12.抑圧された感情の下に隠れていたもの
午前中の回診が終わったあと、イアンの病室を訪ねに廊下を歩いていた。病院は二階建てで病棟は真琴と同じ二階にある。
比較的規模の大きい病院で、どうやら軍用の医療施設のようだった。廊下を少し歩いただけでも様様な怪我人とすれ違うのだ。
頭に血のにじむ包帯を巻いた者。足をギプスで固定している者。肩から包帯で腕を吊るしている者。男も女も等しく見かけたが、前者に関しては作戦成功から四日目ということもあり、無精髭を生やしている者がほとんどだった。
戸の閉められた病室から嘆声が聞こえることもあった。痛ましい泣き声は回復したことの喜びではなく、無念にも世を去ってしまった家族に対しての、遺族のものに違いなかった。
目的の病室前に着き、戸の横に掛けてある木札の名前を確認してノックした。二回のノックののち、中から男の声が「どうぞ」と言ったので取っ手を引いた。
そろりと戸を開けて顔だけを出す。真琴と同じ狭い個室にはベッドで身を起こしているイアンと、その脇で戸を背にして座っているリコの姿があった。
イアンが軽く頷いたので、真琴は頭を下げてベッドのそばまで移動した。立ち上がったリコが、病室の角にある椅子を持って自分の横に置く。
「座りなよ」
「ありがとう」
椅子に腰掛けるとイアンと眼が合った。
「具合はどうですか?」
「体調は悪くない。まだ血が足りない気はするが」
少し青味のかかる顔でイアンが脚のほうに手を持っていった。そこは本来ならば山に見える部分なのに、掛けられたシーツの下は不自然に窪んでいた。
「片脚がないというのは不便だな。失ったことに慣れないのか、あるものとして動かそうとしてしまう」
陰のある目許で苦笑した。
「痛みを感じたり、痒みを感じたり――とかですか?」
「まさにいまも痒い。なのに掻くところがなくてもどかしい」
おそらく幻肢だ。切断手術等で失われた手足が、いまだにあるかのような感覚を起こしてしまうのである。
「その……残念でしたね」
なんと言ってあげたらいいのか分からない。とにかく気の毒で、真琴まで重い気分になってしまう。
窪んでいる幻の脚を、さする仕草をしながらイアンは首を振った。
「あるに超したことはないが。だが命あっての物種だからな」
言ってから半身を正面に捻り、畏まった様相で頭を下げてきた。
「ありがとう。真琴には心から感謝しているよ。こんな言葉では足りないくらいに」
「や、やめてくださいっ」
慌てて立ち上がり、
「頭なんて下げないで下さいっ。そんな立場ではないですしっ」
「立場など関係ない。実際に命を救ってくれたんだからな」
「ボクはただ」
わたわたしている真琴の腕を傍らのリコが引いた。
「素直に感謝を受け取っておけ」
俯き加減に小さく頷き、引かれるままに椅子に座り直した。が、自分より上の立場の人間に頭を下げられ、やはり恐縮している真琴は身を小さくした。落ち着かない視線を隣に流す。
サイドテーブルの上に置いてある半円の籐の籠から、盛られている果物をひとつ手に取って、リコが果物ナイフを当てていた。
イアンが不自然な咳払いをするので目線を向けると、なぜだか彼は苦い色をしていた。リコの手許に視線を何度も流している。
首をかしげてリコの手許の林檎を注視し、真琴は目玉が飛び出そうになった。
「リコ、もったいないよ! 身がなくなっちゃう!」
「なに?」
何の気なしに顔を向けたリコの持つ林檎は、無惨な姿になっていた。何ミリ、いや――何センチという単位で剥かれたギザギザの紅い皮。手に持つ林檎の形状はいまや円形ではなく、ガタガタに歪でほとんど身など残っていない。
イアンがまた咳払いをして真琴を呼んだ。
「もう三日もまともな林檎を食べていない」
「人の親切に対してそういう言い方はないんじゃないっ」
林檎のように面を紅くしたリコが言い返した。果物ナイフをぶんぶん振りながら抗議を露わにしている。
