11.秋の冷え冷えとした空気が

 秋の冷え冷えとした空気が気持ちいい朝。
 目が覚めてすぐさま回診で体温や触診をされ、美味しいとは言えない病院食を何とか腹に収めたころだった。
 戸をノックする音に「どうぞ」と真琴が声をかけてから入ってきたのは、エルヴィンとリヴァイ、そして憲兵団の紋章を付けた中年の男だった。

 重々しい気配を連れてきた三人に気後れした真琴は、ベッドから起き上がれず、そばの椅子へ男が腰掛けるのを眼で追うしかできなかった。
 情のない両眼で見てくる男は口髭を薄く生やしていた。どこかで見たことがある、どこでだろうか。
 ベッドの足許のほうで立つエルヴィンが、男に向かって手を差し出した。口を開く。

「彼は――」
 遮るように男が手で制した。
「憲兵団師団長、ナイル・ドークだ」

 あ、と口を開いた真琴の声は出なかった。
 憲兵団本部へ侵入したとき、会議室へ入っていくこの男を見かけたのを思い出した。しかも師団長だったということは、あのときフュルストが物色した部屋は男の執務室だったということだ。
 露見していないとはいえ、体裁が悪くてベッドの中でシーツを強く握った。
 ナイルは言う。

「調書を取りにきた」
「調書?」
 真琴はオウム返しをした。
「だらしなく寝そべりながら聞き取りを受けるのか」
 睨まれたのでまごつかせながらも起き上がろうとした。が、それよりも早くエルヴィンが冷たく言った。
「起きなさい」

 厳しい物言いが反抗心を掻き立ててきた。胸の内にどうしてか不審感が募っていく。
 不満な表情を何とか隠した真琴は半身を起こした。起き上がるときに胸部が痛んだ。
「調書とは何に対してのですか?」

 憲兵団の仕事には全兵団の監視監督のほかに、政治犯や重要犯罪人の逮捕も含まれる。後者に関してはありすぎるくらいの罪に、早朝の空気と同じくらいの冷や汗を掻いていた。
 ナイルは答えず、黒の手提げ鞄から書類を取り出し始めた。聞き取り調査だというのだから、紙とペンがなければ始まらないのだろう。

 真琴は上目遣いでほかの二人を観察した。エルヴィンは位置を移動せずに直立不動している。リヴァイは壁に凭れて腕を組んでおり、こちらを向いていない。
 聞き取りの準備ができたらしい。カルテで使っていたような板に一枚の紙を乗せて、ナイルが片手に羽根ペンを持った。真琴に濁る瞳を向けてきた。

「名は真琴・デッセル。調査兵団所属で間違いないな」
「……はい」
「エレン・イェーガーとともにトロスト区奪還作戦に参加した。相違ないな」
「……はい。えっと」
 口を開いた真琴をナイルは眼力だけで黙らせてきた。質問されたこと以外は喋るなということだろう。

「エレン・イェーガーが巨人化するところも見たのだろう。見たことについてすべて述べろ」
「エレンに関しての調書なんですか……?」
 言いながら部屋を見渡した。反応したのはナイルだけで彼は浅く頷いた。
「包み隠さず、君が見たことをすべて述べろ」

(ヴァールハイトのことじゃなかったんだわ、よかった)
 些か緊張が解けて、こっそり息をついた。調書とはエレンのことに関してだった。――が、
(……なにほっとしてるのよ、ひとでなし!)
 ちょっとでも安堵した己を罵倒する。こういう状況のときに逃げに回る傾向の自分が情けない。心の汚さを真琴は嫌というほど思い知らされるのだ。

 しかしエレンの調書を取る必要がなぜあるのだろうか。言葉の意味合いは裁判所や捜査機関が事件の内容を公証するための文書であり、よいイメージがない。
 口籠っているとエルヴィンが口を開いた。
「隠さずにすべて話しなさい」

(まただわ)
 また胸の内で反抗心が芽生える。どうしてだろう。碧眼が冬の海のように極まって蒼く見えるからだろうか。
 機嫌悪そうにナイルが爪先を鳴らした。観念して真琴は言葉を落としていった。

「最初はトロスト区の防衛戦のときでした。巨人によってエレンが飲み込まれるのを目にしました。そのあとで飲み込んだ巨人が破裂して、中からエレンと思われる巨人が現れたんです」
「それは新証言だ」
 関心したようにナイルが微かに眼を見開いた。羽根ペンを忙しく動かす。
「そのときエレン・イェーガーはどのような様子だった」
「巨人へ敵意を剥き出しにしていました。向かってくる巨人を彼は倒していって、人間には見向きもしませんでした。途中で彼の幼なじみであるミカサを危機から救いました」

