19.残酷な世界でなかったなら
芯まで温まった身体からは湯気が立ちのぼっていた。泉質の効果で肌はしっとりとしている。
ふわふわな手触りのタオルで身体中の水滴を拭う。玉のような滴はタオルをそっと当てるだけで吸い取られていった。
拭いても拭いても、じわりと吹き出てくる汗のせいで服が肌に引っ付く。その感触を気持ち悪いと思いながら再び洋服を着用していった。
せっかく解放的な気分になったというのに、また窮屈な服に腕を通すのは大変気が進まなかった。けれど裸でいるわけにもいかないのだし、こればかりは我慢するしかない。
湿ったタオルを抱えて真琴が脱衣所を出ると、とうにリヴァイは支度を終えて待っていた。
「ごめんなさい。なかなか汗が引かなくて着替えに手間取っちゃった」
「たいして待っていない」
歩き出したリヴァイは樹に括ってある馬の手綱を屈んで解いた。立ち上がって、馬の首筋を撫でながら空を見上げる。
「雲行きが怪しいな」
真琴も空を見上げた。薄いうろこ雲だったはずが、いつの間にか重そうな雨雲に成り代わっていた。
いまにも雨が降ってきそうだと思った時、鼻頭にぽつりと一粒の水滴が落ちてきた。
「降ってきたかも」
呟いたのと同時にゆくりなく雨が大地を叩き始めた。みるみる雨粒は強くなる。
「言ったそばからどんどん降ってきちゃったわ。どうする?」
咄嗟にタオルを頭にかけて真琴は雨をしのぐ。リヴァイは着ていたジャケットを脱ぎ、雨を避けるための傘代わりにしたようだ。
「ここで雨宿りをしていくにしても狭いしな」
振り返って脱衣所を一瞥し、眼を凝らして遠目を見る。
「来る途中に山小屋があった。そこまで戻るか」
「通り雨だといいわね」
同じる真琴を引き寄せたリヴァイがジャケットの傘に収めてくれた。肩を寄せ合って足速に歩き出す。
乗馬はせずに手綱を引いて山小屋へ向かう。さっきまで明るかったのに辺りは一気に薄暗くなり、そのうえ空気はみるみる冷たくなっていった。
雨足はますます強まり、紅く染まった地面に雨が叩きつけられて白く霞み出す。気持ちの良い音を奏でていた落ち葉の道は、水分をたっぷり含んで、余すところなくびたびたになっていた。
リヴァイのジャケットで雨を避けているとはいえ、早くも真琴は全身びしょ濡れになっていた。温まった身体の熱を奪われていき、急速に訪れた寒さで震えが生じてくる。
「まだ着かないの」
「この辺だったと思うが」
まじろぎもせず、霧が出てきて視界の悪くなった周囲をリヴァイが見渡した。
「あった。もう少しだ」
速く歩くようにと背を押して促してくる。
少し先に見えてきたのは、屋根を叩く雨粒で白く見える小屋だった。救いの神を見つけたとばかりに二人して駆け足をした。真琴は扉に手をかけて、リヴァイは最寄りの立派な樹に馬の手綱を結ぶ。
ドアノブを握った真琴は、手を捻って歯がゆげに何度も引っ張った。鍵が掛かっていて開かないのだ。
「鍵が掛かってるわ。せっかくここまで来たのに」
落胆を露わにする真琴を尻目に、そばに並んだリヴァイはあたふたもせずまったく動じていない。
「代われ」
横へ押しやってきたリヴァイが一歩下がった。鍵の部分を目掛けて遠慮のない苛烈さで蹴る。
大きな衝撃音と同時に一瞬ガタついたあとで扉は外側へ向かって跳ね返ってきた。
「乱暴なんだからっ。あとで怒られちゃうわよ」
「見つかる前にズラかればいい」
素知らぬ顔してリヴァイは小屋の中へ入っていく。
