01.彼女の世界と、彼の世界

 この世界は残酷である。

 辺り一面の赤い屋根がずらりと並ぶ街は、五年前に放棄された人間の住めない領域。
「ここは自分にやらせてください、兵長!」
 活気溢れる若い青年は、そう言って立体機動に入った。アンカーを解き放ちながら向かうは、前方からのしのしとやってくる巨人を倒すべくだ。

 兵長と呼ばれた彼は、自分の周りで待機する班員に指示を出す。
「俺たちはフォローに回る。行くぞ」
 青年のあとを追って立体機動に移る。腰許の装置から噴き出るガスとワイヤーを使って、彼らは廃墟の街を鳥のように飛ぶ。

「張り切ってますね! 今日のあいつ!」
 部下の一人が青年を笑った。
 彼が唇を閉じたままでいると、ほかの部下が会話を繋いだ。
「いつも補佐ばかりだから焦ってるんじゃないか? 討伐数ゼロから脱したいんだろ」
「焦りからくるものだとしたら、いい傾向とはいえないわ。実力はおいおい付いていくものだもの」
 班の紅一点が細い眉をきゅっと寄せた。

 黒い前髪を風にそよがせる彼は、青年の肩を持つ。
「自分の力を試したいと思う野心は、悪いことじゃない。そろそろ経験させてやってもいい頃合いだと俺も思っていた。お前らもそうやって成長してきたろ」

 青年がいまの班に入ってからは、彼がずっと指導をしてきた。素質もあり飲み込みも早く、なおかつ従順であるから教え甲斐があった。加えて小柄なのがまたいい――と思っていた。背の低い彼を、意図せず青年が見降ろしてくることは決してないからだ。

 人間の敵である巨人はもう目の前だ。巨人の弱点であるうなじを、青年が狙いやすくなるように彼は声を張り上げた。
「足の腱を狙え!」
 
 十二メートルもある巨人の腰や脚に、次々とアンカーが突き刺さっていく。遠心力を使ってぐるっと旋回する。飛び去る間際に、巨人のアキレス腱を両手の刃で削いだ。
 二足歩行が保てずに、巨人は膝から崩れ落ちていく。そこへ青年が風を切る。
「化け物がぁぁ――!」
 そして、うなじを見事に削いで巨人を絶命させた。

 屋根に飛び移った彼は眼下を見降ろした。もくもくとした白い蒸気を体から発し、死んだ巨人はみるみる蒸発していく。
 両手にべったりと付着した、腱を削いだときの返り血も、同じように蒸発していく。が、自然に消えていくのを待てなくて、彼はハンカチで拭う。
「きたねぇな」
 我慢ならないという不快な顔つきをしているのは、いつから患ったのか記憶にもない潔癖性のせいだった。

 興奮した感じの青年が傍らに飛び降りた。
「兵長! いまのどうでしたか!?」
「なかなかよかった。だが一瞬躊躇したろう」
「仕留める瞬間、色々考えてしまって。切り込みが浅くて失敗したら、班を危険に曝してしまうとか、自分がやられるかもしれないとか……そしたら怖くなってしまいました」
「迷いは禁物だ。仲間を信じて思いきりいけばいい。もし仕留め損ねても俺たちがいる。そうだろ」

 青年は心弛んだ笑みを深くさせた。たちまち少年っぽさが露わになる。
「はい! 次はもっと巧くやれるよう頑張ります!」
「始めての仕留め役にしちゃ頼もしかった。次も頼んだぞ」
 青年の肩にぽんと手を置いて労った。場所を移動しようと背を向ける。「周囲を確認しにいく。まだ潜んでいる巨人がいるかもしれん」

 ふと背後の空気が揺れた気がした。
 おどろおどろしい気配を感じて肩越しに振り返ったときには、もう遅かった。

 崩れかけている屋根越しから、巨大な顔がにゅっと現れた。「みな散れ!」と大声をあげようとして口を開けるよりも先に、人間を食らおうと唾液が線を引く大口を開けたのは巨人だった。
 餌食になったのは真後ろにいた青年であった。状況が分からぬままに、青年は横からかぶりつかれた。

「え」
 青年の口から出た第一声はそれのみで、(一体何が自分の身に起きたんだ?)と心底不思議そうな表情をしていた。あとから襲ってきた痛みに、ようやく顔が崩れる。かはっと血反吐を噴き出し、
「へ……い、ちょ」

