13.お天道様を思わせる橙黄色のガーベラ

 その男が訪れたのは、いつもの如く突然だった。
 気兼ねすることもなく病室の戸を開けて入ってきたのはフュルストだった。平素と違ったのは彼の服装で、紳士のようにスーツを着用していたことである。

「怪我の具合はどう?」

 心配そうな顔もせず、彼は相変わらずの微笑を浮かべてベッドのそばまできた。片手に持つ花束をサイドテーブルに置き、もう片方の手に持つ手提げ袋を床に降ろす。
「肋骨いっちゃったんだって? 無理したんだ」
「……ちょっとヒビが入っただけみたい」

 フュルストとは奪還戦前以来だったのでやる方なくて気まずい。あのとき彼は憤然としていたし、真琴を組織へ迎えたことを後悔しているような口ぶりだった。なのでもしかしたら名簿から除名されたのではないかと、実は密かに渇求していたのだけれど。
 椅子へ腰掛けたフュルストにおどおどと声をかけた。

「お見舞いに来てくれたの?」
「じゃなきゃ花なんて持ってこないよね。可愛らしく作ってくださいって花屋の店員にお願いしたら、『恋人へですか?』 だってさ」
 笑って空の花瓶へ手を伸ばし、
「よかったよ、君が無事で。トロスト区へ少し偵察しにいったんだけど、惨たるものだった」

 お天道様を思わせる橙黄色のガーベラを、フュルストは一本ずつ差していく。
「頭の半分がなかったり、身体の一部がなかったり。そんなところに君が混じっていたらどうしようって想像しちゃったよ」
 おどけて笑うフュルストを見ていたら、だんだんと不愉快な気分になっていった。
「あなたが作戦の妨害をしろと私に命令してきたことは、それよりもっと悲惨なことになっていたかもしれないのよ」

「まだ根に持ってるの」
 悪びれずに言ったから真琴は不快を露わにした。フュルストが肩を竦ませる。
「僕は国を憂いているだけ。傾いている国を立て直すのには多少の犠牲はやむを得ない」
「嘘。絶対それだけが目的じゃない」
「せっかく見舞いに来てあげたのに邪険に扱わないで。ガラスのハートは傷だらけだよ」
 反省した様子が見て取れない。

「惨たる現状を見てきたんでしょ。どうして笑っていられるのよ」
 露骨な溜息をつかれる。
「いい加減にして、真琴。怒るよ」
 静かな怒気をはらんだフュルストが最後の一本を花瓶に差した。男が静かに怒ると怖いものだ。突っかかり過ぎたと少し気後れする。

「分かってるよ、君が嘆いていることも。人の死に慣れていない君にはさぞ過酷だったでしょう。気の毒に思う」
 水差しの水を花瓶に注ぎだす。
「でもこんな現状を作り上げたのは王政府だ。火力のある武器開発を頑なに拒む。でなければこの百年の間に科学はもっと進歩したはずなんだ。巨人を滅することだってできたかもしれない。指をただ咥えているだけで無駄に百年も経過したんだよ。僕はそっちに憤りを感じるね」

 橙黄色の可憐な花が咲く花瓶を完成させたフュルストは音を立てずに置いた。
「敵うはずのない強大な敵に、非力な武器で命をかけて闘うなんて」吐き捨て口調で言い、口を歪めて鼻先で笑う。「むしろ滑稽で笑えてくる」

 王政の変な圧力がなければ、この世界も真琴のいた世界とさほど変わらない発展を遂げたのかもしれない。日本だって百年前といまとでは科学も医学も知識も段違いだ。この国との違いは表現の自由が約束されているところだろう。
 彼が言いたいことも分かるが、あまりにも心が擦れているのではなかろうか。

「世間離れしてるわ。どうしちゃったの……」
 花瓶から手を離さずに、フュルストは遠くを見るような眼差しで花を見つめた。
「僕の生い立ちがそうさせるのかな」
 そろりと真琴は視線を向けた。
「生い立ちって?」

