02.それはバロック様式の建築

 狭い路地を右に左に曲がって、真琴は必死に逃げた。
 野次馬のお喋りたちが怖い男二人のことを憲兵だと言っていた。揃いの軍服を着ていたし、どこか偉そうであったから、日本の警察かなんかだと思ってつい保護を求めようとした。が、頼ろうと思った相手は間違いであったようだった。

 よく逃げられたものだと、息を切らしながら真琴は思っていた。目の前に立ち塞がった男が手を振り上げたとき、殴られると覚悟したものだ。けれど予想した衝撃は降ってこなかった。

 なぜだろうと眼を開けると、男は尻もちをついていて、辺りには消しゴムのカスのような茶色いものが散らばっていた。漂う優雅な香りが、いやに場違いだと思いもした。
 次に後ろ手を掴んでいた男からなぜか解放され、彼が一人で怒っているあいだに真琴は逃げ出したのだった。運がよかった。でもこれからどうしたらいいのだろう、と途方に暮れそうだった。

 路地の先にある通りに飛び出した時、一台の馬車が目の前で止まった。ぶつかりそうになって踏鞴を踏む。
 黒い馬車の扉が開いた。赤い布張りの車内に一人の老人が座っている。上質に見えるスーツを着ていた。

「追われているのだろう。乗りなさい」
「……」
 真琴は躊躇った。相手は知らない老人だ。
「また捕まってしまうよ。そうなっては困るじゃろう」

 老人の話し振りから察するに、真琴が逃げている経緯を知っているようだ。野次馬の一人だったのだろうか。
 白髪頭の老人は人の良さそうな笑みで言う。
「そう警戒せんでいい。とりあえずは乗りなさい」

 またあんな怖い思いをするのは嫌だった。一度後ろを振り向いてから、真琴は老人の言う通りにすることにした。
 馬車は出発した。どこへ向かうのだろうと思っていたら、老人が馭者に向かって声を上げた。
「しばらくここらを回っていてくれ」
「分かりました」

 さて、と老人は杖を突いて向き直った。
「難儀じゃったの。大丈夫かね?」
 慰めの言葉がひどく優しかったので一気にぶわっと泣いてしまいそうになった。どんな人間なのかも分からないのに、たったその一言だけで気を許しそうになってしまう。不安で怖くてたまらなかった反動なのだろう。

「私、捕まるようなこと何もしていません。少し街のことを訊いただけ……なのにいきなり連行だって……ほ、本当なんです」
「知っておる。実は不思議に思うて、お主が一人で歩いているころから見ておった。憲兵が暴力を振るおうとしたとき、たまらず飛び出そうとしたんだが」
 白い柳眉を寄せた老人の声は穏やかだった。
「若人に先を越されてしもうた。年を取ると決断に鈍るもんでの。すまんの」

 いえ、と真琴は小さく答えた。本当に助けてくれようとしたのだったら、この老人はいい人なのかもしれない。けれど口にした発言が真実かどうか、真琴には正しい判断ができなかった。

「家はどこかね? 送ってやろう。教えたくなかったら、近くまででも乗せていってやるぞ」
 温厚な面差しを真琴は見つめた。街の誰もが自分を不審そうに見てきたが老人はそんな眼をしていない。まだ不安はあるが、
「帰る場所がないんです。どこにも行く当てがないんです」

 老人は僅かに眼を丸くしたが、ややして弓なりにした。
「なら、わしの屋敷にくるかね。悪いようにはせんよ。温かいお茶を出してあげよう」

 知らない人についていってはいけない。子供のころから母親が口を酸っぱくして言い聞かせてきた言葉である。大人になっても気をつけなければいけないことでもある。
 けれどほかに当てがなかった。捨て猫のような真琴に差し伸べてくれる手を取ったって、怒られはしないだろう。
「頂きます、お茶」
 にっこりと笑って老人はうんうんと深く頷いた。

 それはバロック様式の建築を思わせる豪邸だった。横に広い長方形のお屋敷は、シンプルで尖った部分がなく、全体的に白い土壁で作られていた。いまは夕刻で空は茜色だが、明日の昼には空の青さと屋根の青さがくっついて同化してしまうかもしれない。それほどに青い屋根が特徴的だった。白い格子窓が縦にも横にもずらっと並んでいるさまからは、部屋数の多さを物語っていた。