「まだ助かる! 全員、戦闘態勢に入れ!」
 青年を加えたまま、巨人は四つん這いで犬のように逃げていった。行動が可怪しいのは奇行種の特徴だった。
「逃げられる! 急げ!」
 あとを追おうと踏み出すが、運の悪いことに奇行種はもう一体潜んでいた。建物の死角から姿を見せた巨人が、班員をなぎ倒そうと腕を払ってきた。

 目の前で青年が食われたことで、まだ動揺が残っていた班員は行動が遅れた。
「うああ――!」
 二人が奇行種に捕まってしまう。
(どうする、どっちを助ける! 目の前か、連れ去られていく奴か!)
 百戦錬磨の彼も、さすがに混乱しそうだった。迷っていたら部下が堅い声を上げた。

「ここは俺が! 兵長はあいつを追ってください! あいつはいい奴です! 死なせたくはありません!」
 そうだ、班員はもう一人いたではないか。
「だが……」
 刃を構えて、部下は緊迫感を貼りつけた顔で言う。
「俺たちなら大丈夫です! 化け物の油断をついて、二人が――どちらか一人でも解放できれば倒せます! 早く行ってください!」
 彼は仲間を信じて頷いた。
「死ぬなよ。俺はあいつを助けにいく」

 後ろを振り向かずに、彼は逃げていく奇行種の尻を追った。最大にガスを噴かして追いつき、膝に一太刀浴びせる。
 巨人は激しいさまでごろんと横倒しになった。空中から目視した醜い顔の唇からは、一本の腕がだらんと垂れているのが見える。
 それを見て息を呑んだ彼は、自分の周囲だけ寒くなった気がした。しかし諦めるのはまだ早い。口の中でまだ青年は生きているかもしれないではないか。そう言い聞かせて自分を奮い立たせていく。

「逃がすか!」
 立ち上がって、再び逃げ出そうとした巨人のうなじを、すばやく削いだ。急所をやられた巨人は絶命して地に伏せた。
 うつ伏せで死んだ巨人のそばまで彼は駆け寄った。目を見開いた巨大な横顔。その頬に片足を置いて踏ん張り、両手で分厚い唇を開いていく。
「生きてるか!? 助けにきたぞ! 返事をしろ!」

 重い肉厚な唇の中の、緩く開いた上下の歯から、片腕が一本ぼとりと落ちた。肩から先にあるものがない。
 口の中にまだいるかもしれないと、彼は顔を突っ込んで覗き込んだ。空っぽだった。
 片腕の切断面からは赤い血だまりができていた。ついさきほどまで笑っていた青年が、いまや片腕一本しかない。

 片膝を突いて、彼は血だまりを指先で触れた。つうと滑らせて血を掴む。
「クソっ」
 怒りでふるふると震える拳から滴る鮮血。眉を寄せた彼の顔つきは、さきほど巨人の血を嫌ったときのものとは違うようであった。

 彼は青年の遺体である片腕を持って腰を上げた。遠くから、絶望が帯びる悲鳴がこだまする。
「はっ」
 急いで後ろを振り返った。遠目に自分の班員が見えた。「俺たちなら大丈夫です!」そう言ってくれた部下が巨人に食われていた。
 眼を凝らすと、ほかの班員が無惨な姿で屋根に転がっていた。赤い屋根でなく黄色や青色だったなら、おそらくおびただしい血糊も確認できたのだろう。

 彼の班は彼一人を残して全滅した。悲観しているかどうかは、彼の無表情から垣間見ることは難しかった。
 この世界では、こんなことは日常茶飯事でありきたり。仲間を失うことも当たり前。だから慣れてしまったのかもしれないとも取れる。ただ手に持つ片腕が、怒りの震えを伝ってゆらゆらと揺れるのみだった。

「リヴァイ!」
 声をかけられて彼は振り返った。馬で駆けてきた男は手綱を引いて傍らについた。
 金髪の髪を横分けにした男は、威厳ある顔で言った。
「作戦事項通り、補給拠点を確保することができた。この地点をよく死守してくれた」
「そうか。ならよかった」

 金髪の男は視線を下げて、彼がぶら下げる腕を見る。
「お前の部下のものか」
「俺の班は全滅した。こいつらが踏ん張ってくれたからだ、ここを守れたのは」
「そうだな。彼らが壁となってくれたおかげだ」
 壁。彼と同じように、悲観な表情など見せずに金髪の男はそう言った。

