21.英知の結晶

 入院生活も一週間が過ぎ、特に見舞客も訪れずれないので暇をもてあましていたときだった。ノックの音と同時に引き戸が開かれた。真琴の病室に入ってきた人物は久しぶりの顔ぶれだった。

「こんにちは。来ちゃった」
「なんだ、元気そうじゃんっ」
 首を傾けてにこりと微笑うエリザベートと、若さゆえの恥じらいか仏頂面のローレンツだった。二人は一歩足を踏み入れた瞬間、「拙い!」というような顔をみせた。

「エリ! 間違えたんじゃねぇの、病室!」
「えぇ!? そんなはずは――」
 急いで一歩下がったエリザベートの顔が廊下に消えた。外の壁に掛けられている木札を確認したのかもしれない。少し反響したエリの声が廊下から聞こえる。
「やっぱり真琴の病室よ、ここ」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔の二人を見て真琴はくすくす笑いをした。おそらく男装姿を見て病室を違えたと思ったのだろう。二人に会うときはいつも女の姿だったのでこうして慌てても致し方ないのかもしれないが。

「間違えてないわよ、大丈夫」
 笑いを堪えながら声を掛けるとエリが反応した。まだちょっと眉根を寄せた困り顔に、口許だけに笑みを湛えている。
「びっくりちゃった、男の子なんだもの」
「男の子って。一応成人男性のふりなんですけど〜」
 笑って返し、おいでと手を振った。隅に折り畳んである椅子を取りにいこうとベッドから降りようとした。エリが早々に駆け寄ってくる。

「怪我人なんだからいいって! あたしがやるわ」
 ぶうたれているローレンツがそばに立った。
「なんだよ、真琴ってルースと同じで変装が趣味なの?」
「趣味じゃないんだけどね。仕方ないっていうか」
「あいつのは変装とは違う気がするけどね」
 エリザートが答えて、二つ分の椅子をベッド脇に並べた。

 重そうなでかい鞄を床に置いてローレンツが腰掛けた。
「仕方ない? じゃあいつも男の格好してんの?」
「兵団にいるときは男ってことになってるのよ。いつ関係者が来るか分からないでしょう? 頭に湿気が籠って気持ち悪いけど、かつらを被ってないと拙いの」
「ふーん」と興味なさそうにローレンツは口を曲げた。傍らでエリザベートが目許をしならせる。

「でもなかなか似合ってるわよ。少年っぽさがあたし好みっ」
「つき合ってもらえば? もうずっと男いないんだろ」
「あんたはもぉ! 減らず口が直らないわねっ」
 むすっとした顔でエリザートがローレンツの首を締める。ローレンツが苦しそうに舌を目一杯出した。
「すっげぇ力! 百万馬力!」
「大げさなのよ、あんたは! そんなに力は入れてないっての!」
 ばしっとローレンツの頭を引っ叩(ぱた)いた。
 叩かれた頭はさすがに痛かったらしい。頭を押さえるローレンツの目尻には涙がちょこっと滲んでいた。

 漫才を見ているようで真琴はずっと笑顔が絶えなかった。暇していたのも相まって面白さもひとしおである。
「相変わらずね、ロゥは。叩かれることばかりしてるとせっかくの頭脳が駄目になっちゃうわよ」
「貴重な才能をバシバシ叩く女は罪だよな〜」
 疲れ果てたようにエリザートは項垂れた。
「もう、こいつヤダぁ」
 真琴な彼女に耳打ちをする。

「甘えてるのよ、まだ子供だもん」
「なるほど、ガキ特有ってわけね」
 小声で言って含意の顔つきでロゥを見る。
「なんだよ、ヒソヒソと! 教えろよ!」
 むくれるローレンツを見て真琴とエリザートは二人して忍び笑いをした。

