01.そんな程度の女

 瞼の裏側が明るい気がした。ひんやりと冷たい感触が、胸や腹に触れている。その冷たく堅い表面は、身じろぎすると剥き出しの肘や手首に少し痛い。
 同じ感触を頬にも感じる。やはり冷たくて、多少ざらざらしているようだから、頬がこすれて表皮が剥けた。

「ん、んん……」
 ようやくといった感じで真琴は眼を開けた。目線の高さに赤丹色の煉瓦があり、聳え立つさまに圧迫感を覚えた。
 眼だけで周囲を見回してみた。石畳の上で腹這いに横たわっており、煉瓦作りの建物の狭間に真琴はいた。石畳の道は、人ひとりがやっと通れるくらに狭い。

「どこなの、ここ」
 呟いた声は不安のために掠れた。両手を突いて起き上がり、呆然とする。
 細い石畳の道先に広い通りが見えた。まったく見覚えのない景観だった。一瞬、海外旅行にでも来ているような錯覚を覚えた。
(外人さんだらけなんだけど。どういうこと)
 通りを行き交う人々は、どうみても日本人ではなかった。文明はどこか時代遅れな雰囲気で、中世ヨーロッパを思い起こさせた。

 真琴はごくりと唾を飲んだ。額からこめかみにかけて嫌な汗が伝う。決して暑いからではなく、何ともいえない不安に駆られて、毛穴という毛穴から汗が吹き出し始めていた。
「落ち着け」
 自分に言い聞かせる。
 パニックになってはいけない。自分を見失ってはいけない。冷静になろうと、酸素をいっぱい吸い込んで深呼吸を繰り返した。

 考えるのだ。
(こうなる前は何をしていたっけ。私はどこにいたっけ)
 記憶を辿り始めると少しずつ思い出してきた。
(友達と鎌倉に旅行にきた)
 それで――
(由比ケ浜の海を見にいった。靴を脱いで波打ち際で遊んでた)
 そうしたら――
(後ろから大きな波がやってきて)

 そうだ、迫りくる大きな潮。襲おうと覆い被さってくる津波を、この眼で見た。あのとき海を恐れたのは、この予兆を感じ取っていたからなのだろうか。
 問題はそのあとで、どういった経緯でこの場所に倒れていたのかが、どうしても思い出せなかった。そして可怪しいことに気づく。
 座り込んでいる真琴は、自分の頭に加えて洋服の手触りを確かめていった。
「乾いてるのよね……なんでかしら」

 津波に襲われた。海に沈んだ感触も身体が覚えている。が、服は濡れているどころか湿ってさえもいなかった。倒れてから乾くまで、それほど長い時間ここで横たわっていたとでもいうのか。
 仮にそうだとしても、やはり可怪しかった。服は汚れてもいないし嫌な感触もしない。海で溺れたのなら乾いた塩が肌に貼りついていたり、服と肌の隙間に砂が入り込んでいたりするのではないか。真琴は明らかに不自然であった。

 真琴の背中が僅かに揺れた。不釣り合いな乾いた笑いが出たからだった。
「私、死んじゃったとか? 死後の世界ってことはないよね。……まさかね」
 体温を感じるし、足も二つ揃っているけれど、そう思わずにはいられなかった。

 脱力したように壁に寄りかかって、大通りを歩く人々を、狭い路地から虚ろにただ眺め続けていた。誰も真琴に気づかない。この路地は、表通りから完全に死角となっているからだった。
(いつまでこうしていよう。このままずっとここで留まっていたって、意味ないわよね)
 しかしあることが表通りへ出ることを躊躇させていた。
 真琴は自分を見降ろす。
(服装が浮きそう……)

 山吹色のボウタイ付きシフォンブラウスに、くるぶし丈の白いパンツ。真琴にとっては普通の格好でも、ここでは全然違うようだ。
 男の人が着ているのはスーツだが、どこか古臭くてやぼったかった。女の人はワンピースやシャツにスカートといったものだが、アンティークなデザインで、真琴からしたらありえないセンスだった。

(どうしたらいいの)
 建物の細い隙間から、空を見上げた。綿飴のような雲が薄らと茜色に染まっていた。意識を取り戻してから、ずいぶんと陽が落ちてしまった。
 ノースリーブのせいで両腕が冷える。五月の暑い陽気に合わせて選んできた服が、ここでは季節外れのようであった。肌で感じるに、三月初旬といったところか。

 真琴はのそりと立ち上がった。同じ姿勢で長時間座っていた身体は、軋むような音を立てた。
 表通りに近づいて、建物の影からそっと窺ってみる。街の様子をよくよく見て、やはり知らない場所だと確信した。
 隠れていても何の解決にもならないから道に出てみよう。眼を閉じて息を吐いて、今度は深く息を吸って、吐き出しながら肩の力を抜き、そうして眼をかっと開いた。
「よし!」

 励ますように両腿を叩いて、真琴は表通りに飛び出した。勢い余り、石畳の繋ぎ目に足を掬われてつんのめる。
「わっ」
 反射的に三歩分足が出て、何とか転ばずに体勢を整えられた。
「あぶない、あぶない」
 転びそうになったことを恥じて誤魔化し笑いをした。何の気なしに横髪を撫でつけ、何事もなかったかのように表通りを歩き始める。

 見覚えのない街並に不安が押し寄せてきた。すれ違う人々が真琴を不審げに見てくる。わざわざ振り返って二度見する者までいた。笑顔を絶やさず、挙動不審に見られないよう気をつけた。
 前から婦人が歩いてくる。面差しが優しそうな人間に見えたので話しかけてみようと思った。ここがどこだか、まず知る必要がある。

「ハ、ハロー。こ、こんにちは。良いお天気ですね」
 笑顔で声をかけたが、婦人に眼を伏せられた。
「ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど」
 眼を合わせずに婦人は通り過ぎていこうとするから、横から尋ねる。が、関わりたくないとばかりに駆け足で去られていってしまった。

「聞きたいことがあるだけなのに……」
 盛大に無視されてしまうと為す術もない。原因は真琴の服装にあるようだった。周囲からすっかり怪しく思われているみたいだった。
 真琴は一人ぼっちだった。海外に行ったときだって、こんな扱いを受けたことはないのに。むしろ歓迎してくれたのに。

 通りをゆく親子連れがあった。母親としっかり手を繋いでいる子供を見て、無性に寂しさが募った。母親なんてうるさい存在でしかなかったのに、いまはとても恋しく思う。油断すると涙が零れてきそうだった。
(だめ! しっかりしないと!)
 両手で頬を叩き、気持ちが萎みそうになるのを堪えさせた。

「おい、貴様!」
 突然、真琴は強い力で肩を引っ張られた。驚いて振り返る。
 二人の青年が仁王立ちしていた。彼らは馬の模様のワッペンがついた茶のジャケットを着ている。ズボンも同系色で、胸許のサスペンダーのようなベルトが脚のほうまで巻いてあった。男たちの表情が険しいので、自ずと真琴は緊張に縛られたのだった。

 ※ ※ ※

 王都から招集を受けた帰りだった。本部へはまっすぐ帰らず、ウォールシーナの紅茶専門店にリヴァイは立ち寄っていた。
 ずらりと棚に並ぶ紅茶缶。目当てのものを見つけたけれど、手を伸ばすが届かない。一番上の段にある黒い丸形の缶へは、爪先立ちになっても届かなかった。

「一番上に置くんじゃねぇ、クソが」
 小さく愚痴を零した。と、自分の手の横に大きな手が伸びていった。紅茶缶をいとも簡単に掴む。
「この銘柄でよろしいですか?」
 代わりに取ってくれた男が缶を差し出してきた。

 男が男に取ってもらう屈辱。苦い思いでリヴァイは受け取った。
「ああ、これだ。悪いな、モブリット」
「いえ、このくらい」
 モブリットと呼ばれた背の高い青年も、苦いものを食べたような顔の笑みをした。リヴァイの顔を見て、差し出がましいことをしたのかもしれないとでも思ったのか。

「このあとはどうされますか? ほかに買い物はありますか?」
「俺の用事はここだけだ。お前は何かあるか? ここまで来ることはめったにないんだ、遠慮すんな」
「お気遣いありがとうございます。僕は特にありませんので、外で馬車を拾って帰りましょうか」
 そうしようと相槌を打って、リヴァイは会計を済ませるために勘定台へ向かった。洒落た袋に品物を詰める店員を尻目に、モブリットが話しかける。