「危ないから、リコっ。ボクが剥くよ、貸して」
イアンを庇うように身を乗り出して、リコの持つナイフを奪った。その横でぷんすかしている彼女にお願いする。
「リコに頼みたいことがあるんだけどいい?」
「ものによる」
「なにそれ……」
わざと白い眼つきをしたあとでナイフを膝に置いた真琴は、持ってきた鞄から便せんを取り出した。羽根ペンとインクを揃えてリコに差し出す。
「ボクの代わりに手紙を書いてほしいんだ」
「は?」
はてなマークながらもリコは便せんを受け取り、
「なんで私が書くの」
「お偉いさんに渡す手紙なんだけど、ボク字が下手だから失礼になっちゃうかと思って。口頭で言うから文章にしてくれる?」
なぜリコに頼むのか。それは真琴がまだ長文を書けるほど単語を覚えていないので、きっと伝えたいことを表現するのは難しいと思ったからだった。
ちょっと面倒そうな鈍い動作で、リコがインク瓶の蓋を回す。
「仕方ないな。お偉いさんって誰なの?」
「エルヴィン団長」
「わざわざ手紙にする必要あるの? 自分とこの上官じゃない」
「次いつ会えるか分からないし」
本を画板代わりにして少し上げた片膝に置き、そこに便せんを乗せたリコが羽根ペンを構えた。
「一つ貸しね。――いいよ、始めて」
息をついてから姿勢を伸ばして真琴は改まった。
「ボクが巨人であるか否かの、疑惑に関してのことですが」
紡ぎ出すと二人が眼を見張った。リコのペンの動きが止まる。
「真琴が巨人!? なんでそんな疑い持たれてるの!」
「ちょっと信じられないな。エルヴィン団長に限ってそんなことは」
声を抑えて言ったイアンは、驚愕の表情を隠せないようだ。
「真琴は防衛戦にも奪還戦にも参戦している。聡明な方だと誉れ高いエルヴィン団長が、どういう了見でそんな結論に至ったのか些か疑問だな」
「分かりません。疑惑を晴らしたいのなら、壁が破壊されたときにボクがどこにいたかを証明できる人物を連れてきなさいと言われましたけど」
「無駄だろうな。居ないだろうことを確信して詰問してきたんだろう」
いまから証人を探してもきっと見つからない。あのときあの瞬間に顔を合わせたのは、亡くなったグレゴール以外に思い当たらないし、多分エルヴィンも調査済みのはずである。外堀を固め、妙な確信を持って問い詰めてきたに違いない。だから探し回ったって絶対に証人は見つからないだろう。
トロスト区の内門を無理矢理通過させた駐屯兵はどうかと思ったが、すでに破壊されたあとだったのでエルヴィンを納得させるだけの証言には至らないだろう。
証言してくれる人物が一人もいない中で、真琴が弁明するには違う方法で説き伏せるしかないのだ。
「続きいい?」
言われて、唖然としていたリコがズレた眼鏡を上げた。便せんに向き直って頷く。
そのあとは話し終わるまでリコは黙々とペンを走らせ、イアンは沈然として真琴の言葉を逃すまいとしていたようだ。
書き終わった便せんを封筒に入れていたら、リコが重い空気に疲れたのか息をついた。
「ほとんど脅迫だな」
「やだな、人聞き悪い」
「いや――効果的だ」
真面目な顔でイアンが顎をさすった。
「その内容ならエルヴィン団長も信じざるを得ないだろうな」
「そうじゃないと困りますけどね」
苦い笑いで真琴が首を竦めると、イアンが深刻な表情に色を変えた。
「しかしエルヴィン団長の考えは、エレンのほかに巨人化できる人間がいるかもしれないという憶測に基づいている。奪還戦のときは無我夢中だったが言われてみればその通りだ。第二のエレンがいたとしても可怪しくはない」
唸り声を喉から出してリコに視線を刺した。
「このことははっきりするまで口外するな。この場にいる三人の秘密だ。世間に知れれば混乱する」
「わかった」
リコが浅く頷いたのを見て、
「真琴もだ。口外するなよ」
「分かりました」
