08.そんな折りだった

 そんな折りだった。真琴の背後に太い声がぶつかる。
「お前!」
 ん? と思って振り返った。赤ら顔のペトラの父親が、両眉を吊り上げて真琴を睨んでいた。片手には麦酒を持っている。
 急ぎ足で駆けてくると、男は真琴とトニを交互に見てきた。いきなり立腹する。

「子供がいるくせに、うちの娘にちょっかいだしてたのか!」
 ちょっと待ってほしい、と真琴は項垂れそうになった。ついでに声を張り上げないでもらいたい、トニが起きてしまうではないか。
「すべて誤解です。それとお父さん、声を」
 声を抑えてください、と言おうとした真琴の口は、男によって遮られる。またも失言だった。
「俺は、お前の、お父さんじゃ、ない!」
 ん〜、とトニが眉根を寄せて肩に顔をすりつけてきた。けれど眠りは深いようで起きる気配ではない。
 困った。ペトラの母親はいないものかと首を回していたら、リヴァイが真琴に耳打ちする。

「誰だ」
「ペトラのお父さんです……」
 口許に手を添えて、真琴も囁き返したときだった。男の後ろからペトラの母親が駆けてきたから、胸を撫で下ろす。
 女は男の背中をどんと叩いた。
「んもぉ! ふらふらとひとりで行っちゃうんだから」
 そして真琴とリヴァイに気づいて困った顔で笑う。
「やだわ、この人ったら。もう、すっかり出来上がっちゃってるのよ」
 言ってるそばから男は麦酒を胃へ流しこんでいた。赤ん坊が収まっていそうな腹は、酒のせいだということは言うまでもなかった。

 女が好奇心の眼つきを真琴に向ける。
「お子さんがいらっしゃったの?」
「違います。同僚の弟さんで、預かっているだけなんです」
 苦笑すると、女は納得したように笑った。
「そうよね。だってまだ若いものね」
 男が真琴の傍らにいるリヴァイに眼を凝らしている。酔いが回っているのか、焦点が合わないのかもしれない。
「ん〜、あんたは……」

 肩に引っ掛けていたゴミ袋を置いて、リヴァイはペトラの両親を見据えた。
「挨拶が遅くなって申し訳ない。調査兵団所属、第二班主任のリヴァイだ。ペトラのおかげで毎回任務が滞りなく進み、いつも助かっている」
「まっ。好感触」
 いつか聞いた独り言を女が眼を丸くしながらこぼした。そして真琴も傍らで眼を丸くしている。
 ――ちゃんと挨拶できるんだ……。
 敬礼などはなく、ただまっすぐに立っているだけで愛想の欠片もない。だがその姿はしゃんとしていて、おおいに意外だった。「いつも助かっている」と言った無感情な声に込められた思いは、計り知れないのかもしれない。

「父さんっ」
 女は小声で、意表をつかれた男の横腹を突く。挨拶しろ、と促しているのだろう。
 飴玉でも転がしているのだろうか、唇を一文字にそんな動きをしていた男の口許が、無理な笑顔に変わる。娘の将来を思って、上官に胡麻をすることを決めたようだ。
「いつも娘がお世話になっておりやす! ご面倒おかけしてないですかねぇ」
「いや、優秀すぎるくらいだ。非番にもかかわらず用事を頼まれてくれたりと、本当に助かっている」
「……大事な娘を顎で使ってくれやがって、いやホント、役に立っているのなら親として光栄ですわ」
 揉み手をしながら男は笑顔を引き攣らせる。リヴァイは判然としない色を浮かべて首をかしげた。
 上官といえども、ペトラの気に入る男はやっぱり気に食わないらしい。そんな父親の服の裾を、母親が苦笑しながら引っ張る。

「酔っぱらってるんですよ。気になさらないで下さいね」
 首をかしげたまま、やはり判然としない面持ちで、リヴァイが眼だけで頷いたように見えた。女はリヴァイと世間話を始める。

 その傍らでチョイチョイと指を曲げて、男が真琴を呼びつけた。内緒話のように言う。
「おめぇ、ペトラにゃ男はいないと言ってたよな」
「言いましたけど……」
 鼻につく酒臭さに、眉を顰めて真琴は頷いた。男は蔑みの眼で見てくる。
「針千本、呑んでもらわにゃならん」
「なんでですか!? ――彼氏、いたんですか!?」
 不服と驚愕が入り交じった。だがしかしそんなはずはない。ペトラには好きな男がいるのだから。
「ボザドと言ったか、うちの娘と同期の息子がいる親と会ってな」
 ああ、と真琴は口許を引き攣らせた。何となく予想がつく。
「何か、言ってきました……?」
「言ってきたどころじゃねぇよ!」
 憤慨した様子で男が叫んだ。

 真琴は自分の口許に指を添えて、トニに視線を流してから彼を見る。男はすまなそうな顔をみせて続ける。
「なんかよぉ。うちの娘を嫁にほしいから、日取りを決めて挨拶にいかせてくれって言うんだよ。なんでもペトラもその気でいるとかなんとか」
「お父――、ラルさん、それはですね」
「そんな話、ひとっ言も聞いてねぇからよぉ。この前ペトラがうちに寄ったときも、結婚のことなんて顔にも出してなかったろ。まさかと思ったんだが、心に決めたヤツがいるとは。俺はショックで……」
 言って男は大袈裟に泣く――真似をして、腕で目許をこすってからチラリと真琴を射抜く。
「だから針千本だ」
 ぴしゃりと言われて一瞬、口内が針だらけになった。が、冷静になればやはり呑む必要はない。

「それはボザドさんが一方的に言っているだけで、本人同士はそういう関係じゃないですから大丈夫ですよ」
「なに!? じゃあなんだ。ボザドの息子がホラを吹いてんのか!」
「そう、なんです……。すみません。ご迷惑をおかけして」
 真琴は頭を下げた。どうして自分が謝らなければいけないのだろうと疑問に思ったが、きっと連帯責任なのだなと無理に納得させた。
 男は耳から蒸気が発しそうな勢いで憤慨する。
「不届き者だな! 今後一切おつきあいは遠慮させてもらおう!」
 身から出た錆だな、と思いながらも真琴はオルオを不憫に思った。

「おい」
 真琴の肩に無骨な手が掛かる。リヴァイがゴミ袋を肩に引っ掛けたところだった。
「俺は持ち場に戻る。ゴミ、しっかり拾ってこいよ。ノルマは三袋だ」
 そう言うと、ペトラの両親に愛想笑いをすることもなく去っていった。

 女がリヴァイの後ろ姿を、眼で追いながら呟く。
「あの方って、人類最強って言われている兵士長さんでしょう? 意外だったわ。私たちに挨拶してくださるなんて」
「ボクもそう思いましたけど、――命を、預かっていますからね、班員の。だからかな。責任感の強い方ですから」
 遠目でゴミを拾うリヴァイを見つめて。真琴は吐露した。
「重圧はすごいものでしょうね。周囲からも期待されてプレッシャーもあるだろうし」
「……あの両肩は想像もできないほど重いでしょうね。だけど、おくびにも出さない」
「強い方ねぇ。鉄の心臓だったりして」
 感心したように言って、女は笑った。

 肉体的にも精神的にも、リヴァイは人並み以上に強いのかもしれない。だけど人間は完璧じゃない。鉄の心臓を持っている者なんているはずがない。無理をすればどこかで歪(ひず)みが生じる。
 だからこそ支えてくれる人間が必要なのに、彼はいらないと言う。いらないと思うのは、ひとりで生きていける強さがあるからじゃない。失ったときに弱くなるかもしれない自分を、恐れているからなのだろう。

 強い陽射しを避けるように、真琴は本部に足を進めた。屋内は陽当たりがよくないのもあって涼しい。
 すっかり夢の中のトニを、ずっと抱っこしているのでそろそろ腕が辛くなってきた。どこかで落ち着ける場所はないものかと、二階への階段を登る。
 すると正面から夫婦らしきふたりが階段を降りてくるところに遭遇した。夫婦の男のほうは足が悪いようで、女が支えながらゆっくりと誘導している。階上には車椅子が置いてあった。
 真琴は駆け上がって夫婦に並んだ。

「お手伝いしましょうか」
 女のほうが瞳を上げる。
「お願いしていいかしら? 私だと手が余っちゃって」
「はい。――申し訳ないですけど、この子を抱っこしててもらっていいですか?」
「ええ。もちろんよ」
 そう言って柔らかく笑んだ女に、真琴はトニを預ける。次いで入れ替わるように男の傍らに立ち、腕を自分の首に回した。
「悪いね、兵士さん」
「いえ。仕事のうちですから」
 男に微笑んで、真琴は腕章のついている上腕を見せるように竦めた。
 階下まで男を送ってから、二段飛ばしでまた階上まで駆け上がり、見た目より重い車椅子を持ってまた階下へ降りた。
 足を庇うようにして車椅子に腰掛けた男を見守ると、女が頭を下げてきた。

「助かりました。ありがとう」
「いえ。階段を登るときも大変だったんじゃないですか?」
 真琴は言いながらトニを受け取って、女は微笑む。目許と口許に皺が目立った。――白髪が目立つし、六十代くらいだろうか。
「行きは息子が手伝ってくれましたから。でもお役目があるからと、しばらく前に外へ行ってしまったから本当に助かったわ」
 車椅子の取っ手を握る女の肩にはピンクのリボン。真琴に微笑む初老の男も、肩にリボンが垂れていた。ならば息子とはきっと調査兵団の誰かのことなのだろう。
 夫婦に向かって真琴は笑みを湛える。

「そこまで言っていただけると、通りかかった甲斐がありました。ここからは大きな段差もないので、おふたりでも大丈夫かと思います」
「ちょっとお尋ねしてもいいかしら?」
 女が窺うように首を傾けてきたので、真琴は眼だけで先を尋ねる仕草をした。
「音楽演奏の会場はどこなのかしら」
「はい。廊下の突き当たりを曲がって、まっすぐ行かれますと食堂があります。そこが本日の会場となっています」
 行き方を説明しながら、真琴は身振り手振りで廊下のほうに腕を伸ばした。
 女は廊下の壁掛け時計をちらと見やって、
「あと一時間ほどね。いまから行って、座って待っていられるかしら? 少し疲れてしまって」
「前日のうちに椅子を並べて用意してあるので、入られても構いませんよ」
 真琴が笑顔で頷くと、女は車椅子に乗る男の傍らに膝を突く。

「じゃあ、もう行って待ってましょうか。あなた」
「そうだな」
 白髪の口髭をさすりながら男が頷くのを見て、真琴は提案する。
「なら案内させてください。足腰の不自由な方に優先席もご用意していますし」
「悪いわね。じゃあ、お願いするわ」
 真琴の好意を素直に受け取って、女は優しい眼をして頷いた。
 トニを再び預けて、真琴は女の代わりに車椅子を押す。

「いろいろ見て回られましたか」
「ええ。さっきまで立体機動? の装置の展示場にいました」
 ゆっくりとした歩調で、並んで歩く女が頷いた。男が背後を仰ぎ見て苦く笑う。
「しかし母さん。あの眼鏡の兵士さんには参ったねぇ」
「なにかご迷惑をおかけしましたか?」
 眼鏡の兵士とはハンジのことだろう。彼女は立体機動装置の展示担当だから。そして聞くまでもないと思いつつも、真琴は控えめに伺った。
 口許に手を当てながら女が思い出し笑いをする。
「愉快な方だったわ。装置の説明を訊いているのに、話がすぐに脱線してしまって巨人のことばかり」
「おかげで詳しくなってしまったな」
 頷いて笑んだ男が続ける。
「彼女の話を聞いていると、巨人が恐ろしいなどと嘘のように聞こえてしまうが」

 そうだろう。ハンジの熱弁は本当に楽しそうに巨人のことを喋るので、ペットか何かと勘違いしてしまいそうになるのだ。でも。
 女は眼を伏せる。
「でも恐ろしい怪物なのでしょう。五年前の襲撃のときは、ウォールローゼの西のクロバル区にいたから、直接この眼で見たわけではないのだけれど」
「はい……」
「息子はあまり話してくれないのだけれど。でも襲撃のあと、クロバル区はシガンシナ区と同様に正門の壁が薄いからと、グンタがローゼ市内に新しく家を用意してくれて」
 しみじみと話す女のある一言に、真琴はきょとんとした。

「グンタ……? もしかしてシュルツさんでいらっしゃいますか?」
「名前も名乗らないでごめんなさい。グンタ・シュルツの母です」
 女は笑みを浮かべて、真琴は歩きながら頭だけで会釈した。
「グンタさんは、ボクの先輩なんです。同じ班で、いつも良くしてもらっています」
 どちらかと言うとグンタにはからかわれてばかりだが、本当のことを話す必要などない。立体機動の訓練にワンツーマンでつき合ってくれたりと、お世話してもらっているのは事実なのだし、感謝もしているのだから。
 トニを抱え直しながら女が僅かに眼を瞬かせる。
「あらまぁ、そうだったの。こちらこそ息子がお世話になっております。――このお子さんって、あなたの弟さん?」
「いえ、同僚の弟さんを預かっているだけです」
 そう、と女はトニに微笑みかける。

「グンタにもこんな幼い時期があったと思うと、時が経つのは早いわね」
「そうだな。わしらは結婚したのが遅くてな。グンタが産まれたのは、奇跡に近いもんだと産婆にも言われたな」
 男が感慨にふけりながら言うと女も頷いた。
「学び舎の参観日には、私たちがほかの保護者よりも老けているでしょう? だから恥ずかしいから来るなって、グンタが良く言ってたわね」
「懐かしいな。昔はわしのあとを継いで亜麻布織工職人になると、嬉しいことを言ってくれたものだが」
 しゃがれた声で笑う男に、真琴は訊き返す。
「職人さんでいらっしゃるんですか?」
「祖父の代から亜麻布織で商売をしていてな。わしが二代目でグンタには三代目をと思っていたんだが、あっさり鞍替えしおったな」
 半分寂しそうに男が笑った。女が案じて肩に手を添える。

「思うところがあったんでしょう。正義感の強い子だから、自分が何かしないといけないと使命感にかられたのよ」
「大丈夫だ。わしはもう二代目でのれんを下ろすと臍(ほぞ)を固めている」
 控えめに真琴は問う。
「グンタさんが調査兵団へ入ることになったとき、揉めたりされたんですか」
 いいえ、と穏やかに言って女は首を振る。
「あの子が調査兵団へ入ると打ち明けたとき、私たちは何も言わなかったわ、何も。ねぇ、あなた」
「覚悟を決めた男の眼だったからな。反対するどころか、わしらは誇らしかったよ」
 そして男は窓の景色を眺めて、強い眼差しに変える。ひとり肯いて独り言のように呟いた。
「臍を固めて送り出した」
 重い言葉だった。真琴は俯いて瞳を揺らした。

 この夫婦は覚悟を持ってグンタの調査兵団入りを、涙を呑む思いで賛成したのだろう。覚悟を決めた男の眼がどんなのものだったのか、その場にいなかった真琴には分からないが、反対できないほどに実直だったのかもしれない。
 やり場のない溜息をついて、真琴は無理に明るく笑う。

「グンタさんって、すごい強いんです! 巨人なんかあっという間に倒しちゃうくらい! ボクなんかいつも助けられてばかりで――」
 そのあとが続かなくて、真琴は胸を握りつぶされる感覚に唇を噛んだ。そんな真琴を見て、女が優しく眼をしならせる。
「ありがとう」
 いたわりの声音に、真琴はただ頭を振るしかできなかった。

 食堂へ着くと、すでにちらほらと人の頭があった。グンタの夫婦も言っていたように、休憩代わりに座っている者もいるのかもしれない。
 音楽演奏をする班の関係者は優先して席が設けてあって、一番良く鑑賞ができる最前列が指定席になっている。
 調査兵三百人前後を収容できる広さの食堂は、この日だけ長卓子は片付けられており、舞台となる空間を残して、綺麗に整列された木製の椅子が並べられていた。その数は三百の、ざっと倍はあるかもしれない。
 舞台には、昨夜のうちに備品室から運び出された楽器が置かれていて、歌い手の周りを囲むように配置されていた。

 最前列へ夫婦を誘導しにいくと、もう座っている家族の姿があった。オルオ夫妻だ。
 そろそろ演奏のために準備をしなくてはいけなかったから、都合がよかったと思い、真琴はオルオの母親に声をかける。
「お母さん」
「ああ! 真琴さん!」
「ボク、演奏の準備があるので。トニ君、お返しします」
 言ってそっとトニを女の膝に乗せる。すると彼女も抱きしめて自分の子供を覗き見た。
「よく寝ちゃって。ありがとうございました。おかげで色々と見学できたわ」
「どういたしまして。でもボクもトニ君と一緒で楽しかったです」
 静かに囁いてから真琴は軽く頭を下げる。
「ではボクはこれで」
「演奏、楽しみにしてるわ。うちの子がピアノでペトラさんが歌うんですってね。早く観たいわ」
 がくっ、とよろけそうになった。だがもう何も言うまいと、苦笑だけを浮かべて真琴は食堂をあとにした。

 一旦兵舎の自室に寄った真琴は、クローゼットを開いた。手に取ったハンガーには、漆黒のタキシードが掛かっている。
 この日のために、みんなで揃いのスーツを調達していたのだ。デザインもすべて同じもので、実はこっそりフェンデルにお願いして、人数分のタキシードを用意してもらったのだった。ペトラには数日前に臙脂(えんじ)色のロングドレスを渡してある。
 下ろしたての服に袖を通すと、極上の絹はさらさらと着心地がよかった。鏡の前で立ち、襟をぴんと伸ばして真琴はにこりと頷く。
「うん、なかなか決まってるじゃない」
 ベッドに置かれている楽譜を手に持つと、急くように部屋を出て備品室へ向かった。

 出番までの待機場所として使う備品室には、もうみんな集まっていた。着替えもすんでいて、各自で最終確認をしているようだ。
 窓際で椅子に腰掛けているペトラが、真琴に軽く手を振ってきた。臙脂のドレスを纏ったペトラはいつもは化粧けがないのだが、今日は口紅までしっかりメイクアップしていて妖艶だった。
「思った通り赤が良く似合う。素敵だよ、ペトラ」
「変じゃないかな? 初めてだから、こういうドレス着るの」
 それは着せられていないかという問いだったが、真琴は背後に回って変なところがないか確認する。案の内、背中の釦がひとつズレていたので指摘した。
「釦が一個ズレて留ってるね。直してあげる」
 そい言い、真琴は平然と背中の釦を外していく。ペトラが顔を紅くして抗弁してきた。
「ちょ、ちょっと真琴! 待って!」
「ん?」
 素早い手つきで、半分ほど釦を外してしまった真琴は首をかしげた。ペトラが胸許を必死で押さえているのを見て、ぽかんと口を開ける。
「――あ」
 そして周囲を見渡すと、誰もが唖然とした様子で真琴とペトラを静観していた。

 やってしまった。周りが見えていなかったし、自分が男だということも、頭から抜け落ちてしまっていたらしい。すっかり女同士気分でいた。
 慌てて真琴は謝る。
「ごめん! あ、あの……女の子呼ぶ?」
「もういいわよ、いまさら。――でも」
 と言ってペトラは周囲を気にしたから、真琴は班員に向かって手を払った。
 みんながひそひそと退出していくなかで、オルオだけが不服そうな恨めしそうな眼つきを真琴に投げてきた。たぶん嫉妬されたのだろうと思う。
 戸が閉まったのを確認して、真琴はもう一度謝ってから再度釦に手を掛ける。

「ホントにごめんね、つい……」
「つい、ってなぁに? 真琴ったら可笑しいんだから」
 怒りもせずペトラは笑って、溜息ひとつ。
「真琴ならいいわ、私。普通の男みたいな、いやらしさもないし」
「そんなこと言うと誤解されちゃうよ」
 特に意識せず言うと、ペトラが顔を向けてきた。
「いいわよ」
 瞳が合わさって、思わず手がとまる真琴に、ペトラが悪戯な眼つきをする。
「なーんてね。どきっとした?」
「――心臓に悪いから……」
 ぼそっと言い置いて真琴は再び釦を留め直していく。女を相手に胸が一瞬ときめいたのは、ペトラがそれだけ今日は妖艶だからに違いない。
 最後の釦を留めたとき戸を叩く音が聴こえた。

