24.空気は張りつめたように冷たく

 秋日は景色も人間も暖かみを帯びた色をしている。逆に空気は張りつめたように冷たく、曝け出している真琴の顔に乾燥を引き起こした。
 雲の割れ目を縫って、ときどき照らし出す天日がぽかぽかと心地好い。野が朽葉色(くちばいろ)に染まる木のトンネルをハンジはと一緒に馬に乗って駆けている。
 行き先は、エレンが所属しているリヴァイ班の逗留先である旧調査兵団本部だった。市街地からはやや離れたところにあるが、トロスト区へは若干近い場所にあるようだ。

 真琴に合わせてゆっくりめに駆けるハンジが、手綱から手を放して背伸びをした。
「清々しいね。空気も新鮮だ」
 そこそこ田舎のところまで来ているので、景色と合わさって空気まで美味しく感じる。
「はい。過ごしやすい季節ですよね。でも肌がつっぱります」
 答えて顔を撫でた。いやにさらさらしており、水分が不足していることが感じ取れた。
 ハンジが笑う。
「女みたいなこと言うね。でも確かに……。最近化粧水の量が増えたな」
 そう言ってハンジも肌をさすった。

「それにしてもずいぶんと田舎なほうまで来ましたね」
「調査兵団が発足したときに国から与えられたのが、これから行く古城なんだ」
「壁外に行くにしても遠いし、物資を補給するにしても買い物とか不便じゃないですか。当初の団員は大変だったでしょうね」
 ハンジは頷いた。
「立場的にも弱かったしね。王政も、こんなに長く調査兵団が続くとは、思わなかったんじゃないのかな。彼らの頭ん中では、いまごろとっくに解体しているはずだったんだと思うよ」
 嫌味な表情も見せず、ハンジは爽やかな笑顔をみせた。

 審議所で見たあの四兵団の彫刻の並び順は、真琴の予想通りだったらしい。そしていまでも根強く上下関係があるのだろうと思った。
 窺うようにハンジを見た。

「でも……大丈夫でしょうか? ボクが一緒に行っても」
「だーいじょうぶだって。予備の眼鏡をいっぱい用意してきたしさ」
 気にしていなさそうに、ハンジは気持ちのいい笑みを寄越した。
 竹を割ったような人だと真琴は改めて思った。用意してきた眼鏡が、一体何個駄目になるのかは想像がつかないけれど。
 ほら! とハンジが元気よく正面を指差した。
「見えてきたよ! あれがリヴァイ班のいる旧調査兵団本部だ!」
 
 石を積み重ねて作ったと思われる古びた城だった。灰色の石はところどころ欠けており、地面から天に向かって這うツタによって城の半分が覆われている。周囲は下生えがぼうぼうに生えており、馬で常歩していると何やら緑色の虫が跳ねて逃げていった。
 顔周りに寄りついてくる白っぽい微小な虫を、真琴は手で追い払う。この虫は知っている。草木が茂っているところに群れをなして、人間の二酸化炭素を求めて寄ってくる嫌な虫だ。
 傍らではハンジも手で追い払っていた。

「この虫やだよね」
「はい……ボクも嫌いです」
 馬の休める場所を探すために城の周りを徘徊して、井戸のそばにある馬小屋を見つけた。ハンジが些か馬を速める。
「あった、あった」
 真琴もあとからついていって、小屋の前で馬から降りた。
 厩舎とは言えない簡易的な馬小屋には、すでに六頭の馬がいた。丁度二頭分が空いていたので、そこに馬を入れてから城の入り口へ向かった。

 本当に入り口なのだろうかと真琴は一瞬呆然としてしまった。裏口の間違いではないか。
 城の材質と同じ石で楕円形に組まれた枠――ハンジより頭一個分高いくらいの木製の扉があった。雨や雪に晒されたであろう扉は、五割がた腐っていてあちこちに亀裂が走っていた。

 隣にいるハンジが頓狂な声を上げて、頭の後ろを激しく掻きむしった。
「あちゃ〜。ひどいな、こりゃ!」
 正面玄関周りは荒れに荒れていた。草丈のある雑草が我が物顔で居座り、辺りには朽ちた樽や木箱が散乱している。
「こんなところで衣食住してるんだ」
 真琴は不憫な口調で呟いた。ハンジが周囲をきょろきょろと見渡す。
「リヴァイがいるからもうちょっと片付いてると思ってたんだけど。こりゃ中の掃除だけで手一杯だったのかな」
 あまりの有様にふたりして呆気に取られていると、背後から驚きの声がかかった。

「真琴さん! ――と、えっと……」
 木製のバケツを持ったエレンだった。真琴を見て眼を丸くしたあと、ハンジに視線を移した。上目で思い出すような仕草をしている。
 ハンジが苦笑し、言葉を強調して言う。
「ハンジ・ゾエ!」
「そう! そうでした! ……すみません」
 ハンジの名前を思い出せなかったのだろう、エレンは身体を小さくして首を竦めた。

