17.野山に囲まれた湖

 真紅から中間色を経た橙色の色合いの葉。そんな樹々が植林するは野山に囲まれた湖だった。湖面の透明度が抜群で、合わせ鏡のように紅葉を映している。
 そよ風で表面が揺らぐと、まるで絵の具で薄めてしまったかのように湖面の景色がぼやけていき、ピンボケした写真を思わせた。合わせて映し出されている青っぽい色の形象は空を仰げば明らかだ。イワシ雲が薄く伸びる心が洗われるような蒼天があった。

 湖畔に近いところで馬からひらりと降りたリヴァイは、次いで真琴に手を伸ばしてくれる。伸ばされた手を取り、馬の背から尻を滑らせて地に降り立った。
「素敵なところね」
 赤や黄の落ち葉の絨毯を意識的に音を鳴らして歩いていく。落葉したばかりの葉っぱはしんなりと、一方で落ちてから数日経ったであろう葉っぱは乾燥しており、踏むたびに心がしゃきっとする音が鳴った。

 蹴って落ち葉を舞い上がらせる。
「すごーい、ふかふか!」
「むやみに散らかすな」
「一面落ち葉の絨毯なのよ。散らかしたって誰にも迷惑かけないわ。持って帰ってしおりにしようかしら」
「もみじ狩りはあとでだ。腹が減ったと言ったろう」

 弁当を食べるのに頃合いの場所を見つけたので、近くの木に馬の綱を括りつけた。背に留めていた荷袋の中からリヴァイが茣蓙を取り出し、そばの木の根元に敷いてくれた。

 バスケットを手に取り、真琴は靴を脱いで茣蓙に腰を降ろした。ランチマットを敷いた上に大きめの弁当箱を置く。一緒に用意してきたポットとカップも取り出して紅茶を入れる。魔法瓶よりも性能が落ちる保温ポットでは冷めているのではないかと案じていたが、カップに注ぐと湯気が立ちのぼって芳香が仄かにたゆたった。

 傍らに腰を降ろしたリヴァイに紅茶のカップを差し出した。個性的ないつもの持ち方で受け取って彼は口に含む。微小だが満足そうな顔をみせた。

「美味しい? 屋敷にあったものなんだけど高級な茶葉なんですって」
「悪くない」

 なべて良いと思ったとき、リヴァイはこの言葉を使うみたいだ。美味しいとか綺麗とか素直に言えばいいのに、と真琴は思う。が、これが彼の最大の褒め言葉なのかもしれないと思えば特にやきもきすることもないのだけれど。
 弁当箱に手を伸ばして蓋を開けた中身はサンドイッチとおかずの詰め合わせである。肉を入れられないのでタンパク質不足を考慮して卵や乳製品を多めにした。

「どうぞ、食べて」
 弁当を少しリヴァイのほうへ押しやって勧める。
「ああ」
 リヴァイはサンドイッチを手に取って食していく。一言も喋らず、ほかのおかずにも手をつけて黙々と食べ続けている。
 日頃より表情の乏しい彼からは嗜好に合っているのか汲み取れなかった。

「どう? お口に合ってるといいんだけど」
「――うまい」
 短く洩らした言の葉に真琴は眼を丸くした。リヴァイが少し厭わしそうに片眉を上げる。
「なんだ。人の顔を見て狐につままれたような面しやがって。失礼だろう」
「ううん、なんでもないの。ごめんなさい。いっぱい作ってきたからどんどん食べて?」

 にやけていく表情を隠したくて顔を伏せた。「うまい」とストレートに料理を褒めてくれたリヴァイが意外過ぎて驚いている反面、とても嬉しくて自然と口許の締まりが悪くなっていくのだ。自分の気持ちをまっすぐに伝えたことなど、人生初なのではないかと勘ぐってしまう。さすがにそこまで考えるのは自惚れ過ぎだと興奮した状態を鎮めた。

 サンドイッチに手を伸ばして真琴も口に運ぶ。
「ん。我ながらいい仕上がりじゃない」
 ジャガイモとマヨネーズの塩梅がよく、少し粘り気のある食感はポテトサラダサンドだ。舌に残るジャガイモのザラザラ感を紅茶で飲み下した。
 言外の意味がありそうな顔のリヴァイが、フォークに刺さる茹でたブロッコリーを目の前で掲げている。

「しかし見事に野菜だらけで、肉がいっさい入ってねぇな」
 もぐもぐしながら眼を泳がす真琴を横目で見てくる。
「肉が使えないほどお前の屋敷は没落してんのか」
「貧乏みたいな言い方しないで。違うんだから」
 少し言い淀んで適当な理由を探す。
「ベジタリアンなの。宗教の関係でお肉を食べられないのよね」
「べじ……た、り?」

 思いついた嘘は意味が伝わらなかったようだ。約百五十年前から世界で使われているベジタリアンという言葉もこの世界にはないらしい。
 通じる言葉と通じない言葉の境界線が曖昧で戸惑う。翻訳機能が真琴に付いているのならば、例えば小学生というこちらにないであろう言葉を発した場合、代わりにある言葉で代用して訳出してくれてもいいと思うのだが融通が利かないようなのだ。大変不便である。

「菜食主義者なのよ。あなたまで巻き込んでしまってごめんなさい」
「野菜しか食えないってことか」
 真琴はそわそわして微笑んだ。
「そういうこと」
 気にかける素振りもなく、リヴァイは卵焼きにフォークを刺して口に持っていった。

「ぐっ」
 喉から出た詰まった声に真琴は眼を上げた。何だか無理した感じで咽喉を上下させている。
「どうしたの? 気管に入っちゃった?」
「いや。……ああ」
 歯切れ悪く返して、六切れ作ってきた卵焼きを彼は自分の取り皿に全部乗せた。
「なんで全部取るのよ。私も食べたいのに」
「俺が全部食う」
「欲張らないでよ! 卵焼き楽しみにしてたのよ!」

 頬を膨らませ、リヴァイの皿に向かってフォークを持つ手を伸ばす。嫌な顔をする彼に皿を遠ざけられる。

「欲張ってなんかねぇよ。誰が好き好んで」
 言いかけたリヴァイは失言とばかりに言葉を切った。真琴は眦を吊り上げる。
「いまのとても嫌な言い回しだったわ! だったら食べなくていいって!」
「しつこい! 俺が食うって言ってんだろ!」

 二切れ目を乱暴に刺して口に持っていくリヴァイ。彼の手首を真琴はむんずと掴む。茣蓙に手を突いて腰を浮かせ、掴んだ手首を自分に無理に引き寄せる。パクリと食べた。
 ひと口咀嚼した真琴は口許を覆うことになる。

「んん――っ」
 あまりの塩辛さに涙が滲み出てきた。急いで紅茶を飲み干す。
「塩っぱい! お砂糖とお塩を間違えちゃったんだわ!」
「だから俺が食うと言ったろう」
「だめよ、こんなの食べたら身体を壊しちゃうでしょ」
 回収しようとリヴァイが遠ざけた皿に手を伸ばし、
「言ってくれたらいいのに、調味料を間違えたんじゃないのかって」
 取り上げた皿を脇に置いて、可笑しくなってきた真琴は表情を崩した。

 少々口を曲げたリヴァイが首の後ろをさすり出す。
「次からはしっかり味見をしろ」
「ふふ、ありがとう。リヴァイさんって優しいのね。料理に失敗して私が落ち込むかと思ったの?」
 悪戯に覗き込んで首を傾ければ、一瞥してきたリヴァイが顔を逸らした。
「そんなんじゃない」
 言い捨てて空のカップをずいっと真琴に突き出してくる。
「はいはい」
 何となく胸がぽかぽかしていくのは陽当たりがよいからだろうか。そう思いながらカップを受け取って紅茶を注いだのだった。

 失敗した卵焼き以外すべて空になった弁当箱をバスケットにしまい、満腹の息をついた。背後にある樹に寄りかかって苦しくなった腹をさする。
 陽の目を浴びて明々と輝く湖面を眺望していた。
「いい場所」
 横に崩した腿にふと重みが乗った。視線を落として思わず瞳を瞬かせたのは幻影でも見ているのかと思ったからだった。
 ――リヴァイが真琴の腿に頭を置いて横たわっており、膝枕という形になっていたのである。

「なに……してるの」
 真上を向いているリヴァイは表情のない面差しで視線を見交わしてきた。
「食い過ぎたようだ」
「そうじゃなくて……お腹が苦しいなら別に膝枕じゃなくても」
 真琴は口の中でまごまごしてしまう。両膝を立てているリヴァイが深い瞳で見つめてくる。
「ケチケチすんな。膝くらい貸せ」

 さらに単調に言って瞳を閉じた。男の人にしては長めの睫毛が頬に影を差している。
 秋の香を運んできた白風がリヴァイの前髪をそよがせる。どんな感触がするのか触れてみたくてそっと手を伸ばしてみた。額の生え際にそろりと指を通し、真琴は見降ろして囁いた。