同じように頷いて真琴は付け足した。
「あの……。ないと思いますが、奪還戦のときのボクの振る舞いについて調書を取りにきたときには、ご迷惑をおかけしますがその」
「ああ。俺が感じたことについてしかと伝えさせてもらうよ。命を救ってくれたこともな」
頷いてくれたイアンのまっすぐさが心強かった。が、リコは素知らぬ顔をして顎を尖らせた。
「ただの鈍間でしたって報告しておくよ」
「そんなぁ〜」
力なく言えば膝に手を突いてリコが立ち上った。笑い顔で肩をぽんと叩いてくる。
「冗談だ。お茶をもらってくる」
そう言って病室から出ていった。
二人になると、イアンが気遣うような眼を真琴に向けてきた。
「大丈夫か?」
笑みとは言えない笑みを作って、弱々しく真琴は頷いた。
「つらいな。見るに堪えない残虐な現場で、命を張って闘ったというのに疑われるなんてな」
真琴はただ首を振った。真摯な言葉が涙を誘ってきて、堪えるのに必死で口が開かなかったのだ。
林檎を手に取ってゆっくりと皮を剥き始める。イアンが深く息をついてから話を切り出した。
「エレンのことは聞いたか?」
瞳を上げて真琴は首を振った。
「エレンのことについて、調書を取りに憲兵は来なかったか?」
ナイルが訪れたので首を縦に振った。でもどうしてエレンの調書を取る必要があるのかよく分からなかった。ナイルの冷たい態度は、彼を犯罪者か何かと決めつけているようなものに見えたのだけれど。
「エレンはいま審議所の地下牢に隔離されている」
「審議所!?」
林檎が思わず手から滑りそうになり、暴れ回る林檎を何とか手に収めた。
審議所とはおそらく真琴の住むところでいう裁判所に近いものだと思う。しかも地下牢に隔離されているとは穏やかではなさそうだ。やはりナイルからひしひしと伝わってきた嫌な空気は、決して思い過ごしではなかったのだ。
イアンは続ける。もともと痩け気味の頬に鋭い眼差しが合わさると幾ばくか怖い。
「いまは憲兵団の管理下にあって、調書が揃い次第エレンの処遇についての審議に移るらしい。調査兵団が彼とのコンタクトを申請しているようだが、なかなか通らないようだ」
深刻な面持ちのイアンが指で真琴を招いてきた。声を抑えたいのだろうから顔を近づけた。
「憲兵はエレンを即刻処分したいらしい」
「処分ってっ」
「死刑を望んでいるということだ」
「だってエレンは街を救った英雄です」
「ああ。俺も即刻死刑という判断は納得いかない。エレンには可能性があるからな」
イアンの吐息が顔にかかる。
「ピクシス司令は賢明な方だ。反対して下さるとは思うが、だがしかし形勢は良くない。市民の声と、やっかいなことにウォール教まで出張って、エレンの死刑を要求しているらしいからな」
ウォール教とは、以前フュルストが洗脳によって信者をコントロールしていると言っていた宗教団体だ。五年前の巨人の襲撃から活動は顕著になり、富裕層から貧困層まで幅広く支持を得ている。彼らの崇める神様は街を囲う壁そのものであり、神から授かった奇跡なのだと称して布教活動をしているのだ。
真琴が喋ろうと口を開いたところで、背後で戸の開く音がした。振り返る間もなく激しい踵の音が近づいてきて、やにわに上腕を強く引っ張られた。せっかく剥き終えた林檎がつるりと手から離れていく。
「何をしている!」
イアンから引き剥がされた真琴は、焦り混じりの怒声を振り返った。三白眼を吊り上げさせた怖い顔のリヴァイがいた。
「なにって」
思わず口をついた言葉を封じ込めるように、真琴は堅く唇を結んで顔を逸らした。
「何をしていた!」
どうしてだかリヴァイは問い詰めてくるが、真琴は一向に口を閉ざし続けた。真顔に近い表情は反抗的に見えることだろう。
(なんなのよ、この人! いきなりやってきて怒号を散らすってあり!? それにここは病院なのよ、静かにしなきゃいけないんだから!)
