10.深海の底でよどむ泥と
深海の底でよどむ泥と一緒に真琴はたゆたう。太陽の光が届かない暗黒だというのに暖かいのは、海底火山の影響で水温が上昇しているせいだろうか。
時の流れに逆らわず、自然にまかせるままに気持ちよく漂う。
ふいに沈殿物が舞い上がった。途端に視界が悪くなる。
誰?
眠りを邪魔するのは誰?
天に向かって手を伸ばすと、どうしてか眩しかった。
真琴はゆっくりと瞼を開けた。天に掲げている自分の左腕が視野に入る。温もりを感じる手のひらに、合わさる節くれ立った手が見えた。
立ちこめる懐かしい薬品の匂いに、もといた場所へ帰ってきたのだと思ったが、期待した喜びは束の間だった。消毒液の匂いに現代の病院かと思ったのだけれど。
天井は古い板張りだった。個室のようだが見覚えがない。簡素なベッドに身を預けていて、白いシーツからはからりとしたお日様の匂いがする。
朧げだった視界は霧が晴れるように色を鮮明にしていく。まだ少し靄がかかる瞳で手を握る人物を見た。何重にもだぶって見えていたのが重なって一つになった。
「リヴァイ……」
乾燥した唇でぼそりと真琴は呟いた。声を出して喉がからからなことに気づいた。ひっついて痒いようなくすぐったいような喉の違和感に咳き込む。
乾いた咳を繰り返す真琴の半身をリヴァイが控えめに起こした。そばにあるサイドテーブルから小型の水差しを取って口許へ当ててくれる。
喉へ流れてくる潤いは、全身に染み渡って渇きを癒してくれた。ただの水なのにとても美味しかった。でも唇に触れた飲み口がなぜか痛くて顔を顰めた。
「唇にしみたか」
静かな声色と眼差しに真琴はただ瞳を合わせた。
「強く噛み締めていたせいだ。大層な傷になってる」
言われてそろりと唇に触れて見た。僅かに亀裂を感じて微かに粘膜の感触がする。
まだ呆然としている真琴を、リヴァイが肩を軽く押して枕に戻した。
「お前は死にかけた」
え、と寝ぼけ眼な瞳をやや丸くして発しようとした唇は、微かに開いただけで声にはならなかった。
そばの椅子に座り直したリヴァイは感情のない響きで言う。
「頑なに唇を閉ざしていたお前は呼吸を止めていた」微妙な間のあとに怖がるような色を含ませた口調が続いた。「――死のうとしていたのか」
真琴は天井へ視線を流した。死のうとしていたのではない。おそらく声を押さえつけようとして息をすることを忘れてしまったのだ。
「声を出しちゃ駄目だって……助けを呼んじゃ駄目だって思って……」
「なぜだ、巨人に囲まれて危なかったんだぞ。悲鳴を上げていれば俺はもっと早く気づいてやれた」
だから真琴は助かったのか。絶体絶命のピンチにまたリヴァイが駆けつけてきてくれたから、いまこうして息をしているのだろう。
ところどころに染みのある板と板の合わせ目をぼんやりと眺める。
「悲鳴なんか聞かせてやるものかって……。あんな化け物に聞かせてやるものかって、そう思って……」
心持ち顔を伏せたリヴァイは呆れた様子だ。どこか安堵しているようにも取れる。
「頑固もここまでくるとお手上げだな。そのせいで死んだら阿呆だろうが」
緩く瞬きをして真琴は呟いた。
「死んでもいいかなって……あのとき思った」
眼を見開いたリヴァイを、視界の端に捉えたまま紡いでいく。
「そうしたら帰れるのかなって思って。だったら痛みなんか一瞬だから、その見返りに戻れるのなら別にいいやって――そう思った」
肩幅に開いたリヴァイの膝の上にある拳が、ズボンの皺を寄せるほどに血管が浮き出ていることに気づいて瞳を移した。
「助からないほうがよかったと。巨人のクソになったほうがよかったと、そうお前は言いたいのか」
言葉を静かに絞り出すリヴァイはしかし、瞳が怒りで満ちていた。だから真琴は重い瞼を瞬かせてぼんやりと囁いた。
「ごめんなさい……」
そうじゃないの、と付け加えてあげれば親切だったのだろうけれど。紡げなかったのは、どこかで死んだ先の未来を望んだからだったのかもしれない。
それきり会話が途切れたのは単にだんまりしたからなのか、それとも真琴の意識がまた夢へいざなわれたからなのかは分からなかった。
目許へかかる暖かさと閉じた瞼の先に見える明るさで、真琴は再び目を覚ました。窓から差し込む西日が眩しかったためだった。天井の染みは変わっておらず、相変わらず消毒液の匂いがした。
眩しくて眼を細めていたら、すっと室内が陰った。窓際を頭に向けた真琴の向こう側に誰かがいる。
「この部屋って丁度西日が当たるのよね。せっかく寝ていたのに眩しくて目が覚めちゃったかしら。ごめんなさいね」
カーテンを閉めて、穏やかな調子で声をかけてきたのは女だった。年は真琴と変わらないかもしれない。丈の長い白い割烹着のようなものを着ていた。
「ここは?」
寝起きの声は掠れてしまった。女がそばへきて真琴の手首を取る。