 思い出したようにエリザートが声を上げた。
「お見舞いの品を持ってきたの。たいした物じゃないんだけど――」
 そう言って、手のひらサイズの可愛らしい包み紙を鞄から取り出した。
「あたしの好きな洋菓子屋のお菓子。よかったら食べてね」
「ありがとう、嬉しい」
 差し出された包みを受け取って笑顔を作った。続いてエリはもう一つの袋を取り出す。

「これはマテウスからね」
 袋から取り出したものは小さめの鉢植えだった。
「根付くからダメって言ったんだけど。花をあげたいなら切り花にしなさいって言ったのに、この花が真琴に似合っているからって利かなくて」

 エリザートがサイドテーブルに置いたのは、薄桃色の小ぶりな花がいくつか咲いたマーガレットだった。花言葉は確か「信頼」だった気がする。
 熊のようなマテウスが花言葉を知っていたとはどうにも思えないが気持ちがとても嬉しい。ついでにどのような顔をして花屋で買ってくれたのだろうと想像すると、幾ばくか可笑しくもなってくる。

 エリザートがローレンツを肘で突いた。
「あんたからは何かないの?」
「へ?」
 素っ頓狂な声を上げたローレンツは何でそんなことを訊くのかという顔をしている。彼はまだ少年なのだ。友達の家へ招待されたおりや、こうして誰かの見舞いにきたおりには、一般常識として手土産が必要だということが身についていないのだろう。人づき合いを重ねるうちに心得ていくことだろうから気にするまでもない。
 真琴はゆるゆると首を振った。
「いいのよ。わざわざ来てくれただけで充分嬉しいから」

 さっぱり意味が分からないという顔をしたあとで、ローレンツはサイドテーブルをじっと凝視した。視線の先には籐の籠が置かれていて、中身は見舞いでもらった食べきれない菓子や果物がてんこ盛りになっている。
 物欲しそうな眼をしているローレンツに笑ってみせた。

「好きなの食べていいわよ。欲しいものがあるなら持っていって」
「やったぁ!」
 とびきりの笑顔を見せたローレンツは、遠慮なしに自分の鞄へ菓子や果物を入れていく。ここで食べていく分の菓子はちゃっかり膝に確保しているみたいだ。
 エリザートが白い眼を向けた。
「あんた……遠慮ってもんを知らないの」
「だって真琴がいいって言ったじゃんか」
 菓子で早速口をいっぱいにしているローレンツが、もがもがしながらあっけらかんと答えた。

 腐らせるだけなので喜んで食べてくれるほうが菓子たちも嬉しいだろう。一気に減った籐の籠を見てよかったと思いながら、何でこの二人は真琴が入院していることを知っているのだろうと疑問が湧いてきた。
 まったくというふうに大きな溜息をついたエリザートに尋ねてみる。

「ここがよく分かったわね。誰に聞いたの?」
「ルースよ。真琴が暇そうにしているから行ってあげてって」
 フュルストは本当に判然としない男だ。真琴にひどいことを強要したわりにはこうして気を回してくれる。飴と鞭の使いようが巧いとは思わないが調子が狂う。
 エリザートが表情を曇らせた。

「聞いたわよ。フュルストに無理強いさせられたんですって?」
「ああ、……うん。ある審議でね」
「エレン・イェーガーって奴のことだろ?」
 菓子を口から飛ばしながらローレンツが声を上げた。
 なぜ知っているのだろう。首をかしげてみせたらエリザートが回答をくれた。

「組織の連中はみんな知ってるわよ」
「巨人に変身できるんだろ? ホントかなぁ、デマなんじゃねぇの」
 首を捻るローレンツを見て真琴は憂慮して訊いた。
「街でも有名なの? エレンのことって」
「ううん、実名までは出てないみたい。うちが知ってるのは諜報活動の末よ」

 よかったと真琴は息をついた。街中で名前が知られてしまったらいい晒し者になってしまうのは目に見えている。年端もない少年の平穏を奪うようなことはあってほしくないのだ。とはいえすでに平穏は奪われてしまっているのだけれど。