 伏せ気味だった瞳を流して見てくる。物言いたげに口を開けてから憚るように噤んだ。迷子になった子供のような助けを求める瞳に見えた。そと首を傾けて促してみると、フュルストが小さく紡ぎ出した。

「記憶が曖昧なんだ。幼いころから両親はいた。優しくしてくれた。けれど情が湧かなかった」
「嫌いだったの? ご両親のこと」
「好きだったよ。大事に育ててくれたから感謝してる。けれど情が湧かなかった。なぜだろうってずっと不思議に思ってた」
 真琴。とフュルストが切実な眼つきをみせた。

「――――」
「え?」
「――――」

 真琴は眼を丸くしていた。口を開いて彼は滑らかに何かを喋っているが、理解できない言語だったのだ。
 フュルストが嘆息を漏らした。

「真琴なら分かると思ったんだけどな」
「何の言葉? 何て言ったの?」
 フュルストはゆるりと首を横に振った。
「僕にも分からないんだ」
「分からない言葉を何で喋れるの」
「喋れるのはいま言った一文だけ。頻繁に夢に出てくる女の人がそう語るんだ」

 首をかしげた。
「女の人?」
「女の人はいつも僕を見下ろしてる。金髪の、触れたくなる絹のような細くて長い髪をした、美玉な女性だ」
 膝に置いた両手を組み、
「優しく――優しくそう囁くんだ僕に。でも誰だか分からない。幼いころからよく見る夢だった。その女の人の微笑が慈愛に満ちてるから、僕は両親に情が湧かなかったのかもしれない」

 またである。真琴はまた違和感を感じていた。あのときと一緒である。アルミンの本を見たときと同じ、頭に靄がかかって引っ掛かる感じだ。何が引っ掛かるのだろう。
「それが、あなたの秘密なの?」
「……さあね」

 彼の不思議な記憶が、非人道的なフュルストの人格を作り上げたのだろうか。それだけでは説得力が足りない気がするので、もっと知り得ない秘密があるのだろうと真琴は思った。
 病室へ入ってきたときに床に置いた手提げ袋を、フュルストが膝に乗せた。手を差し込んで出てきたのは女物の洋服である。さっきまでの翳りなど幻であったかのように笑顔で洋服を差し出してきた。

「じゃあこれに着替えてさっそく行こうか」
「――は?」
 呆気に取られている真琴を無視して立ち上がる。
「早く着替えてね。急がないと始まっちゃうよ――エレン・イェーガーの審議」
「ちょっと待ってよ! どういうこと!?」
 満足な説明もなしに病室を出ていこうとするから待ったをかける。

 振り返って片手を腰にフュルストが首を傾けた。
「だからエレン・イェーガーの審議を傍聴しに行くの。それでなきゃこんな窮屈な格好して病院へ来ないって」
 襟元に指を引っ掛けてネクタイを緩める。
「フェンデル家は貴族院の議席を持っているんだ。君が世襲したことにすれば審議の場で言論の自由を行使できる」

 それはエレンの処遇について真琴にも発言力があるということだ。審議での形勢は死刑にせよとの声が高まっているとイアンが言っていた。ならば真琴が反対意見を出すことでエレンを守れるかもしれない。それなら惑う必要などあろうか。
 力強く頷いてみせた。
「行くわ。着替えるから外で待ってて」

 急なことなので外出許可をもらう余裕はないだろう。あとで叱られるかもしれないがエレンの命には代えられなかった。
 ――フュルストの表情を見もせずに着替えを始めた心逸りを、真琴はあとでひどく後悔することになるかもしれない。背を向けた彼が怪しい笑みを浮かべていたなど、思いもよらなかったのである。

 苦手な馬車に揺られて、真琴とフュルストはウォールシーナにある審議所へ向かっていた。小窓から外の景色を眺めていたら腕を突かれた。

「なあに?」
「これ、左胸につけておいて」
 差し出してきた手のひらには金の勲章があった。白で縁取りされた緑のリボンに、円形のメダルには五芒星の彫刻が入っている。
「なにこれ?」
 受け取りながら瞳を上げた。
「貴族院の紋章だよ。それをつけていれば審議所へ問題なく入れる」

