25.夕日越しに赤く透けて見えた

 昼間顔を見せたきり、リヴァイとはあれからすれ違うこともなかった。そうしてエレンと一緒に掃除に勤しんでいたら、いつの間にか黄昏れが訪れていた。高く澄み渡る空に浮かぶ雲は、夕日越しに赤く透けて見えた。

 今夜の寝床も決まらないまま、荷物だけは食堂に置かせてもらって真琴は厨房に向かった。扉の前までくると、夕餉の準備独特な匂いが漂ってきた。微かに肉の臭いがしたので、掃除のときに使用したナプキンをなるべく隙間なく口周りに巻きつけた。
 誰が作っているのだろうか。僅かな警戒心を抱きつつ入り口をそろりと覗く。眼に入った後ろ姿に安心して声を上げた。

「ペトラ、手伝うよ」
 振り向いたペトラが笑顔をみせた。
「真琴。助かるわ」
「何すればいい?」
 腕まくりをしながらペトラのそばに立つ。かまどからは炎が爛爛と暖かい。
 ペトラは沸騰している鍋をかき混ぜながら、まな板にある包丁へ向かって顎をしゃくった。
「じゃあジャガイモ剥いてもらっていい?」
「了解」

 まな板の前に立ち、床に置かれている段ボールの中からジャガイモを手に取った。難なく剥き始めていく真琴を見て、ペトラが眼を丸くしている。
「意外! 真琴って料理できるんだ?」
「簡単なものならね」

 本当は結構得意である。けれどあまりできるのだと豪語したくはない。巧く世の中を渡っていくためにはこう言っておいたほうが角が立たないのだ。こういう性質は、抑えつけられる社会の中で真琴が学んだ生きる術だった。
 ペトラが鍋にスパイスを入れると、厨房は一気に香ばしい匂いで満たされていった。火加減を調整しながら案ずるような眼を向けてきた。

「少しお肉使ってるんだけど……大丈夫?」
「うん。マスクが利いてるみたい」
 顔半分を隠すナプキンを指差して、真琴は目許に笑みを浮かべた。
「それと身体はもう大丈夫なの? ここにいるっていうことは退院したんだろうけど」
「まだ捻ると胸が痛むことがあるけど、だいぶいいよ」
 レントゲンを撮っていないから、実際に骨がくっ付いたのかはさだかではないが。ペトラが申し訳なさそうに眉根を下げた。

「最初のほうしかお見舞いに行けなくてごめんね」
「なんで謝るの。巨人の殲滅作業ですごく忙しかったって聞いてる。一回でも来てくれてボクは嬉しかった、充分だよ」
「うん。でも真琴が無事で本当によかった。あのとき、兵長が真琴を抱いて壁を登るところを見たときには、ホントびっくりしたけど」
 まだ心残りがありそうな顔でペトラが微笑む。
「なんで真琴が奪還戦に参戦しているのかって驚いたけど。――いつの間にか立派な調査兵になってたんだね」

「……たまには男だってところを見せとかないとねっ」
 得意になった気でウィンクしてみせた。何かを誤魔化そうとしているのを、見透かされていないだろうかと不安だ。
 美しい顔を崩してペトラはやっと笑みらしいものを見せてくれた。可笑しそうに真琴を肘で突いてくる。
「やだぁ! 誰に見せるっていうの?」
「いっぱいいるじゃない。ペトラとか、ハンジさんとかっ」
「残念でした! 私に見せたって意味ないわよ。ハンジ分隊長もどうかしら? 巨人にしか興味なさそうっ」

 明るく笑ってくれるペトラにほっとしていた。
 調査兵だから参戦したのだろうか。あのとき真琴の守りたかったものは何だったのか、よく分からなくなっていたのだ。
 リヴァイの守りたいものを真琴も守りたいと思った。が、それは自己満足に過ぎなくて余計なことだったのだ。そうした結果がリヴァイの生きる道を改めさせるものとなった。そのせいで大切なものが手のひらから零れていったのを、真琴は知る由もないのだがそれとなく感じ取ってはいるようだ。

