22.怪しい色を放つフラスコ

 自室とは別に、ハンジには彼女用の研究室を与えられていた。彼女に与えられている仕事は巨人関係の研究だけではなく、技巧系の開発も担っているようだ。
 室内は薄暗くてひんやりとしている。これは単に秋だからというわけではない。怪しい色を放つフラスコがバーナーによって熱せられていたり、薬品の匂いが強かったりと、何となく怪しい雰囲気から真琴が感じ取ったものであった。
 イメージ的には理科室に近い。人体模型などはないけれど。

 ハンジと一緒に研究室へ入った真琴は、目線の先に一人の男がいることに気づいた。男は慣れた様子でビーカーの中身を確認したり、火加減を調節したりしている。傍目から見て研究者なのかと思い至ったのだが。
 ハンジを確認すると、男は困った様子で声をかけてきた。

「おかえりなさい、ハンジ分隊長」
「おお、ただいま! やっといてくれた?」
 豪快に笑うと、男がいくらか項垂れた。
「見ときましたけど、もう自分にこういうことを頼まないでくださいよ。専門外なんですから」
「でもなかなかいい線いってるよ」

 言いながらハンジはそばにいき、男が調製していただろうビーカーを手に取った。中身の液体を揺らして満足げに頷いている。

 何かの薬でも作っていたのだろうか。それの手伝いを男はさせられていたのかもしれない。ちょっと怪しい紫色の液体が恐ろしげに見えるけれど。

 入り口で突っ立ている真琴に気づいた男が、ハンジの肩を叩いた。
「例の預かった兵士ですか?」
 例の、とはどういう意味だろうか。意味深にも聞こえるし、たいして何の意図もないようにも聞こえた。

 ハンジは真琴を呼んで男を紹介した。
「彼はモブリット・バーナー。私の助手だ」
「助手ではありません」
 真顔のモブリットは速攻で否定し、
「第四分隊、副隊長をしています。よろしく」
 そう言い、優しい笑みに塗り替えて真琴に握手を求めてきた。

 短髪で固めに見える金髪の男だった。背の高いハンジよりも、モブリットのほうが僅かに頭が出ている。穏和な表情は、ハンジから言いようにコキ使われる優男に見えた。
 悪い人には見えない。真琴も微笑みを湛えて手を差し出した。

「真琴・デッセルです。よろしくお願いします」
 握手を交わし、
「さっきまで何を作っていたんですか?」
 モブリットに尋ねたのに、ハンジが割り込んで顔を突き出してきた。
「訊きたい!? 訊きたいかい!?」
「え、はい……」

 ハンジは誇らしげにビーカーを翳す。
「名付けて!『ぐんぐん背が大きくな〜ル』は、どうかな!?」
「どうかな? ――って訊くぐらいなら、それでいいじゃないですか」
 突っ込みを入れて、モブリットがまた項垂れた。

 とても怖い薬だと真琴は思った。背が大きくなるだなんて詐欺だ。そんな薬はあり得ない。

「おぞましい薬ですね……」
 噛み締めるように言った真琴に、モブリットも深刻な顔をして忠告した。
「絶対に飲んじゃいけないよ。長生きしたいなら……」
「その薬を完成させたとして、何か需要があるんですか?」
 真琴の疑問を聞いて、ハンジは怪しい微笑を浮かべた。
「この薬を喉から手が出るほどに欲しているのは、ただの一人しかいないでしょう」
「……誰ですか?」
 それとなく想像はつく。いまはあまり名前を聞きたくない人物だった。
「リヴァイだよ! リヴァイ! 喜ぶかなぁ!?」
 楽しげにくるりとターンしたハンジに、モブリットは生気のない溜息を洩らした。
「だからあんた、いつも眼鏡を壊されるんですよ……」

 ハンジの凶悪な薬についてモブリットは詳しく真琴に話してくれた。ほかには『みるみるほれ〜ル』『どんどん若返〜ル』などがあり、どれも巧みな技を駆使してモブリットに飲ませてくるのだ。だから彼はハンジからの飲食類は、絶対に受け取らないよう心がけているらしい。

 真琴は研究室を見渡してみた。見慣れない器具がいっぱいあったが、顕微鏡は見当たらなかった。細かいものを観察するときはどうしているのだろう。

「とても小さいものを観察するときって、何の道具を使っているんですか?」
「ルーペだよ」

 答えたハンジは、卓子に転がっていたレンズを手に取ってみせた。
 手のひらに収まるサイズで、フォールディングタイプのルーペだった。研究室というぐらいだから顕微鏡があると思っていのだけれど。