「どうしてこんな大事なものをあなたが持ってるの?」
「君のところへ来る前にフェンデルさんに借りておいたんだ。裏を見てごらん」
 言われた通りにメダルを裏返すと、細かい文字で「フェンデル」と刻印されていた。確かにフェンデル家のものらしい。要するにこの勲章が顔パスのような役目をするのだろう。
 勲章を胸許に付けながら、
「用意がいいのね」
 それに対してフュルストはただ微笑むだけだった。

 審議所の門番は駐屯兵団だった。憲兵団本部のときと同じように両脇に立つ彼らは長い銃を構えている。いつかの侵入のときは銃に脅かされたものだが今回は正当な目的がある。悪いことをするわけでもないので平然としていられた。

 入り口である開きっぱなしの大扉を、何食わぬ顔で通ろうとした。両脇で待機している兵士が揃って銃を動かし、通せんぼのように銃を交差させた。
 平然としていた真琴は一瞬で縮み上がってしまう。
「な、なに」

 挙動不審に呟いた真琴の、胸許にある勲章を確認した兵士。きびきびとした動きで銃を構え直し敬礼をしてきた。
「失礼いたしました、フェンデル家の方でございますね! お通りください!」
 背後を気にしつつおどおどと入り口をくぐる。

「びっくりした。捕まっちゃうかと思ったわ」
「今回は堂々としていたらいいよ。正真正銘な貴族院なんだからね」
 くすっとフュルストが微笑った。左胸に光る勲章を真琴は触れる。
「でもどうしてフェンデル家だって分かったのかしら。表面しか見えてないのに」
「よく見てごらん。端に小さくフェンデル家の紋章が入ってるんだよ」
「本当だわ」
 あまり目立たないところに小さく彫ってあるのは、フェンデル邸の至るところで見かけるマークだった。

 見るからに重量感のある両扉の向こう側は法廷内だった。内装が時代色を感じさせる以外は、以前好きだった弁護士が活躍する、連続ドラマに出てきた裁判所内と似ていた。
 入り口の真正面が被告席――その奥の一段高い位置にあるのが法壇で、裁判官が座るところだと思われる。まだ現れていないために空席だった。

 両脇が傍聴席のようだが椅子は用意されておらず、すでに待機している人たちは立ち見だった。注目のある審議なのだろう、傍聴人が多い。
 フュルストのあとをついて貴族院が寄り合う箇所に真琴は落ち着いた。おおかた揃ったらしく、あとは被告人であるエレンと裁判官を待つのみだった。

 実のところさっきから胸が塞がる思いをしていた。顔色が悪い真琴は床に目線を落とす。被告席を挟んだ向かいの傍聴側から、鋭いナイフのような視線をずっと浴びているからである。
 真琴が立っている側には憲兵団の兵士が複数と、貴族や商人がいる。反対側には黒い装束を纏った者たちがいて、彼らが噂のウォール教信者に違いなかった。そして駐屯兵団と調査兵団も並んでいる。

 傍らのフュルストを肘で突いた。
「調査兵団がいるなんて聞いてないっ」
「ちょっと考えれば分かることじゃない。エレン・イェーガーは兵士なんだよ」
 両手の指をいじりつつ視線を上げてみる。剣呑な眼つきのリヴァイと真琴の視線が合わさった。
 周囲にはエルヴィンやハンジもいる。駐屯兵団のところにはピクシスとリコがいて、彼女の隣にはミカサとアルミンもいた。

 でも。とフュルストが辺りを見回している。
「兵士の数が多い。もしかすると貴族院に審議権はないかもしれない」
「どういうこと?」
「議長が誰か次第だけど」
 彼が何やら思考しているころ、法壇のそばにある小さめの扉から立派な顎髭を生やした老人が出てきた。

 隣から舌打ちが聴こえた。
「ザックレー総統か」
 老人は眼鏡を少し上げる仕草をし、裁判官が座る席へ腰を降ろした。
 真琴はフュルストの袖を引っ張った。
「どういう人なの?」
「ダリス・ザックレー総統。三兵団を束ねるトップだよ」

