23.灯火にゆらり煌めく琥珀色

 灯火でゆらり煌めく琥珀色を意味もなくただ見つめていた。グラスをゆっくり回すと丸くカットされた氷も煌めいた。
 ここはリヴァイの行きつけの酒場だ。カウンターの正面に立つ小太りの女主人は相変わらずで、今夜も趣味の悪い柄がいやに目につく服装をしている。

「待ち合わせ?」
 女主人がえくぼを作ってガマガエルのような笑みをみせた。
 若い女のえくぼは可愛らしいと思う。だが小太りな中年女のそれは、ただの生活の乱れによってできた産物だろうとリヴァイは内心で毒突いてやった。
「ああ。もうすぐエルヴィンが来る」
「あら。あなたが来てもう二十分も経ってるじゃない。恋人をそんなに待たせるだなんて罪な男ね」
 自分で言った面白くもない冗談に、女主人は満足したのかくつくつと笑う。悪い気もしないのでリヴァイは女に合わせてやる。
「まったくだ。時間を守れない男など恋人にするもんじゃねぇな」

 答えて、やはり三十分前行動はこれきりにするかと思ったのだった。指示した時間通りにちゃんと来てくれる女性もいるのだけれど。
(いい加減まだか)
 苛々と脚を揺らしたころだった。古びた扉の上部に垂れる銀色の鈴が、涼しげな音色を鳴らした。

「もう来てたのか、早いな」
 悪びれない顔で近づいてきたのは今夜の恋人エルヴィンだった。
 カウンターテーブルに片肘をのせ、リヴァイは半身を振り返らせた。不機嫌に片眉が上がる。
「遅ぇよ」

「辛辣だな。時間通りじゃないか」
 苦笑したエルヴィンは隣に腰を降ろす。
「お前の三十分前行動に誰もがつき合ってやれるわけじゃないんだぞ。俺は忙しいんだ」
 責めるでもなく穏やかに言った。まだ機嫌は直っていないがリヴァイは相槌を打ってみせた。
「潮時かもしれん。これを機会にすっぱりやめることにする」
「それをおすすめするよ。こちらとしてもありがたい」
 笑ってエルヴィンは女主人に酒を注文した。いつかと同じように水割りを頼まれた女主人は、狭いカウンターの内側で酒の準備を始めた。

(理解できん)
 女主人の手許が添えるグラスに白けた眼を向けた。バーボンやウィスキーを水なんかで薄めてしまっては本来の旨さが台なしである。が、ロックを勧めてもエルヴィンは断るに違いない。目許を見やれば理由など聞かずとも分かる。顔に心労がありありと滲み出ているからだ。

 調査兵団に厄介事が舞い込んだのは先日だった。巨人に変身できるエレン少年を預かったことがそうだ。
 兵団内でも一時保護に関して賛否両論なのは、未知なるものに対して誰もが恐怖を覚えているからである。自ら選んだ精鋭班の面々も平静を装ってはいるが、どことなく警戒もしているようだった。
 だがそれでいいと思っている。リヴァイもすべてにおいてエレンという少年を信頼しているわけではない。不測の事態はいつ訪れるか分からないのだから、警戒することは何ら悪いことではない。

 物言いたげな視線を寄越してきたエルヴィンが口角を上げた。
「で、今夜は何の話だ。まあ予想はつくが」
「エレンを守る特別作戦班から真琴を外す。お前も異論はねぇだろ?」
 流し目をするとエルヴィンは思案するような難しい顔をした。リヴァイは片眉を上げる。
「何だ、何かあるのかよ」
「真琴を連れていくことで、何かが釣れるかもしれないと思っていたのだが」
「……何が釣れると思ってる? あいつを連れていっても邪魔なだけだ」

 次の壁外調査に向けてエルヴィンは何か企んでいるのだろうか。いま尋ねてもおそらく喋らない。リヴァイは信頼を置かれているとは思うが、彼は秘密主義な面があるのだ。どのみち日程が近づけば幹部だけで談ずることになるだろうけれど。
 しかし「釣れる」という言葉は良い意味に聞こえなかった。やはりまだ真琴に懐疑心を抱いているようだ。

