 真琴は唇を噛んだ。
「ならば俺を納得させてみろ。お前の説に意義を見い出せたなら、エレンの実験は必要最小限に留めてやってもいい」

 それには生物学的な説明が必要不可欠だった。細胞が通じない世界で突拍子もない話をすれば、確実に異質なものと捉えられる。が、それでもエレンを思えば知っていてもらわないといけない。
 腹を据えて、リヴァイの鋭い眼つきに負けない勢いで見返した。

「組織のことを『細胞』と呼ぶのですが」
「さいぼう」とつたなく口ずさんだリヴァイが首を傾けた。真琴は頷いて続ける。
「人間は細胞の集合体でできています。それは絶えず分裂を繰り返して、生まれ変わるんですが。年を取ると分裂しなくなっていくんです」
 リヴァイが眉根を顰めて口にする。
「さいぼう分裂の、限界があるということか?」

「そうです。人間は一生のうち、細胞分裂の回数が決まっています。その周期が早まるということは」
「それだけ死期が早まる」
 真琴は頷いた。
「エレンの細胞はもしかしたらもう限界が近いのかもしれません。そうでないとしても、これだけ壊れているということは修復する余力がないということです」

 リヴァイがまっすぐに見据えてきた。
「分かった、心に留めておこう。だがエレンの力が、ウォールマリア奪還に必須なのは変わらない」
 真琴は眼を剥いた。
「少年の命と引き換えにしても良いと!?」
「街の現状を知らないから感傷的になれるんだ。五年前と状況は何ら改善していない。土地を失い、職を失った人間が日々苦しんで暮らしている。一人の命と何万の命、どっちが重いか明瞭だろ」

 言っていることは穿った見方だ。だが真琴は拳で卓子を叩かずにはいられなかった。
「人の命に重いも軽いもないっ」
 静かな口調で悟らせるようにリヴァイは綴る。
「理想論だ。世の中そう甘くはない。分かってるだろ」
 声音は不条理感が残るものだった。きっとリヴァイもこんなことを告げるのは辛いのかもしれない。それが真琴に充分伝わったから、ただ俯くことしかできなかった。

 それから一応五十倍のレンズでも確認してみた。結果は薄く膜の張った紅色が見えただけで、細胞を視認することは無理だった。
 結論としては何とはなしに感じていたことであった。防衛戦で片腕を失くしたエレンは気づいたら元に戻っていたと言っていたし、折れた歯も再生していた。それらを考慮すれば身体を再生させるのに途方もないエネルギーを使うだろうことは言うまでもない。
 こんなことを何度も続けていたらエレンは命を削ることになる。この可能性を発見したことは無駄ではないとは思うが、もっと徹底的な秘密を見つけたかったと真琴は密かに残念に思っていたのだった。

 ※ ※ ※

 翌朝、食堂ではリヴァイ班とハンジ、あとから駆けつけてきたモブリットで額を集めていた。何の話し合いかというと、ハンジの最大の目的であるエレンの実験についてだった。
 朝からすべての窓を開け放しているので、冷たい空気が部屋をより緊張させている。ハンジが不適に眼鏡を上げた。

「じゃあ今日は、エレンの巨人化をこの目で見させてもらうよ」
「お前のわがままを聞いてやるんだ。あとで草むしりを一人でやれよな」
 午前中の予定に草むしりを組んでいたリヴァイが、忌々しげにハンジを睨んだ。
「どのみちエレンについては、ちゃんと認識しておかないといけない。草むしりなんていつだってできるじゃない」
 ハンジはていよくあしらって、
「さっそく移動しようか。ここから馬で二十分ぐらいの場所に放置された牧草地帯があるんだ」
「待て」
 リヴァイが曖昧ではない口調で言って卓子を指で叩いてみせた。

「エレンが巨人化したとして、そのあとこいつをどう処理する。自力で巨人から出られるのか?」
 エレンよ。とリヴァイに訊かれて彼は自信なく首を振った。
「それが分からないんです。巨人になった二回とも自然と出てきたらしくて」
 不安そうな上目でリヴァイを見る。
「あの、もし俺が自分を制御できなかった場合」
 言いにくそうな弱い語気だった。ここにいる全員はエレンが何を不安に思っているのか感づいていることだろう。