 会ったことはないが以前真琴が始末書を提出した人である。七十代のように見えるけれど眼鏡の奥の瞳は濁りなどなく、年相応の皺が貫禄を出している。
 フュルストがまた舌打ちをした。
「あの人があそこにいるっていうことは通常の法じゃない」
「まずいことなの? 威厳があって堅物そうに見えるけど公平に裁いてくれそうじゃない」

 切に訴えればエレンを死刑になどしないかもしれない――そう思えるほどザックレーは誠実に見えた。そもそもトロスト区を失わずに済んだのはエレンの功績なのだから、彼を死刑にするほうがどうかしているわけだ。
 目の前に光明が見えた真琴とは正反対に、フュルストは唇を噛んでいた。(どうしたのかしら?)と首を捻ったとき両扉が開いた。

 銃を背中で斜め掛けした憲兵二人に連れられて、戸惑い顔のエレンが入廷してきたのだ。
 椅子などない台座だけの被告席まで、小突かれるようにされてエレンは歩かされる。乱暴に両肩を押され、その場に跪かされた。後ろ手に縛られている両手の内側には、台座にあるハンドボール大の穴がある。そこへ憲兵が木杭のようなものを差し込めば、エレンが逃げることのできない状態ができあがった。

「ひどい」
 非難の声が口をついた。まるっきり犯罪者扱いだった。それともこの世界の裁判はすべてこういう方式なのだろうか。
「審議のときっていつもああなの?」
「普段なら椅子が用意されてるんだけどね。彼は巨人化できるらしいし、もしものための措置なんじゃないのかな」
 無意識に柵を両手で握りしめていたら、しわがれた声が法廷内に反響した。

「さあ始めようか」
 ザックレーが白いシャツの袖を腕捲りした。
「エレン・イェーガー君だね。君は公のために命を捧げると誓った兵士である。違わないかい?」
 はい。と答えたエレンのこめかみには鈍く光る汗が見える。
「異例の事態ということもあり、通常の法が適用されない兵法会議とする」

 フュルストが三度目の舌打ちをした。気になるが真琴はザックレーに意識を集中させる。
「決定権はすべてわたしにある。君の生死について、いま一度改めさせていただく。異論はあるかね?」
 エレンは眼を伏せた。言葉の意味を自分の中で消化させたのだろう、強張った表情で再度瞳を上げた。
「ありません!」

「察しが良くて助かるな。この事態は異例を極め、相反する感情論がこの壁の中でひしめいておる。ある者は君のことを破滅に導く悪魔と呼び、またある者は希望へと導く救世主と呼ぶ」
 手許にある積まれた紙束を手に取った。みんなから集めた調書を纏めた書証だろう。
「やはり民衆に君の存在を隠すことは不可能だった。いずれかの形で公表せねば、こののち何らかの脅威が発声しかねない」

 おそらく市民からの暴動を予期しているのだろう。ここへ来るまでの道程で、号外を配っている姿を馬車の小窓から見てきた。配っている人間を中心にしてできた大きな人集りからは、巨人がどうのこうのと口ずさむ喧騒が聞こえてきた。トロスト区の情報に紛れて実名までは出ていないだろうが、巨人が味方したことが書かれていたのだろうと推察できたものだ。

 襲撃があってただでさえ人々が不安に陥っているというのに、得体の知れない巨人が現れたことでさらに混沌と化してしまった。まさにフュルストの狙い目通りに反乱が起こりそうな状況に近づいているのだ。
 老人とは思えない鋭い眼つきで、ザックレーがエレンを見据えた。

「今回は君の動向を、憲兵団か調査兵団のどちらに委ねるかを決める。その兵団次第で君の処遇も決定する」
 憲兵団側で立っているナイルに視線を移し、
「では憲兵団より案を聞かせてくれ」

 ナイルは書証と思われる紙束を手に頷いた。
「憲兵団師団長ナイル・ドークより提案させていただきます。我々は――エレンの人体を徹底的に調べ上げたのち、速やかに処分すべきと考えております」

 まるで動物を殺処分するかのような発言に、真琴は怒りで顔が紅潮していくのを感じていた。もしザックレーが憲兵団にエレンを委ねると決断してしまったらと思うと、恐ろしすぎて震えるのも忘れそうだ。つまりは憲兵団の肩を持つことはできない。

 兵法会議と通常会議の違いはいまいち把握できていないが、ザックレーに対して市民の声ということで進言できる権利はあるはずだ。最後に決断を下すのは裁判所と要領が一緒なので、裁判員みたいな形で発言することは可能だろう。
 真琴の中でエレンの憲兵団行きは議論する余地もなく消えた。あとは調査兵団がどう出てくるかにかかっている。

 思考に耽っている間もナイルは陳述し続けている。内容によると、中央で実権を握る有力者はエレンを脅威として認識しているらしい。一方で彼を英雄視する民衆の反発が高まっていて、領土を巡る内乱が生じかねない状況のようだ。前者は富裕層、後者はおもに貧困層でウォールローゼの民のことだと思う。貧富の差が今回の騒動をきっかけに爆発しつつあるということだ。

(でも……騒動がなかったとしても、いつか内乱は起こったんじゃないかしら)
 貧富の格差というのは様様な社会問題を助長してしまう深刻なことだからだ。

 最後にナイルは付け足した。
「彼の巨人の力が襲撃を退けた功績は事実ですが、実害を招いたのも事実。なのでできる限りの情報を残してもらったのちに、我々人類の英霊となって」
 発言中に、向かいで陣取るウォール教の信者が生ぬるいとばかりに口を挟んできた。
「奴は神の英知である壁を侵入した害虫だ。いますぐに殺すべきだ」

 壁を神とするのは何ら可怪しいこととは思わない。巨人から人類を守る壁と思えば崇拝するのは自然の成り行きだ。現代でも自然信仰はたくさんある――太陽とか大地とかそういったものの類いなのだろう。
(だけどあまりに熱心過ぎるのも困りものね)
 と真琴は思う。今回壁上を武装することさえ彼らは口を出してきて、そのせいで大幅に時間を食ってしまったらしい。壁の修復に関しても頑なに拒んでおり、作業が捗っていないと聞いた。信仰するのは自由だがもっと生身の人間に重きをおいてほしい。

 ザックレーが信者に向かって注意をした。
「ニック司祭殿、静粛に願います。――次は調査兵団の案を伺おう」
 背中で両手を組むエルヴィンに注目した。

「はい。調査兵団十三代団長エルヴィン・スミスより、提案させていただきます」
 厳粛な面持ちでザックレーと向き合う。
「我々調査兵団はエレンを正式な団員として迎え入れ、巨人の力を利用し、ウォールマリアを奪還します。以上です」
「もういいのか?」
 簡潔な主張にザックレーが片眉を上げた。エルヴィンは頷いてみせる。
「彼の力を借りればウォールマリアを奪還できます。何を優先するべきかは明確だと思われます」

 そうか。と言ってザックレーは奥深い瞳でしばしエルヴィンを見つめていた。老い白んだ髪が、背後にある上部の大窓から差し込む陽光を受けて銀髪に見えた。
 大窓の真下には各兵団の紋章が列なっており、金属製の彫刻がきらりと光っている。憲兵団と駐屯兵団が中央に、両端を調査兵団と訓練兵団の紋章が挟んでいた。

 並び順は意味がありそうに思えた。真ん中に位置している紋章は、この国で勢力を発していることを感じさせる。逆に両端に飾られた紋章はやや弱い立場なのかもしれない。訓練兵団はともかく、調査兵団は民間の声から発足した組織だと聞いたので序列としては妥当なのかもしれないけれど。

 少し下がった眼鏡の奥からザックレーが上目遣いする。老眼なのだろうか。
「ちなみに今後の壁外調査はどこから出発するつもりだ?」
 問うてからピクシスに視線を向けた。
「トロスト区の壁は完全に閉鎖してしまったのだろ?」
「ああ。もう二度と開閉できんじゃろう」
 ピクシスが眼だけで頷いた。敬語じゃないところを見ると、二人は普段からつき合いがあるのかもしれない。