「巨人だとまだ疑ってやがんのか」
「可能性はなきにしもあらずだ」
 表情を変えないエルヴィンにリヴァイは浅く息をついてみせた。
 真琴が手紙に綴った弁明をすんなり受け入れたわけではなかったらしい。されどもあの内容は真実を突きつけるというよりは、どちらかというと言葉遊びに近いので仕方ないのかもしれないが。
 大柄に顎を上げた。
「だがしかし、それじゃお前。自分は無能だと言っていることになるぞ」

 エルヴィンが可笑しそうにする。
「そうだな。なかなか考えた内容に俺はあのとき笑ってしまいそうになった」
 そう言い、頬杖を突いて視線を寄越す。
「しかしありのまま受け入れるわけにはいかない。彼に怪しい部分があるならば俺は疑うことをやめないよ。兵士たちの命を預かっているわけだからな」
「だからこそだ」
 ぴしゃりと声を上げて、
「兵団の命がかかっているからこそ、あいつを関わらせることに反対だと言ってる」

 実をいうと、真琴が巨人であるという疑惑はまだ靄がかかっていて、リヴァイもはっきり違うとは言えないのである。以前口にした、「巨人は壁の外からきた」という言葉に引っ掛かりを感じているからであった。
 確然ではないが、もしかすると真琴も壁の外からやってきたのではないかという可能性を考えてしまうのだ。壁外にいる巨人と何らかの接点があるのではないかと思ってしまうのである。壁外から人間がやってくるなど、考えても馬鹿らしいことだというのは分かっているが。

 傍らでエルヴィンが窃笑している。
「俺はてっきり、お前が真琴を壁外へ出したくないからだと思っていたが」
 言外の意味があることは分かっている。が、それは違うのだという気分を込めてリヴァイははっきりと言ってやる。機嫌がだんだん斜めになっていく気分まで混ざってしまったけれど。
「だからそういう意味だ」
「疑わしいから危険を伴うと? 違うだろう、危険を伴うから――」

 それ以上は口に出してほしくなくて殺気を飛ばした。気づいたエルヴィンがまた可笑しそうにする。
 苛々してリヴァイは酒に逃げた。正直言うと遠からずもがな。けれどそんな生易しい感情論が自分にあるなど認めたくないのだ。公私混同はもってのほかだと思っているのに、その罠に自分が陥りそうになっていることが許せないのである。
 まだ笑っているエルヴィンがちらりと見てきた。

「なら理由を言え。なぜ特別作戦班から真琴を外す?」
「暗殺でもされたなら困るだろ――エレンを」
 少し投げやり気味に言い捨てた。
「なるほど、暗殺か。確かに困る。エレンは人類に希望をもたらしてくれるかもしれないからな」
 窃笑を収めようともしないでグラスを口に含み、
「だが真琴には無理だろう。虫は殺せそうだが、人を傷つけられはしないさ」
「あいつには無理でも――いや、なんでもない」
 リヴァイは言葉を切った。

 真琴はエレンを暗殺できないし、する理由もないだろう。だが真琴の後ろに控える者がどう出てくるかが分からない。
「奴」は危険だ。審議の時、怪訝に真琴を見ていたリヴァイの目端に映ったフュルストの笑みは普通じゃなかった。地下街でもあんな眼を見たことがない。どういう生き方をしてくればあんな双眸を持てるのか――どう見ても精神異常者の眼つきだった。
 リヴァイの視線に気づいたフュルストは、そんな眼で腹立たしい笑みをみせてきた。だから無性に憤懣が募ってきてしまい、エレンの躾という名の芝居をついやり過ぎてしまったのは了知している。

 ようやく笑みを消したエルヴィンが奇異そうな眼つきをした。
「意味深だな。だが聞いたところで、どうせ無駄か」
 リヴァイが話す気がないことをよく分かっている。
「これだけは忠告しておくか」
 真顔でエルヴィンは声を落とした。

「女に夢中になるなよ。『酒は飲んでも飲まれるな』。これは女にも言えることだ」
 よく理解していることを他人から言われると腹が立つ。リヴァイは拳を強く握ることで耐える。
「輝きも知らずに地下でひっそりと暮らしたきたお前のような、けれど反して情に厚い人間は、一度女に夢中になったら崩れる――と俺は思う」
 エルヴィンは続ける。
「お前は一度だって女に惚れたことがないだろう? その反動はでかいだろうな。俺はそれが怖い。お前が闘えなくなるのではないかと、ただそれだけが怖い」

