20.海中から聴こえるような響き

 しばらくこうして雨滴の音に耳を傾けていた。
 雨音はいつも真琴を慰めてくれる。自分を抱きしめる力強い温もりと救いの雨に、いつしか心は安らいでいった。安らぎと合わせてやってくるのは、瞼の重くなっていく感覚だった。
 真琴の頭に頬をすり寄せるふうにして、リヴァイが小さく呼びかけてきた。

「眠いのか」
「……うん」
 窓を激しく伝う滴を見やりながら、リヴァイがぼそりと言う。
「雨、やまねぇな」
「通り雨じゃなかったみたいね」

 眠気混じりの弱い声音に視線を戻して、リヴァイが浅く溜息をつく。真琴の両肩を控えめに押しやって立ち上がった。
 チェストのところまで悠然と歩き、引き出しを開けて物色し始めた。疎ましそうな眼つきで布の匂いを確認しながら、何枚かシーツを選んだようだ。粗末なベッドのシーツを剥ぎ取って、新しいシーツに交換した。
 ひと仕事やり終えた感じで手をはたき、腰に両手を当てたリヴァイが振り返った。

「ベッドで寝ろ。変な体勢で寝ると身体を痛くする」
「ありがとう」と呟いて、眼を擦りながら真琴はのそりと立ち上がった。特に抵抗もなく、幾ばくかカビと埃臭いベッドに身を滑らせる。
 リヴァイが明らかに難色を示した。

「他人の――しかも不衛生そうなベッドによく入れるな」
 不平に思って真琴は唇を尖らせる。
「寝ろって言ったのリヴァイじゃない」
「そうだが……」
 苦い顔を見せたリヴァイが暖炉の前へ戻っていこうとした。手を伸ばし、上目遣いで彼の腕を掴む。
「一人だと寒い」
 真琴が伝えたい真意を察したのかリヴァイは黙った。一拍して、ベッド全体を撥ねつけるような眼光で眺め回す。

「……無理だ。想像しただけで鳥肌が立つ」
 真琴は表情を消した。
「それだけじゃないでしょう……」
 声のトーンを落として、「それ以上に他意はない」とリヴァイが柔く答えた。
 気づかわせてしまったのかもしれない。真琴の思いを弾いたことで苛ませてしまっているのか。
 辛気くさい顔を引っ込め、力なく笑って手の力を抜いた。
「ごめんなさい、いい加減しつこいわよね。暖炉の前へ戻って。寒いでしょ」

 伏し目がちに少し視線を彷徨わせたリヴァイは、軽く息を吐き出しながら言う。
「お前が寝るまでそばにいてやる」
 そう言ってベッドの傍らに腰を降ろした。半身を斜めにしてベッドに肘を置き、反対側の手で頭を撫でてくれる。
 眼を瞑って真琴は感触をただ味わっていた。寂しい気持ちを紛らわすためにちょっとからかう。

「大きな手。……体に似合わず」
「お前の脳みそくらい、簡単に捻り潰せるぞ」
 冷めた眼で見降ろし、そんなに強くない力で髪の毛をぐしゃぐしゃと乱してきた。
 小さい子供のようにどこか喜びながら嫌がって笑う。するとリヴァイがまた優しく撫でつけ始めた。
「安堵した。傷ついてると思ったが以外と放胆だな」

 真琴が笑い顔を見せたから、リヴァイは割りかしほっとしたのだろうか。温もりを求めて彼の片腕に絡みついた。
「傷ついてはいるのよ。深く考えるのをやめただけなんだから」
 息を吸い込む気配と一緒に、口を開こうとしたリヴァイの語を攫う。
「謝らないでね、惨めになるわ」底のない海に溺れることを恐れているように、さらに腕に絡みつく。「――いいのよ。あなたの気持ち、痛いほどよく分かってるつもり」

「こんな世じゃなかったなら、別の生き方もあったんだろうが」
「ない物ねだりしたって仕方ないじゃない」
 リヴァイが幻滅気味に溜息をついた。
「然りだな。こんなことを考える時点で俺らしくねぇ」
「私があなたを駄目にしてるの?」
「いいや、お前のせいじゃない。気にするな」
 顔に垂れた一筋の髪を、リヴァイが耳にかけてくれた。

「どうしたらみんな幸せになれるのかしら。世界の謎を解けば幸せになれるのかしら」
「世界の謎?」
 真琴は瞳を上げた。
「不思議に思ったことはない? どうして突然巨人なんて生物が発生したのか、って」
「考えないわけじゃないが」
 リヴァイはたいして関心なさそうに返して、真琴は考え込む。
「生物が自然発生するわけないのよ。何か元になるものがないと、絶対発生し得ないのよ」

