06.少女を背負いながら

 少女を背負い、ミカサたちとともにトロスト区からウォールローゼ側の壁を伝って登った。少女を負ぶさりながらの立体機動は不安があったが、なんとか壁上に登ることができた。そこからはリフトでローゼ側に降り立ったのだ。

 ミカサとアルミンは、気を失っているエレンを抱えて壁上まで登った。が、リフトは使わずに、そのまま立体機動で下へと降りていったようだ。
 降り立ったところで、真琴は少女を抱え直した。周囲を見渡す。駐屯兵が多く配備されている。些か不思議に思うとともに、胸の内に怒りが広がった。
 ――こんなにいるのなら、訓練兵たちを救助に来てくれたってよかったのに……。

 憤りを感じるが、少女の保護者を見つけることのほうが最優先だ。駐屯兵の塊の中に向かう。真琴に気づいた駐屯兵のひとりが、銃を携えて近づいてきた。

「その少女は逃げ遅れか」
 兵士に話しかけられた真琴。少女の顔を見せるように体を斜めにする。
「はい。路地で踞っているところを見つけました。顔見知りではあるのですが、名前も居住区も分からなくて」
「ならば、ここからは我らの領域だ。少女を預かる」
「あ、そうですね。そうしていただけると助かります」

 兵士は威厳のある表情を隠さず、真琴から少女を取り上げた。踵を返し、街のほうへ去ろうとする。ふいに幼い声が顔を突き出してみせた。
「お兄ちゃん! ありがとう! 金魚のお話、面白かったよ!」
 金魚? 真琴は首をかしげる。しばしの思案のあと、人魚姫のことを言っているのだと感づいた。笑みを浮かべ、少女に向かって手を振る。
「気をつけて帰ってね! それと金魚じゃなくて」

 言いかけて咄嗟に噤んだ。振り返った兵士が、睨みを効かせてきたからである。緊迫した状況で、不謹慎だったのかもしれない。
 とりあえず少女は家へ帰れそうだ。安心した真琴は、エレンを連れたミカサたちはどうしたかと、壁のほうへ首を回してみた。

 ――え?

 銃を構えた駐屯兵が壁際を囲んでいる。内側にはミカサとアルミン。そして二人に庇われるようにして、後方で横になっているエレンがいた。
 どう見ても穏やかな状況ではなかった。なぜこのような事態になっているのか、真琴には理解できなかった。
 ふいに肩を叩かれて少し吃驚した。振り向けばジャンであった。

「市内へ戻るぞ」
「ジャン。なんかミカサたちが……」
「駐屯兵に任せておけばいい」
「任せるって……、だって銃を向けられてる。どういうこと?」
 眼を見開いて疑問を投げかけた。ジャンの後ろから、アニが通り過ぎざまに視線を寄越してくる。

「巻き込まれないうちに、とっとと去ったほうがいいよ」
「だけどあれって普通じゃない。異常だよ」
 背中に向けて真琴声をかけた。
「正常だよ。私たちの見たことが異常なの」
 振り向きもしないアニ。歩きながら平然と言い捨てて、去っていった。

 ジャンに向き直る。眼は険しくて、どこか顔色が悪いように見えた。
「守秘義務が課せられた。お前にもだ」
「守秘義務? なんの命令が下されたっていうんだ」
 訝しげに問うと、ジャンはもどかしげな色を表情に浮かべた。囁くように吐き捨てる。
「分かるだろ! エレンのことだよ! エレンが巨人になったことを、口外するなって命令されたんだ!」
「……それは、何となく分かるけど。でも、あの状況ってなんなの?」
 狼狽えた真琴は、エレンたちの方角へ首を回した。

 真琴たちが見たことを、黙っておけというのは理解できる。人間が巨人になったなどと知ったら、人々は混乱の極地に陥るだろうからだ。のちほどエレンは取り調べを受けるかもしれない。
 が、いまエレンたちは銃を向けられており、人類からの敵意を浴びている。

 ジャンが真琴の腕を引いてきた。
「少し考えりゃあ分かるだろ。人類の恐れる巨人が、いま壁内にいるんだから。俺だってわけが分からねぇよ」
「でも、あんなんじゃ話し合いにならないでしょ」