 エレンに対してなるだけ好印象を持ってもらうため、プラスになることはしっかり伝えておいたほうがいいと思った。ナイルの瞳を見ていると悪い予感しかしないのだ。エレンを毛嫌いしていたリコの眼に似ているからだろう。
 風を切るような音をさせて、ペン先を操るナイルが瞳を上げた。

「ミカサ・アッカーマンの証言と一致するな」
「それから彼は、ガスの補給のために本部内で取り残された訓練兵たちを脱出させる手段にも、一役買ってくれました。周囲の巨人を倒してくれなかったなら訓練兵たちは」重く語る。「――全滅していました」
 が、ナイルは表情を変えずにペンを走らせる。
「ほかの訓練兵の証言と一致、と」

 よそ事のように言うから真琴は腹が立った。うっかり唇を噛んでしまい、まだ塞がっていない傷がピリッと痛んだ。代わりにシーツを握る。
 首を傾けたナイルが濁った瞳を寄越してくる。続きを話せということらしい。

「そのあとはトロスト区奪還作戦で精鋭班に加わり、エレンとともに闘いました」
「そのとき巨人化したエレン・イェーガーは人間に対して攻撃であったという証言がある。これに対して?」
 少し息を呑んでから真琴は答える。印象が悪い証言だとは分かっているので、口が重くて堪らなかったけれど。
「確かにそんな様子でしたが、でも」
「ミカサ・アッカーマンを攻撃しようとしたらしいな。これに対して?」
 ナイルは遮って、真琴は唇を噛みたい気分だった。

「確かに、――でも」
「で、自分の顔を殴りつけてエレン・イェーガーは意識を失った」
「はい、――でも!!」
 二度も遮られて苛々した真琴は邪魔されないように声を荒らげた。肋骨に鋭い痛みが走る。
「エレンはそのあと自我を取り戻しました! 作戦通りに、自分の顔より何十倍もある重い巨岩を、必死に運んでくれました!」

 痛む胸部のせいで自然と身体は前のめりになっていく。それでも胸を押さえてベッドに沈みまないように堪える真琴は、ナイルの瞳から眼を逸らさなかった。
「穴の開いた正門を塞いでくれました! トロスト区を守ってくれました!」
 関心がないようで、ナイルは目線を落として書類を鞄にしまい出す。
「だいたい同じ証言だな、ほかの兵士と」
 鞄を持って立ち上がり、真琴には目もくれずにエルヴィンと向かい合った。
「もう用はない。俺は失礼する」

 俯いていた真琴の耳に入ったのは戸の閉まる音だけだった。
 えも言われぬ悔しさが胸に広がってゆく。あのような感情のない男を相手に、エレンは一体どうなってしまうのだろうかと不安でいっぱいだった。

 ナイルが去ったあとも立ち位置を変えないエルヴィンを見上げてみた。いつもより十倍増しの冷然たる表情が、真琴をもっと不安にさせた。

「私も君に訊きたいことがある」
 警戒してエルヴィンを見返す。
「なんでしょうか……」
「壁が破壊されたとき、君はどこにいた」
 どうしてそんなことを訊くのだろう。疑問に思った真琴は瞳を揺らした。
「兵舎の自室にいましたが」
「それを証言できる者はいるか」

 真琴の唇が戸惑う。どうしてそんな証言がいるのか。
「どういう意図があって訊くのですか……?」
「質問に答えなさい」
 エルヴィンが冷淡に言った。伏せた視線を真琴は彷徨わせる。

「衝撃音のあとに、前回の遠征で負傷した兵士が部屋へ訪ねてきました。ボクをトロスト区へ行くように指示をしたのもその人でした」
「その兵士の名は」

「名前……?」呟きながら、体温が下がっていくのを感じていた。名前など知らないが答えられなくては不味いような気がした。エルヴィンの纏う空気が怖いのだ。
 一昨日の映像を巻き戻すように、真琴は必死に記憶から引っ張り出そうとしていた。あの場面で静止して、兵士の胸許にある羽根の紋章を拡大する。小さな文字で――

「グレゴール・バウマン」
「彼ならトロスト区で死んだ」

 ようやっと絞り出した答えにエルヴィンは衝撃の一言をくれた。縒れたシーツが作る影を見降ろす真琴は、眼を見開いている。
「だって彼はっ、脚を骨折していてっ」
「ああ。だがトロスト区で遺体が見つかった。防衛戦か奪還戦に参戦したんだろう。だが彼の行動を証言できる者はいない」
「そんなっ。ボクを行くように言ったのになんで……」
「死人に口なしだな」

 は!? と頓狂な声を上げそうになった真琴は弾かれたように顔を上げた。エルヴィンは冷然なままだ。
「どういう意味ですか」
「言葉の通りだ。グレゴールを見た者がいないということは、君はいくらでも話を作れるということだ」
 呼吸が乱れていくのを感じる。半身を支えるのが困難なほどに脱力感も伴う。
「何をおっしゃりたいんですか。あの瞬間にどこにいたのか、何を知りたくて訊くんですか」

「エレン・イェーガーは――と言ってもまだ面会できていないんだが。彼は巨人化することができるらしいな」
 ひどく目眩がしてきた。
「そして自我があるらしい。巨人を倒すという目的と、岩を運ぶという目的を果たした」
 辛辣な瞳で真琴を見る。
「この眼で見たわけではないが、超大型巨人と鎧の巨人も、人間を襲うというよりも扉を破壊することを目的としていたように思う」

 だからなんなのか。片腕で突っ張って半身を起こしているだけで、真琴はもう精一杯だった。腕に力が入らず震え続けている。
「エレンの存在は、超大型巨人と鎧の巨人も実は人間である――という可能性が私の中で浮上している」
「それが……ボクへの質問と何の繋がりがあるっていうんですか」
 エルヴィンが無情の眼差しを差し向けてきた。

「壁が破壊されたとき君がどこにいたのか。――まさしく破壊された壁の所にいたのではないか」
「――は?」

(ちょっと待って、ちょっと待ってよ)
 落ち着いて整理するのだ、エルヴィンが言ったことを。ヘソで茶が沸きそうだけれど、その言の葉が意味するものはおそらくこうだ。

「壁を破壊したのはボクだと、そうおっしゃりたいんですか」
 馬鹿馬鹿しいほど滑稽な見当違いに笑いすらでなかった。
「間違いだと主張したいのなら生きている証人を上げなさい」
「そんなっ、なんでボクが――」
 両手で握りしめているシーツに真琴はさらに爪を立てた。やり場のない怒りが身内を支配していく。
「ボクが! 巨人だなんて! そんなことあるわけないじゃないですか!」

「君が違うと主張しても、それを立証できる人物がいなければ意味はない」
「なんでそんなひどいことが言えるんですか! 人を殺すような! 嗤って殺すような! そんな生き物と重ねるなんて!」

 ヒステリックな声を上げて、ひたすら頭を振った。胸部も悲鳴を上げていたが怒りを我慢することはできなかった。
 情けの顔も見せずにエルヴィンはリヴァイに向き直る。
「錯乱しているようだ。肋骨の怪我がひどくなる。俺は医者を連れてくるよ」
 そう言ってエルヴィンだけが部屋をあとにした。

 煽った張本人がいなくなり、少しだけ冷静さを取り戻せた真琴は、リヴァイに助けを求める眼差しを向けた。
「あなたもそう思ってるんですか。ボクが、ボクが、……街を破壊する巨人かもしれないって。――思ってないですよね?」
 組んでいた腕を解いて正面に向き直ったリヴァイが、色のない瞳で口にした。
「壁が破壊されたときにお前がどこにいたのか、それを証明できる人間はいないのか」

 目眩がことさら酷くなったようで脳が揺れる感覚がした。視界が霞んで、力が抜けて、吐き気を誘ってくる。花がしおれたような声で訴えた。

「証明なんて、そんなのなくたって分かりきったことじゃないですか。ボクは人間です、それ以外の何者でもない」
「水掛け論だ。お前だけが違うと主張しても、エルヴィンはそんなの鵜呑みにしない」
 冷静な声でリヴァイは言うから、真琴は伏せていた顔を上げた。歪んだ顔で叫ぶ。
「そんなこと訊いてるんじゃない! あなたはどう思ってるのかって訊いているの!」
 口を閉ざしたままでリヴァイは真琴をただ見返してくる。

 もうわけが分からないくらい頭の中は混濁していた。泣きたいほど悔しいと瞬きをしたとき、暖かい涙が頬を伝ってぽたぽたとシーツに染みを作った。
 どうして冷酷無残でいられるのか理解できなかった。真琴がどんな思いで戦場に立っていたか、そんなことも露知らずに非道なことを考えられるなんて、どういう神経を持ち合わせているのだろうと思っていた。
 半身を捻って後ろ手に枕を鷲掴んだ。捻った瞬間胸部に痛みが走ったが、構わずリヴァイに向かって投げる。

「出てって! 血の通ってない人間と同じ空気なんて吸いたくない!」
 飛んでいった枕は顔面を庇ったリヴァイの腕に当たった。
「物に当たったって何の解決にもなりゃしない! 証明できそうな心当てはねぇのかと訊いてるんだ!」