 目的を達するためには犠牲はつきものである。そう割り切ってはいるものの、いままで見送ってきた多くの屍が報われる日は、果たして訪れるのであろうか。
 ――と、ときおり彼は虚しく思うのであった。

 ※ ※ ※

 この世界は平和である。

 五月の爽やかな風が吹く。どこもかしこも渋滞や混雑に巻き込まれるゴールデンウィークは、絶好の行楽日和であった。

「わ〜、いい眺めね」
 陽射し避けに、手を額に添えた彼女は真琴という。目の前には、太陽を浴びてきらきらと揺らめく青い海があった。
「ほんとね〜。毎日のハードワークから解放された――って感じ」
 うーん、と気持ちよさそうに背伸びをした女は、彼女の会社の同僚だった。

 二人は鎌倉へ旅行にきていた。朝早く家を出て、午前中には予約していたホテルに着いた。荷物だけを預けて観光に繰り出している最中だった。
 湘南の海、由比ケ浜海岸。砂浜沿いの堤防で、二人はのんびりと腰掛けている。
「写真を撮っとこうっと」
 友人がスマートフォンをバッグから出し、眼の高さで掲げた。カシャっとシャッターの音が鳴る。
 と、犬を散歩中の老人が視界に入った。

「あ〜ん、おじさんが入っちゃった。撮り直し!」
 残念そうに言って、もう一度掲げた。
「よし! 今度はばっちりだ!」
「綺麗に撮れた?」
「うん。真琴も記念に撮りなよ。海を見たいって言ったの、あんたでしょ」

「そうね、写真に残しておこうかな」
 バッグの中を漁って彼女はスマートフォンを探す。友人が髪を掻き上げた。
「東京から鎌倉まで一時間ちょっとか。近いよね」
「古都なのに、京都や奈良にはない海も楽しめて、いい所よね」
「ここも癒されるけど、あとで街中のほうも行ってみようよ。あっちも風情があって、日頃のストレスを癒してくれそうじゃない?」

 水平線上に浮かぶ白いヨットと一緒にフレームに海を納めた彼女は、スマートフォンをバッグに戻した。
「最近残業続きって言ってたね。いま携わってるプロジェクト、忙しいの?」
「別にいまのプロジェクトが、ってわけじゃないけどね。その前のやつがお蔵入りになっちゃったから、挽回しようって必死なだけ」
「研究部門は大変ね」

 友人はからっと笑った。
「解析部だっていま忙しいでしょ? うちだけが大変なわけじゃないよ」
「香織がどんどん開発してくれちゃってるからね〜。おかげで収集されたデータの山に埋まっちゃいそうよ」
 友人は肘で彼女を突く。「私だけじゃないし〜」

 そうそう、と友人は笑顔を向けた。
「サンプルの解析データありがとね。あれ、ヒントになった」
「解析データ? いつの話?」
「やだ、つい昨日のことだよ。丁度、研究に行き詰まってやさぐれてたのよね。でも喫煙ルームから戻ってきたら、私のデスクに真琴からとっておきのプレゼントでしょ。それでパッてひらいめいちゃったし」
「それ私じゃないと思うわ。ほかの誰かじゃない?」
「しらけちゃって。あんたの癖字を見間違う私だとでも? 人助けを隠したかったら直筆のメモなんか残さないことね」

 堤防からぴょんと降りて、友人は彼女を振り返った。
「ねぇ、足だけでも海に入ってみない? 今日夏日みたいに暑いし、きっと気持ちいいと思うんだよね」
 上着と靴を脱ぎ捨てた友人は、返事をしない彼女を置き去りにして波打ち際に走っていった。海の手前で立ち止まり、膝丈のスカートの裾を結びながら再度振り向く。
「早くおいでよ〜!」

「うん、いま行く」
 こんな小声でここから返事をしても、きっと聞こえなかったろうと思う。曖昧に笑ってみせたのは、実はさきほどから青い海に対して漠然とした怖さが湧いているからだった。
 一歩足を踏み入れれば二度と戻ってこられない、そう不安にさせるほど、深い色をしているせいかは分からないけれど。自分から海を見たいと言ったくせに可怪しなものなのだが。

 波打ち際で遊びはじめた友人は、のろのろと向かってくる彼女に楽しそうに腕を振って呼ぶ。
「早く早く! あ、靴は脱いだほうがいいよ。濡れてびちゃびちゃなまま観光したくないでしょ?」
「忘れてた」