「今日のお供、僕で不都合はなかったでしょうか」
「いや、お前でよかった。ハンジが腹痛を起こしてくれて、むしろ万歳したいほどによかった」
「素直に喜んでいいんでしょうか。そこまで仰られると、ハンジ分隊長が些か不憫に思えてきます」
 とモブリットは苦笑し、
「しかし本日の予算審議での活躍、お見事でした。歯に衣着せぬ弁舌に、少々冷や冷やもしましたが」

 四兵団が王都に集まっていたのは今年の予算案を審議していたからだった。代理として出席したリヴァイは、こういうことに興味はない。が、調査兵団が作成した予算案は、ほかの三兵団に比べて大幅に少なかったのである。
 毎年同じくらいの額の予算が国から降りていて、それで何とか切り盛りしているが、実のところ全然足りない。いままでよくぞ黙っていたとリヴァイは思う。こんな不遇は面白くない。だから兵団の食事は極端に肉が少ないのだと、怒りも湧いた。

 そこで、リヴァイは予算案の数字に勝手にゼロを一つ足した。審議で非難轟々だったが汚い言葉でおおいに罵ってやった。結果可決されたのであるが、それでも三兵団よりかなり少ない予算ではあったのだけれど。

「こっちが大人しくしてるから、王都の奴らが図に乗るんだ。増やした予算を来年削られねぇよう、エルヴィンにはよく言っとかねぇとな」
 品物が入った袋を店員から受け取って、リヴァイは出口へと向かう。
「そうですね。せっかくの苦労を水の泡にすることはないです。明日から肉、増えますかね?」
「だといいがな」
 扉を押して外へ出た。もう夕方なので、いまから馬車を飛ばしても夕飯にはありつけないかもしれないと思った。

「なんでしょう、あの人集り」
 モブリットに言われるまでもなく、リヴァイもすぐに気づいていた。紅茶専門店の目の前の通りに人が集まっているのだ。輪の中心に大道芸人でもいるのかと思ったが、見物というよりは野次馬か。

「何があるんだか知らないが、道のど真ん中ではた迷惑な奴らだ」
 興味など湧かず、リヴァイは立ち去ろうとした。大声がして輪が割れる。割れた輪の中心に憲兵団の男二人が見えた。それと――
「女?」
 変な格好をしている女と、憲兵が揉めていた。

「どの街から来たと聞いている。手形を出せと言ってるだろうが」
「だから気づいたらここにいたのよ。そもそも手形ってなんのこと?」
「ウォールシーナへ入るには手形が必要である! 持ってないんだな!? 怪しい奴が!」

 女は戸惑う。
「ウォールシーナ? ここはそんな名前の街なの? ……聞いたことないんだけど」
「ますます怪しい奴だ。妙な服を纏って、治安を乱そうというのか」
 身を庇うように女が胸を抱いた。
「……違う」憲兵二人の胸許を恐る恐る見比べて、必死な表情で顔を上げる。「その紋章だけど、あなたたちは何かの組織か団体なの?」

(いよいよ変な奴だ)
 リヴァイは眉を顰めた。話がまったく噛み合っていないように見えた。
 女の服装は時期外れなものなうえに露出が多い。柔らかそうな生地のブラウスは透けていて、下着の色が淡く浮いて見える。商売女のようなけばけばしさは見て取れないので、娼婦の出張というわけでもなさそうだ。挙動不審な様子があったなら、リヴァイも彼女に職務質問くらいはしていたかもしれない。

 憲兵もおおいに怪訝そうにしていた。助けを求めて女は言い寄る。
「もしかして警察みたいな人たち!? 私、何でこんなところにいるのか本当に分からないんです! 助けてほしいくらいなの!」

 記憶喪失だろうか。リヴァイも野次馬の一人になってしまっていて、何となく店先から動けずにいた。モブリットが屈んで耳打ちしてくる。
「どうします? あの人、本当に困っているようですけど」
「俺たちの管轄じゃない。ああいうのを処理するのは憲兵だ」
 そうは言ったがリヴァイの足は動かなかった。

 事態は急変した。憲兵が女の腕を掴んで捻り上げた。
「わけの分からぬことを言って! 言い逃れようとしてもそうはいかない! 手形がないのなら明らかにお前は不法侵入だ! 本部に連行する!」
「連行!?」女の顔が青ざめた。渾身の力で腕を振り上げて憲兵を払う。「連行されるようなことはしてないわ!」