 その場を去るのに後ろ髪を引かれていたとき、兵士たちの様子が急に騒がしくなり始めた。
 兵士に囲まれている中心に眼を凝らしてみる。エレンが意識を取り戻したらしく、半身を起こしている様が見て取れた。
 対して、上官と思われる男が声を張り上げている。責める調子で詰問しているのであった。

 自分の腕を掴む手を、真琴は振りほどく。兵士の輪に向かって駆け出した。背後からジャンの舌打ちが聞こえたが、気にも留めなかった。

 上官と思わしき中年の男が、厳しい眼をエレンに向けて問いつめている。顔色が悪いのは、青ざめているからだろう。
「いま貴様らがやっている行為は、人類に対する反逆行為だ! 貴様らの命の処遇を問わせてもらう!」
 恐怖に捕らわれている兵士たち。その合間を縫って、真琴は男に詰め寄った。
「反逆行為!? 彼らが何をしたっていうのですか!?」
「なんだ貴様は!? あいつらの仲間か!?」
 男は恐怖心を露わにして真琴を睨んできた。気迫に気後れしてしまう。
「仲間っていうか、知り合いっていうか……」

「イェーガー訓練兵が、巨人になるのを目にした一人でしょう。ほかの訓練兵同様、守秘義務を課せられているはずです」
 男の傍らに立つ女兵士が言った。真琴の腕を掴んで引き離す。
 男が一睨みしてくる。
「部外者は黙っていろ!」
 一喝すると、男はエレンに視線を投げた。詰問の続きを始めた。

 腕を掴んだ女兵士が、囁くような咎め声で真琴に言う。
「調査兵は下がっていろ! ここは我々の管轄だ!」
 咎めた女は男の側近らしい。やや長めのショートカットで眼鏡をかけている。少し太めの眉が特徴な、若い女だ。
「あの男は君の上官なの!? それならこんなこと、やめるように進言して!」
「お前も巨人になるのを見たんだろ? あの少年は意識を取り戻したとき、” 殺シテヤル “と言ったんだぞ! 我々に!」

 真琴は思わず口籠る。ただでさえ巨人のうなじから出てきたエレンに、みんな驚いているのだ。殺意の言葉が口から出てきたのならば、恐怖に怯えるかもしれない。
 エレンを見る。男から、「人か!? 巨人か!?」と責め立てられて、「質問の意味が分かりません!」と問い返したエレンの表情は、戸惑いの色で染まっている。殺意があるとは思えない。

「寝ぼけていたんだ、きっと! 顔を見れば分かる! 困惑しているじゃないか、彼は!」
 訴えた真琴の声は、女兵士には聞こえなかったに違いない。ふるふると拳を震わす男が、エレンに向かって怒りと恐怖を大声でぶつけたからだった。
「シラを切る気か!? 化け物め!! もう一度やってみろ!! 貴様を粉々にしてやる!! 一瞬だ!! 正体を現す暇など与えん!!」

 男は怒号の羅列をエレンに投げ続ける。
 エレンが巨人の体内から出現した瞬間を、大勢の兵が見たのだと。得体の知れない者がウォールローゼ内に侵入したとあれば、たとえ王から授かった訓練兵の一人であっても、リスクの早期排除は妥当である。この選択は間違ってはいない、と男は主張した。

 こうも続ける。いまにもウォールマリアを破壊した” 鎧の巨人 “が、姿を現すかもしれない。我々は人類滅亡の危機の現場にいる。もう五年前の失態は許されない、のだと。
 男はエレンに向かって腕を突き出す。震える恐怖に負けじと、声を荒げてみせた。

「私は貴様らに、躊躇なく榴弾をぶち込めるのだ!!」
「キッツ隊長。彼らの反抗的な態度は明らかです。有益な情報も引き出せそうにない。おっしゃる通り、兵と時間の無駄です」

 傍らの女兵士が男のことをキッツ隊長と呼んだ。主張に同意の意思を見せる。
 周りの兵士も賛同するかのように、恐怖に呑まれながらもエレンたちを次々と煽り立てる。
 納得のいかない真琴。騒然となる中で、女兵士に向かって口を挟んだ。