 ここから立ち去ってしまいたいと思っていた。自分の本質をこうも見極めている人間がいるとは、非常に腹ただしくて我慢ならなかった。

「調査兵団にとってお前を失うわけにはいかない。分かってるな」
 噛み締めた奥歯の隙間からリヴァイは言葉を絞り出す。
「言われなくとも」

 分かっている、自分を殺せるような女に本気になってはならない――と。
 だがリヴァイは思わずにはいられない。こんな世じゃなければと、さも恨めしく思ってしまう。
 ほんの一時だがリヴァイは夢を見たことがあった。病気で弱ったときに、一人で苦しんでいるときに、そばに誰かがいるという温かさを知ってしまった。自分と愛しい女と、そこに挟まれる幸せそうな、あどけない笑顔を向けてくる子供の幻を見たこともあった。――三人でも悪くないが、もう一人いても楽しそうだと、そんなあってはならない夢を見たことがあったのだ。

 意図しない悔しさがリヴァイの歯の隙間から零れ出す。
「クソ――っ」
「気持ちは分からないでもない」
 そう言ったエルヴィンの口調に哀れみが込められていたら、リヴァイは即殺していたかもしれなかった。
「俺も同じだ。だからあいつを諦めた。俺の信念を貫き通すには、あいつは邪魔だったからだ」
 真情を吐露したエルヴィンが、グラスを持っていないほうの手を強く握りしめたのが見えた。

 エルヴィンの言うあいつとは昔好きだった女「マリー」のことだろう。いまはナイルの妻として三人目の子供を身籠っているらしい。
 ナイルとエルヴィンは同期で、ともに調査兵団を盛り立てていこうと志を同じくする者同士だったという。そして互いに好きになった女も同じだった。マリーもエルヴィンのことを好きだったらしいが、いざ結婚を考えたときに彼は怖くなったのだろう。マリーがいると信念を貫き通せないと思ったに違いない。女を諦めたエルヴィンの代わりにナイルがマリーを手に入れ、そしてナイルは女を守るために調査兵団を捨てて、二人は仲違いしたと聞く。

 エルヴィンが静かに口を切った。
「俺はあのとき不思議に思った。彼の性別を男として扱えと、お前が医者を説き伏せたことを。正直言えば面倒くさいから、この際女として露見させてやってほしいと思ったほどだ。彼が男を偽ることに重要な意味がどうにもあるとは思えないしな」
 だが違うんだな。と空よりも濃い蒼の瞳を向ける。
「彼に男であってほしいと、お前がそう望んでいるんだろう?」

 耳に難なく入ってきた穏やかなさざ波のような声音は、リヴァイを粛とさせて瞳を伏せさせた。
(ああ、そうだとも)
 訪れたことのない深海まで、深く溺れてしまわないよう自ら引いた、たった一つの線だからだ。己と女を隔てるための唯一の線だからだ。
 すべての感情を追い出そうとするようにエルヴィンが大きく息をついた。出し切ったのか表情を柔らかいものに変える。

「しんみりしたな。酒がもったいないが、これ以上飲む気もしない」
「ああ。ドブみてぇなこんな不味い酒は久しぶりだ」
 言いながらグラスを口に含んだ。一口飲んだ酒は味がしないどころか、飲み慣れたはずのものなのにひどく不味かった。
 エルヴィンは体が重そうに立ち上がる。やはり疲れが相当溜まっているように思えた。
「じゃ、俺は帰るとするか。お前はどうする」
「俺はいい」
 そっけなく言い、リヴァイは当然のごとく二階への階段を登ろうとした。そこを女主人から声が掛かる。
「アンナはいま出張してるよ」

 聞いたリヴァイは舌打ちをした。登りかけた階段に背を向ける。
 出張とは娼婦が直接客の家へ行って奉仕することだ。贔屓にしている女が誰と寝ようが特段構わないが、その気だった気分を端折られると胸くそ悪いものである。
 エルヴィンが僅かに眼を丸くしている。
「何だ、お前にも安める女がほかにいたのか。俺の心配は取り越し苦労だったか」
「何言ってんだ馬鹿が。さっさと帰るぞ」