「巨人の弱点である、うなじから出てくんだろ」
「らしいです……」
 視線を伏せたリヴァイが思案するように顎をさすった。寸刻して手許にあるペンを取り、
「お前を半殺しに留める方法を思いついた」
 紙にペンを走らせる。
「巨人化したお前を止めるには、殺すしかないと言ったが――」
 そんなことを言ったのかと真琴は渋い顔をした。いつもながらの乱暴な言葉にも不快になる。
「このやり方なら重傷ですむ。とはいえ個々の技量頼みだがな」

 淡々とリヴァイは前置きして、簡単にかかれた絵を真ん中に滑らせた。絵を覗き込むみんなの視線の中で、点線で何やら描き加える。
 人型が描かれた絵だった。アメリカンフットボールを連想させる点線ですっぽり囲われている。これがみんなの前でリヴァイが付け足した部分だった。

「要はうなじの肉ごとお前を切り取ってしまえばいい」
「なるほど、考えたね」
 ハンジが頷いた。
「手足の先っちょを切り取ってしまうが、どうせまたトカゲみてぇに生えてくんだろ? 気持ち悪い」
 リヴァイの語尾には嫌悪感が含まれていた。そんな眼で見られたから分からないがエレンが顔を青ざめる。

「ま、待ってください……。どうやって生えてくるとか分からないんです……。他に何か方法はないんですか」
「ボクも反対ですっ」
 両手を突いて真琴は身を乗り出した。
「むやみにエレンの身体を傷つけることは反対ですっ」
 力強く眼でリヴァイに訴えた。昨夜の話を忘れてしまったのだろうか。彼は平淡に真琴を見据えてからエレンを見た。

「何の危険も冒さず、何の犠牲も払いたくありませんと?」
「い、いえ……」
「なら腹を括れ」
「待って! そういう問題じゃないんです! 昨夜の話、覚えてないんですか!?」
 口を挟んだ真琴はリヴァイに鋭く睨まれた。
「黙ってろ」
 真琴を黙らせたリヴァイは、エレンに向かって言い放つ。
「お前に殺される危険があるのは俺たちも同じだから安心しろ」
 互いに命がけということらしい。まだ不安げであったが、一応は納得したのかエレンがぽつりと呟いた。
「分かりました……」

 ずっと見届けていたハンジが、うずうずしていそうな唇を開いた。
「じゃ、じゃあ実験に移っていいよね?」
「リスクは大きい。だがこいつを検証しないわけにもいかないからな」
 エレンの身体が心配で真琴は物申そうと口を開きかけた。けれど空気を呑んだだけに終わった。
 隣に座るモブリットが肩に手を置いてきた。安心させようとする、もの柔らかさがあった。
「大丈夫だよ、ちゃんと生えてくるさ。ハンジ分隊長も言っていたけど、抜けた歯すら生えてきたんだろう?」
「普通の人間ならそんなことあり得ないんです。だからエレンの身体が心配なんです」
 俯いて力なく吐き出すしかなかった。

「ハンジ」
 みんなが立ち上がって移動しようとしたとき、リヴァイが凛と声を上げた。
「ただし実験は一回のみだ。その一回目でエレンが巨人化に失敗したら今日はそれで終わりだ。いいな?」
 えーっ、とハンジが明らかな不平顔をした。
「たったの一回じゃ検証しきれないよ! 時間はたっぷりあるんだから一日中かけて」
「だめだ。このあと大事な掃除の予定もある。約束を守れないのならエレンは貸さん」
 鮮明に言い渡されたハンジは、しぶしぶながらも頷いたようだった。

 ぞろぞろとみんなが食堂を出ていく。
 続こうと立ち上がったとき、まだ直立したままのリヴァイと瞳が交わった。悠然と真琴を見つめてから、さっそうと身を翻して食堂をあとにした。

 ひょっとして、真琴の意見を少しでも取り入れてくれたのだろうか。しかしながら一回だけだとしても相当な負担がかかるはずだ。
 だからといって実験をしないわけにはいかないことも理解している。エレンだって自分から望んで調査兵団に入ったのだし、巨人の力を行使することも了承ずみなのだ。ならば外野の真琴は黙って見守ることが一番なのだろう。
 でもだって。さっきからこの言葉ばかり、真琴の思考をぐるぐると回り続けていたのだった。


[ 99/154 ]

*prev next#
mokuji
しおりを挟む
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -