18.最後の理性

 広げた荷物を再び馬の背に括り付けて移動となった。
 木漏れ日が差し込む森の中をゆっくりと常歩させていると、ふうわりと硫黄の臭いが鼻を突いた。この匂いは何となしに回顧の念を催させるもので真琴の知っているものだった。

「まさか温泉?」
「匂いだけでよく分かったな。来たことがあるのか」
「えっと……昔ね」

 そのじつ、この世界の温泉に入ったことはない。だけれども真琴は温泉好きであり、各地の名湯を友人と一緒に巡るのが趣味である。
 日本独特のイメージが強い温泉の香りに、どことなく古巣を偲んだ。次いで美しい森の中にいると、トロスト区の惨事など夢であったのではないかとさえ思えてしまうほどだった。

 祖末な小屋が二つ見えてくると背後からは白い湯気がたなびいていた。硫黄の匂いも強い。どうやら目的の場所へ辿り着いたようだ。
 昼食のときと同様に近くの木へ馬の手綱を括ってから、真琴とリヴァイは小屋の前に立った。
 樹々に囲まれた小屋は隙間なく隣接しており、それぞれに戸がある。概観だけでは温泉の様子が窺えない。覆い茂った樹々が自然の目隠しになっているためだった。

 名湯と言われる辺境の場所では、辺りが開けていて丸見えのところも多々ある。こうして外から見えないようになっていると、安心して入浴できるというものだ。
 小屋の幅は人間の一・五倍くらいしかないが、もしかすると縦に奥行きがあるのかもしれない。二つ入り口が用意されているので男女別の脱衣所なのだろう。よくよく見れば戸の上のほうに小さな文字で「女」「男」と書いてあった。

 ちょっとでも地震があると崩れてしまいそうな、みすぼらしい佇まいである。けれど秘湯と呼ばれるところには脱衣所すらないこともあるので、それを考え合わせれば文句を言うのは贅沢というものだろう。
 小屋の隅には古びた立て札があった。効能が書き添えてある。

「疲労回復、冷え性。打撲、骨折――ですって」
「そうらしいな」
 立て札など見ずに、興味なさそうにリヴァイが答えた。
「良かったじゃない、疲労回復効果があって。連日連夜トロスト区の処弁で大変だったんでしょう?」
「そうでもない」

 適当な感じで言い消して、リヴァイが用意してきたバスタオルを差し出してきた。洗濯したばかりなのだろう。良い香りがするタオルを受け取り、真琴は憂慮して顔を覗き込んだ。
「嘘ばっかり。目の下にうっすら隈があるもの」

 それに真琴に心の声を吐露した日のことも平明に覚えている。あれは疲れているがゆえに身内の表面へ現れてしまった弱さだったのではなかろうか。
 あまり見られたくないのかリヴァイは顔を逸らした。

「木の影が映っただけだろ。お前こそ良かったじゃねぇか」
「え? ――そうね。私冷え性だから」
 ついでに骨折の効能も得られると、真琴はにっこり笑った。

 骨にヒビがあると言われたときは、痛みも相まって大事だと焦ったものだ。肋骨という部位はちょっとしたことでヒビが入りやすく、知らずに日常生活を過ごしている人も多いと聞く。治りやすい箇所ということもあり、経過も順調なので、これを機会にゆっくり湯に浸かって回復させておこうと思った。

「じゃああとでね」
 笑顔を見せ、真琴はタオルを抱えて脱衣所へ入っていった。
 奥行きがあるかと思った内部はそうでもなく、人間二人分ほどのスペースしかなかった。板を組み合わせただけの棚が、腰の高さほどの壁に直接取り付けられていたのでそこへタオルを置いた。
 窓もなく陽光もなく、ただ小暗い狭小な空間だった。朽ちた板の合わせ目から、白っぽい光がちらちらと見えるだけである。