「あれのどこが反抗的なの!? 彼らの顔をよく見て! 混乱こそしていても、敵意なんて向けてない!」
 まだ居たのかと言いたげに、女兵士は煩わしそうな眼を向けてきた。
「お前こそ、目をひん剥いてよく見るんだな」
 訝しげに目線だけをエレンたちに移す。真琴は眼を見開いた。

 エレンとアルミンを庇うように、ミカサが兵士の前に立ちはだかっていた。両手には刃を構えている。
「私の特技は、肉を削ぎ落とすことです。必要に迫られれば、いつでも披露します。私の特技を体験したい方がいれば、どうぞ一番先に近づいてきてください」
 怒りに据わるミカサの瞳。周りの兵士は一瞬で恐れおののいた。

 この状況で賢いとはいえない彼女の行動に、真琴は舌打ちしたい気分だった。
 女兵士は口を歪ませた。
「お前の言葉、そのまま逆に返してやる。あれのどこが反抗的でないと言える?」
 庇いにくい。真琴は言い淀む。
「だ、誰だって、話も聞いてもらえずに銃を向けられたら、怒る……」
「銃を構えずにいられるか。巨人は人類にとって脅威。悔しいがこれだけは認めてやるよ。私たちは恐怖している。あいつを殺せる銃だけが拠り所なんだ」

 真琴は唇を噛む。気持ちは分からないでもない。が、どうしてもっと冷静な対処ができないのか。それともあまり恐怖心が湧かない真琴のほうが、可怪しいのだろうか。

「一方的じゃなくて、事実をしっかり検証してよ。ボクやほかの訓練兵は、イェーガー兵士に助けられたといっても過言じゃないんだ。彼がいなかったら全滅してた。そういう部分も全部考慮して、もっと現実を見て、もう少し柔軟に」
 女兵士が言葉を遮ってきた。
「うるさい! 巨人から人間が現れたことさえ、非現実的なんだ! 異物は排除すべきだ!」
「なんで聞く耳を持ってくれないの!」
 何を言っても聞いてくれない。エレンのほうでは、アルミンが泣きながらミカサをとめようと説得しているようだ。

 キッツと呼ばれた男は、再度エレンに問い質す。
「もう一度問う! 貴様は何者だ!」
 両膝をついたままのエレン。困惑しつつも、しっかりとした声色で返した。
「人間です!」
 ストレートな答えに呆気にとられた。が、真琴はその通りだと思った。巨人だと化け物呼ばわりされたエレンは、自分は人間なのだと主張したのである。

 眼を伏せたキッツ。静かに言葉を発する。
「そうか。よく分かった」
 すっ、とキッツは片腕を挙げた。銃を構える兵と、壁上で砲台の発砲を待つ兵に対する、「攻撃せよ」という合図だった。

「やめてよ!!」
 キッツに詰め寄ろうとする真琴の肩を、女兵士が掴んでとめてくる。
「これが人類のためなんだ!」
 食ってかかる真琴。
「エレン以外の二人はどうする!? 巻き添えを食う!!」
「あいつらだって化け物かもしれない! イェーガーを庇うんだからな!」
 女兵士も食らいついて、がなり立ててきた。

 自分たちに攻撃を仕掛けようとする本気さに、ミカサは焦ったのか。振り返ってエレンとアルミンを引き起こす。壁際に駆け寄っていった。立体機動で壁上に逃げるつもりなのだろうか。
 挙げた片腕をキッツが振り落とした。瞬間、凄まじい銃撃音が辺りに轟く。正面と壁上からの発砲で、エレンたちの周囲は激しい砲煙に包まれる。

 辺りを覆う砲煙。腕を掲げて咳き込む真琴は、悲鳴を上げた。
「人殺し!! あんたたちは人殺しよ!!」
 目の前で起こったショックは、男装していることを忘れさせた。素で責め立てる。
 女兵士が怪訝に視線を寄越してきた。が、すぐに正面に向き直る。次の瞬間、彼女の顔が恐怖に支配された。