笑顔でないイアンが口を開いた。
「わたしの見舞いに来てくれたんだ」
椅子の足許に置きっぱなしの鞄を取るため、彼らを尻目に真琴は屈んで腕を伸ばした。取っ手に指を引っ掛けたところでリヴァイが強く腕を引いてきたので、強制的に後ろに下がらされる。
(なんだっていうのよ、もう!)
「真琴が臨時で入った精鋭班の者か」
真琴を怒鳴りつけたリヴァイは、イアンに対して冷静に対処しているようだ。どこか棘が見え隠れしているけれど。
「ああ。わたしが指揮を委任されていた」
「俺の部下が世話になった」
「いや、世話になったのはわたしのほうだ。こうしていま生きているのも真琴のおかげだからな」
真摯なイアンから僅かに視線を逸らし、リヴァイが気づかれないような小さな舌打ちをした。なぜか掴まれている腕がだんだん痛くなってくる。
リヴァイは真琴を引っ張って入り口まで歩き、
「こいつはまだ安静にしていないといけないんでな。失礼する」
と言ってドアノブに手を掛けた。
「お大事に」
声が聞こえると同時に戸をやや荒く閉めた。ほとんど初対面だったろうにイアンに対して大変失礼である。
速い歩調に少し抵抗しつつも真琴は考えていた。イアンの病室にいることをなぜ知っていたのだろう。おそらく看護師さんに聞いたのかもしれないと考えが行き着いた。行き先を告げて病室をあとにしたからだ。
引っ張ってくる手を、短く声を上げて払いのけた。歩調を速めてリヴァイを追い抜き、自分の病室へと向かう。
風刺を込めた声が背中に当たった。
「他人に林檎を剥いてやる暇があるのなら、自分の部屋で大人しく療養していろ」
真琴はリヴァイを無視する。顔を見てしまうと、昨日のことを思い出して恨みがつらつらと募っていくからだ。
「こうして入院しているあいだにも、お前への給与は発生しているんだぞ」
ぎりりと両手を握りしめた。
「普段からそれに見合った働きぶりじゃねぇが。挙げ句の果ては寝腐ってるだけで金が入ってくんだろ。いいご身分だ」
いい加減無視できそうもないほどにはらわたが煮えくり返ってきた。(でもここで口を利いたら負けよ)と真琴は唇を縫い合わせる。
苛立ったような大きな溜息が聴こえた。と、腕を掴まれて壁に叩きつけられた。転瞬のうちに壁とリヴァイの狭間に真琴は置かれていた。距離の近さに戸惑うが、抗議したい口許を何とか一心に封じ込める。
「無視を決めこもうっていうのか」
吐息と一緒に低語が顔に吹きかかってきた。腹が立っているのに胸の高鳴りは著しくなっており、自分で自分が許せなくなる。
廊下を歩く患者たちの視線が痛かった。この状況は――恥ずかしいが男と女ならそれもありなのかもしれないが、いま真琴は男であってリヴァイも男なわけなので、何とも健全じゃないシチュエーションなわけだ。観念して口を開くしか選択肢はなさそうである。
「やめてください、変な目で見られてます。可怪しな噂が立っちゃいます」
「放っておけ。言わせたい奴には言わせておけばいいじゃねぇか、別段俺は構わない」
真琴は眼を丸くした。感情の分からない表情をリヴァイは変えないので、どういう意図があるのか判断に苦しむ。
僅かしかない隙間に両手を捩じ込み、固い胸許を押した。
「じょ、冗談やめてくださいっ。ボクは困りますっ」
顔中が熱い気がした。もしかすると首許まで赤くなっているかもしれなかった。昨日のことが許せないはずなのに、どうして鼓動が激しくなるのか。
顔を伏せ気味に眼を瞑って力いっぱい胸許を押し続ける。うんともすんとも言わなかった胸許の抵抗がふいになくなり、勢いあまった真琴は前のめりに踏鞴を踏んだ。