「もういいですよ、入っても」
 真琴が声をかけると、予想だにせず勢いよく戸が引かれる。女兵士が飛び込んできた。全力疾走してきたような顔だ。
「ペトラ! お父さんが倒れたって!」
 発せられた言葉とともに、椅子がひっくり返りそうな勢いでペトラが立ち上がった。
「え!?」
「医務室に運ばれたから、ペトラも早く!」
 女兵士に促されるペトラ。困惑顔で、真琴と戸の向こうにいる班員と兵士を交互に見やる。
「で、でも、もうすぐ出番で――」
 ペトラ、と真琴は真摯な面持ちで彼女の肩を叩いた。
「いって。お父さんのほうが大事」
 胸許でぎゅっと拳を作り、ペトラは唇を噛む。
「ごめん! すぐ戻るから!」
 絞るように声を上げて、ペトラはドレスの裾を持ち上げると急いで出ていった。あとを追うように女兵士も駆けていくと、得てして空間はしんとなった。

 真琴は戸棚にある古ぼけた置き時計を見つめた。
 ――十分前だった。
「どうするんだよ……」
 異様に静まってしまった空気の中で、オルオが言いづらそうに発した。
「もう、行かねぇと不味いよな」
「うん……」
 真琴は沈んだ面持ちで頷いた。自分の一部が消えてしまったような妙な気分を感じていた。
 淡々と全員を見回してから、リヴァイが入り口に向かって顎をしゃくった。
「とりあえず行くぞ。間に合うかもしれねぇしな」
 そう言って先導して出ていくと、みんなもリヴァイのあとに続いて会場へ向かったのだった。

 外から食堂の裏手に回って勝手口から入る。キッチンから舞台の向こうを見ると、用意した座席はほぼ満員で、会場は多少騒々しい。前列の指定席は二席だけがぽっかりと空いていた。
 リヴァイが真琴の背中に手を添えてきた。さっきから沈痛な気分の真琴に言う。
「クソを我慢してるのか。ならばさっさと出してこい」
「んなわけないじゃないですか」
 リヴァイなりの気づかいだとは分かっているが、思ったより冷たい声が出てしまった。だから真琴は身じろぎした。
「大丈夫だ、戻ってくる。少しぐらい遅れたって構やしねぇよ」
 黙って真琴は頷いた。

 けれど開演時間になってもペトラは戻ってこなかった。十分過ぎて、十五分を過ぎても。
 いつまでも訪れない演奏者に、会場で待っている市民がざわと騒ぎ出す。それを窺うように見守っていたエルドが、言いにくそうに口を開いた。
「……歌い手はいないが、伴奏だけでも格好はつくんじゃないか」
「そうだよな。……俺たちだけでやるか?」
 グンタが言いよどみつつも相槌を打った。
 リヴァイが決断を真琴に求めてくる。
「どうする。お前が決めろ」
「……決められない。班長が、決めてください……」
「手拍子の俺に決定権はない。ここまで頑張ってきたのはお前らだろ」
 俯いて真琴は拳を握った。
「毎日遅くまで練習してきて、みんな上手になってきて、早く本番で成果を披露したいなって、今日を楽しみに頑張ってきた」
「なら、いくか……?」
 湿りがちに言うオルオに、真琴は眼を瞑って頭を振ってみせた。

 瞼の奥に浮かび上がる情景は真っ暗闇だった。そのような中で、灯火がひとつずつ点いていくのはみんなの姿。順に照らされて明かりが六個になったとき、眼が痛いほどにそれは大きく輝いた。きっとひとつでも欠けたら、光り輝かないだろう。

「ごめん。ボク弾けない。ペトラがいないと、みんなが揃わないと駄目なんだ。だって意味がない。二班が全員一緒じゃないと演奏したって意味がない」
 リヴァイが真琴の肩を叩いた。労うような優しい手つきだった。
「だそうだ。ピアノ担当ができねぇって言ってんなら、俺たちだけで演奏したところで赤っ恥もんだな。合奏は中止だ。――お前らは戻って着替えろ。そして巡視だ」
 おずおずと出口へ向かい、勝手口付近で真琴は振り返った。リヴァイが舞台に出ていくところだった。きっと演奏を中止することを、説明するのだろうなと思った。

 それからは閉場の時間まで巡視を続けた。屋内、屋外、くまなく歩いたが、どこをどう歩いたのかなんて覚えていない。梅干しみたいに胸がしわしわで、心ここにあらずだった。
 短かった影が伸び始める。気がつけば閉場の時間が訪れて、西の空は夕焼けの色。続々と受付を通り正門を出ていく人々。あんなにわいわいしていた訓練場周りは、平時の姿を取り戻していた。