「死ぬかもしれない戦場で必死に戦ったんですよ! それが証明じゃないですか! なんで分かってくれないんですか!」
 濡れた顔をぐしゃぐしゃにして甲高い声で喚き散らす。
「怖くて逃げたかったけど必死に我慢したんです! なのになんで!」
 叫びながら身の回りにある物を掴んでリヴァイへと投げつけていった。
 人に当たったらどうなるかなどまともな思考もなく、重いガラス製の水差しも投げた。あとからつんざくような響きが聴こえてきた。

 投げた枕の布が裂けたのか、飛び出した羽根が狭い空間にふわりと舞っていた。天使のような純白な羽根は、いまや悪魔の黒い羽根にしか見えない。
 様様な音が部屋の中で満たされ、跳ね返ってくる雑音が耳に痛かった。物が散らばるせいだけではなく、真琴の発する大声のせいでもあった。

 降ってくる障害物を、リヴァイは腕を上げて払いのけながら近づいてくる。
「やめろ! 暴れるな、怪我にさわるだろう!」
「知らない街で! 思い入れなんて全然ない! 縁もゆかりもない! そんな国で死にそうになったなんて馬鹿みたい!」

 喉をいっぱいに開いて悲鳴に似た声で叫ぶ。裂けたような痛みが唇と咽喉を襲った。さっきから胸部はずっと痛いが、外側の痛みなのか内側の痛みなのか分からなかった。とにかく引き裂かれたかのように胸の奥が悲鳴を上げていたのだ。

「落ち着け!」
 平静さを失った真琴をリヴァイがベッドに縫い止めてきた。離せと頭を大きく振り、真琴は脚をばたつかせて足掻く。
「あなたが! あなたのためにって! あなたを想って! ぁぁあああぁ――っ!!」
 泣き叫ぶ真琴を押さえつけながらリヴァイが困惑の眉を寄せた。心の動揺を示す声で弱く独言する。
「俺のためとはなんだ」
 そのあとで、苦しそうに両目をぎゅっと瞑ったリヴァイは歯ぎしりしているようだった。少しして、真琴を血走った三白眼で睨み据えてきた。
「俺のためとはなんだ! 俺がいつ頼んだ! お前に! 巨人と闘えなどと、いつ頼んだ! 余計なことをするな!」

 真琴はしゃくりながら言葉にならない悲鳴を上げ続けている。
 両肩をリヴァイが痛いほどに締めつけてきた。脱臼した右肩に鈍い痛みが再来する。
「勝手に死にそうになりやがって! 俺のいないところでお前は死ぬつもりだったのかよ!」
 感情的な声と合わせて、掴まれた両肩が沈み込むほど強くベッドに押しつけられる。

「死んでもいいと思っただと!? ふざけるな、クソがっ!!」
「自分の命を、あなたにとやかく言われる筋合いはない! どこで死のうが関係ないじゃない!」
「関係なくなはい! 俺がどんな思いでお前を――」肝に溜まったものが、これ以上行く先がないというふうに喉を詰まらせる。「クソ!!」
「離して! 触るな! 嫌い! あなたなんか嫌い――っ!!」

 ありったけの力を込めて足で蹴りたいのに、両脚をがっちりと固定されていた。押さえつける手から逃れようとしても一ミリだってズレやしない。
 慌てた様子で駆けてくる足音が、廊下から聞こえてきた。間をおかずに戸が開く。

「患者さんを興奮させないで下さい! この方は骨にヒビが入っているんですよ!」
 女の非難する声がすぐ近くで聞こえた。
 真琴は暴れるのをやめない。動く左手でリヴァイの右腕を指先で引っ掻いた。
 リヴァイが機嫌の悪い声を荒らげる。
「だから押さえつけてんだろうが!! 早く医者を呼んでこい!!」

 気圧された女が顔を強張らせて戻ろうとしたとき、エルヴィンが医師を連れて戻ってきた。
 医師が憤慨して言う。
「何をしているんだ、あなたたちは! わたしの患者をこんなに興奮させて!」
「早くコイツを落ち着かせろ!! クソ医者!!」

「そんなことは言われるまでもない! まったく、野蛮過ぎる!」
 目尻を吊り上げている医師がベッドの傍らに立った。用意してきた注射器の空気を抜いてから、リヴァイが押さえつける真琴の腕に刺す。

 針を刺す瞬間的な痛みと一緒に、強制的な睡魔が真琴を暗闇へ連れていこうとする。興奮した鼓動がゆったりと脈を打ちはじめると、両肩の圧迫感が離れていった。
 重しが乗った瞼を何度もしばたたく。遠のいていく意識の中で最後に眼に映ったものは、リヴァイの悲痛に歪んだ顔であった。


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