「リヴァイ」

 ゆるりと瞼を開けたリヴァイと眼が合う。どうしてか胸がくすぐったくなった。瞳を微かに揺らめかせてだんまりしている真琴を、束の間だけ見つめたリヴァイは、またゆるりと瞼を閉じた。
(咎められなかった)
 リヴァイの髪に触れていていいということだろうか。それともう一つ――これはいま一度検めたほうがいいかもしれない。

「……リヴァイ?」
「なんだよ、さっきから。言いたいことがあるなら言え」
 瞳を閉じたままで鬱陶しそうに少しだけ目許に皺を寄せた。
 咎められなかった。真琴が呼び捨てでリヴァイのことを呼んでも咎められなかった。
「ううん、なんでもないの」

 真琴の視野をはらりはらりとカエデが踊っていた。一枚の赤いカエデはリヴァイの額に舞い降りた。
 取ってあげようと手を伸ばすよりも先に、気づいた彼が指先で摘んだ。茎を持ってくるくるとさせ、真上を見る。
「真っ赤だ」
 広く張った枝にあまたの葉を繁らせているカエデの樹。まるで燃え盛る炎のようだ。寝転んでいるリヴァイと、首を反らして見上げている真琴とでは違って見えるのかしれない。
「迫ってくるようだな」

「怖い?」
 リヴァイはふっと唇を綻ばせる。
「まさか」
 手のひら状に切れ込んだカエデの葉は小ぶりで可愛らしい。ぽいと捨てずにくるくると弄んでいる彼を見降ろしていると和む。興味ないと、植物を邪険にする人でなくて嬉しいとも思っていた。

 カエデの葉を眺めていたリヴァイが横目してきた。
「しおりにするか? さっき言ってたろう」
「私にくれるの?」
「そこら中に落ちてるもんに変な言い回しをするんだな」

 茣蓙の周囲を彩っている葉と同じではない。ただ自然に落葉したのではなく、彼が一度手にしたカエデの葉は唯一なのだ。
「世界でたった一つなの」
 リヴァイが微かに瞳をしばたたかせた。短い言葉でどんなふうに伝わったかは分からないけれど。
 片脚を曲げて、彼が真琴の腹のほうに半身を若干捻る。
「少し頭を下げろ」
 ただ両目を大きくしたらリヴァイが催促してきた。
「早く」

「なによ、もう。何か付いてたりする?」
 ぶつぶつと言いつつも要求されるがままに頭を落とした。カエデの葉を摘むリヴァイの手が真琴の後頭部に伸びていく。後ろでお団子にしている髪の付け根に、そっと刺される感触がした。
「髪飾りをつけてねぇから丁度いい」
 真紅のカエデの葉が黒髪に飾られた。乱暴なところがあるリヴァイが、こんな粋なことをするなど意外であった。何よりも嬉しい。屋敷に帰るまで失くさないようにしなくてはいけないだろう。そうして本に挟んでしおりを作るのだ。

 わざとらしく口端を上げる。
「女を喜ばせることに慣れてるのね。しょっちゅうこんなことをしてるの?」
「なんだ、こんなことぐらいで喜ぶのか。安いな」
 逆に揚げ足を取られてしまう。常時なら頬を膨らませて尖ってみせただろうけれど。
「ありがとう。帰ったらしおりにするわね」
「大層なもんを貰ったように言う。そんな奴があっさり失くしたら笑えるな」
 と言い、リヴァイは安らかに瞼を閉じていった。
(失くさないわ)

 そう微笑んでから、また髪に指を差し込んだ。柔らかくもなく、それでいて固くもなく、中間くらいの張りがある漆黒の髪。優しく掻き上げるふうにすると逆らって緩やかに跳ね返っていく。
 飽きることなく重ねて繰り返し、さらさらな手触りを愛しいと感じながら撫で続けた。そして愛しいと感じる想いに半分割り込んできたのは、秋風に乗ってきた虚無感だった。言いようもない切なさが真琴の胸に広がっていく。

(互いの世界で、存在し合えない者同士なのにね)

 目許がじんわりと熱くなってきて瞳を閉じた。寝不足気味の乾燥した双眸に哀愁の潤いが染み渡る。
 ふと頬に慎ましく指先が掠る肌触り。息を吐くようにして言うリヴァイの声が聴こえた。

「どうした。なぜ泣きそうな顔をしている」
 真琴は瞳を閉じたまま緩々と頭を振った。口許に触れたリヴァイの甲に唇を寄せる。
「訊いても……話す気はないんだろ」
「違うの。秋風が胸にしみただけ。ただそれだけよ」
 鼻がつんとするのを押し込め、真琴は寂寞を隠して微笑みかけたのだった。


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mokuji
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