 腕章を外して、本部のほうへ重い足取りで向かう。
 入り口のところで、腰に片手を当てたリヴァイとあった。真琴を見てから本部内に顎をしゃくる。そのまま入っていくから、ついてこいという意味なのかもしれない。
 腐った気分でのろのろとリヴァイを追う。そんな真琴にリヴァイは咎めるような眼つきを寄越した。だが何も言わずに、どうしてか食堂のほうに導いていく。そして食堂に辿り着いて、真琴は眼を見開いた。
 まだ片付けられていない食堂には空席の椅子だらけ。でも最前列には二班の家族が揃って座っていた。それと舞台には班員もペトラもいる。

「どういう、ことですか……」
 入り口で呟いた真琴に、リヴァイが片眉を上げてみせた。
「ピアノがいねぇと始まんねぇだろ」
 舞台からペトラが手招きする。
「真琴!」
 放心しかけながら真琴は舞台へと足を進める。ペトラが真琴の手を取って眉を八の字に下げた。
「ごめんね。間に合わなくて」
 すると最前列に座るペトラの両親が立ち上がる。周囲を見渡してから、男が頭を掻きながら腰を折った。

「俺のせいで皆様には申し訳ないことをした! 本当にこの通りです!」
 深く腰を折って謝る父親に、ペトラの母親も申し訳なさそうに頭を下げる。
「この人ったら調子にのって飲み過ぎて、あげく倒れてしまって。そのせいで合奏直前の娘を呼びつけるようなことになって……。本当にご迷惑をおかけしました」
 平謝りをするペトラの両親。対してほかの家族たちは、笑みを湛えてただ首を振った。
 ちょっと呆気に取られた。なんだ、酔っぱらったからか――と。でも、と思ってぽつりと真琴は呟く。
「大事じゃなくて、よかった……」
「自分の父親ながら恥ずかしいわ……」
 傍らでペトラが項垂れた。
 真琴は見回しながら、
「でもなんで、みんないるの。もう閉場したのに」
「兵長がここへ来てくれるように頼んでくれたらしいの」
 瞳をしばたたく真琴に、ペトラが最上の笑みをみせた。
「いまからやるんだよ。音楽演奏」

 呆然とする真琴の腕を背後から引っ張る者がいた。そうしてピアノの前に立たせたのはリヴァイで、彼はただ顎だけをしゃくった。
 すとんと椅子に座ってみんなを見ると、エルドもグンタもオルオもにやっと笑みを見せていた。
 みんなが合図を待っている。ピアノが旋律を奏でるのを待っている。
 まだ少し頭がぼぅとしている状態で、鍵盤に両手を添える。傍らでは腕を組んでピアノに凭れているリヴァイが、爪先で床を叩いて拍子を取り始めた。

 リヴァイの拍に合わせて、真琴がピアノを弾き始める。エルドがリュートを爪弾く。グンタがシンバルを打ち鳴らす。オルオがトライアングルを鳴らす。ペトラが歌い出す。

 言い得て妙な一体感に心が震えた。いつかの合唱が蘇ってくるようだ。あのときの連帯感と万感胸に迫る思いは、真琴が頑なに拒んできた仲間がくれるものだった。
 大事なものは、自分をこの世に引き止めるものだからと、帰るための障害にしかならないからと、ひたすら関わらずにここまでやってきた。それが無意味なものだったとやっと気づいた真琴は、自嘲の笑みが零れそうになった。本当は喉から手が出るほど、真琴も仲間の輪に入りたかったのだから。

 見渡せば誰もがとびきりの笑顔だった。
 観客は少ない。何百席もあるのにたった十人しかいない。
 しかしながら、大勢の人に見てもらいたいから今日まで頑張ってきたわけじゃない。大事な人に見てもらいたいがために頑張ってきたのだから。ここにいる十人はみんなからしたら、満席よりも価値のある観客に違いない。
 賞は取れないだろう。急に中止になった音楽演奏へ票を入れる者などいないはずだ。でも賞などもらえなくたっていいのだ。
 みんなで成し遂げた、それこそこ意味のあるものなのだから。


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