(あっ、いけない)
 服を脱ごうとしてあることに気づいた。後頭部に手を回してカエデの葉を取った。そうして葉が破れたりしないようハンカチで包んでバッグにしまった。

 ハイネックの前釦を外していく。秋物の厚手な生地はしっかりとした素材で作られており、襟を緩めた瞬間窮屈感から解き放たれた。
 首許を覆う服を選んだのは理由があった。首許から胸許にかけて、リヴァイに唇の跡を点々と散りばめられてしまったからである。一日やそこらでは消えず、ましてや公共の面前で晒すわけにもいかず、用心のうえに用心を重ねて流行のデザインということもあり、この服を選んだ。

 ここには鏡などないが、どこにどれだけ跡を残されたのか覚えている。昨夜屋敷で確認したからだが、視覚で覚えたわけではなく――
(ここら辺に一つと、あとはここ……)
 思い起こして指で軽く触れてみれば、たちまち身内から熱が溢れてくる。鮮明に蘇ってきた乱暴な唇の感触が、真琴の胸をきゅんとさせるのだ。軽いやけどをしたようにじんわりと熱を放ち続けているから、触感が箇所を教えてくれるのである。

 なぜあんなことをしたのだろう、殴りかかろうとした腹いせだろうか。それともフュルストと一緒にいたから妬み心だったのだろうか。
 そんなことを思ってちょっと可笑しくなった。
(ずいぶんな自信家ね)
 真琴はいくぶん窮して薄く笑う。が、当て推量もあながち間違っていないと思っているのだけれど。

 温泉の入り口と思われる反対側の戸を開けて、素足ででこぼこした石畳みに一歩足を踏み入れた。もわっとした湿気を充分に含んだ、温かくて真白な水蒸気の中を進む。
 眼を凝らすのは、立ちこめる湯気のせいで大半の視界を奪われているからである。硫黄の香りと僅かに透けて見える足許を頼りに湯のもとへ向かう。

 取り分け大きな石というよりも、岩に近いもので仕切られた縁が見えた。これを超えると中は温泉だった。
 温度を計るためにそろりと足先だけを湯に入れる。やや熱めだけれど真琴の好きな湯加減だった。縁の岩に手を突いて、ゆっくりと全身を浸からせていった。ぬるぬるした膚ざわりの底に尻をつけた。
 胸の少し上ぐらいまである乳白色の湯を掬い、外気に晒される肩にかけてやる。いたく心地好くて真琴は「ほぅ」と息を吐いた。

 ふいにちゃぷんと湯の跳ねる音が聴こえた。
(誰かいるのかしら)
 視界の悪い周囲を見渡すが、そういえば見渡すだけ無駄だと思い至った。脱衣所には真琴以外の人間の気配は皆無だったのだ。おそらく猿などの動物が癒しを求めて湯に入りにきたのだろう。
 そう思っていた矢先のことだった。

 ついと強めの風が吹き、白い湯気の濃さが薄まった。少し離れた先に一つの人影が見えて、途端に真琴は身を竦ませた。

「な、なんでいるの!? 女湯よ!?」
「お前こそ何でいるんだ、ここは」
 またぞろ増えていく湯気で表情こそ窺えないが、声の主は疑いもなくリヴァイである。微かに狼狽の声音だった気がする。
 反射的に胸許を抱いた。
「まさか混浴!?」

 それしか考えられなかった。入り口は男女で二箇所あったが、湯へと続く出口は一つに交わっていたのに違いない。
 ぱしゃっと大きめな湯の音と溜息が聴こえてきた。

「……勘弁しろ」
 どこかしらつらそうな小さい呟きだった。
 真琴はなるべく身体を深く沈ませて、抽象的に見える人影を注意して見つめた。
「それ以上こっちに来ないでね」
 若干の沈黙のあとでリヴァイが口を開いた。
「こっちってどっちだ。あっちか」
 けろりとした様子で返して、リヴァイが真琴のほうへと下がってくるではないか。

「だ、だめ! 違うわよ! こっちじゃない!」
「あ? だからどっちだ。視界が悪くてお前の位置が検討つかない」
「下がってこないでってば! 前へいって!」

 慌てふためいた声を張り上げ、守るように胸を抱く腕に力を込める。どんどん近づいてくるリヴァイの影が鮮明になっていく。皮膚の色が湯気の中でぼんやりと垣間見えるほどに距離は狭まっていた。