 マコと一線を引いたのは彼が恐れたからだろう。安らげる場所を手に入れてしまったら、包まれる温かみと幸せを知ってしまったら、もう二度とそこから抜け出せなくなると思ったに違いない。闘いに身を投じることを恐れるようになると二の足を踏ませたのだ。

 そして冷静ではいられなくなる自分を懸念してもいるようだ。目の前で大事な命が失われようとしていたら、我を失うほど感情的になるかもしれないと。
 一人の女に振り回されるようなことがあるなど、リヴァイにとってはひどく恐ろしいことだろう。すなわち自分を殺されることであり、彼にとって愛とは諸刃の剣でさえないただの凶器なのだ。

 けれどいつ――いつリヴァイは気づいたのだろう。身内にそんな自分が存在していると恐れたのはいつだ。思いつくのは奪還線で真琴が巨人に喰われそうになっていたときしかない。しかしそれでは可怪しいではないか。なぜ真琴のときに気づかされたのか。可怪しいではないか――と自問し続けていたのだった。

 せっかく明るい顔をしていたのに、しばらくしてペトラは表情を曇らせた。上目遣いに真琴を見る。
「あのね、ちょっと聞いてもらっていい?」
「うん、いいよ」
 人参の皮を剥きながら頷いた。

「兵長の、ことなんだけど……」
 ちょっと心が動揺した。ペトラのもじもじした様子からは、恋愛関係の話だろうと察しがつく。
「毎晩ね、夜遅くにひとりで出掛けてるみたいなの、兵長」
「外に飲みに行ってるんじゃない?」
「んー、深夜に帰ってきてお酒の匂いもするんだけど、それだけじゃないの」

 何だか言いづらそうにしている。真琴に話しにくいというよりは、ペトラは自分の口から言いたくないのかもしれない。認めたくないというそんな雰囲気が漂う。
 鍋が煮たって吹きこぼれ、蓋が踊っていた。落ち着かない感じで視線を彷徨わせているペトラと、位置を入れ替わる。

「甘い……匂いが」
「うん」
 相槌を打って布巾を手に取った。鍋の蓋を掴もうと腕を伸ばす。
「外から帰ってきた兵長から、いつも甘い匂いがするの。――たぶん、石鹸」

「あっつ!!」
 布巾で包んで取ろうとしたのに、手首のところが鍋に触れてしまった。口走った声を張り上げて、赤味を増していく手首に息を吹きかける。
「大丈夫!?」
「大丈夫じゃない!」
 泣きそうな声でわなないて洗い場の桶に手を突っ込んだ。井戸で汲み上げただろう水は冷たく、火傷の一歩手前の皮膚はひりひりと痛んだ。

 しっかり聞いたけれど念のため確認する。
「えっと何だっけ? ……石鹸が?」
「甘い石鹸の香りで帰ってくるの……」
 答えたペトラは陰気臭く俯いた。ほどなく、目を血走らせてがばっと顔を上げる。
「どう思う? これが真琴だったら、外から帰ってきたときに石鹸の匂いがするのって何で!?」
「何で、って……」

 本当は男ではないけれど予想はつく。ペトラも分かっていて、それでも信じたくなくて真琴に尋ねてきたのだろう。
 男が石鹸の匂いを纏わせて帰ってくるのなんて、そんなものは決まっていると断言していいかもしれない。ましてや銭湯に行きそうな人でもないのだから。
 真琴は徐々に機嫌が悪くなってきている。

「ボクだったら女を抱いて帰ってきたときかな」
 何だかしらける。ぐつぐつ煮る鍋が地獄の釜に見えた。お玉でかき混ぜてやる。
「やっぱり……。恋人でもいるのかな」
「そうだな。短時間で帰ってくるんでしょ? 抱いて帰ってくるだけなら恋人じゃないな。そういう如何わしい店かもね」
 顔にかかる熱気とは裏腹に、冷えた温度できっぱりと言い過ぎてしまった。ペトラは傷ついたかもしれないが、憤るのは鍋が沸騰し続けているせいなのだ。そうしておこう。