「ルースがひどいことをしたんでしょう?」
 喋ってもいいのだろうかと考えあぐねていると、エリが眉根を下げて微笑した。
「全部聞いたわ、銃で強いたのも。ホンっとに手段を選ばない奴なんだから」
「どんなふうに話してた?」
 呆れた感じでエリザートは頭を横に振った。
「笑いながら……」きりっと眼を吊り上げる。「だから引っ叩いてあげたわ。女には優しく扱ってあげなさい、って」

 やはり少しも悪びれたところはなかったらしい。フュルストらしいといえばらしいが。

「でもまあ災い転じて福となしたからいいわ」
「甘いわ、真琴! あんな奴、おもいっきり蹴ってやっていいのよ?」
 いきり立って身を乗り出してきた彼女に、真琴は曖昧に笑ってみせた。
「蹴ろうとしてもきっと当たらないわ。空振りしてこっちが痛い思いするのが眼に見えてるもの」
 そんな大それたことができるはずがない。本気で蹴り飛ばして不興を買い、東京湾に埋められでもしたらそれこそ笑い事ではなくなる。

 気になることをローレンツに尋ねた。
「気球の開発具合っていまどんな感じなの?」
 口に溜まった菓子をごっくんと飲み込んだ彼は満面の笑みをする。
「動物実験での浮遊なら成功したぜ! 超小型だけどな」
「超小型?」
「ねずみを乗せてみたんだ」
(なんだ、ねずみか。猿とかなら光が見えたのに)
 真琴は苦笑した。分かっていないと言いたげにローレンツは顔を赤くした。
「馬鹿にしたろ!? ちっちゃいことの積み重ねがでっかい成功に繋がるんだぜ!」

 もっともだった。まだそんな軽い動物でしか試していないのかと、ちょっとでも落胆した真琴はせっかちだったに違いない。彼は頑張って開発をしているのだから労ってやるのが人の心というものだ。

「そうよね、ごめん。すごい進歩だわ」
 えっへんとローレンツが腰に両手を当てた。
「次はもうちょっと大きめの動物で試してみようと思ってんだ。でさ、一応人間用の準備も始めておこうと思ってて――」
 言いながらでかい鞄から薄手の布を引き出した。
「球皮に使う布はもう決めてあるんだ」
 そうして布を何枚かベッドに置いていく。

 手に取った布は見た目を裏切らず薄手なうえに、軽くて陽に翳すと少々透けた。すべすべとした素材はナイロンのような手触りだった。
 ローレンツは続ける。

「これを継ぎ接ぎするんだけどさ、俺あんまり裁縫得意じゃなくて……」続けて嫌味っぽく言う。「――エリもからっきしなんだよなぁ」
 ばつが悪そうにエリザベートが口許を引き攣らせた。
「……あたしは医療分野専門だからいいのよぉ」
「お嫁にいけな」
 彼女は手加減なくローレンツを叩(はた)いて強制的に黙らせた。頭を抱えてローレンツは痛がる。
「ひっでぇ!」
 真琴は苦笑いして、
「それで? 私に布を縫う手伝いをしろってこと?」
「うん。真琴も苦手だったら八方ふさがりだよ。ルースが裁縫得意なんだけどあいつも忙しいヤツだからさ」

 真琴は表情を綻ばせた。
「得意っていったら角が立っちゃうけど。できるわよ、まかせて」
 役立てるのならおおいに結構だ。完成したあかつきには一番に乗せてもらう公約があるので、できれば手伝いたいと思っていた。
「置いていくとかさばると思うし今日縫ってもらった分は持って帰るから。またアジトに来たとき続きをやってよ」
「うん。じゃあ早速縫い始めちゃうね」

 彼が持参してきた裁縫道具を開け、針と糸を持って縫い始めた。傍らでは不器用なりにローレンツも裁縫を始めたようだ。
 二人は黙々と縫っている。エリザートは若干手持ち無沙汰な様子だ。意味もなく病室を見渡したあとで口を開いた。