「病院よ。脈は正常ね。主治医を呼んでくるわ」
そう言うと女は個室から出ていった。
充満する消毒液の匂いは病院の独特な匂いだった。清潔感がある香りだからこの匂いは嫌いではない。が、大病をしてやっとのことで退院した人からすれば、二度と嗅ぎたくない忌むべき匂いなのだろうと思った。
廊下からぱたぱたと足音が近づいてくる。そう時間もかからないうちに女が医師を連れて戻ってきた。
医師は中年の男だった。見慣れた白衣とはやや形状が違うが、白の膝下まである長い前開きのシャツを羽織っていた。そこかしこに赤黒い染みがついている。ちゃんと洗濯をしているのだろうか。けれどその無頓着さと朗らかな顔立ちは、真琴の父親を思わせて懐かしさを込み上げさせたのだった。
「気分はどうかな? 吐き気がしたり目眩がしたり、どこか痛かったり」
ゆったりとした語調だったが医師はまとめて質問してきた。
真琴は一つずつ考えながら答えていく。
「吐き気はないみたいです……。目眩もないみたいです……。痛みは――」
自分の身体の調子を喋りながら眉を顰めた。さっきから息を吸うたびに胸部が痛むのである。
「胸が痛い?」
少し屈んで覗き込んできた医師を見て、真琴は頷いた。
「肋骨にヒビが入っているようだから、そのせいだろうね」
何だか曖昧な診断を不審に思った。ヒビが入っているよ、とはっきり断言しないのは医師としてどうなのだろう。
「レントゲン……してくれてないんですか?」
「れん、と……? なんて言ったのかな。ちょっと分からなかった」
医師は疑問符いっぱいに首をかしげてきた。真琴は小さく首を振った。
「……何でもないです」
この世界にはレントゲンなんてものはないらしい。それならば仕方ないが、すると肋骨にヒビがあるとは触診のみの判断なのだろうか。だとすれば些か不安だ。ヒビは誤診で実際は骨折していたなら大事ではないだろうか。
くすっと医師は苦笑した。
「君は病院嫌いなのかな。そんな眼を向けたってしばらくは入院してもらうよ。肋骨のほかに右肩も脱臼していたんだからね」
疑惑の眼差しを投げる真琴を、医師は勘違いして病院嫌いな人間だと解釈したようだった。
診断を疑ったって意味はないのかもしれない。真琴よりもこの男のほうが医療に関してはベテランなのだろうしと納得させた。
医師はB五サイズの薄手な板に、紙が引っ掛けてあるものに目を通している。カルテかもしれない。
「名前は真琴さんで間違いないね。性別は――男ということにしておいたほうがいいのかな」
眼を見開いた真琴を見て、医師がほんのり笑みを乗せたまま眉根を下げた。
「治療の際、胸にさらしが強く巻かれていたけど、あれは膨らみを隠すためだろう? なぜそんなことをしているのかは理解に苦しむけど」
医師はカルテは揺らし、
「周りに知られたくないのなら、カードへは男と明記しておくけど――どうする?」
「そうしておいてください……」
小さく呟いた真琴に医師は頷いた。溜息をついて付け加える。
「女に産まれたのなら、女のままで生きるのが幸せなことだとわたしは思うのだけどね。まあ本人が望むのならば仕方ない。調査兵団内でもいろいろとあるんだろうから」
真琴は何も言わなかった。それにしても話がスムーズに進みすぎて余計不審に思う。普通に考えて見ず知らずの、しかも医師が、他人の男装に対して周りへ配慮してくれるなんてことはあり得るのだろうか。
それと聞きたいことがあった。それほど深く眠った気はしていないが、あれから何日が経過しているのだろうか。
「先生。今日は何日ですか」
「十四日だ。トロスト区の奪還は昨日だったからね」
と言って首を竦め、
「昨夜からてんやわんやだ。負傷した兵士が多数運び込まれてきてね。患者が来なくて閑古鳥が鳴いても困るけど、ベッドが埋まったからって嬉しいわけでもない。医師としては複雑だよ」
疲れの翳りを目許に落とした医師が哀しそうに言った。だからかと思った。だから忙しすぎて白衣を変えることもできなかったのだろう。
そう言えば作戦は成功したのだろうか。あとちょっとというところで真琴は巨人を引き連れて踵を返したから見届けていないのだ。
「先生、トロスト区はどうなったんでしょうか」
「穴を塞ぐことに成功したそうだぞ。街の中に閉じ込められた巨人を、いま駐屯兵団の部隊が砲台で退治していると言っていたかな」
医師は窓のほうへ耳を向けて手を添えた。
「微かに聞こえる、どんぱちの音が」
言われて真琴も眼を閉じて外へ集中してみる。確かに砲撃の音がした。
医師は苦笑する。
「君の仲間もいまごろ討伐部隊として参戦しているんじゃないのかな。これ以上負傷者が増えないといいんだけど」
夜中に痛みがひどくなったら遠慮なく呼びなさいと言って、医師と看護師だろう女は部屋から出ていった。
真琴は溜息をついた。