 そうすると真琴が借りた顕微鏡はとても貴重なもののはずだ。所持している自体ハンジから怪しいと思われるかもしれない。取り扱いには気をつけなければいけないだろう。

「そのレンズでどれくらいまで見られるんですか?」
「十倍だね。なに? 興味ある?」
 ハンジは少々含みのある眼つきを寄越してきた。

(何かしら)
 もしかしてハンジからも疑われているのだろうか。息が苦しくなってくる感覚を覚えていた。部屋を閉め切っているゆえだろうか。
 真琴は無理に笑って話題を変えた。

「エレンって兵舎住まいになるんですよね? 何号室にいるんでしょうか」
「彼なら旧調査兵」
「ハンジ分隊長!」
 きっぱりした声を上げてモブリットが語を止めた。

 真琴は一気に居心地が悪くなる。厳しい顔をしたモブリットからは、明瞭に「言うな」という意味が含まれていた。それは果たして相手が真琴だからなのか、それともすべての兵員に対してなのかは分からないが。

 俯く真琴の傍らで、ハンジがもの柔らかな目顔をした。緩く首を振ってモブリットの肩を叩く。
「真琴は大丈夫だ。悪い子じゃないよ」

 複雑だった。そんな言い方をされたら、真琴に疑雲を抱いていることを明かしたようなものではないか。
 モブリットは気まずそうに首の後ろを掻いた。ハンジは眼鏡を外してレンズを拭く。

「正直に言う。怪しいとは思ってるよ。でもリヴァイからは何も訊いていない。ただ、まあ……目を離すなとはきつく言われたけど」
「どうしてボクを怪しんでいるんですか」
 何の心当たりもない。リヴァイから何も訊かされていないというのに一体何を怪しんでいるのだろう。
 ハンジは柔らかい表情を変えずに口を開いた。

「真琴の持っている知識が、私たちのものと異なる気がしたから。どこで入手した知識なんだろうって不思議に思ってる」
 ハンジに何かひけらかした記憶など身に覚えがなかった。
「珍しいことなんて……言いましたっけ」
「忘れちゃったか。お酒飲み過ぎたせいかな」
 ハンジは苦笑して、
「『しょくもつれんさ』の話は面白かったよ。『いでんしそうさ』の話も続きが気になるな」

 真琴は言葉に詰まった。顔を青ざめさせて口許を手で覆う。
 食物連鎖や遺伝子操作。そんなことを話した記憶は真琴には一切なかった。が、現実に話したのだという証拠は、ハンジのたどたどしい発音で理解できた。

 あの日、ハンジに浴びるように酒を飲まされて巨人の話につき合わされていた夜。真琴は自分でも気づかないうちにぺらぺらと気分よく喋っていたのである。それはまだ、この世界の矛盾を全然知らなかった日に起きた出来事であった。

 立ちくらみを起こしそうな気分で真琴は言葉を零した。
「それ……誰かに」
 続きの語をハンジが拾う。
「誰にも言ってないよ。あ、いま始めて言ったからモブリットには聞かれちゃったけど」
 言ってハンジは困惑顔で笑った。
 モブリットはあまり分かっていなさそうだが、真面目な顔でハンジを見た。
「僕は誰にも言いません」
「頼むよ」
 柔らかく笑ってハンジが相槌を打った。悪戯に両眉を上げてみせて、
「あとは、な〜んでリヴァイとエルヴィンが真琴を疑っているかだけど」
 そうして肩を竦めた。
「彼らが黙っているのなら、私の知る範囲じゃないってことだ」

 真琴は力が抜けてしまってしゃがみ込んだ。膝を抱いて頭を埋める。
 ハンジは真琴を不審に思ってはいないようだ。ただ不思議に思っているだけと感じ取れて、なぜだか安堵してしまったのだ。
 むしろ研究者としての好奇心からきているもののように思える。リヴァイやエルヴィンのように、異形な者を見る目で真琴を見ない。それだけでずいぶんと気が楽だった。

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
 真琴はもそっと告げた。
 二人は顔を見合わせて、悲哀とも当惑とも取れるような面持ちで口角を上げてみせた。

 ハンジによる巨人生体実験に同行するため、真琴とモブリットはトロスト区内へ来ていた。
 奪還戦時の被害はそのままで、建物は改修の目処がたっていないようだった。遺体の回収は済んでおり、無惨なものは見ずにすんだ。