 呼ばれるままにほとんど無意識だった。気乗りしないが、パンプスを脱いで彼女はズボンを膝小僧まで捲った。
 太陽で焼けた砂浜は丁度よい温かさだった。夏本番であったなら裸足では熱過ぎて歩けないだろう。そんなことを思いながら友人のそばまで歩いていった。
 ひやりと冷たい波打ち際の砂浜。寄せてきた波が彼女の足許を覆っては返っていく。外気の暑さとの差が気持ちよくて、口許に笑みが零れた。

「冷たくて気持ちいい」
 妙な不安は杞憂だったらしい。
「よかった、笑ってくれて。なんか浮かない顔してたから、無理させちゃったのかなって思ってた」
「ううん、ちょっと考え事してただけなの」

「だよね。だって去年海へ泳ぎにいったとき、真琴楽しそうだったもん。嫌いなわけないし、泳げないわけじゃないし、どうしたんだろうって心配しちゃったじゃん」
「ごめん、ごめん。休み前に上に提出した報告書のことが、ちょっと心配になっちゃって」

 友人は、「もう!」と可愛らしく足を踏み鳴らす。「仕事の話はなしだよ! せっかくの連休なんだから忘れて楽しもうよ!」
「だよね! いまから忘れる!」
 彼女は元気に返事してみせた。本当は仕事のことなど頭になかったけれど。

「会社の連中のお土産さ、何がいいかな?」
「鎌倉といったら鳩サブレー?」
 首をかしげて彼女は提案した。
「なんか定番中の定番って感じ。捻りがないな〜」友人は急に腰を曲げて浜辺に手を伸ばす。「綺麗な貝殻みっけ!」
「定番だから安定してていいんじゃない。美味しいし、私は好きだけどな」
「真琴が言うならそれでいっか。土産物巡りも疲れるし」

 海上をのびやかに飛行する鳶に気を取られていたら、少しばかり大きめの波が脚を打ちつけてきた。
「わっ、あぶない! 油断してると服が濡れちゃうね」
 ひょこひょこと二、三歩下がって、彼女は手に持つバッグを慌てて肩に掛けた。中には財布や社員証が入っているので濡れては困る。

「さーて充分涼んだことだし、そろそろ移動しよっか。鎌倉に来たなら、やっぱ大仏を拝んでいかないとね」
「もう? まだいいじゃない。明日だってあるのよ」
「明日は明日で江ノ島に行くんだし、一日なんてあっという間に過ぎちゃうんだよ。行こ、行こ」

 友人は自由人だ、と彼女は思う。海に入ろうと言ってさっさと遊び始めたかと思えば、さっさと切り上げる。少し強引さがある友人は、彼女にとってついていくだけでいいので相性はよいのだけれど。

「待ってよー。足に砂がついてて靴が履けないんだから」
 足の砂をもたもたと払って拭っていた。と、背後から迫るような潮の轟きが耳に入って、本能的に動作が止まる。
「そこで履かないで靴をこっちまで持ってくればいいじゃん」堤防までとっとと歩いていく友人が、スカートの結びめをほどいて振り返った。叫ぶ。「――って真琴! 後ろ!」

 目の前では彼女の背後を指差し、恐怖と驚愕で引き攣っている友人の顔があった。硬直していた半身を無理に捻って、彼女は音の正体を振り返る。
 ――瞬間、白い飛沫を上げた大波に彼女は呑まれたのだった。

 息ができなかった。
 鼻から口から、潮水が吸い込まれるように流れこむ。抵抗するが、容赦なく咽喉に入りこんでくるのを止めることは困難だった。
(苦しい! 誰か助けて!)
 助けを求めて手を伸ばした。その手は海面に届かない。
 固く結んだ瞳を薄く開ける。ゆらゆらと白い光を伴う海面は、思ったよりも高い。

 どこまで沈んでいくのか。得体の知れぬ何かに強く引っ張られるように、海中深く、彼女の身体は引き込まれていく。
 無数のピンポン玉大の気泡が、目の周りを踊り狂っているのが気になった。これは何? 視界をひたすら悪くする気泡。考えて、ああ、空気か、と彼女は思った。
 海中に舞う彼女の気泡が、ごぼっと鈍い音を立てて一際大きな泡を作った。

 彼女の意識はそこで途切れることとなる。


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