 エルヴィンが回答した。
「東のカラネス区からの出発を希望します。シガンシナ区までのルートはまた一から模索しなければいけません」
 いままでやってきた調査兵団の五年間が、すべて水の泡になってしまった。人間の屍の上でコツコツと繋げてきた道が、一瞬で無駄になった瞬間だった。真琴を巨人だと疑ったエルヴィンだが、さすがに哀れに思って胸が詰まる。

「ちょっと待ってくれ!」
 真琴の真後ろにいる男が、突然大声を出して反論しだした。ここら辺にいるということは彼も貴族なのだろう。
「今度こそすべての扉は完全封鎖するべきだ! 超大型巨人が破壊できる扉の部分を頑丈にすれば、もう攻められることはないじゃないか!」
 調査兵団に向かって罵倒する。
「商会の犬どもはそこまでして土地が欲しいのか!?」

 真琴はフュルストに耳打ちした。
「商会の犬ってどういう意味?」
「国から予算は出ているけど、それでも調査兵団は資金繰りに困っているらしいね。だから地域の主な商会からの出資で、何とか運営しているみたいだよ」

 要するにスポンサーがついているということらしい。とすると出資金の見返りは男が言った通り奪還した土地であり、そこでの商売を保証されることが対価なのだろう。
 興奮している男はさらに罵り続けた。

「できもしない理想ばかり言って! これ以上お前らの英雄ごっこにはつき合っていられない!」
 三白眼の男が言われっぱなしでだんまりを通すとは思えない。胸に据えかねたのか、リヴァイのドスが効いた口調が言い返してきた。

「よく喋るな、豚野郎。扉を埋め固めてるあいだに、巨人が待ってくれる保証がどこにある?」
 気迫に怯んだ男に構わず蔑む。
「てめぇらの言う我々ってのは、てめぇらが肥えるために守ってる友達の話だろ? 土地が足りずに食うのに困ってる人間は、てめぇら豚共に入らねぇと?」

 まともな返しだった。リヴァイの発言は人で無し呼ばわりしたものであるから男はさぞ鼻を折られたことだろう。
 男は怯んだ声を上げた。
「わ、我々は扉さえ封鎖されれば助かると言っただけで!」なっ!? と脂汗混じりの顔で真琴に同意を求めてきた。
「えっ!?」

 おろおろしてしまう。肩を叩いてきたフュルストが柔らかい笑みで首を振った。相手にするなということだろう。
 ざわつき始めた法廷内を鎮めるために、ザックレーが大きな咳払いをした。

「話を進めよう。――エレン。調査兵団への入団を希望しているようだが、これまで通り兵士として人類に貢献し、巨人の力を行使できるのか?」
「は……はい。できます!」

 自信ありげに言い切った彼を、ザックレーは静かに見据えて顎髭をいじっている。「ほぅ」と透視するような瞳を向けられて、エレンは僅かに眼を瞬かせた。
 ザックレーは手許の書類に目線を落として次のページを捲った。
「今回の奪還作戦の報告書によると巨人化の直後、ミカサ・アッカーマン目掛けて三度拳を振り抜いたとあるが」

 瞬く間に青ざめたエレンが、傍聴席にいるミカサに首を回した。薄く開いた震える唇からは、暴走していたときの記憶がないことが見て取れた。
 心証のよくない事柄に、向かいに立つミカサとアルミンも動揺しているようだ。そばにいるリコに向かって、彼女が舌打ちしたのが見えた。

「へぇ……」
 傍らの声に真琴は目線だけを流した。風向きが悪いというのに、フュルストは顎を指で撫でながら不適な笑みを浮かべている。
(さっきから何なのかしら、意味深だけど)
 と怪訝に思いつつ、しゃがれ声に意識を向け直した。ザックレーがミカサに事実確認をしている。

「これは事実か?」
 なかなか答えようとしないミカサの隣で、リコの口が小さく動いている。正直に話すよう勧めているのだろうか。諦めたようで、彼女は一旦眼を伏せてから答えた。
「事実です」

