16.純粋な淡い恋心を思わせる胸の高鳴り

 病院へ戻ると無断で外出したことについて主治医からひどく怒られた。ひたすら謝って機嫌を取ってから今日と明日の外泊許可をもらえないかと申し入れてみた。医師は渋い顔をしていたが、怪我の経過が良いので無理をしなければいいだろうと許してくれたのだった。

 フェンデル邸へ帰省し、とりあえず明日の準備を始めた。食べ物を用意してこいと言ったリヴァイの本意は、弁当を作ってこいという意味だろう。厨房で少し下ごしらえをしてから、明日に備えて早めにベッドへ入った。
 布団に包まって何度も寝返りを打っているのは、心が浮き立っているからである。

 中学生のころの純粋な淡い恋心を思わせる胸の高鳴りは、リヴァイと別れたあとからずっと感じている感覚だった。そんな気持ちは認めてはいけないと、大波に攫われていきそうな両足を踏ん張って抗う。が、そんなことはせんないことだから諦めろと、深いところで静かに囁く声が聴こえたのであった。

 ※ ※ ※

 石畳が敷かれた広場の中心には目立つ噴水があった。剣を掲げた勇ましい顔の男が馬に跨がっている銅像があり、足許付近から水を噴出している。平日だというのに若者の姿が多く、ここは待ち合わせに有名な場所なのだろうと思った。

 広場を囲むように黄土色の旧市庁舎。向かって左手には王侯貴族が泊まる王侯館が並ぶ。議会の執務として使われていた旧市庁舎は、手狭になったとの理由でほかの場所に新しい庁舎が建てられ、いまでは観光地として見学できるようになっているらしい。

 広場から少し離れた建物の陰で、真琴は隠れるようにして窺っていた。二人分の弁当とポットが入ったバスケットを片手でぶら下げている。
 シンプルに一纏めにしてきた髪の、後ろの生え際を何の気なしに撫でつけた。あまりガチガチに固めるのは好きではないので、整髪料を控えめに使ったためか少し後れ毛があるようだった。

 広場に据えられた日時計を見てみると待ち合わせの時間の二十分前だった。指示通りに三十分前行動でここまで来たというのになぜこっそり様子を探るのか。――と考えて、
(年齢を重ねると素直じゃいられなくなるんだわ)
 と勝手に決めつけた。
 十五分前になってもリヴァイは現れない。
(三十分前行動だって自分で言った張本人がまだ来ないだなんて……馬鹿にしてるわ)
 頬を膨らませたとき。

 ふいに肩を叩かれて僅かに身体を弾ませた真琴は、顔だけで後ろを振り向いた。いつか二人で出掛けたときと似たようなスーツ姿のリヴァイが立っていた。

「ずっと観察していたんだが、隠れる必要がどこにある?」

 咎めるでもない口調でそう訊かれて動揺した。いつから気づいていたのだろう。三十分前行動で彼がここへ来ていたとしたら、ほぼ一部始終を十五分も観察されていたことになるが。

「観察ってっ。声を掛けてくれたらいいのに」
 リヴァイの顔を見て昨日のことを思い出し、まともに眼を見れなくて視線が石畳を彷徨う。
「俺が時間通りに待ち合わせ場所へ来たとして、お前はそこから覗いてどうするつもりだった」
「どうって……居たら顔を出そうと思ってたわよ」
「本当かよ。昨日のことがあるからな、すっぽかされることも念頭に入れてたが」
 まあ、と呟いたリヴァイが真琴の手許に視線を落とした。

「弁当持ってきた奴が逃げるわけねぇか」
 そう言って真琴の手からバスケットを奪い、含みのある眼つきで全身を目視してきた。
「ずいぶんと気合いも入ってるしな」
「違っ! これはいま流行ってるからで、別に今日だからとかそういうんじゃないんだから」

 当たらずとも遠からずだが、悟られたくないので口早にお茶を濁した。些かよそ行きに近い服装は、ウエストが締まったロングのワンピースでマーメイドラインが今季の流行らしいのだ。
 対してリヴァイの服装は、黒のジャケットに兵団で着用しているシャツを合わせているが、彼の特徴であるアスコットタイはつけていない。スラックスは濃い灰色の物なのでセットアップではないようだ。
 男の人は洋服など着られればいいと無頓着な人がいるが、リヴァイもそのうちの一人らしい。兵団のジャケットを脱いで違うものを羽織ればそれでよそ行き――そんなふうに感じ取れた。

「素直じゃねぇな。楽しみにしてたと言や可愛いもんを」
(どうせ可愛くありませんよーだ)