「わ、わざとね!」
「さあな」
 真琴は唇を引き結んだ。一人分空けてリヴァイが傍らに並んだ。
「警戒するな、何もしない」
「へ、変なことしたら大声出すからっ」
「誰もいないのに大声出したって無駄だろ。助けなんざ来やしない、喉をつぶすだけだ」
「やっぱ変なこと考えてるじゃない!」
「例えばだろうが」
 うんざりした口調だったが、さらに引いた真琴の唇はへの字になった。

「前科持ちが言ったところで信じる人間なんていないわ。せめて背を向けてよ」
 腹の底から吐き出すような息をし、リヴァイが湯を掬って顔を洗う。満ち足りたような深い息をもう一回ついて縁に寄りかかった。
「心配するな。湯気が濃くて見えないし、湯だって白いだろ」

 言われてみればその通りだと思って真琴は肩の力を抜いた。現にこちらからだって彼の姿はうっすらとしか見えないのだから、むろんリヴァイからも真琴の姿はクリアでないはずだ。
 ねぇ、と抑え気味に声をかけた。

「今日私と一緒にいても平気なの? エレンの監督をしないといけないんじゃなかった?」
 そういう約束でエレンの調査兵団入りが決まったのに、早速約束を反古にして大丈夫なのだろうか。
「エレンはまだ審議所だ。お前が知らない面倒な手続きってもんがある。法的な処理が完了しないと、エレンの引き渡しはできないことになってる」
「そうなの。かわいそうね、地下牢なんでしょう?」
「それは仕方ない、あいつは巨人になれるんだしな。それよりも憲兵がのろのろしてやがるから手続きが滞ってる。引き渡したくないのが見え見えだ」
 故意に処理を遅らせているということだろうか。

「判決の直前は意見してなかったのに、やっぱり納得してないのかしら」
「そうじゃない、奴らは厄介払いができて満悦だろう。ついでに次の壁外調査でエレンは消えると思ってるだろうしな」
「ならどうして引き延ばそうとしてるの」
 霞んで見えるリヴァイが、疲れをほぐすように首を大きく回した。
「クソみたいなメンツだ。おおかた判決で負けたのが気に食わないんだろ。要するに俺たちへの嫌がらせってところだ」
「困った人たちね」
 仕様がないなと真琴は溜息をついた。リヴァイが横目だけで見てくる。

「だが昨日引き取れていたなら、こうして連れてきてやることもできなかった」
 真琴ははにかんだ。素直に嬉しかったし、久方ぶりに女でいられることに喜びを感じているからである。
「エレンが来たら、俺はしばらくあいつに付きっきりになる」

 エレンはたぶんリヴァイの班に入るのだろうから、必然的に真琴と一緒ということになるのだろう。自分の下に後輩ができると思うとどこか楽しみで仕方なかった。といってもエレンのほうが遥かに優秀だろうから、差し詰め真琴のポジションが変わることはないのだろうけれど。
「そう。大変だろうけど頑張ってね」
 単純に労ったそばで、リヴァイは小さく溜息をついていた。

 それにしても、と辺りを見通してみた。
「せっかく紅葉で絶景なはずなのに、湯気がひどすぎて拝めないわね」
 残念な気分で言うとリヴァイがしけた眼つきをした。
「湯気がなかったら困るんだろう」
「そうなんだけど……」
 と口籠った真琴は何となしに背中を見せた。背後でショックを伴ったような息を呑む気配がした。

「どうかしたの?」振り返ろうとしたらいきなり湯が大きく波打った。泡を食う様子で距離を詰めたきたリヴァイが背中を触れてきた。
 面食らった真琴は小さく悲鳴を上げる。したたかに身体を痙攣させたせいで、またも湯面が大きく揺れ動く。