 無生物の中から生命が発生することは、何億年かかっても起こりえない。ということは何かの突然変異で発生したということだ。その何かが目に見えない微生物なのか、動物が進化したものなのかは、さだかではないけれど。
 はっと眼を見開く。

「エレンって極めて不思議よね。何で巨人に変身できるのかしら」
「さあな。人智を超えた代物なんだろ」
 興味なくリヴァイが言ったあとに、真琴はふいに半身を起こした。手の指先を唾を飲んで見つめ、突としてがぶりつく。
 慌てた様子でリヴァイが身を乗り出してきた。

「何してんだ!」
 叱責して噛みついている真琴の手を攫うように捉え、
「馬鹿が! 血が出てんじゃねぇか!」
 真琴は意に介さず思考を巡らす。
「巨人になれなかった……」
「当たり前だろ!」
 リヴァイに向き直った。
「ねぇ。リヴァイも思い切り噛んでみてくれる?」
「断る」
「巨人になれるかもよ」
 気色ばんでリヴァイが睨んでくる。
「なれるわけねぇだろ」
「じゃあ何でエレンは巨人になれるの?」

 唇を薄く半開きにしたリヴァイが、まじまじと真琴を見てきた。それから自分の手の甲へまっすぐに視線を落とす。
「自傷行為で巨人になるんだったか」
 頷いた真琴を横目で見てから手の甲を鋭く睨む。威勢よく噛みついてみせた。

 ひどい咬み傷になった彼の手を、慌てふためいて自分の手で圧迫した。思わず苦笑する。
「男らしいんだから」
「巨人になれねぇな」
「なれないわね」
 馬鹿らしい行為なのに、リヴァイは真剣な眼差しで手を見降ろしている。
「最初くだらないと思ったでしょ? なんでやってみてくれたの?」
 彼はただ真琴を見据えてくる。
「同じ人間だからよね。エレンも私たちも」

 自傷行為で巨人になれる事実に、もしかしたら人間にはそのような力が宿っているのかもしれないと思ったのだった。しかし真琴が自分を傷つけても巨人にはなれなかった。
 ともすると真琴がこちらの世界の住民ではないからなれないのだと結論づけた。ゆえにリヴァイにも試してもらったのだが彼もなれなかった。要するに巨人に変化する細胞か何かが、すべての人間に備わっている可能性を思惑したからなのだけれど。

「エレンだけが特別みたいね」
「そのようだな。やはり注射が原因なのか」
 真琴は首をかしげた。
「注射?」
「記憶が曖昧なようだが、エレンは父親から注射を無理矢理されたと言っていた」
「思いっきり怪しいわね。お父さんっていまどこにいるの?」
「直後に失踪したらしい」
 エレンの巨人化は意味深な注射が原因なのだろうか。

「もういいだろ」
 言い捨てたリヴァイが真琴を布団の中へ押し込んでくる。
「眠いんじゃなかったのかよ」
「うん。眠いんだけど……」
 言いながら半笑いした。

 帰ること以外に目的ができた気がしたのだ。巨人の謎はすべての謎に繋がっている気がする。――いや、すべての謎の先に巨人の謎があるのかもしれない。不可解な体制、言葉の壁、すべては繋がっていると真琴は思うのだった。

 目の前の大きな手に手を重ねれば、緩慢な動きで絡んできた。とても自然で、そうするのが当然というふうな所作だった。ふと思いつき、瞳だけでリヴァイを見上げた。

「ねぇ。あなたって私にもう溺れてるんじゃない?」
 ほくそ笑む真琴に、リヴァイがぽかんと口を開けてみせた。
「自尊心がすげぇな、呆れてものが言えん。思ってても普通は言わないだろ」
「ものが言えん、って言ってるわりには結構喋ってるわよね」
「小生意気な口を塞いでやろうか」

 にこりと笑み、「どうぞ? 黙らせて?」眼を瞑って唇をちょっと突き出す。
 起伏のない表情で唇を見つめたリヴァイは、何かを払拭するように眼を伏せた。
「残念だったな、その手には乗らない」
 口を塞ぐ代わりに頬を強めに抓られて、真琴は痛い痛いと喚いた。頭を布団の中に押し込むようにされる。
「早く寝ろ」

 ささやかな仕返しとばかりに、はしたない素足をリヴァイの脇腹に当ててやった。薄いシーツ越しにひんやりと足の冷たさが伝わったらしい。反射作用でリヴァイが腹をくねらせる。
「なんでまだこんなに冷えてんだ」
「冷え性だから。身体自体は温まったんだけど、足先ってなかなか温まらなくて」
 過少だけれど彼が愕然とした顔をみせた。
「身体悪くするぞ、お前」