今日が十四日だということは、昨日は十三日だったということだ。昨日の不幸を思い出してふと口にしてしまった。
「十三日の金曜日」
けれどもこの国に曜日――つまり七曜は存在しないので正確に金曜日であったかは分からない。西洋で不吉とされるキリストの受難日がこの日に当たるわけだが、重ね合わせずにはいられなかった。それだけ最悪な日だったのだから。
窓の外は絵の具を塗ったような藍色だった。
膝に乗せたお盆には木の椀に入ったスープがある。真琴はどろどろの液体をスプーンで掬って口に運んだ。
「――美味しくない」
思わず顔を顰めた。舌に残るふにゃふにゃした感触が気持ち悪くて、急いで水を飲んで流し込んだ。
スプーンで掬っては椀に垂らして、恨めしい眼つきで見つめる。どろりとした乳白色の液体に柔らかいものが入っていた。たぶんパンであり、白い液体は牛乳で、つまりパンがゆだった。
九割方牛乳とパンの味しかしないスープは拷問の味だった。真琴はもともと牛乳が苦手なのでいっそう不味く感じた。
一口食べただけで受けつけず、溜息をついてお盆をサイドテーブルへ追いやった。カットされた合わせの西洋ナシにフォークを刺す。
かじると小気味よい音と瑞々しい甘さが口内に広がった。満足げに咀嚼していたところで目の前の戸が開く。
遠慮がちに顔を出したのは軍服姿のリコだった。
「夕飯中だったのか」
「いいよ、入って」
笑顔を見せると、リコは戸を閉めて傍らの椅子に腰を降ろした。
「具合はどうだ?」
「うん。肋骨にヒビが入ってるって言ってたけど、ゆっくり動けばこうして起き上がるのも平気みたい」
「そうか。大事にならなくて本当によかった」
リコが眼を伏せて微笑んだ。真琴は眼を丸くする。
「そんなに心配してくれるとは思ってなかったわ。なんか意外」
照れ隠しかリコが唇を窄めてみせた。
「私のことを何だと思ってるの。お前が思ってるほど薄情じゃないんだから」
真琴はただ微笑を浮かべて、リコは続ける。
「一緒に闘った同志だからな」
そう言って、顔を背けた先にある椀を見やってリコは苦笑した。
「全然進んでないな。放棄したの?」
「だって美味しくないんだもん」
ナシを咀嚼しながら真琴は口を曲げた。水分が豊富な果物はかじると果汁が飛び散った。
「イアンも言ってたな。不味くて食えないって」
真琴は眼を見開いた。
「イアンさん無事なの?」
優しい瞳でリコが頷く。
「ああ。ここの病室でいまごろ我慢してパンがゆを食ってる」
「よかった……」
息を吐くようにして真琴は言った。
「止血が遅かったら危なかったって医師は言ってた。真琴のおかげだ」
真琴は頭を緩く振った。あのときは無我夢中だっただけだ。あまりちゃんと思い出せないほど本当は混乱していたのだ。訊きにくいことを尋ねるために、しずしずと瞳を上げる。
「でも片脚を失ってはもう駐屯兵団には」
「いられないだろうな。でも訓練兵団で指導員として使ってくれるんじゃないのか」
関心なく言って、リコは勝手にナシを手に取って食べ始めた。
「他人事のように言うのね。恋人でしょリコの」
「はい!?」剣山の上に座ってしまったかのように、リコが突として立ち上がった。一口しかかじっていないナシが床に転がっていく。
「馬鹿! そんなんじゃないって!」
「え――っ。だって彼の名前を呼んで泣き叫んでたわよ」
「ちがっ! それは仲間だからであって!」
一所懸命否定するリコは耳の付け根まで真っ赤だった。ここまで否定するということは恋人ではなく、きっと彼女の片思いなのだろう。
「そうか。いまが射止めるチャンスじゃない、頑張ってね」
にっこり笑えばリコが赤い面様のまま苦虫を噛み潰した。
「勝手に解釈するな……」
眼を合わせて何となしに笑い合った。笑いながら苦痛に眉を寄せた真琴は胸部に手を添える。大きく息を吸ったりすると鋭く痛むのだ。
リコがばつの悪い顔をみせた。
「ごめんっ、怪我人だったな」
ううん。と真琴が首を振ると、リコは立ったままで腰に両手をあてた。
「さすがにバレたんだろ、真琴が女だってこと」
「それがね。知られたくないのならカル――、カードには男として明記してくれるってお医者さんが言ってくれたのよね」
「ふぅん。医者なんて融通の利かない頭の堅い奴ばかりだと思ってたけど、柔軟な奴もいるんだな」
そうなのだ。何となく出来過ぎな感じがして解せないでいる。
「普通はリコみたいに思うわよね。私もそう思うし」
気にかけずにリコは言う。
「いいんじゃない、医者が黙っていてくれるっていうんならそれで」
胸がすっきりしないが真琴はただ頷いたのだった。
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mokuji
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