 ざわと周囲から囁き声が蔓延する。自分の知らなかった事実に、エレンはショックを隠しきれないようだ。
 しかし。とエレンを庇うためにミカサが釈明に入るみたいだ。

「私は二度巨人化したエレンに命を救われています。防衛戦のときと、二度目は私とアルミンを砲弾から守ってくれたときです。これらの事実も考慮していただきたいと思います」
「それはどうだろう」
 いかにも鼻持ちならない態度で割り込んできたのはナイルだった。
「君の願望的見解が多く見受けられたため、客観的な資料価値に欠けると判断した」

 どういうことだろう。エレンがミカサを助けたことは真琴も証言したし、砲弾を浴びたときのことはアルミンも証言したはずだ。それが全然思い見られていないような気がする。自分たちに都合のよい部分だけを残して、ほかの証言は捨てたのだろうか。
 ナイルが口を開いた。

「君がエレンに肩入れするのは六年前の事件がきっかけだろう。――この二人は当時九才にして、強盗である三人の大人を刺殺している」

 真琴は眼を見張った。そして訓練兵団の解散式パーティーの日の一コマを思い出していた。幼少のころに、闇ブローカーによって襲われたミカサがなぜ助かったのか――あのとき口を開いた彼女をエレンが咎めたから分からずじまいだったがこういうことだったらしい。

 恐れ混じりの騒然さが広がる真っ只中で、ナイルが言い切った。
「正当防衛ですが、根本的な人間性に疑問を感じます。彼に人類の命運・人材・資金を託すべきではありません」

 フュルストが囁いた。
「いい流れだね」
 信じられない言葉に、真琴は眼を見開いてフュルストを見た。彼の口許が危ない笑みを湛えている。
「完全にこっちの流れだ」
「こっちの……流れ?」
 危ない笑みのまま眼をしならせた。
「エレンを処刑にしたほうがいいって風が吹いている、ってこと」

 柵をずっと掴んでいた手を、不安な胸許に持っていって服を握った。繰り広げられる怒涛の進展に、無意識で力を込めていた真琴の手は、固く突っ張っており汗を掻いていた。震慄する口許で喘ぐ。
「な、なに言ってるのよ。え、エレンを擁護するために私は」
 言いかけだが言葉を途切った。

 無機質な硬いものが背中に当てられた。背後だから振り返らなければ見えないが、背に押し当てられている感触からは冷たく物々しい雰囲気が伝わっている。
 おそらく人は「これ」を知らなくても「これ」を直視しなくても、身体に触れただけで「これ」が何なのか、第六感で感じ取るのではないだろうか。

 戦慄に囚われた真琴は生唾を飲んだ。見開いた瞳で反射的に向かいのリヴァイを凝視する。
「なんで……こんなことするの」
 フュルストが耳許で吐息混じりの声を上げた。
「ここへ来た目的はエレンを死刑にしたかったからなんだ。そのために君に彼が不利になるような発言をしてもらいたい」

 エレンへの中傷が飛び交う騒がしさの中。二人にしか聞こえない機械的な音が、押し当てられる物が微かにズレる感触と同時に耳に入った。――フュルストが小型拳銃の撃鉄を起こす音であった。

「彼は本当に人類の希望だよ。だからこそ僕にとっては邪魔以外の何者でもない。もしウォールマリアを奪還したなんてことになれば、民衆の大半が彼を神だと崇めるだろう。国の団結力は高まって革命が困難になるじゃない」
「でも……私にエレンを非難するようなことはできないわ。り、理由もないもの」
「分かっているよ。だからこうするんじゃない」
 無邪気に微笑んで拳銃をさらに押しつけてきた。

「じ、自分でしてよ。貴族院の紋章、か、貸すから」
 掠れ声は裏返った。物騒な物を当てられて、どうしてか無意識に背筋が伸びてしまう。
「残念だけど紋章の貸し借りは重罪だ。僕は捕まりたくないから遠慮しておくよ」
 否応なくフュルストが駄目を押してきた。
「さあ、始めて」


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