鍵を壊したことは百パーセント見つからないだろうとは思う。けれど少しは心苦しく思ってもいいのではないだろうか。
非常事態とはいえ、リヴァイの乱暴さに思うところがあって軒下から動けずにいた。そんな真琴に気づき、数歩室内へ踏み込んだリヴァイが戻ってきて手首を引く。
「さっさと中へ入れ」
「……うん」
物申したかったが引かれるままに扉をくぐった。
鍵が壊れて機能しなくなった扉は立て付けが悪くなり、風で煽られ、閉めてもばたばたと踊り狂っていた。だから枠に取り付けてある木製の補助鍵を引っ掛けてやった。
秋というのは朝昼夕と気温の上下が激しい季節だ。触覚が麻痺してきた両手を温めようと吐息を吐けば、温泉の湯気のように白かった。
「寒い……」
自分で自分を抱きしめて両腕を強めにさする。指先は冷えて、足先も感覚が分からないほどに凍えていた。
リヴァイが壁面に作られた炉の前でしゃがみ込む。
「待ってろ。いま火を点けてやる」
そばにある積まれた薪をいくつか焼べて、彼は両手に火打石と火打ち金を持つ。打ち付けると火花が散り、その火花を薄い木片に点火させたあとで炉に放り込んだ。
弱かった炎は焼べた薪をちょっとずつ巻き込んでいき、やがて大きな炎になっていった。薄闇に明かりが差すと、二つの影が壁のところで屈折して長く伸びた。
五畳ほどの山小屋は丸太を重ね合わせたログハウス風で、あまり使用された形跡がない古びた建家だった。汚れたシーツが掛けっぱなしの木製のベッド、半開きの引き出しから何かの布がはみ出ているチェスト、隅っこに経年劣化した掃除道具一式が据えられていた。
リヴァイがやにわにシャツを脱ぎ出したので真琴は眼を剥いて狼狽える。
「なに脱いでるのよっ」
「お前も脱げ。濡れたままでいると風邪を引く」
肌着も脱いだリヴァイは惜しむことなく見事な肉体美を披露した。
小柄な体型に反して洗練された強靭さだった。いい身体をしているだろうことは何となく察知していたが、ここまで筋骨隆々とは思っていなかった。いたく精悍な身体に抱きしめられたのだと想像すると、真琴の頬がもみじの如く紅く染まった。
室内の両端に付けられている洗濯ロープに、濡れた上着とシャツを引っ掛けてから、リヴァイが気にしたふうもない顔つきを向けてきた。
「何してんだ、早く脱げ」
当たり前のように平然と言うから戸惑う。それでも迷い迷い襟の釦を三個外した真琴に、彼が白いシーツを投げてきた。
チェストの引き出しを開けているリヴァイは、もう一枚シーツを取り出して自分の肩にかけてから、真琴に向かって今度は片眉を上げる。
「早く脱げって言ってんだろ。またぞろ熱を出され」
つい口を突いたという感じで突然噤んだ。
真琴は不思議に思って首を傾け、リヴァイは顔を背けて舌打ちをする。
「クソ……っ。ややこしいったらねぇ」
とぼやき、それから真琴に向き直った。
「あとで熱が出たら困るだろ」
このまま濡れた服を着ていたら確かに風邪を引くかもしれない。上半身に至っては下着まで湿っており、肌に張りついていて気持ち悪かった。男と二人きりで裸になることに抵抗はあるが、やむを得ないようだ。
「後ろを向いてて。絶対こっちを見ないでよ」
きつく一言勧告してから部屋の隅へ移動し、壁を正面にカビ臭いシーツを頭から被った。しずしずとワンピースの釦を外して脱いでいく。下着はどうしようかと迷ったが、後ろ手にブラジャーのホックを摘まみ、迷い迷って外した。