「そういえばマテウスの顕微鏡なんだけど、三百倍に成功したらしいわ」
「すごいわね。この前まで百倍止まりだったじゃない」
 真琴は眼を丸くして返し、
「国で許されている倍率っていくつまでなの?」
「五十倍までよ。それ以上は捕まっちゃうわ」
 何度か頷いて真琴は瞳を上げた。

「三百倍のレンズって一枚しかないのかしら」
「どうかしら? 聞いてみないと分からないけど……なんで?」
「借りられたら借りたいなって思って。三百倍が無理なら百倍でもいいんだけど」
「何か調べたいものでもあるの?」
 エリザベートの問いに曖昧に言葉を濁した。
「ちょっとね」

 が、貴重なものだから百倍レンズであっても真琴が持ち歩いていたら危険を伴うかもしれない。借りることは難しいだろうか。

「私は何とも言えないけど……、マテウスに聞いてみるわ」
 彼女は頼みを聞いてくれた。
「うん、お願い」
「それとね、真琴」
 エリザベートが半身をうずうずさせて見てくる。
「まだ動物実験の段階なんだけど、心臓の機能不全を改善する薬を開発中なのよね。どう? 使ってみない?」

 もしかすると強心剤のことだろうか。だとしたら調査兵団のような重傷者が出やすい組織には大変頼りになるかもしれない。しかし――

「動物実験ではどうなの? 副作用とか」
「いまのところ顕著に表れていないわね。でも人間だとどうかは分からないわ、試してないし試す機会もないから」
(……ちょっと怖いな)
 研究医であるエリザベートは単に臨床実験をしたいのではなかろうかと勘ぐってしまう。さっきからにやける顔を必死で隠そうとしているからだ。研究部門で働いていた友人の香織を思い出してしまう。彼女も似たような表情をみせることが多かったからである。

「あとね! 強力な止血剤とかもあるわよ〜! どれも一般には出回っていなくて貴重なんだから〜!」
(……やっぱり怖いな)
 悪質訪問販売のセールスマン然。無理に押し売りしようとするエリザベートからは劇薬まがいに聴こえてしまう。
「機能不全を改善する薬って、国で認可されてる物の中で代わりになる物はあるの?」
「よく訊いてくれたわ」得意げな面容で妖艶に微笑み、人差し指を立てる。「ないのよ、そんな薬。だから貴重だって言ったじゃな〜い」

 ここはエリザベートを信用して護身用として頂戴しておこうか。どちらにせよ薬を使う機会があるとすれば生死を彷徨う究極の状態のときだ。そんなときに治験薬がどうのこうのとは言っていられない。が、怖くて自分には絶対使用したくないと真琴は思っていたけれど。

「何個か貰っておこうかな」
「うん! 次きたときに持ってくるわね! 結果報告は怠らないでちょうだいよ!」
 よっぽど嬉しいようでにこにこと笑った。
 不謹慎な気もしないでもない。薬を使ってみないかと勧めてきたのは、戦死者が多い調査兵団に所属しているゆえだろう。医学の進歩には残酷がつきものだ。真琴の世界でも、戦時中は敵国の捕虜を使って血も涙もない人体実験をしたという。そのような実験が医学を発展させたともいえるが、何とも悄然とした気分になってしまうのだった。

 手許に視線を落として休んでいた手を動かし出す。縫い合わせている球皮は完成させるのに相当な時間が掛かりそうだった。一枚一枚の大きさもそれなりだが何といっても枚数が多いのである。ミシンがあればかなり短縮できるだろうけれど、そんな便利なものはこちらにはない。コツコツと仕上げていくしかなそうだった。

 ※ ※ ※

 入院生活が二週間を迎えようとしたころになってようやく退院が決まった。入院費は兵団の経費から出るようなので、取り分けて手続きをすることもなく病室の片付けをしていた。
 たったの二週間といえどそこそこ荷物が増えたものだ。着替えの洋服だったり小物だったり見舞いの品だったり。