 振り払われて軽くよろめいた憲兵は、女に憤怒の眼つきをした。「女のくせに!」抵抗されたことが気に入らなかったらしい。
 女はすぐさま踵を返して走り出した。が、数歩も走らないうちに後ろ手を掴まれる。
「逃がすか!」女は地面に引き倒された。「こいつめ! 生意気な女だ!」
「いや! 離して!」
 地に伏した状態の女を、憲兵は二人がかりで押さえつける。
「抵抗するな!」
 小柄な背中に憲兵の膝が伸し掛かっていた。それが痛いようで、女は顔を顰めていた。

 傍観しているモブリットは声を顰めた。
「女性相手に手こずっているようですね」
「普段訓練もしないで怠けてるツケだな。情けねぇ」

 押さえつけられている女は、ぎょろぎょろと辺りを見回す。野次馬から口さがないお喋りが聞こえてくる。
「若い女だな、世も末だね」
「さっき見た奴だ。怪しいと思ってたんだよ」
「誰が憲兵を呼んだんだい? あんたかい?」
 楽しみに飢えている富裕層の見せ物に、女は成り果てていた。

 悔しく思ったのか、女は唇を噛んだ。かちっと眼が合ってしまい、リヴァイの瞳は見開く。
(そんなつもりはないが、あの女からしたら俺も野次馬か)
 噛みつかんばかりに女は睨んできた。頭ままで地面に押さえつけられており、石畳と擦れて顔が痛そうだった。
 モブリットが控えめに聞いてきた。
「リヴァイ兵長、行かないんですか?」
 いざこざにすっかり見とれてしまっていたリヴァイは瞬きを一つした。「あ、ああ。遅くなるしな、行くか」
 そして足先を帰り道に向けたときだった。

 両手首を後ろ手に掴んで、憲兵は女を引き起こした。
「本部に着くまで大人しくしてろよ!」
「いやよ! そんなところへは行かないから!」
 最後の力とでも言い表そうか、女が全身で抵抗を見せる。
「このやろう!」
 いよいよ我慢ならなくなったらしい。もう一人の憲兵が正面に立ち塞がり、大きく手を振り上げた。気づいた女はぎゅっと眼を瞑って顔を背ける。

「あ、殴られる」と小さく漏らしたモブリットの声と、リヴァイの行動はおそらく同時だったろう。

 リヴァイは袋から紅茶缶を取り出し、憲兵の顔を目掛けて思いっきり投げた。缶はまばらな輪の隙間を通り、女を殴ろうとしている憲兵の顔に命中した。蓋が外れて茶葉が舞う。顎を反らし、憲兵は後ろによろけて尻もちをついた。
 女の両手を拘束していた憲兵は、思わず手を離して辺りに怒鳴り散らす。
「誰だ、いま邪魔した奴は! 公務執行妨害だぞ!」

 隙を狙って女は路地裏へと逃げていく。
(ほう……したたかだ)
 気圧されて泣き崩れるのが女だと思っていたが、なかなかにしてくじけない精神をしていると思った。
 リヴァイは速やかに次の行動に出た。野次馬の中心へ早歩きで向かう。

 怒り狂っていたせいで、憲兵は女に逃げられたことに一歩遅く気づいた。すぐ追おうと走り出そうとした彼の足に、リヴァイは足を引っ掛ける。べたんと無様に転んだ。
「誰だ、いま足を引っ掛けた奴は!」
 片手を突いて振り返った憲兵は、こちらを見上げて固まる。
「……り、リヴァイ」

「ガムでも踏んじまったようでな。足を払った拍子に引っ掛けちまったらしい」
「そんなわけが」
 憲兵は悔しそうに歯ぎしりしたが、見降ろすリヴァイの眼つきが冷たかったので、それ以上何も言えないようであった。

 リヴァイは転がっている紅茶缶を拾った。中身は空っぽ。足許に散らばる茶葉が、優雅な香りを周囲に漂わせている。舌打ちをした。
「買い直しじゃねぇか」

 女が滑り込んでいった路地を眺めてみた。もう姿はないので、どこかへくらましたのだろう。
 助けたのは気まぐれだった。別段、女に興味を持ったからでもない。どんな顔をしていたろうかと思い起こしてみれば、のっぺらぼうしか浮かばない。リヴァイにとって、そんな程度の女だった。


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