 ぼやきを聞き流した真琴は、筋張ったその手許が手綱を持っていることに心づいた。彼の背後に馬がいるということにいまごろ気づいたのは、ずっと石畳を見つめていたからである。

「どうして馬を連れてるの」
「乗る以外に理由はない。今日は少し遠出しようと思ってな」
「どこまで行くの」
「ウオールローゼの北へ連れて行ってやる」

 北のほうは行ったことがなかった。といっても真琴の行動範囲はさして広くないので、東でも西でも真新しいのだけれど。
 鐙に足を引っ掛け、片脚を振り上げるようにしてリヴァイが馬に跨がった。それから手を伸ばしてくる。
「ほら」
 彼の手に手を伸ばしかけた真琴ははたと口を開けた。裾が窄んでいるスカートでは馬に跨がれないではないか。

「どうしよう、これだと跨がれないんだけど」
 リヴァイはちょっと面倒そうな眼つきを寄越した。
「ったく女ってのは。馬を使うと言わなかったせいもあるが」
 馬上から手を伸ばして真琴の胸部に片腕を回し、引き上げて自分の前で横座りさせた。
「これなら問題ないだろ」
「う、うん」
 少々不安定だが無理して跨がって羞恥をさらすこともない。手綱を握るリヴァイの両腕が真琴を挟んでいれば落ちることもないだろう。

 馬の腹を軽く蹴ってリヴァイが馬車道を駆け始めた。ことのほかゆっくりめに駆けさせており、ほかの乗馬している人間や馬車にどんどん抜かされていく。真琴の産まれた日本のように速度制限なんてものはこちらにはないから、人様に迷惑をかけなければ好きなスピードで走ってよいはずだが。
 鞍のグリップを掴んでバランスを取りつつリヴァイに尋ねてみる。

「北のどの辺りへ行くのか知らないけどこの速さで大丈夫なの?」
「昼までには着くだろう。それに疾駆させると揺れるじゃねぇか」
「そりゃあ馬だもの、揺れて当然じゃない」
 何の疑問もしない真琴を見て、リヴァイは通じない奴と言いたげに溜息をついた。
「なによ、ほかに何かある?」
「いいや」

 判然としないがリヴァイは緩やかに駆けたい気分なのかもしれない。真琴にとってはもっけの幸いである。肋骨の具合はだいぶ良くなってきたとはいえ、激しく走ったりするとまだ痛みを感じるから、馬で目一杯走ることにならなくてよかった。ましてや横座りの状態ではなおさらだからだ。

 心地よい振動が揺り籠のようで眠気を誘ってくる。いつしかうつらうつらしていて、そうしてひときわ大きく船を漕いだときだった。
 前のめりになる半身につられて鞍から尻が滑り落ちそうになった。一気に覚醒する。心臓が飛び出そうなほどびっくりして短く悲鳴を上げた。リヴァイの腕がすかさず真琴の腹に回る。

「何してんだ、肝が縮む」
 若干焦った調子のリヴァイがそう言い、真琴を引き寄せてきた。
 秋だというのにじんわりと発汗してくる感覚と、合わせてバクバクしている心臓を押さえる。
「私も……蝋燭が一瞬で短くなった気がするわ」
「蝋燭? 何の関係があるんだ」
「……なんでもない」
 命の蝋燭はこちらでは通じないようだった。

「昨夜はしっかり寝てきたのかよ」
「うん。でも朝早かったから」
 言いながら真琴は眼を擦って、リヴァイは背後に括り付けたバスケットを気にした。
「弁当のせいか。早起きしたってことはお前が作ったのか」
「そうだけど」
 何となく気恥ずかしくて俯いた。

「使用人は腐るほどいるだろう。お前がわざわざ作る必要はないんじゃないか」
「いまさらそんなこと言われても……作っちゃったものは仕方ないでしょ」
「大体にしろ食えんのか怪しい。そこらのパン屋で、もしものときの予備を買っておいたほうがいいかもしれん」

(せっかく作ってきたのに)
 不服な真琴は唇を尖らせた。いまだ腹を支えてくれている筋肉の塊のような固い腕が急に憎らしくなった。引き剥がそうと躍起になる。
「そういうことを言う人は食べなくていいから! どうぞパン屋へ寄ったら?」
「思っちゃいねぇよ、冗談だ」
 何でもなく言って真琴を胸許に引き寄せた。
「まだいくらもかかる。着くまで寝てていい」

 思いがけない気遣いだった。胸許につい添えた手からは鼓動が伝わってくる。そのまま彼の肩に頭を垂れてみた。もう少し身長差があればおそらく胸許に顔がきていたのだろう。――想像したらちょっと笑えた。
 忍び笑いする真琴にリヴァイが気疎い眼つきをしてきた。わざとらしく肩を動かしてくる。