 旅行鞄並みの大きさのものにどんどん詰めていった。あっという間にぱんぱんになって二つ目の鞄に手を出した。トランクが欲しいと心の底から思って、真琴が溜息をついたときだった。
 ノックもなく引き戸が開いた。

「退院おめでとう。手伝いにきたよ」
 軽く手を挙げて入ってきたのは笑顔のハンジだった。
「ありがとうございます、わざわざ」
「いいんだよ、一人じゃ大変かと思って……ってなんだ、だいぶ片付いてるね。来るの遅かったかな」
「いえ、助かります。鞄が二個になりそうですし。でももう少しで終わりそうですから座ってて下さい」

「あ、そう? じゃお言葉に甘えて」
 けろっと言い、布団が回収された板の間のベッドにハンジは腰掛けた。
 上司に手伝わせるわけにもいかないが、こうもあっさりと承知されるとは思わなかった。一体何しに来たのだろうと苦笑してしまう。

 真琴は簡易クローゼットを開け放った。あるはずのない鶯色の外套がハンガーに掛かっていた。支給された覚えもなくて首をかしげる。
 手に取ってみると恋しい匂いがふわりと香ってきた。途端に真琴の鼓動が早鐘を打つ。
「これって」

 見るからに調査兵団の外套なのだが明らかに私物ではない。真琴の外套はイアンの止血に使い、現場で捨ててきてしまったのだから。捲って裏のネーム部分を確認してみる。達筆な字で「リヴァイ」と記入してあった。彼の私物がどうしてここにあるのだろうか。

「ハンジさん。リヴァイ兵士長が外套を失くしたとか言ってませんでしたか?」
 唐突に問いかけられたハンジは、呆としていた顔で瞬きを幾度か繰り返した。
「ああ〜。そういや新しい外套を発注してたね。なんで?」
「えっと……ボクのところに紛れてたんですよね。何ででしょう」
 窺うように上目遣いをすれば、ハンジがぽんっと手を叩いた。

「思い出した! 奪還戦のときだよ。あいつが真琴を救出したとき君ってば外套に包まってたから。そのときのなんじゃない? リヴァイの奴、外套してなかったし」
「……そういうことですか」
 静かに呟いた真琴は外套を胸に抱いた。ハンジがケラケラと笑う。
「すんごい必死だったよ、あいつ! あんな顔はいままで見たことないね。ホント仲間思いのいい奴だよ」
「そんなに必死そうでしたか?」
「一ヶ月ぶりのお通じがやってきた! これを逃すと腹が破裂する! トイレトイレ! ――ってくらいにそれはもう必死そうだったよ!」
 ハンジはにかっと笑ってみせた。

 胸の底から込み上げてくるものが、真琴の目頭をじんわりと熱くさせていった。上を向いて関係ないことに思考を巡らせる。ハンジの前で泣くわけにはいかないから必死に涙を押し止めた。

(いつから……いつからこんなにも)
 涙もろくなってしまったのだろう。
(こんな泣き虫じゃなかった)
 と、水を纏うようにゆらゆら乱れ動く天井を見つめ続けた。リヴァイのことになるとどうも胸を打たれてしまうのだ。

 焦がれるほどに惹かれてしまった始まりはいつだったろうか。漠然と思い出すのは初めて出会った日の恐ろしい瞳。きっとあのときから何か予感を感じたから、リヴァイを苦手に思うことで無意識に気持ちを封じ込めようとしていたのだろう。が、日々の積み重ねと時の移ろいには逆らえず、膨らんでいく想いを止めることなど愚かで無駄なあがきだったらしい。

 鼻が湿る感じを残したまま、真琴はハンジに伺った。外套を少し見せるふうにする。
「これどうしたらいいでしょうか」
「真琴のは失くなっちゃったんでしょ? ならそれ使いなよ。おさがりで嫌かもしれないけど兵団もそれほど余裕ないしね」