 気にしていない様子でハンジはエレンを眺め回す。
「掃除中? ここはひどいけど中は結構片付いてるの?」
「なんとか人間が寝れるくらいには……。でもまだまだ手を付けていないところも多いです」
 口許を覆うナプキンを外してエレンが答えた。

 ハンジが気がかりな眼を真琴に向けた。
「私たちが寝れる場所は確保できるのか心配だね」
「……はい」
「俺、裏口周りの掃除任されてるんで行きますね。リヴァイ兵長なら中にいると思いますから」
 再びナプキンで口許を覆い、エレンは忙しそうに走っていってしまった。
「毎日掃除しかしてないのかね」
 傍らで苦笑するハンジに、真琴も苦く笑ってみせたのだった。

 嫌な軋みを上げる扉を開けて城内に入った。長年閉め切られていたと思われる内部は、数日の換気ではしつこい埃臭さを消すことはできていないようだ。
 小窓しかない内部は昼間だというのにあまり明るくなく、石作りのせいかひんやりと寒い。窓にガラスは入っておらず、両開きの雨戸がほぼすべて開け放たれている。
 食堂と思われる扉をハンジが開いた。そこにはモップ掛け中の三角巾を被ったリヴァイがいた。

「やぁ、リヴァイ。精が出るねぇ」
 片手を挙げ、ハンジは歯を見せて豪快に笑った。
 リヴァイは一瞬状況が分からないような顔をみせた。一拍して瞬きのあとに、モップを投げ捨てて恐ろしい表情でハンジの襟ぐりを掴んだ。
「てめぇ! なんで連れてきた!」

「ちょっと、苦しいって! 死ぬ!」
 ハンジは息ができないようで、大袈裟ではなく本気で白目をむき出していた。真琴は慌てて間に入ろうと駆け寄る。
「ほんとに死んじゃいます! 離してあげてください!」
「お前は黙ってろ!!」
 凄まれて身体が痙攣した。が、助けを求めてハンジの手が空中を泳いでいるので、息を吸って再び立ち向かう。
「やめてあげてください! ハンジさんだけが悪いわけじゃ」
「関係ない奴は引っ込んでろ!!」

 怒鳴られた拍子に肘で突かれて、真琴は激しく突き飛ばされてしまう。壁に背中をしたたかに激突し、まだ完治していない胸部が悲鳴を上げた。身体を丸めて歯を食いしばることで痛みを逃す。
 気づいたリヴァイは真琴を見て、悲痛とも取れるような顔で息を呑んだ。何かに捕らわれている彼の隙を突いて、ハンジが首許を締める両手から逃れた。荒く呼吸を繰り返しながら額の汗を拭う。

「いやいやいや……。お花畑が見えたな」
 引き攣り笑いを浮かべるハンジが真琴に視線を向けた。
「大丈夫? すごい音したけど」
「はい……何とか」
 近づいて手を差し出してきたハンジの手を、真琴は取って立ち上がった。

 二、三歩後ろでは、ぎごちない顔のリヴァイが手を伸ばそうしていたようだが、先を超されて引っ込めるのが見えた。緩く開いた自分の手のひらを、苦い顔をして眺めている。
 そんなリヴァイを見過ごしてしまった真琴はハンジを心配した。

「ハンジさんこそ大丈夫ですか? 口から泡吹いてましたけど」
「あとちょっと逃げるのが遅かったら逝ってたね」
 立ち直ったハンジはいつもの彼女らしく笑った。癪に障ったらしく、リヴァイが険のある眼つきをする。
「ふざけて笑ってんじゃねぇよ。毎度毎度てめぇのお気楽さには見下げ果てる」
「大丈夫だよ。誰にも尾けられてない」
 噛んで含めるように言ってハンジが肩を竦ませると、リヴァイは盛大に舌打ちをして顔を背けた。
 消え入りそうな声で真琴は零す。
「誰が……尾けられているんですか」

 真琴を見て二人は明らかに言葉を詰まらせた。妙な空気に居たたまれない気分になる。
 なるほど尾けられているかもしれないという危惧は、真琴に対してのものらしい。疑われているのは分かっているが、誰に尾行されるというのだろうか。
 その場にいるのがどうにも気まずい。強張る口角を無理に上げた。
「掃除! まだまだみたいだから手伝ってきますね!」
 そう捨て置いて逃げるように身を翻した。

 そんなの気にしなければいい。他人が真琴のことをどう思っていようが、自分のなすべきことだけに前を見つめて歩いていけばいいではないか。
 考えなければならないことはいっぱいあるのだ。くだらない疑惑をかけられて心を乱される暇なんてない。真琴の世界に帰る方法と、並行して世界の謎を解かなければならないのだから。
(ただでさえ頭がパンクしそうなのに、これ以上思い悩む隙間なんてないのに)
 しんどい。そう思いながら鉛のように重い足で裏口へ向かっていた。ここへ来た目的はエレンなのだから、関係ないことに惑わされてはいけないと自分を励まし続けた。