 玄関に入ると真紅の絨毯が一番に目についた。右側に二階へと続く大階段があり、内装の壁と同じように白い木製で、手すりには彫刻が掘られていた。左側には特大の華美な花瓶が飾ってある。百合の花が生けられており、ホール全体に濃厚な花の香りを漂わせていた。

 老人の立ち居振る舞いから何となく思っていたことだが、とんでもないお金持ちのようだった。
「ついてきなさい」
「お邪魔します」
 絨毯の上を歩き、老人は横に曲がって三個目の扉を開けて入っていった。あとに続くと、どうやらここは客用の応接間のようであった。暖炉があるが、いまの時期は使っていないみたいだ。

 「座りなさい」と老人がソファに手を差し出した。真琴は腰を降ろした。沈み込みそうな柔らかさに思わず肘掛けを握る。
 アンティークな振り子時計が時間を刻む音だけが響いていた。真琴は何となく振り子を眼で追っている。自分のことを老人にどう説明しようかと、さっきからそればかり考えていた。
 ワゴンを引いたメイドがやってきて老人と真琴の前に茶を出した。

「とりあえず、一口飲んで落ち着こう」
 老人は落ち着いた仕草で紅茶を啜る。
「いただきます」
 真琴もカップを取って口に近づけた。紅茶の温かさと、ふうわり香る花の香りで緊張がほぐれていく。
 老人がカップを置いた。「まずは互いの自己紹介かの。わしの名はフェンデル。しがない貴族の端くれじゃ」
「私は真琴と言います……。あの、東」

 東京からきました、そう言おうとして噤んだ。
 素性をすべて話して大丈夫だろうか。フェンデルは良い人のようだが、それは第一印象であって、本当に信用してよいものか惑った。さきほどのことで人間不信になっているのかもしれない。

「話せる範囲で構わないんじゃよ。根掘り葉掘り訊くつもりはない」
 真琴の心情を読んだのか、老人が穏やかに微笑ってみせた。
 出身や仕事関係の話は臥せておこうと思った。言っても通じない、そんな漠然な予感があったからだ。

「友人と旅行中に、津波に巻き込まれてしまったみたいなんです。目が覚めたら、さっきの通りの路地にいて。流れついたのかなんなのか、私自身、何が何だかさっぱりなんですけど」
「つ、なみ? ……解らん単語じゃな。見たところ、お主は東洋人じゃろう?」
「東洋人!?」
 テーブルに両手を突いて、真琴は思わず身を乗り出す。
「じゃあこの街には、私のような、黒髪で黒目の人間がいるんですね!」

 老人の東洋人という言葉に希望が湧いた。なぜならここは一応外国なのだと思ったからだ。おそらくヨーロッパのどこかであり、何かの手違いで海を渡ってしまったのだろう、と真琴は考えた。

 しかし一つ疑問がある。どうして言葉が通じるのか。日本語しか使っていないはずなのにフェンデルと会話が成立している。期待に満ちた明るい表情から一変、真琴はすぐに深刻な顔つきになった。
 老人が申し訳なさそうに眉を下げて告げる。

「いるにはいるが、やはりお主は異質にみえるの。そのような服装はまず珍しい、というよりも見たことがない。だから憲兵も妙に思って連行しようとしたんじゃろうと思う」
「そう……ですか」

 ここがヨーロッパという期待は、すぐに泡になって消えた。真琴は脱力してソファに深く沈み込む。
 頭の隅でずっと考えていた一つの仮説が有力になりつつあった。目が覚めたときから変だとは思っていたのだ。見慣れない街並み、周りは外国人だらけ、なのに言葉に不自由しない。
 もう認めるしかないのかもしれない。ここは真琴の知らない世界なのである。

 あのあとフェンデルは、この世界について知識を与えてくれた。この街は円形状の壁で囲まれていて、中心がウォールシーナという、主に富裕層が暮らしている街があり、外側にいくにつれて、ウォールローゼ、ウォールマリアと、順に壁で括られているらしい。

 窓から改めて景色を観ると、何メートルあるのだろうかと思うほどの巨大な壁に驚愕した。巨人という、壁の外にいる化け物から身を守るためにあるのだという。
 五年前に、一番外側のマリアの壁が破られて巨人の襲撃があったらしい。といっても、そんな話にピンとくるはずもなかったが。
 