「くだらねぇ意地を張ってやがるから、からかってやっただけだ」
しれっと言ったリヴァイはとっとと歩いていく。
(この人ったらいつもながらなんていうか……もうイヤ)
真琴はヘソを曲げて苦い汁を呑んだ。許したわけではないが何だか毒気を抜かれてしまった。
鞄の中に入っている手紙を取り出し、前を歩くリヴァイの背中を見つめた。どちらにしろこれを渡すために口は利かなければならなかったのだから仕方ないとしよう。
「リヴァイ兵士長」
背にかかる声にリヴァイが立ち止まって振り返った。
「これなんですがエルヴィン団長に渡してもらっていいですか」
真琴が差し出す手紙に目線を落として、リヴァイが手を伸ばしてきた。
「手紙?」
「昨日のことについて弁明が書いてあります」
真琴に瞳を上げた彼はもう一度手紙に目線を落とし、封のされていない中身を指で引き抜き抜いた。
エルヴィン以外の人物に読まれても特段構わない。リヴァイも真琴を巨人かもしれないと疑う一人なのだから、むしろ読んでもらって首肯してもらわないと困る。
かさりと手紙の開く音。真琴は固唾を呑んで見守った。暫時のあとリヴァイが手紙を折り畳んで封筒に入れ直した。
「さっきの男の入れ知恵か」
「まさか。それに知恵ってほどのものでもありませんし」
視線を伏せたままのリヴァイが小さく息をついた。
「生意気なことを綴りやがって。まあエルヴィンも納得せざるを得ないだろうな」
そう言ってくれ、絶対的な安心感を感じた真琴はほっと息をついた。が、次に彼がちらりと投げてきた視線は冷たいものだった。
「だが巨人疑惑がなくなったとしても、お前への疑いがすべて晴れたわけじゃない」
真琴は目を見開いた。巨人以外にエルヴィンが何を疑うというのだろう。リヴァイが怪しんでいるのなら分かるけれど。それとも彼の知っていることはエルヴィンに筒抜けになっているのだろうか。
「お前には秘密が多すぎる。口を割らす拷問なんざありふれてるが、人類に仇なす存在じゃないと今回は証明されたわけだからな。先延ばしになってよかったじゃねぇか」
抑揚のない声が消えかけた恨みを呼び起こした。前歯で唇を噛む。
「今日タイミングよくボクのところへ来たのは――監視ですか」
「たまたまだ」
リヴァイが歩き出す。
「病室でエルヴィンが待ってる。直接手紙を渡せ」
一兵士のために兵団のトップが連続で見舞いに来るとは思えない。よほど真琴は警戒されているのかもしれない。ふつふつと血潮が沸騰していくのをただ感じていた。
病室でエルヴィンは手紙を手に黙々と目を通していた。真琴は対面し、ただじっと見つめて読み終わるのを待っている。
考えた弁明はこうだ。
『超大型巨人と鎧の巨人が本当に人間だとしたら、おそらく二人は仲間なのでしょう。人類を滅亡に導くようなことをしておきながら、ボクが人類側に立って破壊された穴を塞ぐことに命がけで協力をしたとして、ボクはあなた方が敵だという人間に信用されるでしょうか。賢明なエルヴィン団長ならばお分かりいただけると思います。ボクが王に忠誠を誓い、心臓を捧げた兵士であるか否かは、ボクの闘いぶりを見た者が証明してくれるはずです。協力的だったか非協力的だったかは、現場でともに命をかけて闘った兵士に調書を取ってもらえれば、一目瞭然かと思います』
ようやく手紙から目線を外し、エルヴィンが腕を下げた。ふっと薄く笑う。
「なるほど、その通りだ」
緊張していた息をすべて吐き出して、真琴は胸を撫で下ろした。
要するに、自分を疑うような行動をあなたにすれば、あなたは私を信用するかと尋ねたのだった。