 少し先に、裏口の扉を雑巾掛けしているエレンの姿があった。外は肌寒いというのに彼はジャケットを脱ぎ、しかも腕まくりまでしている。見ているだけでこちらまで冷えていきそうだ。
 が、頬を赤らめたエレンは傍目からでは発汗しているように見えたので、働きすぎて本人は熱いのかもしれなかった。
 沈んだ気分を悟られないよう、真琴は深呼吸をしてから笑みを作った。

「エレンっ」
「真琴さんか」
 しゃがんでいたエレンは膝に手を置いて立ち上がる。
「もういいのか? リヴァイ兵長に用があったんだろ」
「ボクはべつに……。用があるのはハンジさんで、ボクはついてきただけだから」
 言いながら濁り水が張るバケツから雑巾を摘まみ出す。
「ここに来て何日目なの?」
「一週間経ったかな」

 リヴァイとマコが逢瀬したすぐあとにエレンは引き取られたらしい。
「つらかったね。地下牢に監禁されていたんでしょ?」
 遠慮気味に上目遣いすると、エレンは顔に影を落とした。
「なんか、俺。周りから化け物みたいな目で見られてて」
 真琴はただ頷いた。マコのときにエレンを糾弾したことを思い出してしまい、胸が潰れる思いだった。

「リヴァイ班の先輩方も、俺のこと……なんか常に目を光らせているっていうか」
 顔を伏せているエレンの、その手が握る雑巾から灰黒の水滴が滴っていく。真琴はその手に自分の手をそっと添えた。
「ボクは君のこと……そんな目で見ない。ミカサやアルミンだってそんな目で見てない」
 エレンはしょんぼりしている眼で真琴を見降ろしている。
「いいじゃない。信じてくれる人が一人でもいれば。誰にどう思われようがいいじゃない」

 自分に言い聞かせたい言葉だった。化け物扱いされているエレンと、異質な存在の真琴がだぶったからである。
 改めて弱い人間だと真琴は思う。似たような境遇の人間がいることに、どこかで救われている。奇異の目で見られているのは自分だけではないのだと、変な仲間意識が安心させるのだ。それは心が弱いからに違いなかった。

 少し眼を潤ませたエレンが小さく口をしならせた。
「真琴さんと、ミカサとアルミン……。たったの三人か」
「三人もいるじゃない。ボクなんか」
「え? 真琴さんも何かあるのか?」
 意外そうにエレンが眼を丸くした。

 手放しで信用してくれる人間はいるだろうか。いまは疑いを持っていない人間も、例えば真琴がすべてを吐露した場合、奇異な目で見ないと言い切れる人間はいるだろうか。そんな余計な心配がなければ、とっくにすべて吐露しているのだろうけれど。
「なんでもない」
 首を緩めに振った真琴は雑巾を絞る。ぼたぼたと音を立てて、汚い水がバケツに波紋を作っていく。身内の腐った淀みも一緒に捨てるように、きつくきつく絞った。

 扉を半分開けて裏と表をそれぞれで水拭きしていた。裏側を担当している真琴は扉の向こうに声をかけた。
「お父さんっていまいないんだっけ?」
「……ああ」
 あまり話したくなさそうだ。向こう側の扉を拭く気配が途絶える。
「変な注射されたんだっけ?」
「記憶がはっきりしないんだ。地下室へ行けって、父さんが、俺に――」
 苦しそうな口調で急に言葉を噤ませたので、心配になって横から顔を出した。同時に眼を見張る。

「エレン!?」
 急いでエレンに駆け寄って背中に手を添えた。彼は頭を抱えて踞っていた。震えを伴いながら、奥歯を噛み締めているのかエラが張っている。
「どうしたの? どこか気分悪い?」
 エレンは違うというふうに頭を振った。
「違うんだ。朧げな記憶を思い出そうとすると、いつも頭が割れそうなほどに痛むんだ」
 精神的なものが引き起こしているのだろうか。
 痛みを耐えるように歯を食いしばってエレンは喋る。顔中に浮かぶ脂汗が壮絶な痛みを伝わらせてくる。

「森の中でで父さんが泣いてるっ。すまないって俺に謝って、嫌がる俺に無理矢理――っ」
「無理矢理なに? 注射されたの?」
 エレンが首許から銀のチェーンを引き出した。先端に鍵がぶら下がっている。
「地下室……ここに秘密があるのかもしれないっ」

 地下室にはひょっとするとエレンに無理矢理刺した注射が隠されているのかもしれない。液体の成分をエリザベートに分析してもらえば、何か分かるかもしれないだろうけれど。
 が、エレンの家はいまや人類の領域ではなく巨人の巣窟になっているのだ。シガンシナ区まで行くのは途方もなく絶望的である。しかしながらますます怪しい。エレンの巨人化と謎の注射は無関係ではなさそうに思えた。

「ごめん、エレン。もういいから」
 真琴はエレンの背中を何度も往復させて撫で続けた。こんなに苦しんでいるときに、口内の細胞を取らせてだなんてとてもじゃないが言える雰囲気ではなかった。


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mokuji
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