 砲煙は風によって徐々に横に流れていく。体積などないはずなのに、ゆっくりと動くさまは重そうに見える。火薬臭が混じった煙臭さが、鼻をついた。
 煙が眼にしみる。真琴は両手で双眸(そうぼう)を擦った。ここら一体にいる兵士が、なぜか凝視する正面を見据える。飛び込んできた映像に驚愕して、ぽかんと口を開けた。

 青ざめた顔を、さらに青くさせた女兵士。
「ば、ばけもの……」
 後退りながらそう呟いた。

 上方の煙が薄まったころに現れたのは、巨人の顔。ほぼ骸骨で、僅かな筋肉を晒しているのみである。ぎょろりとした剥き出しの眼球。直視するには、悪夢に出てきそうなくらいの気味悪さであった。
 皮膚や周りを覆う筋肉がないと、人間の顔の構造はあのような感じなのか。と、真っ白な頭の中にそんな思考が落ちてきた。

 煙が濃くて、その中がどういった状況だか分からない。が、あの骸骨の巨人はエレンが出現させたものに違いない。ひょっとしたら、ミカサとアルミンを砲弾から守るために巨人化したのだろうか。だとすれば三人は無事なのだろう。

 喧騒が静まり返ってしまうほど、一瞬にして全兵士は恐慌に呑まれた。そう時間は経っていないのに、いやに秒針がゆっくりと刻む。そんな感覚に陥っていたときだった。
 濃い砲煙の中から人影が現れた。またも一瞬にして、全兵士は恐怖に硬直した。
 砲煙を割って姿を現したのはアルミン。立体機動装置を外して両腕を挙げている。表情は真剣かつ、覚悟を決めた色。降伏の意思ではなく、すなわち彼の行動は服従を示しているものだった。

「貴様!! そこで止まれ!!」
 キッツががなり声を上げた。アルミンも必死に怯みを殺して、声を張り上げる。
「彼は人類の敵ではありません!」
「命ごいに貸す耳はない! 巨人でないというのなら証拠を出せ!」
「証拠はありません!」

 両者の激しい言い合いが飛び交う。どちらも引けない状態なのだ。
 キッツにはメンツがある。アルミンには命がかかっている。おそらくアルミンは、どうにかしてエレンを助ける道はないかと模索して、勇気を振り絞ってみんなの前に出てきたのだろう。敵意はないと主張するために。

 アルミンは体全体で訴えた。
「大勢の者が見たと聞きました! ならば彼と巨人が闘う姿も見たはずです! 周囲の巨人が彼に群がっていく姿も! つまり巨人は彼のことを、補食対象として認識しました! 我々が知恵を絞ろうとも、この事実だけは動きません!」
 アルミンは立派だった。殺伐とした状況下で、冷静に、かつ論理的に述べた彼の主張は、もっともな意見だった。
 流れが変わり始める。アルミンの主張に同意する兵士が、ちらほらと口ずさむ。
「確かにそうだ……」
「奴は味方かもしれんぞ……」

 形勢が逆転しそうで焦ったのか。キッツは片腕を振り上げて啖呵を切った。
「迎撃態勢をとれ! やつらの功名な罠に惑わされるな!」
 そして、
「やつらの行動は常に我々の理解を超える! これ以上好きにさせてはならん!」

 アルミンを含め、その場にいる兵士が驚愕の表情を隠せなかった。キッツの判断はあまりにも暴挙すぎたのだ。
 キッツの挙げた腕を下げようと、真琴は掴んで言い募る。
「考えることを放棄しないで!! 怖がらないで、歩み寄ってください!! お願い!!」
「黙れ!!」

 真琴は振り払われた。恐怖で見開いた眼のキッツ。砲煙がだいぶ薄まり、浮かび上がるエレンを睨み据えたままだ。
 真琴は倒れ込んだ。両手を突いて起き上がろうとすると、女兵士が睨んでくる。
「さっきからお前、言葉に気をつけろ! 非常事態だから咎められずにすんでいるが、本来なら処分ものだぞ」
「あなたはどう思うの!? アルミンの主張を聞いてもなお、上官の判断が正しいと思ってる!?」