ここで信用できないなどとエルヴィンが言った日には、彼は賢明でないことを認め、さらには真琴が心臓を捧げた王に対しても侮辱したことなる。だからエルヴィンは否定的な回答はできないということになるのだ。
手紙を封筒にしまい、エルヴィンがジャケットの内ポケットに入れた。
「我々の留守のあいだによくぞ闘ってくれた。調査兵団の面目も保たれる。私は君を誇りに思うよ」
(本心かしら)疑いの眼差しを隠せなかった。
今度は肩を揺らしてエルヴィンが柔らかく笑う。
「心からそう思っている」
読まれたと思って真琴は口をまごつかせた。推理が堂々巡りのまま海底に沈んでいってしまったというふうな嘆息を、エルヴィンがついた。踵を返して病室を出ていった。
後ろを振り返る。ベッドに腰を降ろして脚を組んでいるリヴァイがいた。目許に翳りがあって疲れている雰囲気があるが、気を使うのは癪だった。
「帰らないんですか」
真琴に光の弱い視線を投げてから、リヴァイは組んだ脚を解いた。膝に肘を突いて額を覆い、大きな溜息をつく。
「トロスト区は悲惨なものだ」
「え?」
巨人の掃討は終わったと聞いたが、一体なにが悲惨なのだろう。
「何百人って数の遺体の把握作業がなかなか収集つかなくてな。もう四日目だろ、現場は酷い悪臭で満ちてる」
真琴は息を呑んだ。彼は悄然とした溜息を混ぜて喋り続けた。
「ふざけてやがる。食ったってクソにもならねぇのに、腹一杯人間を食いためた挙げ句、すべて吐き出しやがった跡が――汚ねぇ体液にごちゃまぜの人間の一部が塊になって、あちこちにゴミのように捨ててあった」
絞り出すように言いながらリヴァイは目許を押さえた。片手で作った拳は血色が逃げており白く、折り曲げた指の皺は深い。
「連日遺体の焼く煙が――人間を焼く臭いが鼻にこびりついていまでも臭う気さえする。気が狂いそうだ」
珍しかった。あからさまではないにしろ、リヴァイは真琴に弱音を吐いている。おそらくいままでずっと、やはり彼は一人で堪えてきたのだろうと思った。
この人が泣くわけないと分かっていても、心はきっと悲鳴を上げて泣いているに違いない。いてもたってもいられず、リヴァイのそばにいって肩をそっと触れた。
「疲れてるんですよ。少し休んでいったらどうですか。ベッドを使ってください」
リヴァイが拳で膝を叩いた。
「俺がいれば――俺がいればこんなことは許さなかった。肝心なときになぜいつも! クソ!」
「自分を責めないでください。だからボクは――」
だから真琴は震える脚に鞭を打った。いますぐ逃げ去りたかったが、弱い心を何とか奥へ押し止めて戦場に立ったのだ。彼が後悔して自分を苛まないように、彼の代わりに戦場に立ったのだ
膝にあるリヴァイの拳が細かに震えている。ちらと血が見えたからその場に膝を突いた。両手で包んで、固く握っている拳を開いてやる。彼の血は不思議と怖くなかった。
「爪……立てちゃ駄目ですよ。自分を傷つけちゃ駄目ですよ。誰も悪くないんです、仕方ないことだったんです」
開いたリヴァイの手が真琴の手を強く握ってきた。だから真琴も握り返して、反対の手でやんわりと包み込んであげた。
息を吐きながらリヴァイが頭を緩徐に振った。
「俺らしくもない。これまでも惨たらしい現実を目にしてきたって、他人に隙など見せたことはねぇのに」
「リヴァイ兵士長は強靭な方です。部下思いで人情があって。――でも人間は長所だけでできていません。自分らしさの中には短所だってあるんです」
リヴァイは返答もしないし頷きもしなかった。