身体にしっかりとシーツを巻きつけて立ち上がり、洗濯ロープに濡れて重くなったワンピースを引っ掛け、内側に隠すようにしてブラジャーも干した。
再び隅に戻り、真琴は身体を丸めて小さくなる。寒くて寒くてつらい。感覚がなかった足先は、針で刺されたような痛みを感じるまでになっていた。
暖炉の前で暖をとるリヴァイがちらと視線を投げてきた。
「こっちへ来い。何でそんな隅っこにいるんだ」
「いいの。放っておいて」
「あ? 寒いだろ。こっちへ来て温めろ」
かじかんで強張る唇を開き、真琴は強がる。
「……べつに平気」
そう言い置き、小刻みに震え続ける身体をさらに丸くして膝を抱いた。透けはしないが薄手のシーツだけを纏う姿で到底リヴァイの近くへなんていけるはずがなかった。
けれど歯の根が合わないほど寒くて震えが止まらない。羨ましい眼つきで真琴は暖炉の炎を見入る。
上目で盛大に息を吐いてからリヴァイが床板に手を突いて立ち上がった。
「いい加減にしろ。どこまで頑迷なんだ、お前は」
分からず屋な子供を相手にするかのように言って近づいてくる。少し顔を強張らせた真琴は膝でにじって壁に張りつく。
「やだ、来ないで」
腕を掴んできたリヴァイに問答無用で引き起こされる。暖炉の前まで連れていかれ、両肩を無理に押されて座らされた。
産まれたばかりの子猫のように震える真琴をリヴァイが引き寄せる。
「呆れた奴だ。寒いくせにやせ我慢しやがって」
真琴は大人しくリヴァイに身を寄せた。限界まで冷えきった身体は本能的に温もりを求めており、シーツ越しであろうとも伝わる僅かな温かさに眼を瞑って縋りついた。
「あったかい」
「女は身体を冷やすな」
鎮めようとしても鎮まらなかった震えが次第に治まってきた。背中には暖炉の温かさが、胸許にはリヴァイの温もりがある。
真琴は葛藤していた。
彼の胸許に添えている手が、物足りないとわがままを言い出し初めていて、制御するのが困難になっていた。肌に触れたくて触れたくて我慢できないのだ。
(可怪しい)
そう思った。ぼろぼろな線は爛爛と燃える炎によって、とうとう灰燼と帰してしまったのだろうか。
リヴァイが纏う胸許のシーツの合わせ目から遠慮がちに両手を差し入れてみた。まだ氷のように冷たい真琴の手が直接肌に触れたからか、リヴァイが微かに痙攣した気がした。
熱くて逞しい半身に腕を絡ませて抱きつく。重なり合う肌の質感はさらりとしており、一瞬目眩のような感覚に陥って合わせて胸が高揚した。
肩から滑り落ちそうになったシーツをリヴァイが掛けなおしてくれる。
「はだけて寒いんだが」
熱混じりに囁いたリヴァイが自分のシーツで真琴ごと包む。
「どうした。鼓動が速い」
「リヴァイだって速いわ。でもこれじゃどっちの音か分からないわね」
リヴァイが小さな吐息を吐いた。
「大胆な奴だ。いくら寒いとはいえ、男の身体に抱きついてくる奴があるか」
「寒いからだけじゃないの」
リヴァイが息を呑んだ気がした。真琴は炎を見つめながら肩に凭れる。
「前にあなた言ってたじゃない。人肌が恋しくなるときもある……って。女だってそういう気分のときはあるのよ」
「馬鹿なことを。俺が妙な気を起こしたらどうするつもりだ」
真琴は口を開くが、思い迷って閉した。そうして自分に言い聞かせた。
(これはマコだもの。私ではないから大丈夫。偽物だからいつでも消せるし引き返せるはずよ。だから本能に従ったっていいでしょう?)