 女兵士を見上げて真琴は言及した。なぜなら彼女の瞳には、明らかな戸惑いが含まれていたからだ。きっと少なからず、アルミンに影響されただろうことは言うまでもない。ならば側近である女兵士を言いくるめて、キッツの暴走を止めてもらうしか、もう手はない。

 こめかみに汗を浮かべる女兵士は、舌打ちした。
「仕方ないだろう! なにが真実か分からないんだから! 彼らはイェーガーの仲間で、あいつも巨人かもしれない! これ以上、我々人類の領域を後退させるわけにはいかないだろう! 疑惑の種は排除すべきなんだ! たとえ確証がなくとも!」
「嘘だ! あなたは迷ってる! 話をしっかり聞くべきかもしれないと! もしかすると人類の希望の星になる可能性を、秘めているのかもしれないと、迷ってる!」

「うるさい!! うるさい!!」
 奥歯を噛み締めながら女兵士は叫んだ。彼女の中で葛藤があるのは明白だった。

 突として響き渡った決死の声。真琴はアルミンを仰ぎ見た。
「わたしは、とうに人類復興のためならば、心臓を捧げると誓った兵士!! その信念に従った末に、命が果てるのなら本望!!」
 アルミンは切実な形相で、自分の心臓を叩いた。右腕の拳を当てて敬礼を見せる。
「彼の持つ巨人の力と、残存する兵力が組み合わされば、この街の奪還も不可能ではありません! 人類の栄光を願い、これから死に行くせめてもの間に!! 彼の戦術価値を説きます!!」

 威風堂々たるアルミンの敬礼。ぎりっと歯を食いしばり、キッツは額に汗を浮かべてみせた。が、天に挙げた腕を下げない。しかしながら揺らいでいるのは明瞭。だというのに、
 どういった思考が働いたのか。キッツがほんのかけらの迷いを捨てたように見えた。覚悟の色をその顔に、挙げた腕をアルミンたちに向かって突き刺そうする。

「やめて!!」
「キ、キッツ隊長、お待ちを!!」
 悲鳴のように叫んだのは、真琴だけではなく、女兵士も同様だった。
 大切な、かけがえのない命が奪われるかもしれない。絶望と諦めが全身を襲う。そんなとき、

「相変わらず、図体の割には子鹿のように繊細な男じゃ。お前には、あの者の見事な敬礼が見えんのか」

 緊迫した空気に合わない、気の抜けそうな呑気な声だった。キッツの腕を背後から掴んで、とめている男が立っている。
 男を見上げる。六十代くらいの坊主の男だった。額には三重の深い皺。目元や頬にも薄く皺を刻み、薄灰色の口髭を蓄えている。
 誰もが意見できなかった暴走列車のようなキッツを、一声で押しとどめた男。周りの緊張する様子から見ても、偉い人物に違いなかった。

 視線を女兵士に流して小声で尋ねる。
「……誰?」
「……ドット・ピクシス司令。トロスト区を含む、南側領土を束ねる最高責任者であり、人類の最重要区防衛の全権を託されている方だ」
 囁き声で女兵士が答えてくれた。

 真琴はピクシスに視線を戻す。
 一見普通の中年に見えるが、内なる虎を隠しているのかもしれない。跡になるほど深く刻まれた皺は、数多の試練を乗り越えた熟練の証。

 ピクシスは淡々とキッツを説き伏せる。
「いま着いたところだが、状況は早馬で伝わっておる。お前は増援の指揮につけ。ワシは……」
 と言い、エレンたちを見据えた。
「あの者らの話を聞いたほうが、ええ気がするのぅ」
 その言葉で安心した真琴の肩が脱力していった。
 ――よかった。やっと話の分かる人が来てくれて……。

 女兵士の負けん気の強い声が落ちてくる。
「とりあえずは、命を長らえたようだな」
「君もありがとう。最後の最後で、上官をとめようとしてくれて」
 君? と怪訝そうに呟いた女兵士は、膝を突いた。
「私は別に……。まぁ、仲間が助かってよかったな」