 明らかにしょんぼりしている声が聞こえてきた。
「いつも同じ香りなのは……?」
「その店がその石鹸を仕入れているか、お気に入りの女がその石鹸を使ってるんじゃない?」
「そっか……やっぱりそうなのかな」

 ペトラはすっかり消沈してしまい、夕餉の支度など忘れて佇んでいる。
 また吹きこぼれないように鍋の蓋は外したままにしておく。今度は付け合わせのおかずを作らなければならない。再びまな板に戻ろうとした真琴が、ペトラの前を横切ったときだった。

「――あれ?」
 調子外れな声を出して眼をぱちくりしているペトラが身を迫り出してきた。顔を近づけて首許を恥ずかしげもなくハムスターみたいに嗅いでくる。
 咄嗟に顎を反らした真琴は、逆に些か恥ずかしくてどうしてか心臓が脈打っていた。相手は同性だろう、と心の中で突っ込みを入れた。

「な、なにっ――」
「兵長と同じ匂いがする……。もしかして同じ石鹸なのかな」
「それほんとに!?」
 真琴は愕然として、そのあとで憤然とした。気に入っていた石鹸だったが代えようと思った。けれど悔しくてたまらないのはとても気に入っていたからである。
 相手はペトラなので機嫌を露わにしても可哀想だ。何とか感情を抑えてまな板の前に立つ。
「最悪……。石鹸代える」

 包丁を握って真琴は刃の部分を睨んだ。
 リヴァイはマコに好意を持っているのではないのか。不躾にキスマークを残したり、身体に触れてきたりするのだから。それなのに如何わしい店に通うなど信じられないことだった。
 女である真琴に男の気持ちなど分からない。ここまで不潔では分かろうとも思わない。

「最っ低だよね! ペトラ、やめておいたほうがいい、あんな男!」
 包丁を勢いよく振り下ろしてキュウリに叩きつけた。勢いありすぎて二つに切れたキュウリは、片方が床に落ちていった。
 真琴の機嫌の悪さにやや戸惑った面持ちで、ペトラは転がるキュウリを中腰で追う。厨房の背後を見て、「あっ」と言葉を呑んだ。
 真琴はキュウリを痛めつけながら不満を言い募っていく。

「不潔すぎるよ! 別に? 個人の自由だよ? そういうところで発散するのも!」
「っ、真琴口を止めて……」

 ペトラの気後れした声が耳に入ったが、興奮した気分は早々止まらない。
 五本目のキュウリをザルから雑に取って包丁で切り刻んでいく。輪切りは大きさが見事にばらばらで、切り口もひどいものだった。

「行くなとは言わないよ! リヴァイ兵士長だって男だし? むらむらだってするでしょう! でもなんで!」
「っ、真琴っ。名前出さないでっ」
 ペトラが小声で叫んだ。懇願の色が含まれているようだった。
「なんで、ボクの石鹸なの! 好きだったのに! これじゃあ気持ち悪くてもう使えないじゃないか!」
 渾身の力でキュウリを切った。まな板が音を立てて不安定に揺れる。

「不潔? 聞き捨てならねぇな。俺は自他ともに認める潔癖性だ」
 背後から聞こえた淡々とした声に、真琴は振り返りながら言下に反論する。頭に血が上っており、聞き慣れた声なのに判断がつかなかったのだ。
「どこが潔癖性! 不潔の塊じゃ」

 振り返った瞬間に顔を見合わせ、開いた口のままで固まった。言い返した相手がリヴァイだと、いまになって気づいたからである。
 後退りしたかった。が、そんなスペースはなくて流し台に手をかける。それでも身体を引き気味に真琴は潰れた声を捻り出した。
「い、いつから」
 色のない表情で顎に手を添え、リヴァイが思い出すふうに視線を横に流す。
「最っ低だよね。――からか」