「いいの。私は嫌じゃない」
顔を上げてリヴァイと見つめ合った。紅炎によって赤くちらつく面様の彼が瞳を細める。
「そりゃどういう意味だ」
「あなたの好きにしていいの。ううん、好きにされたいの」
「ふざけたこと抜かすな。俺をからかうとあとでひどいぞ」
「からかってないわ。触れてきて?」
瞳の奥で燃える赤色に首を傾けると、リヴァイはたまらなそうに頬擦りをしてきた。
「乳臭ぇガキがっ、この状況で煽惑してくんなよ」
何かがはち切れそうになるのを必死で押しとどめているのか、八つ当たりのような口づけを頬にしてくる。どうしてか切なく感じさせた。
「唇に……してはくれないの?」
頬を寄せたままリヴァイがつらそうに眼を瞑った。
「それはできない」
「……どうして?」
「お前に溺れるわけにはいかない」
何となくその先が分かってしまった真琴は弱々しく口にする。
「どうして……」
胸が裂ける思いだった。
「マコに溺れたら俺は弱くなる。マコが関わると俺は冷静でいられなくなる」
リヴァイが真琴を強く抱き寄せる。
「俺は、俺が俺たり得なくなるわけにはいかない。再確認させられたんだ、大事なものはいらないと」
真琴は少し唇を噛んで、消えかけた炎のように脆弱に難じた。
「それならどうして触れてくるの。唇の跡なんてどうして残すのよ、ずるいじゃない」
「だから言ったろう、俺は狡いと」
もどかしげに頭に頬をすり寄せてくる。
「俺は狡い。幸せになどしてやれねぇのに、ほかの男に取られるかと思うとにっちもさっちもいかなくなっちまう。ただの浅ましい独占欲だ」
線を引かれたようだ。真琴の引いた線は燃え落ちたというのに、リヴァイの線が燃え尽きることはなかったのだ。
しかしこれでよかったのかもしれなかった。――自分の世界へ帰ったときに泣かないで済む、そう思えばこれでよかったのだろう。そう言い聞かせなければ惨めだ。
瞼が熱を発していくのは炎が照らすからだろうか。ほろりと頬を伝っていった雫をリヴァイが唇で掬ってくれる。合わせて強く抱きしめてくれた。
慈しむような行為に切なさよりも愛しさが勝ってしまってどうしようもなかった。おもむろに両膝を突いた真琴は、両手で柔く包み込んだリヴァイの顔を見降ろす。
衣擦れの音をさせて肩から滑り落ちていったシーツは足許に纏わりついた。
雨音と薪の爆ぜる音しかしない。そんな静かな空間でひとときのあいだ見つめ合う。炎に合わせて揺れる影が、真琴とリヴァイの身体を明滅させており、ひどく神秘的に見えた。
懺悔の気持ちを込めてささめく。
「ごめんなさい、私きっとひどい女だわ。あなたの固い意志が揺らげばいいって思ってるのよ。でもこうしたくてどうしようもないの」
(許して)と唇を動かさずに呟いて瞳を閉じた。リヴァイの薄い唇に口づけをしていく。
何を映しているのか分からない瞳で彼はただ見つめているだけだった。反応してくれない冷たい唇に、幾たびも物柔らかく唇を重ね続ける。
「応えて、リヴァイ」
哀願してもリヴァイの唇が真琴を求めてくることはなかった。
残酷な世界でなかったなら求めてくれたのだろうか。真琴と同じ世界で出会っていたなら幸せな未来を選べたのだろうか。
こんなに近くにいるのに手が届かなくて哀しい。切ない余情しか残らなかった唇から諦めて離れ、頭を伏せた。ほろほろと涙が零れ落ちていく。
「私はあなたを苦しませて、あなたは私を苦しめる。私たちは結ばれない運命だったの、出逢っちゃいけなかったっていうの」
口をついた責めは誰に当てたものでもなかったが、強いていえば自分を呼び寄せた不思議な力へだろう。
つらそうな震えた吐息を絞り出したのはリヴァイだった。首の後ろに手を回してきて、息もできなくて苦しいほどに抱きしめてくる。
このまま窒息してもいいと、真琴も猛々しい身体に強くしがみついたのだった。
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mokuji
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