「仲間?」
「違うの? それとも班を率いてたのか?」
「あ、ううん、違う。……そうだね。苦難をともにした、大事な仲間だ」
 口許に柔らかい笑みを見せる真琴。女兵士は片眉を上げてみせた。
「なんか、喋り方がさっきと変わってないか?」
「そう? ずっとこうだよ」
 不思議に思ったがそう答えた。

 女兵士は胡散臭そうな眼つきをしてくる。唐突に手を伸ばすと、真琴の胸にタッチしてきた。
 動揺する。
「ちょ、ちょっと!」
「固い……、けど固すぎて逆に可怪しい。僅かに肉の塊を感じる」
 そう言って胸を掴む仕草を繰り返し、
「お前、女だろ」

 指摘された真琴の顔は、一気に青ざめていった。全身の血潮が下がっていく感覚。手足が急激に冷えていくようでもある。
 女兵士は微かに驚きの色を見せた。

「そこまで動揺すること? その様子じゃ、単に男装が趣味ってわけでもなさそうだな。知られると拙いの?」
 胸の膨らみに勘づかれてしまっては、どうしようもない。観念して真琴は答えた。
「いまさら感もあるけど……、それと色々やっかい事もあって」
 
 いまさら女です、と公言するのにはもちろん勇気がいる。だが理由はそれだけではない。女に戻ったなら、秘密結社のことやらで立場の悪いマコの案件が、すべて浮き彫りになる。真琴と同一人物であることが、発覚してしまう。それは身の破滅を示唆する。

 訴える思いで女兵士を見返した。
「他言しないでほしい。お願い」
「まぁ、お前とは組織が違うし。私の関わる範囲じゃないから」
「ありがとう……」
 ほっ、と息を吐いた真琴は頭を垂れた。

「お前、名は?」
「真琴。……あなたも訊いていい?」
 瞳を上げて尋ねると、女兵士は頷いてくれた。
「リコ。駐屯兵団、精鋭部隊所属リコ・プレツェンスカ」
 リコが手を差し出してきた。
 真琴はその手を取って立ち上がる。
 執拗な視線に気づいて振り向いた。じぃ、とピクシスが真琴を注視していたのだ。

 ――リコとの会話、聞かれたのかしら……。
 焦りの汗が垂れる。ピクシスは真琴の前に立った。
「なるほど」
 呟いてから、ピクシスは真琴の尻を軽くさすり、叩いてきた。
 吃驚した真琴は、尻を庇って後退った。傍観していたリコも、口をぽかんと開けている。

 ピクシスは真琴に顔を突き出してきた。悪戯な顔で囁いてくる。
「覚えとらんか」
「はい!?」
 真琴が頬を紅くして訊き返すと、またもやピクシスは尻を叩いてきた。
「ワシと一度会っておるよ」

 眼を見張った真琴は、ピクシスの瞳を見つめた。尻を叩く感触で、いつかのことを思い出したのだ。
「社交界……」
「その通り。マコ嬢」
 囁いたピクシスはにこりと笑った。

 いつかの社交界で、フェンデルに連れ立って挨拶を繰り返していたときだ。一人だけ真琴の尻を撫でつけ、叩いてきた男がいたのだ。すっかり頭から抜け落ちていたが、あのときの男がピクシス司令だったとは。
 たぶん名前も伺ったと思う。が、いかんせん紹介された人物が多過ぎて、覚えきれなかったのだろう。格好もテイルコートだったのだろうから、認識できなくても仕方ない。

 周りに聞こえない声でピクシスは囁く。
「あのときの令嬢が、なぜ男装して調査兵団にいるのか。またもフェンデルの気まぐれかの?」
 真琴の肩を優しく叩き、
「城に帰りなさい。大事な一人娘を、戦で奪うわけにはいかんからな」
 城とは、調査兵団本部のことを指しているだろう。けれど聞き捨てならない言葉があった。真琴は問い返す。
「戦?」

「ワシは覚悟を決めねばならん。トロスト区を早々に、巨人から奪還しなければならない。多大な犠牲を払ってもだ。それはすなわち人間対巨人の戦じゃろう?」
「でも、そんなことができるんですか? 巨人はいっぱい入り込んできてしまいました。若い命もたくさん散りました。これ以上なにができるとおっしゃるんですか」