 窓から光が差し、小鳥の囀りがする。上質な天蓋ベッドの上で真琴は目が覚めた。
(昨日と変わってない)
 起き上がる気力もなく、ただ天蓋を見つめる。

 実は朝起きたら、いつもの日常に戻っているかもしれないと期待していた。が、豪華な調度品が並ぶこの部屋は、昨日フェンデルが真琴のためにあてがってくれたものだった。
 落胆の溜息をついてから、そういえばと思い、布団から右手を出して手のひらを眺めた。

「そういえばバッグってどうしたっけ」
 あまりの出来事に放心していたため、あのとき肩に掛けていたバッグの存在をすっかり忘れていた。波に攫われたときにバッグも攫われてしまったのか、それとも路地に転がったまま、ただ気づかなかっただけなのか。
「お財布……新しく買ったばかりだったのにな」
 ずっと欲しかったブランド物の財布を自分へのご褒美に先月買ったばかりだった。失くしてしまったことが、中身のお金よりも悔やまれた。
 真琴はゆらりと身を起こして、昨日の老人の言葉を思い返した。

「わしの養子にならないかね」
 いきなりそう言われて、真琴は返答に詰まった。
 老人は昔こそ名の通る貴族だったらしい。いまでは跡取りもおらず権力も弱まり、いわゆる没落貴族なのだという。養子の当てはほかにもいるだろうに、どうして素性も知れぬ真琴に言うのかと怪訝に思った。
 本音は跡取りが欲しいわけではなく、このまま血が滅ぶのは覚悟済みらしい。だがそこに真琴が現れた。異質な真琴に何かの縁を感じたのか、フェンデルはこう言ったのだ。
 没落貴族最後の悪あがきに協力してほしい――と。

「八四六年。いまから四年前の不幸を、お主心当たりあるかな?」
「いえ、心当たりがありません」
 ――八四六年。
 いまは二〇一四年のはずだ。そもそもこちらは西暦とは表現しないのかもしれない。

「ふむ。そんなに昔でもないし、子供でも知っておることじゃ。やはりお主、ただの東洋人ではないのかもしれん」
 苦笑しながらフェンデルは続ける。
「ウォールマリアが巨人によって突破された一年後、領土を奪還するために総攻撃を仕掛けたんじゃ。作戦といえば聞こえはよいが、体(てい)のいい口減らしでな。マリアからの大量の難民や失業者が作戦に駆り出されての。結局領土は奪還できず、多くの命が失われた忌むべき出来事があったんじゃよ」
「おじさまは、その作戦のことをご存知だったんですか」

 フェンデルは悲痛の表情をし、眼を瞑って小さく頷いてみせた。
「知っておった。わしは作戦に反抗する貴族を集めて議会に嘆願したんじゃが……力及ばず。わしに昔のような力があればと、あのときは自分を呪った」
「……そうだったんですか」
「この国を変えねばならぬとは思わんか。憲兵団なんぞ、ただ威張っているだけの王の飾りじゃ。体勢が腐り切っておるんじゃよ」

 臍を固めた皺くちゃな顔を見て、真琴はごくりと唾を飲んだ。
「まさかクーデターを起こそうとしているんですか……?」
「わしにそのような力はないよ。恐れ多いことだ」
 ふふっ、と微笑む笑顔の裏は読み取れなかった。

「私に何を協力させようというんですか? 親切にしてくださったことは感謝していますが、たいしたことはできないと思うんですが」
「難しいことじゃない。組織の状勢などを把握しておきたいだけなんじゃ。ある兵団に潜入してもらおうと思っておる」
「ある兵団?」
「わしがもっと若ければ自分で志願するんじゃがの」無邪気に笑って言う。「調査兵団に真琴を送り込みたい。憲兵団のように腐っておらぬから心配無用じゃ。現団長は骨のある奴だしの」

 フェンデルはこうも言った。
「まあ強がってはおるが、じじぃの一人暮らしというのも寂しくての。可愛い娘でもいたら楽しいだろうと、実はこっそり思ってたんじゃ。おぬし身寄りがないというし、じじぃの寂しさを紛らすために都合よく懐に飛び込んできた、ってことじゃな」
 と声高らかに笑った。

 この国で真琴が馴染めるように、フェンデルは娘としての戸籍を早々に作ってくれた。そんなこんなで話はとんとん拍子に進んでしまったのであった。


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mokuji
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