 そう発したあとに布団の中に手を入れてきた。真琴の冷たい足を包んで温めようとしてくれる行為だった。
 ぬるま湯に浸かっているような心地好さは、徐々に真琴の足を人肌並みに戻していく。つられてうとうとしてきた意識の中で、思い出し笑いをしてしまった。

「お母さんの話を思い出しちゃった。私が小さいころの真冬の日にね、夜寝るときに寒いからお母さんの布団に潜り込んでは『ちゃむい、ちゃむい』って抱きついていたらしいの」

 母親は昔からとても幸せそうな顔をして子供のころの話をしてくれたものだ。が、思春期特有の反抗心が芽生えていた時期にそんな話をされても、真琴の胸を打つようなものにはなり得なかった。すんなりと胸に落ちてくるようになったのは、そう遠い過去の話ではないのだ。

「子供のころの思い出話なんて、若いころは聞かされたって何とも思わなかった。むしろ鬱陶しいくらいだった。でも社会に出て、厳しさを知って、友達の中には結婚した子もいて。そんな中でいまごろになって、お母さんのありがたさにやっと気づいたの。育ててくれてありがとうって、心から思えるようになったの」
「このうえない親孝行だ。何かしてやることよりも」
「でも学生のころは険悪だったの。就職してからよ、一緒にショッピングとか映画とか観にいくようになれたのはね」

 母親との関係が最も低落したのは大学受験のころだった。志望大学が都外だったため、両親に大反対されたのが事の始まりだ。
 母親は真琴をそばに置いておきたかったらしく、都内の大学以外は断固として許さなかった。都内から出ていくのなら、学費も生活費もすべて自分で賄えとまで言われてしまい、それまでアルバイトなどしてこなかった真琴が、いきなり一人で生活しろと突き放されてしまっては、ぐうの音も出ないのは火を見るより明かだった。母親は見抜いていたのだ。一人で暮らしてなどいけないことを、そんな覚悟も持ち合わせていないことも。揉めに揉めた結果志望大学は諦めて、両親の希望通りに都内の大学へ進んだのだった。

 それからの三年間は最悪で、両親とは口を利かない日々が続いた。気が進まなかったわりには大学は楽しかったので、それで救われてはいたのだけれど。
 関係が良好になったのは就職活動の時期だった。何十社も受けたというのになかなか内定が決まらず、真琴がひどく落ち込んでいるときだった。

 気持ちを込めて書いた履歴書など、しっかり見てくれているのかと疑って、女というだけで落とされているのではないかと疑心暗鬼になり、まるで人格まで否定されているようで、逆に自分を責めるほどに追いつめられていた。
 母親は言った。内定が決まらないのは縁がないからなのだと、真琴という個性を必ず必要としてくれる企業が絶対に現れるはずだと。その企業が真琴を心待ちにしているから神様が内定を授けないのだ――と。

 母親の言葉は勇気をくれた。その言葉を胸に、端から無理だと諦めていた憧れの製薬会社に面接を申し込んだのである。どうしてかあっさりと内定が決まったときには、いままでの苦労は何だったのかと笑ってしまうほどだった。そのあとで母親と笑い泣きしながら抱き合って喜びを分かち合ったのは、いい思い出だ。

 リヴァイはただ黙って聴き入っているが、瞠っている眼に緊張が走っているように見て取れた。ゆるりと夢へ攫っていこうとする朦朧な意識の中で、真琴は懐かしさと恋しさを噛み締めて喋り続けた。

「雑誌に載ってた有名なレストランへディナーを食べにいったときは、二人して緊張しっぱなしで可笑しかったわ。まるで御上りさん気分でちょっと恥ずかしかったのを覚えてるわ」
 瞼が重くなってきて、自分でも何を喋っているのか分からない。それでも真琴の口は動き続けた。
「スカイツリーからの夜景……素敵だった。なんていったって世界一……高い……」

 海中から聴こえるような響きでリヴァイの声が耳に入ってきた。
「壁よりも高いのか」
「六三四……メートル、だったかな」
 誇らしげに微笑む真琴の正面で息を呑む音がした。

「お前の産まれた場所はどこにある」
「東京の……広尾の……」
「どうやって行くんだ」
 思考はすでに靄みがかかっていた。
「銀座から……日比谷線で五個目の……駅……」
「ひびやせんとは何だ」
「電車……」

 リヴァイの不自然な発音に、(……変なの)と機能していない思考でぼんやりと思った。
「お前は……ここへどうやって来た」
 脱力している唇を動かそうとしたが気怠くて叶わなかった。
「――壁の外から来たのか」

 驚愕混じりの重く絞り出したリヴァイの問いに真琴が答えられなかったのは、とうとう眠りに落ちてしまったからだった。


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