 しかしながら石畳に染み込んでしまった赤黒い血や、それに伴って吐き気を催す生臭い異臭は、簡単には拭いきれそうにないようだ。夜など怖くて歩けない。それこそ怨霊でもでそうな雰囲気だった。

 街中にある広場に、二体の巨人が捕獲されていた。四方にたくさん建てられた木杭からは、頑丈なワイヤーロープが中心に向かって伸びている。そこに縛りつけられているのが巨人で、彼らはさらに大きな太い釘で体の自由を奪われていた。
 近場には簡易テントが設けられ、昼夜問わず駐屯兵団が管理監視しているらしかった。

 二体の巨人はハンジによって、ソニーにビーンと名付けられた。
 これまでに行った実験は日光遮断。遮蔽率の高い布をそれぞれの巨人に被せて、何日か様子を見るというものである。
 従来、彼らの活動には日光が必要と言われており、その再確認をしたらしい。結果は顕著に表れた。ソニーは日光遮断後すぐに大人しくなり、ビーンは何日も元気だったという。

 ずっと日光を断つとどうなるのか真琴は気になったが、この質問に対してハンジは、
「私も興味あるけど、貴重な被検体を死なすわけにはいかないからね。それにもし死んじゃったら、ソニーとビーンが可哀想じゃん」
 と彼女は体中から哀感を漂わせたのだった。

 次の実験は意思の疎通。
 これにも個体差が目立った。ハンジの呼びかけにソニーはまったく興味を示さなかった。逆にビーンのほうは、何か喋ろうと喃語のような発生をしきりに続けたらしい。

 そして今回の実験は痛覚の確認をする。
 場は緊張感で満ちていた。いくら余すところなく巨人を雁字搦めにしているとはいえ、「もしも」という場合もある。そういうことを想定して常に厳戒態勢だった。

 それに何度も巨人と遭遇してきたとはいえ、慣れるものではない。巨体に似合わず稚(いとけな)い表情を向けてくる生物に、真琴は足先からじわじわと這い上がってくる畏怖の念を感じていたのだ。

 恐怖で身じろぎすら忘れていた真琴の耳に、突として弾丸のように放たれた声が入る。とても痛切な叫びだった。

「ああぁぁああぁぁ」
 滝のような涙を流しながら、ハンジがビーンの腹に槍を突き刺していた。

 少し離れたところで真琴とモブリットは見守っている。周囲には駐屯兵もいて、彼らは珍獣を見るかのような眼つきでハンジを見ていた。
 モブリットは口許に手を添えて、倦怠な声を張り上げる。

「あなたが叫ばなくてもいいんですよ!」
「これが叫ばずにいられるか! ビーンはこんなに痛がってるんだぞ!」
 突き刺したままで、悲愴感を露わにハンジが振り向いた。
 真琴の傍らで、モブリットがくたびれた雑巾のように肩を落とす。
「あんたが痛いわけじゃないだろうに。そもそも巨人に感情なんてないんだから」
「ビーン! 頑張れ、耐えるんだ!」
 モブリットが呟いたのを尻目に、ハンジは我を突き通していた。

 しかしハンジの言う通り、ビーンは槍を色んな箇所に刺されるたびに雄叫びを上げているのだ。ということは痛覚があるのだろうか。それとも条件反射で叫んでいるだけなのだろうか。――分からない。

 次いでハンジは内向的なソニーに槍を突き出した。ビーンとは対照的に心臓を刺されても反応しない。
「どう? 心臓刺されて痛くないの? どんな感じ?」
 優しく問いかけるハンジに、ソニーは穏やかな顔つきで何かを訴えるような仕草をした。
「なに!? どうしたの!? 言ってごらん!?」
 相手は巨人なのに畏れなどないのか、ハンジが距離を縮めた。慌てた様相でモブリットが駆け出したのを、真琴は横目で捉える。

 近づきすぎたハンジにソニーが白い歯を見せて、虎挟みのように噛みつこうとした。その瞬間モブリットが彼女の腕を強く引いて下がらせたのと、ソニーが空を噛んだのはほぼ同時だった。