 緩徐に真琴は頷いた。
 おさがりであってもちっとも嫌ではなかった。そう思いながら外套をひらりとたなびかせて羽織る。着慣れた自分の外套とは些か着心地が違って不思議だった。リヴァイに抱きしめられているようで暖かい。

 穏やかな気分で真琴はハンジと向き合った。
「エレンはどうなったんですか? もう手続きは終わったんですか?」
「とっくに引き取りは終わったよ。正式に兵団への入団手続きも終わった」
「やっぱり二班なんですよね? 後輩ができるって、ボクずっと楽しみにしてたんです」
 あー、と気まずい顔をしてハンジがぽりぽりと頭を掻いた。
「二班ちゅうかなんちゅうのかな。正式には特別作戦班っていって、通称リヴァイ班に名称が変わったんだけど」

 何だか歯切れが悪い。真琴がただ首をかしげると彼女はまた頭を掻いた。痒いのだろうか。
「班員に変更はないんだけど。あ、いや……変更はあるか」
「エレンのほかに新しい班員が入ったんですか?」
「いや、そうじゃなくて。えっとね」
 言いづらそうにもったいぶるので真琴の眉根があからさまに寄る。一拍おいて、ハンジが嫌な役目だと言わんばかりの顔で言った。
「真琴の配属が変更になった。私が預かってくれって言われた」

 まじまじとハンジを見つめた。
(言われた、って言った)
 例えばエルヴィンからそう指示を受けた場合そんな言い回しをするだろうか。普通は命じられたとか申しつけられたとかの言い方になるのではなかろうか。

「誰の指示ですか」
「誰って……」
 とハンジは口籠った。実直に真琴は駄目押しをする。
「誰に言われたんですか。団長じゃないですよね」
 勘弁してという感じでハンジが苦い顔をした。
「……鋭いね。もう分かってるんでしょ?」
「リヴァイ――兵士長ですか」
 ハンジは引き攣らせた笑顔でただ頷いた。真琴は何も返さずに、視線を逸らして窓の景色を眺める。

 穏やかだった気持ちが一変して雨嵐となってしまった。外は抜けるように蒼い秋晴れだというのに。
 愛と憎しみは表裏一体とはよく言ったものだ。まさしくその心境の真琴は、リヴァイの外套を恨みを持って強く握りしめた。
 真琴が巨人だと、いまだに疑っているのだろうか。それで大事なエレンに近づかせたくないのだろうか。それとも別の疑いを持っており、やはり遠ざけたいからだろうか。どちらにせよ警戒されている事実は変わらないようだ。

 針のむしろに座っているのか、居心地悪そうなハンジが取り繕ってくる。
「ほら、あれだよ! 真琴は怪我をしたしさ、演習の調整もあるから準備が間に合わないと思ったんじゃないのかな!」
「そうですね。別に気にしてません」
 口をついた語気はこの秋一番の寒いものだった。

 纏った外套の匂いが鼻を突いて脱ぎ捨てたくてたまらなかった。外の寒々しい景色を見れば、上着がなければきっと冷えてしまうだろうことは明白なのだけれど。
(私と接しているのはリヴァイ兵士長で、決してリヴァイじゃないんだわ)
 大きな勘違いを改めなければならない。リヴァイが大事に思っているのはマコであって真琴ではないのだ。つい混同してしまいそうになるが、それは明らかな誤認なのだと真琴は自分にそう言い聞かせた。

 窓を睨みつけている真琴を見て、ハンジがしずしずと声を上げた。
「えっとさ……、私は嬉しいよ。研究を手伝ってほしいし巨人の話も訊いてもらいたいし」

 そうだ。これはいい好機だと思えばいい。
 クローゼットの奥に隠すように置いてある紙袋を取り出した。中身は鉛のようにずっしりと手に重い。
 ハンジの巨人の研究につき合えば、世界の謎を解くヒントが得られるかもしれないではないか。マテウスの英知の結晶。――この三百倍の顕微鏡で。


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