26.疎外感とまではいかなくても

 閉め切った広い食堂の一角で、ひとつのオイルランプの灯火が閑やかにたなびいていた。たまに大きく炎が揺れるのは、どこかから隙間風が入り込んでいるせいだろう。あちこちにヒビが入っている石壁を見やれば別段不思議ではない。

 夕飯が終わり、リヴァイ班は紅茶を嗜みながら談話をしていた。といっても彼らのそれは単なる雑談ではなくて、今後の調査兵団の動向についてのものだった。
 買い出しで街に出ることはあっても、ほぼ古城で缶詰を余儀なくされているリヴァイ班は、情勢に疎くなっているようだ。疎外感とまではいかなくても、不安と焦りがいまここにいる彼らの顔に影を落としていることは歴然だった。

 入れたての紅茶を、一口含んだペトラが真面目な顔で話を切り出した。
「いつまでここで待機していればいいのかしら」
「我々への待機命令は、あと数日は続くだろうな」
 エルドが回答した。
 紅茶にミルクを垂らしながら、
「新兵勧誘式が控えている。本部もゴタゴタしてるんだろ」
 とリヴァイが言った。

 新兵勧誘式。三年間訓練兵団として鍛錬してきた者が、三兵団のうちどの兵団へ入団するのか決める式だ。
 みんな眼を伏せ気味に黙りこくってしまった。今年度の訓練兵がどれくらい調査兵団を志望してくれるか、気がかりなのかもしれない。
 静かな石壁の空間でぱきぱきと乾いた音が目立つ。真琴がクルミを割っている音だった。

 オルオが注意したいような眼つきをみせる。
「緊張感のない奴だな」
「ごめん、お腹減っちゃってさ……」
 オルオの小言にも慣れたものだ。受け流して実を口に放り込む。
「多目に見てあげなさいよ。パンとサラダぐらいしか真琴は食べてないんだから」
 ペトラが庇ってくれた。
 本日の献立はスープに肉が入っていて食べられなかったのだ。パンもごく軽いものでたいして腹に溜まらなかった。総菜パンが恋しいと真琴は思いを馳せてまたクルミを割る。

(新兵がどれくらい入るのか、気になるなら現役だったエレンに聞けばいいのに)
 一日ここにいて感じたが、やはりエレンの発言通りだと思った。リヴァイ班のみんなが自分たちより歳がいくらも離れている少年に、よそよそしい態度を取っているとは俄に信じられなかった。であるからエレンがネガティブになっているのかもしれないと少し思っていたのだけれど。
 だがそう真琴が思いたかっただけなのかもしれない。信用している仲間が、自分が信用している人間を受け入れてくれないことが遺憾だからだろう。そう思いながら真琴は話を振った。

「エレンの周りで調査兵団を志望してた子っていたっけ?」
 確信があるのはミカサとアルミン。ほかにいないだろうか。
「いたけど……」
 エレンは言ってから暗く顔を伏せた。
「いまは……どうかな」
 辛そうな顔だった。もしかしたら志望してた子が先の戦闘で亡くなったのかもしれない。
 クルミを割る手を動かせずにいたらグンタが訊いてきた。
「真琴には心当たりはないのか」

 言ってしまえば心当たりはないのだが訊かれて気づいた。この質問は酷なものだった。あの悲惨な現場を経験した者からしたら酷なものだった。
 ともに闘って生き残った訓練兵たち。巨人の恐さも知った。そんな彼らが入団してくれたら戦力になるだろうと思う。けれど経験してしまったからこそ恐れて来てくれないかもしれない。

「才能のある子はいました。でも恐怖を知ってしまったから……」
「五年前と同じだな。あのときは例年よりもかなり少なかったと聞いた」
 エルドは腕を組んで、
「今回はもっと顕著かもしれないな」
「正義感で入ってくる奴も、初の遠征で狂って除隊する奴が毎回でるしな。今年はもうその恐怖を味わっちまってるから、下手すると志望ゼロってことも」
 グンタの続きの語をエルドが頷いて引き継いだ。
「あり得る」

 エルドは先を続ける。
「極めつけにこんな情報もある。同僚から聞いた話なんだが、勧誘式から一ヶ月後には大規模な壁外遠征を考えてるらしい。それも今期卒業の新兵を混じえると」
「ああ、私も聞いたよ。それ」
 さっきから頬杖を突いて、あくびばかりしているハンジが頷いた。