 引き攣る顔で真琴は喉から変な声を出し、ペトラは神速で身体を丸めて頭を抱えた。勢いで弾んだ茶色の髪のあいだから、真っ赤な耳がちらりと見えた。
 鍋の煮る音しかしなくなった厨房。黙りこくって入り口付近にいるリヴァイを凝視するしかできなかった。
 余裕のあるさまでリヴァイが歩き出した。真琴の隣に立つ間際に掠れ声が耳に入る。ひどく艶っぽかった。

「お前だってむらむらするだろう?」
 かぁっと顔面が熱くなる。
「しっ! しないですよ!」
「ペトラの前だからって純情ぶってんじゃねぇよ。男ならあって当然だ」
 さらりと返したリヴァイはまな板のキュウリを摘んで翳した。連結した輪っかが伸びていくのを、冷めた眼で眺めている。
 真琴は肩を高く張って両手をぎゅっと握った。

「お、男であってもないですよ!」
「お前ほんとに付いてんのか」
「何がですか!」
 余勢に乗じて訊き返した。
 リヴァイが向き合って意地の悪い眼差しをつぅと下げていった。
「女顔のお前には、ぶら下がってねぇのかもな」

 自分の腰回りを絡みつく視線にピンときて、酸素を求める金魚のように口を動かす。熱がほとばしる顔は卑猥な口ぶりのせいで紅潮していた。
 唖然とした中に焦燥も相まって、真琴の持っている包丁は小刻みに揺れていた。目に留めたリヴァイから呆気なく奪い取られる。

「危ないだろうが。包丁はおもちゃじゃねぇんだぞ」
 キュウリをまな板に乗せて、男とは思えない繊細な手つきで輪切りをしていく。
「ペトラ。いつまで踞ってんだ、夕餉に間に合わん」

 言われてふらりと起き上がったペトラはよもや生気を失っていた。
 謝っておいたほうがいいだろうか。真琴の不用意な発言によってペトラの心は乱れに乱れているに違いない。リヴァイに聞こえないよう最小の声で詫び入る。
「ごめんね……あのホントにその」
「ううん……いいの。真琴は真剣に怒ってくれたんだものね……。うん、いいのよ……」
 いまにも倒れそうな儚さで、ペトラは弱々しくも首を振ってくれた。瞳には光がなく、魂が抜けていくさまを見た気がした。

 真琴は胸の内でもう一度深く懺悔した。
 怒ったのはペトラのためではなかった。自分の矜持を守るために怒ったのだ。そのせいでペトラの純粋な恋心を弄ぶような結果になってしまった。
 陰気な雰囲気なんてお構いなしにリヴァイが指示してきた。

「ペトラは鍋だ。おい、人参が中途半端だぞ。誰だ」
「……ボクです」
 予備の包丁を引き出しから取って人参を短冊切りにしていく。
 真琴とペトラの取り巻く空気は葬式然としていた。見えない角度でリヴァイが呆れたように息を吐き捨てたようだ。そのあとでちらと見てくる。

「居座るつもりならしっかり働け」
 真琴は一瞬眼をしばたたいた。
「とんぼ返りしなくてもいいんですか……?」

 リヴァイからの返答はなくて、彼は大根を切ることに集中している。
 追い返されると思ったが、どうやらハンジがいる間はここに居てもよいとお許しがでたようだった。
 みるみる揺らいでいく気持ちがほんの少し悔しくて、溜息が零れそうだったが堪える。憎んでいたし不潔だと寸刻前まで毛嫌いしていた心はどこへいった。

 何でもないたったの一言で、どうして清涼感が胸に広がってしまうのか。これが惚れた弱みというやつなのかと、真琴は堪えきれずに結局溜息をついてしまったのだった。


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