 くだらないと吐き捨てて店を出ようとした。そのとき、扉の鈴の音と同時に冷たい風が足許を通っていった。
 嬉しさを隠せない笑みで一人の女が入ってくる。ここの娼婦のアンナだ。鼻周りを薄紅色に染めた面からは外の寒さが窺える。

「リヴァイさん、今夜もいらしてくれたの?」
「……今夜も?」
 傍らで女を見つめながらエルヴィンが小さく呟いた。リヴァイは思わず舌打ちを漏らす。
 頭から被っていた暖かそうなチェックのストールをアンナは後ろに流した。長い黒髪が波のようにたなびく。
「黒髪……か」
 エルヴィンがまた呟き、微かに憂慮するような面差しでリヴァイを見てくる。
「お前毎夜なのか。――本当に大丈夫なんだろうな」
「うるせぇな、分かってる。俺は女に溺れない」

 煩わしく放言した言葉に、アンナが悲しそうな顔をしたなんてリヴァイは気づかなかった。
 エルヴィンが言いたいことは予想がついている。あれと同じ黒髪に惚れ込んでいることを懸念しての発言だったのだろう。重ね合わせて毎晩抱いているなんて、口が裂けても白状したくはない。
 半ばむしゃくしゃしながらリヴァイはアンナの手を引いた。二階への階段に向かいながら背後のエルヴィンに振り向きもしないで言い置く。
「俺は遊んでいく。てめぇは一人で帰れ」

 アンナの部屋に入ると、自分の部屋であるかのようにリヴァイは平然とベッドに腰を降ろした。
「先に身体を流してこい。ほかの男の匂いを纏った女など抱く気になれん」
 ジャケットを脱ぎながら冷たく言い、瞳を上げた拍子にアンナの表情を初めてみた。ふいに眼を丸くする。
「どうした? 何か嫌なことでもあったか?」
 アンナが沈んだ顔つきをしていたので口をついた言葉だった。幸薄そうな顔を誤魔化しきれない微笑を浮かべ、彼女は首をゆるゆると振る。
「なんでもないわ。……お風呂に入ってきますね」

 何だというのだろう、だから女という生き物は面倒くさい。――そう思いながら、頭の後ろで腕を組んでベッドに身体を預けた。いましがたエルヴィンに言った発言で、アンナが傷ついているなどと及びもつかなかった。
 天井をぼうと見やってリヴァイは思いに耽っていた。どうして一人の女にこれほどまで執着してしまったのか。

 おそらく出会ったころから、月の引力で引かれる海水のごとく惹かれていってしまったのだ。なぜなのか理由など探したって無駄だろう。一緒に過ごしたとりとめのない日々が、意味のないように思えるやり取りが、すべてかけがえのないものに変わってしまったのは、意思ではどうにもならない時の移ろいがさせたものなのだろうから。

 しばらくしてから、好きな香りを漂わせてアンナが風呂から上がってきた。
「新しいお湯に代えておきました。リヴァイさんもどうぞ」
「ああ」
 短く言い置いてリヴァイは洗面所に入った。

 アンナが使用したばかりの風呂はまだ湯気が残っており温かかった。ほのかに石鹸の匂いもする。
 風呂桶の湯を掬って身体にかけたあとで、そばに置いてある桃色の石鹸を手に取った。甘い匂いを放つもので、普段のリヴァイならば絶対に好んで使わない。が、アンナの洗面所にはこの石鹸しかないのである。
 泡立ちのよい石鹸は、リヴァイが街で探してきてアンナに買い与えたものだった。自分に抱かれるときにはこの石鹸を使えと言いつけてあるのだ。

 スポンジに含ませた泡で身体を洗おうともせず、きめ細かい泡がぱちぱちと弾けて小さくなっていくのをただ見降ろしていた。風呂椅子に腰掛けているリヴァイの筋肉質な背中は虚しげに丸い。

「あいつ」から香る匂いが、香水などではなくこの石鹸のものだと知ったのはいつだったろうか。あれはあいつにとって初めての壁外遠征のときで、連れていくのではなかったと、人生で何度目かの後悔に襲われたときだったと思う。
(女々しくて笑えてくる)
 そう思ってリヴァイは自嘲の笑みを浮かべた。
 心底抱きたいと思う女が抱けないのなら、同じ黒髪で同じ香りを放つ女を代わりに抱いて、陰鬱を晴らしているだなんて、

 ――ひどく笑えてくるじゃないか。


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