 そりゃ本当か? と堅い表情に驚きを含ませたグンタが聞き返す。
「ずいぶん急な話だな。それを知ったらますます入団してこないんじゃないのか」
「ガキ共はすっかり腰を抜かしただろうからな」
 澄ました顔でオルオが口にした。喋り方の節がリヴァイのようだった。

 躊躇いがちに真琴は疑問を呈する。
「珍しいことなんですか? 新兵を間がなく駆り出すのは」
 気の毒だが志願して調査兵団に入るのなら、兵士として任務に着くのは普通のことのように思える。
 真琴の小さな疑問に隣のペトラが答えてくれた。

「そうね。新兵には覚えることがたくさんあるし。――長距離索敵陣形の基礎だったりね。だからいつもなら大体半年後くらいが常なんだけど」
 言葉を切ったペトラはリヴァイに視線を移す。
「けど本当ですか? 急ぎ過ぎなのでは」

 紅茶を飲もうとカップを手にしていたリヴァイが口を開いた。
「作戦立案は俺の担当じゃない」
 淡々と言ってからカップに視線を落とす。
「奴のことだ。俺たちよりもずっと多くのことを考えてるだろう」
 奴とはエルヴィンのことに違いない。定石を覆してまで新兵を壁外へ連れていくことに、いったい何の意味があるというのだろうか。

 話が途切れた。切りのいいところを見計らってハンジに目配せをした。もちろん今後の動向は気になるが、それよりも――。
 真琴の請う視線に気づいたハンジが思い出したように両手を叩いた。四方が石壁の空間で、晴れやかな音が反響する。
「そうだそうだ、ここに来たのはほかでもない! ――ってわけでもないけど」
 と明朗な声で、
「みなさんから組織をいただきたくてね」

 突然だったので周囲は巧く反応できなかったようだ。
 呆然とした中で真琴は椅子から立ち上がり、置きっぱなしの荷物から採取キットを取り出した。中には人差し指大の薄い木ヘラとスライドガラスが入っている。
 椅子を引きずって腰掛け直した。その音で我に返ったオルオが控えめながらも苦い顔をみせた。

「組織って……どっか切り刻むんすか?」
 明らかに嫌そうな態度だ。若干身体が引き気味だった。
 ハンジが眼を丸くしたあとで、
「ぜーんぜん痛くないから大丈夫!」笑いながら言って、「……らしいよ?」と最後を疑問系で締めた。
 そんなハンジにリヴァイが胡散臭い眼を寄越した。
「らしい? 何かの実験なんだろ。なぜ曖昧なことを言う」

「私もまだ試してないんだよね。でも痛くないんでしょ? 真琴」
 話を振られたのでしっかりと頷いた。
「少しくすぐったいだけで、すぐ取れますから」
 自分の世界で何度も経験したことだから自身を持って言える。問題は素人が採取するので巧く取れるかが不安だけれど。

 リヴァイがハンジに向かって不審に眉を顰めた。
「なぜ真琴に訊く」
「何でって真琴のアイデアだから」
 清々しいほどにハンジはあっけらかんと答えた。
 リヴァイがさらに眉を顰める。真琴に向かって言う。
「どういうつもりだ。なぜハンジの実験にお前が首を突っ込む」

 眼が怖くて真琴は視線を手許に落とした。意味もなく採取キットの蓋を開けたり閉めたりする。
「その……。ハンジさんを手伝うことで世の中が良くなったらいいな、って思いまして」
「慈善事業か。その言葉に偽りはねぇだろうな」
 真意を計るように真琴はゆっくりオウム返しした。
「偽り……?」

 真琴に対するリヴァイの、甚だしいほどの辛辣さに周囲は固唾を呑んでいた。
 無重力空間に突如として放り投げられた気分である。酸素がないから呼吸ができない。誰か助けてと叫びたい衝動に駆られる。
 そんな折り、無理した感じの調子外れな声が上がった。

「顔が怖いよ、リヴァイ!!」
 立ち上がったハンジは笑み全開でリヴァイのそばへ行く。彼の顔を両手で挟み込んだ。
「眉間が皺だらけだ! 癖がついてからじゃ困るのはあなたなんだよ。皺ほど年齢を表す悲惨なものはないと思うし」
 そう言って親指でリヴァイの眉間をほぐすふうにする。
 腹の底から嫌そうにリヴァイが手で払った。
「気安く人の顔に触れてくんな」