 引きずられながらハンジは大々的に哄笑した。若干顔が引き攣っているので、恐怖心から生じる可笑しさも含まれているのかもしれない。

「いまのは惜しかったよ、ソニー!!」
「あんた、いつか死にますよ!!」
 言い立てたモブリットの顔は青ざめていた。

 心臓を刺されても絶命しない巨人に真琴は内心驚いていた。確かに彼らの弱点はうなじだとは知っているけれど。
 ともすればあるべき場所に心臓がない、という可能性は考えられないだろうか。しかし検証するために解剖したくとも、切り刻んだところから治癒していってしまうので、内蔵を見ることは極めて不可能に近い気がした。
 全身の震えを収めるために、真琴は両手を強く握った。深呼吸をして暴れる鼓動を何とか鎮める。

 ハンジが落とした槍を拾って、真琴はソニーと向き合う。脚に突き刺して肉を抉るように裂いた。
 蒸気を発する槍頭を、急いで引き寄せて確認する。ごく少量の肉片が絡まっていた。回収しようと指で摘む。熱を感じたと思ったら、白い煙とともに肉片は消えてなくなってしまった。
 分かってはいたが真琴は明らかに気落ちした。巨人の細胞を顕微鏡で調べたかったのだけれど。

 真琴の肩に手が掛かった。ハンジだった。
「なかなか威勢いいね。どうした?」
「巨人の組織をルーペで観察したかったんですけど」
 苦く笑うと、ハンジは感慨深そうにする。
「私も何度か試みたんだけど、ルーペを構える前に蒸発しちゃうんだよねぇ」

 非常によく作られた生物だと真琴は思う。これでは生体について、ほとんど調べることができないではないか。蒸発してしまうという特徴はひょっとすると、証拠を残さないためなのかもしれないとも思えてしまう。

 お日様のようにハンジは明るく笑う。
「巨人って奥が深いでしょう? 真琴もすんごい興味を持ってるようだし、どうだい?」
 真琴の両肩に意気込んで手を掛け、
「正式に私の助手にならないかい? 歓迎するよ!」
「いいカモにされるだけだよ……」
 そばで控えるモブリットが、疲弊混じりに首を振ってみせた。
 さらに苦く笑ってから、真琴は俯いて呟いた。
「ほんのちょっとでもいいんですけど。巨人の一部、一滴の血でも」

 自分で言った真琴は、電気を点けたようにはっと瞬きした。がばっと顔を上げる。
「ハンジさん! エレンですよ! エレンの身体の一部――血でも、髪の毛でも、口内の上皮細胞でも! だって巨人になれるんですもん、もしかしたら何か発見できるかも!」

 ハンジはどうしてか真琴を見て苦笑した。
「エレンの実験はしようとは思っていたけど。そうだな。『じょうひさいぼう』っての? 教えてくれたらエレンに会わせてあげてもいいかな」
 顔を引き攣らせて息を呑んだ真琴の傍らで、モブリットが小声で不同意を示す。
「分隊長、それは」
「頭が固いよ、モブリットは。真綿のように柔軟でないと真実には近づけない」
 青いね、と言うような眼つきで人差し指を揺らした。
 モブリットは本日何度目かの倦怠な顔をみせる。
「言うなれば粘土にしておきましょう。真綿じゃスカスカですよ……」

 ハンジの好奇心は、この先命取りになるのではないかと少々心配してしまう。モブリットが注意するのは意味があるのだ。エレンに接触するのは、いまの段階で固く禁じられているだろうことは明白だった。

 エレンは兵団本部内のどこにも姿を見せていない。どうやら違う場所に拠点を移しているらしく、合わせてリヴァイ班の面々も留守にしているのだった。
 真琴が周囲の団員にわざわざ所在を尋ねなくても、彼らの噂は食堂で大変噂になっている。やれ、エレンはどこにいるのか。やれ、リヴァイ班はどこに消えたのか。噂は噂でしかなく真相はつかめなかったが。

 どうする? という挑戦的な眼差しをハンジが差し向けてきた。
 上皮細胞ぐらいなら喋っても問題ないだろうと、真琴は心の中で言い含めた。開発職の同僚の言葉を思い出しながら説明を始める。

「体表面を覆う表皮のことを上皮細胞と言います。これは毎日生まれ変わるために剥がれ落ちるもので、口内の粘膜を軽くこするだけで採取することができるんです」
「へぇ。こうやってこするだけで組織が取れるのかぁ」
 言いながらハンジは自分の口の中を指で掻くふうにして、
「痛みもなく組織を取れるなんていいね」
 彼女らしく無邪気に笑った。

 十倍のルーペでは、おそらく何かのカスにしか見えないことだろう。本領を発揮するのは、顕微鏡以外にないはずだと、そうであってくれないと困ると、真琴は願うのだった。


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