「変なことしないって言ったのにっ」
 返答はもらえず、腫れ物に触れるかのような手つきがただ伝ってくる。真琴は身を固くした。
「何してるのよ。……リヴァイ?」
 リヴァイが重たげに長い息を吐いた。
「背中……鏡で確認したか」
「え? ううん」
 何だというのだろうか。いやに恐る恐る触れてくるけれど。
 リヴァイが触れた箇所を少し押す。

「痛むか」
 軽く鈍痛がしたから頷いてみせた。
「痣がひどい。治りかけなんだろうが、背中全体に内出血の跡が広がっている」

 真琴は眼を見張って動乱した。
 それはきっと巨人によって建物の壁へ叩きつけられたときにできたものに違いない。背中など自分では確認しづらい部分だから全然気づかなかった。取って付けた理由を作っておいたほうがいいかもしれない。

「階段から落ちちゃって。そのときの痣だわ」
 沈痛な雰囲気を全面に出したリヴァイが溜息をついた。
「無茶をしてくれるな。傷一つ――ホクロすらない抜けるような白い肌だったろ。見るも無惨じゃねぇか」
「……ごめんなさい」
 どうして謝ってしまったのか分からなかった。
(いまはマコなのよ。無鉄砲な行いをした私が謝るならともかく、マコが謝ったら可怪しいじゃない)
 ただリヴァイの絞り出した声がひどく痛々しかったので、謝らずにはいられなかったのである。

 背後から腕を回してきたリヴァイにやんわりと抱きしめられた。
 何もしないと言ったはずの彼は結局触れてきた。が、随意にしてあげたいと思ったから何も言わなかった。真琴もそんな気分だったからだ。
 男らしい二の腕に引っ掻いたような掻き傷を見つけた。そっと指でなぞってみる。

「どうしたの……これ」
 心当てはついている。病室で真琴が暴れたときに付けた傷だろうことは明らかだった。どう返すのだろうと気になったので戯れで訊いてみたのだ。

「猫にやられた。本部に住みついてる子猫だ」
 可愛い言い回しにくすっと笑みが零れた。首を傾けて続きを促してみる。
「どうして引っ掻かれちゃったの」
 少しの沈黙のあとでリヴァイが話し出した。

「……独りで晩酌していたら、その子猫が干し肉を咥えて俺に持ってきた。だが俺は、その肉をどこから持ってきたのだと怒鳴りつけちまった。昼間厨房の窓ガラスが何者かによって割られたと報告を受けていて、ならば子猫がやったのだろうと決めつけたんだ。怒った子猫は俺の腕を引っ掻いて去っていった」

「続きはあるの」
「……あとで俺は知った。窓ガラスを割ったのは子猫ではなく、縄張りを荒らすブタ猫の仕業だった。子猫はただ、酒のつまみにと俺へ気をつかっただけだったのに、怒鳴ればそりゃあ……怒るよな」

 何だか胸がいっぱいになってくる。子猫を真琴と重ね合わせているからだろうか。
「子猫、そのあと戻ってきた?」
「許してくれたかは分からないが、その後も俺のもとへやって来て、くだらねぇ愚痴をつまんなそうな面もしないで……ただ聴いていてくれた」
「……そう。許してくれたのよ、きっと。そうでなければ男の愚痴なんて聞かないと思うわ」
 でも、と口許を綻ばせる。
「干し肉は厨房から盗んできちゃったんだと思うわ。そこは叱ってあげなきゃね」

 何も言わず、リヴァイが真琴の肩口に顔を寄せてきた。肩に触れた唇は、そこから背中のほうへ向かって何個もキスを落としてくる。痣を労るような口づけがとても心地よかった。
 唇から熱い吐息を感じた。

「俺は狡い。何もしないと言っておきながら、本当は触れたくてたまらなかったのかもしれない。慰撫するフリをしながら、ただこうして触れていたかっただけに過ぎないんだ。どうしようもねぇ男だ」

(私は嫌じゃない。むしろもっと――)
 喉まで出掛かった言葉は呑み込むのに楽ではなかった。おそらく最後の理性だったに違いない。真琴の引いた線などとうにぼろぼろだったのだから。


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