 ハンジがわしわしと痒そうに頭を掻いた。
「もう夜も更けてるし、みんな疲れてるんだしさ。――いいよね? 組織採取させてもらっても」
 見回してみんなの反応を窺うハンジに、ペトラが不安げながらも頷いてみせた。
「痛く、ないのなら私は別に……」
 ペトラが口にするとほかのみんなも微妙な顔であるが頷いてくれた。
「みなさんいいって言ってるし。――いいよね?」

 ハンジが駄目を押すとリヴァイが腕を組んだ。そしてハンジに返すというよりは、真琴を鋭利な眼で見据えたまま口を開いた。
「俺の部下を危険に晒す行為じゃねぇだろうな」
「だから言ってるでしょう、全然痛くないんだって」
 困り顔でハンジが笑った。

 どうにも気まずいがここは耐えねばならない。真琴は横を向いてさっそくペトラから始めることにした。
「口開けてくれる?」
「え? 口?」
 ペトラがきょとんとした。
「うん。ほっぺたの内側を、これで擦るだけだから」
 怖がらせないように笑顔で言って木ヘラを掲げてみせる。

「まずボクからやってみるね」
 手鏡を持って口を大きく開けた。右手で左頬の内側を数回擦ってから、目視できない取れたであろう上皮細胞をスライドガラスに再び擦りつけた。
 唾液が少し乗っただけのガラス板を見て真琴は不安になる。これで本当に細胞は取れたのだろうか。
 ペトラが不思議そうに覗き込んできた。

「何もないじゃない。ただ唾液があるだけよ」
「ここに組織が含まれてるはずなんだ」
 自信がないけれどそう返して、新しい木ヘラをペトラに向けた。
「じゃあ、いいかな?」
「うん」
 真琴のやり方を見て痛くなさそうだと安心したのだろう。ペトラは素直に口を開けてくれた。

 向こう側にいるハンジはハンジで組織を採取しているようだ。
 近くに座る人から真琴は順番に細胞を取っていった。エルド、グンタ、オルオ、そして一番の目的であるエレン。採取したものはスライドガラスへそれぞれ移し、誰のか分かるように名前を書いた。
 これだけあれば比較するのには充分かもしれない。リヴァイからはどうしようか。彼は機嫌が悪そうだからちょっと怖い。
 と真琴がリヴァイを見やると、彼はいままさにハンジから細胞を採取されようとしていた。
 満面の笑みで木ヘラを差し向けてくるハンジに、彼は片目を細めてみせた。唇を真一文字にして、座ったままだがなるだけ遠ざかろうとしている。

「怖くないよぉ。はーい、あーん!」
 嫌そうに舌打ちし、リヴァイがハンジから木ヘラを奪った。
「気色悪い。自分でやる」
 おい! と真琴を呼ぶ。
「勝手が分からん。やり方を教えろ」

 急なことで返答に詰まった真琴は、一拍置いてから「はい」と返事をしてリヴァイの傍らで屈んだ。
「えっと、頬の内側から――」
 やり方の説明をしようと思ったらリヴァイが無言で口を開いてきた。
 真琴は眼を丸くした。これは、お前が採取しろということで良いのだろうか。
「早くしろ、口の中が乾く」
「……では失礼して」

 取り終わったあとで、リヴァイは神妙な様子で片頬をもごもごさせた。それから手に持つ木ヘラを同じような要領で口の中へ入れる。再度取り出した木ヘラをハンジへ突き返した。
 真琴とハンジは各々の席へ戻った。ハンジはポケットからフォールディングルーペを取り出し、早速検証し始めた。
 ルーペを眼に当ててスライドガラスを注視している彼女が、残念そうな唸り声を上げた。

「何も見えないな。涎しか……」
「唾液の中に何か見えませんか? カスっぽいのとか」
「何にも。真琴も見てごらん」
 そう言ってハンジがルーペを投げてきた。危なっかしく受け取って、自分のスライドガラスを覗き込む。
「ほんとだ……」