 ちらりとピクシスはエレンのほうを見やり、
「あの者の力、利用できると、ワシは思う」
「利用って」
 歯を剥き出しにして真琴は口を歪めた。ピクシスは苦笑して訂正する。
「協力、してもらう。訓練兵とはいえ、あの者も兵士じゃろう。国のために働くのは至極当然のこと」
「そう、かもしれませんが。でも巧くいくでしょうか」

「巧くいってくれねば困る。これ以上、街を放棄するわけにはいかん。人類がまたも活動領域を後退することは、もはやあってはならんのじゃ」
「……四年前の悲劇がまた起こると? そうなれば今度こそ王政府は反感を買って、暴動が起こる。それは」
 真琴とピクシスは、互いを睨み据えながら口を揃えた。
「真の戦になる」

 ピクシスは厳しい顔で頷いてみせた。
「この狭い領域で、人間同士の戦が起こるということはどういうことか、分かるな?」
「人類の滅びを、意味します……」
 ピクシスは深く頷いた。
「そんなことは、あってはならん。絶対に、あってはならんのだ」
 真琴は顔を伏せた。ただ唇を噛む。

「ワシは決断を急がねばならない。恐怖を原動にして兵を動かすのにも、限度がある」
 そう言うと、ピクシスは背を向けた。エレンのほうにゆっくりと去っていった。

 後方に下がっていたリコが真琴に近寄ってきた。彼女はピクシスとの会話が耳に入らないよう、下がっていてくれたらしい。ありがたい配慮だった。
「ピクシス司令と親しそうだったな」
「盗み聞きしないように下がってくれていたのに、それを聞いちゃうんだ?」
 困った顔で微笑すると、リコは不満げな眼つきをみせた。
「別に気になってるわけじゃない」
「前に街ですれ違っただけだよ。そのときの話を少ししただけ」

 納得いかなそうであったが、リコは諦めたのだろう、溜息をついた。次いで、思案するように顎に手を添える。
「たぶん、これから何らかの作戦が実行されるだろう。休めるうちに休んでおけよ。お前は巨人に精通する、貴重な調査兵なんだからな」
「えっ、あの」
 手を伸ばして止めようとした。が、リコは真琴を無視して背を向ける。ひらひらと手を振り、去っていってしまった。

 ――なんだろう、いまの言葉って……。
「期待されている?」と思って、「全然そうではないのに」と真琴は項垂れたのだった。

 ピクシスの指示により全駐屯兵と訓練兵の動ける者は、全員トロスト区内門のウォールローゼ側に集結していた。ピクシスには帰れと言われた真琴だったが、どうしてもここから離れられずにいた。

 怖さゆえに吐きそう。目許に翳りを浮かべる真琴は、民家の壁に寄りかかっていた。
 防衛戦で嘔吐もせず、体も動けていたことに、いまになって驚く。極度の緊張から一旦は解放されたからだろうか。急激に訪れた吐き気と震えが、全身を巣食っていたのだった。

 視線を横に流すと、訓練兵の塊が眼に入った。何人かが踞って嘔吐している。真琴は眼を逸らし、唾を飲み込んだ。迫り上がってきたものを胃に落とした。
 震えが収まらない手を、もう片方の震える手で押さえつける。
 帰ればいいのに……、と思う。
 最高責任者が帰ってよいと言ったのだから、咎められる理由はないのだ。堂々と本部に逃げ帰ればいいのに、と思う。

 道理から外れるのを、単に恐れているだけなのか、純粋な正義感なのかは分からないけれど。怯える血潮の、真ん中に存在する心臓の、その奥にある理性が、沸騰するほどに怒りで煮立っているのだ。
 お前ら(巨人)が奪った未来ある命を返せ、と。これ以上好き勝手させてたまるか、と。ぐつぐつと煮える血潮は、震える冷たい水如きでは到底冷ますことなどできなかった。

 ピクシスの良く通る声が、全体に響き渡ったのはそんなおりだった。
「注、もぉぉぉぉく!!」
 壁上から声を張り上げたピクシス。隣にはエレンが立っている。さっき言っていた通り、なんらかの方法でエレンを利用するつもりなのだろう。
「これより、トロスト区奪還作戦について説明する! この作戦の成功目標は、破壊された扉の穴を、塞ぐ!! ことである!!」