「心の声を誰かに吐き出したいと、聴いてほしいと、抑圧された感情の下に隠れていたのかもしれませんよ」切なく微笑みかけた。「ボクなんかに零してしまって悔しいでしょうから、弱音は胸の中に鍵を掛けてしまっておきます」
リヴァイが目許を覆っていた手を降ろした。真琴を見下ろす彼の表情は影が濃いが、つらそうな顔でもなくていつもの無表情だった。
「お前のほうが悲惨なものを目の当たりにしたんだったな。つらかったろ」
ぽんと優しく頭に乗せてきたリヴァイの手は、無表情な顔とは正反対にひどく暖かかった。だから、作戦の最中に目の前でどんどん失っていく命に対しての、我慢していた涙がいっぱい溢れてきてしまった。
彼と同じように真琴も我慢していたのだ。悲しみに呑まれてしまっては絶望しか見えなくなってしまうから必死に堪えていたのだ。いい加減もういいだろうか、憂愁を解放させてあげていいだろうか。
「――っああああ」
堰を切ったように真琴は泣いた。子供みたいに顔をくしゃくしゃにして声を上げて泣いた。
リヴァイの手が頬に滑っていって、優しく涙を拭ってくれる。あとからあとから涙が溢れてくるけれど、それでも辛抱強く真琴の涙を拭い続けてくれた。
温もりが伝わる乾燥気味の指から、思い出させたものがあった。昨日意識を失う直前に目にしたリヴァイの悲痛な表情である。
なんて馬鹿な――馬鹿な思考が働いてしまったのだろうと、あの顔がちらつくたびに胸がひどく痛んだ。一時でも、一度でも、一瞬でも、死んでもいいなどと思ったことを深く悔やんだ。
恐ろしい悪魔の誘惑であった。すべて捨てて楽になりたいと、逃げた余波の果てにある思考だった。死んでもとの居場所へ帰れる保証がどこにあるというのか。ないではないか。
真琴の命を惜しんでくれる人間が一人でもいることに気づいてしまったら、心底命が惜しいと思えた。生きていてよかった。生きることを諦めてはいけなかったのだと思い知らされた。
しゃくり声でリヴァイに全部吐露した。支離滅裂だが彼の前でしか真琴は泣けないし身内を曝け出せないのだ。
溜め込んでおくのは身を千切られそうなほどしんどかった。おそらく彼ももう何年もしんどいのだろうと思えば、ようやく同じものを見ている気さえした。そんな人に聞かせてしまうのは、重りを増やしてしまうだけで酷いことなのだろうけれど。
「ごめんなさい、死んでもいいだなんて言って」
「ああ」
「本当は怖かった。逃げたかった。死ぬの怖かった」
「ああ」
「たくさん仲間が、し、死んだ。目の前でいっぱい死んだ。だけど何もできなくて――っああ」
喉が詰まった。
「悔しいっ、悔しくてたまらないっ。ごめんなさいっ、あなたの代わりにはなれなかったっ」
「……ああ」
眉間を指先で押さえたリヴァイの深い溜息が聴こえてきた。真琴の胸を打つような重さがあった。
「なぜだろうな。お前が頑張ったのはよく分かってる。それなのに俺は褒めてやれない。エルヴィンのように褒めてはやれない」
いいのだとただ頭を振った。褒められたいから戦場に立ったわけではないのだから。
彼は真琴を戦場に出したくはなかったのだ。それでもリヴァイのためにと立ち向かったのは結局はただの驕りであり、彼を苦しめることになってしまったのだった。
いまさら――いまさら気づいたって遅いのだけれど。
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mokuji
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