 十倍では唾液の泡しか見えなかった。真琴は幾分不安になる。カスくらいは見えると思っていた。よほど倍率が高くなければ見えないか、それとも細胞が取れていないか、どちらなのだろう。本当に三百倍で見えるのだろうか。
 ハンジは落胆を露わに背凭れへ寄りかかった。頭の後ろで腕を組む。
「夢を見過ぎたな〜。何か変革が訪れそうな予感がしたのに。残念感が半端ないや」
 真琴は黙って各スライドガラスを箱にしまう。どちらにせよ、みんなが寝静まったあとでなければ顕微鏡は使えないのだから。

 ルーペでは何も見えなかったというのに、さほど落胆していないのはなぜなのか。そんな眼で静かに真琴を見据えていたリヴァイが、卓子に手を突いて立ち上がった。

「消灯時間だ。明日も掃除が控えているしな」
 あ。とハンジが声を上げた。
「私と真琴はどこで寝ようかな。部屋空いてる?」
「ネズミの死骸だらけな部屋なら空いてる」
 リヴァイから平然と言われてハンジは苦笑した。

「君たちの部屋以外は、手を付けてないってことか」
 言ってから、ハンジの視線がペトラに移った。反対にペトラはすぐさま眼を逸らす。やや顔が引き攣っているようだ。
「んじゃあペトラの部屋で寝ることにするわ。女の子同士だしね」

 断りたいような色が表情に出ているが相手は上官だ。ペトラが小さく、「何のお構いもできませんが……」と答えたのが聞こえた。
 明日ペトラは寝不足で隈が酷いかもしれない。どうしてだかうずうずしているハンジは、見るからに話し足りなそうに見えたからだ。これは巨人談話につき合わされること間違いなしだろう。
 さて真琴はどこで一夜を明かそうか。オルオたちはどうかと思ったが彼らは三人一部屋らしいのだ。真琴が加わると狭いだろうし、男に囲まれて寝るのは抵抗がある。となると、

「エレン、一緒にいいかな?」
「えっ。――えっと、俺の部屋は」
 エレンは言い淀む。リヴァイが口を挟んできた。
「エレンは駄目だ。こいつの部屋は地下室だが――」
「地下室!?」
 真琴は片眉を下げた。上辺など気にせずに非難を表に出す。

「どうしてですか? エレンは審議所でもずっと地下に閉じ込められてたんですよ。それに――同じ班の仲間じゃないですか」
「こいつは自分自身を掌握できていない。寝ぼけて巨人になった場合どうする。そこが地下ならその場で拘束できるだろ」
 真琴は両膝のズボンを握りしめた。
「だからってっ……」
「勘違いするな。俺はエレンをいじめてるんじゃない。これはこいつの身柄を手にする際に、提示された条件の一つ。守るべきルールだ」

 まっすぐな瞳で返されては敵わない。それが上から言われたことならば従わなければならないのは道理だろう。
 エレンは俯いていた。真琴が妙な哀れ心をみせたからエレンは余計に傷ついたに違いない。真琴がここへ来る前にもきっと同じことを言われて辛かっただろう。要らぬことを思い出させてまた傷口を抉ってしまった。
 胸が痛くてそこを強く握った。リヴァイが真琴に言い聞かせるように続けて言う。それは残酷な言葉だった。

「俺たちが選ばれたのは、エレンが巨人の力を行使した際の抑止力だ」
 その先を聞きたくない。
「こいつが暴走したときは俺たちが――」
「もういい! やめてください! エレンだっているんです!」
 口を挟ませないように、真琴は眼を瞑って声を荒らげた。
「充分分かりました! ちゃんとルールに従います!」
 続いて唇を噛み、絞り出した言葉は弱々しかった。
「だからそれ以上言わないでください……お願いだから」

 しんとなってしまった。そんな重い空気の中でハンジがまた頭をがしがしと掻く。そのたびランプの炎越しに白い埃のようなものがちらつく。
「あー、とにかく真琴はどこで寝ようか」
「私の部屋でもいいわよ」
 遠慮がちにペトラが覗き込んできた。その向こうでオルオが反論したいのか口を曲げている。

 項垂れたままで真琴は首を横に振った。リヴァイが何か言いたげに口を開きかけたが、
「いい、食堂で寝るから。寝袋もあるし平気だよ」
 とぼそりと吐き出した。
 食堂で寝ると真琴が決めれば、リヴァイが言いかけた口をそっと閉じたのが見えた。


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