「小生意気なことを考えてんじゃねぇだろうな」
「ふふ、何だと思う?」

 肩に凭れたまま艶然と笑えばリヴァイは眩しいような眼つきをみせた。視線をゆったりと前方へ戻し、腕に力を込めてくる。
「くだらねぇことに脳を使うな。眠れなくなるぞ」
「お言葉に甘えて……少し寝かせてもらおうかしら……」
 うとうとしながら呂律が廻らなくなっていく口許で呼応した。

 身体を通して聴こえる心臓の音は、果たしてどちらのものなのだろう。二つの鼓動が入り混じって不規則に聴こえるが子守唄にも聴こえる。微睡む頭の中でそんなことを思い、真琴は瞼を下ろしたのだった。

 うなじに垂れた後れ毛がそよ風でたゆたう。下生えをかさかさと踏みしめている音で真琴はゆるりと眠りから覚めた。「ん……」と喉を鳴らして眼をこすり、リヴァイに凭れていた半身を起こす。
 かなりゆっくりと馬を常歩させているリヴァイが自分の口の端を指差した。それを見ておたおたしながら真琴は口許を拭う。寝ているうちに涎を垂らしてしまったのかと思ったのだが濡れた感触などしなかった。

「何も付いてないじゃないっ」
 膨れっ面の真琴にリヴァイが鼻を鳴らしてみせた。
「俺が四時間も馬を駆けさせているあいだそばでぐうすかしてたんだ。少しはいじめてやりたくもなるだろ」

 車の運転手と助手席の関係に酷似していると思った。友人の車に乗せてもらったとき真琴は助手席で熟睡してしまい、そうして目が覚めたころ隣で運転する友人が何となく機嫌が斜めなのに気づいたものだ。運転免許を持っていない真琴には運転手の気持ちは分からず、むしろ何で怒るのだろうと疑問だらけだった。考えてみればやはり面白くないのだろうとそのとき思ったものである。
 とりあえずは謝っておこう。

「ごめんなさい、私だけ寝てしまって。つまらなかったでしょう?」
 起きていたからといって話相手にはなり得ないが。乗馬中にぺらぺら喋っていたらオルオみたいに舌を噛んでしまうからだ。
「そうでもない」
 視線を寄越していけしゃあしゃあと嘯いた。
「阿呆みたいにぽかんと口を開けた顔を眺めているだけで充分暇つぶしになった」
「久しぶりに会ったっていうのに相も変わらず嫌味絶好調ね」
「だから言ったろう、いじめてやりたくなると」
「そういうのって――」
 揚々に言いかけた真琴は唇を結んだ。リヴァイが眼を眇めてくる。

「何だ」
「何を言おうか忘れちゃったみたい」
「早々にボケが始まったか。哀れだな」
 何を言われても我慢するしかなかった。

 小学生や中学生くらいの男子にありがちな、好きな子をいじめちゃうという行動のことを言おうとしたのだ。それを引き合いに出そうとしたのだが、言ってしまうと自分が対象になってしまうので憚られたのである。
 が、反逆できないのも小癪だ。リヴァイの胸許を軽めに小突いてやる。

「いまのは蚊か? ちっとも痛くねぇ」
「痛くなくしてあげたのよ」

 相手にするのをやめてからようやく辺りの風景が眼に入ってきて、何で下生えの音がするのか気づいた。空気が新鮮で美味しくて、樹々の葉は暖色に彩られて、軽微の風によってどこからともなく葉がこすれ合う音がして――少し先には湖畔が見て取れて、背景には見事な紅葉の景色が広がっていたのだ。

「素敵なところね。どこまで来たの?」
「ローゼ北の突出地区、コトブス区の中でも最北の場所だ」
「そんな遠くまで? あらかた真逆のところじゃない」

 調査兵団本部やフェンデル邸は南よりに位置しているので、突出区のさらに北ならば相当距離のある場所だ。紅葉や湖畔を見せたかったのなら、もっと近場に有名なスポットがあったのではなかろうか。

「ここまでわざわざ連れて来てくれた理由でもあるの?」
「北でしか拝めないものがある」
「それってなに?」
 と訊くが、リヴァイはスラックスのポケットから垂れている金の鎖を引き出した。鎖の先端で揺れる丸い年季の入った懐中時計を、顔の前に下げて読み取っている。

「それはあとでだ。何はさておき飯だろう、腹が減った」
 言いながら懐中時計を再度ポケットにしまい鼻先を前方へ向けた。倣って真琴も前を向くと湖の入り口が目前に広がっていた。


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