 ざわ、と全兵士が動揺しだす。口々に聞こえる言葉は、「一体どうやって大きな穴を塞ぐのか」という疑問だった。
 ざわつきを上回る大きな声で、ピクシスは続けた。
「穴を塞ぐ手段じゃが、まず彼から紹介しよう! 訓練兵所属エレン・イェーガーじゃ!」
 紹介されたエレンは、心臓に拳を当てて敬礼してみせた。表情は緊張で満ち、口を固く結んでいる。

 ピクシスはエレンのことをこう説明した。彼は国が極秘に研究してきた巨人化生体実験の成功者で、巨人の体を精製し、意のままに操ることができるのだ、と。
 そんな説明を聞いて、近くにいるエレンと同期の訓練兵たちは、戸惑いを隠せないようだった。それもそのはず。いままでともに鍛錬してきた同志が、巨人に変身できるなどと聞いたら、度肝を抜いて当たり前だろう。

 しかしながらピクシスの説明は真実なのだろうか。本当に国の実験の賜物なのだろうか。
 ――その場しのぎの嘘……。
 きっとそうに違いない。そうでなければエレンを殺そうなどとはしなかったであろうし、あのときのピクシスは、彼のことを何も知らない様子だったのだから。

 ピクシスの演説は、どうやって穴を塞ぐかという、みんなの疑問に入った。巨人と化したエレンが、前門付近にある大岩を持ち上げ、破壊された扉まで塞ぐのだと言う。
 大岩とは、昔からトロスト区に鎮座しているものである。掘り起こすこともできずに、その周辺には建物が立てられなくて、非常に邪魔な存在の物だったらしい。真琴も見たことがある。おおよそビル四階相当の岩の塊だ。

 真琴たちに課せられる任務は、エレンが岩を運ぶ間、巨人から彼を守るというものだった。
 夢のような現実味のない話に、周囲の兵士たちは戸惑いをみせる。喧騒がさらに大きくなり始める。そんな馬鹿みたいな妄想で、命を捨てられるものか、と次々と騒ぎ立てる者が増えていく。いまにも暴動が起こりそうな勢いだ。

 上官クラスの何人かが、逃げ腰で立ち去ろうする兵士たちに向かって刃を振り上げる。反逆者と称して牽制した。
 このままどうなってしまうのか。真琴が憂惧したとき、ピクシスの声が辺り一面に轟いた。

「ワシが命ずる! いまこの場から去る者の罪を免除する! 一度恐怖に屈した者は、二度と巨人に立ちむかえん! 巨人の恐ろしさを知った者は、ここから去るがいい! そして! その巨人の恐ろしさを自分の親や兄弟、愛する者にも味わわせたい者も、ここから去るがいい!」

 その言葉はみんなの胸を深く抉った。恐怖に顔を引き攣らせながらも踵を返した者たちが、のそのそと戻ってきた。
 みんなの心を、なにが恐怖から打ち勝たせたのだろう。そう考える真琴は、いつかを思い起こしていた。

 ”守るものがあるときに、人は真の精強になれる”

 真琴は瞳を閉じた。自然と震えが収まっていく感覚がある。脳裏には、自由の翼がはためく外套が見える。

 あのとき、お前に守りたいものはあるかと問われた真琴は、答えることができなかった。いまでも、胸の内にはっきりと断言できるほどの守りたいものは、見つかっていない。
 それでも、いまここに真琴が立っているのは、血潮が怒りで煮え立つからだけじゃない。

 ――きっと……。

 空を仰ぐ。澄み渡る瑠璃色の空が広がっていた。命のやり取りを、いまごろ必死にしているであろうあの人も、同じ空を見上げていると信じて、こう思う。

 ――きっと、あなたならここに残るのでしょう。だから私はここにいる。あなたの守りたいものを、私も守りたいから。

 上空を舞うあまつ風が、緩やかに白い雲を流していく。穏やかな蒼穹を見つめながら、真琴は口許をそっと綻ばせたのだった。


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mokuji
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