05.慌てて口を塞いだ
真琴は慌てて口を塞いだ。
思わず叫んでしまった。窓から外を覗けば、極めて近いところに巨人が立っている。気味の悪いギリシャ人を思わせる風貌には見覚えがあって、それはまさしくエレンを飲み込んだ巨人だった。
――そのまま通りすぎて!
銅像の如くじっとして息をひそめる。しかし願いも虚しく、巨人は人間の気配に気づいたらしい。巨体を屈ませて、真琴たちのいる窓を覗き込んできた。
――もう、駄目だ。
目の前に嘲笑う死神が見えた。真琴の胸中に絶望感が広がる。けれど禍々しい大鎌は振り落とされることはなく、最後の瞬間は訪れなかった。
様子が可怪しい。急に立ち上がった巨人は、苦しそうに喉を掻きむしりながら悶えはじめた。
「なに……?」
唐突にそれは起きた。
突如、巨人の口内から大きい腕が飛び出てきた。吃驚して真琴の身体が跳ねる。次の瞬間、巨人の体が風船のように破裂した。中から十五メートル級の巨人が現れた。
――巨人の中から巨人が生まれた?
果たしてそれが正しい表現なのかは分からないが、その巨人はのっそりと歩き出したかと思えば、近くにいたほかの巨人に攻撃的な表情をみせた。次いで慣れた仕草で両手を構えると、拳を前に突き出す。仲間であろう巨人の顔面を殴った。
窓から身を迫り出して、様子を窺っていた真琴の瞳が大きく見開く。あのファイティングポーズはどこかで見たことがある。
誰かに似てる、と真琴は思った。
十五メートル級の黒髪に巨人は、格闘技を使い、明確な意思を持ってほかの巨人を倒していっているような気がしてならない。
――巨人は意思なんてないんじゃなかったの。新たな奇行種、とか?
いつかハンジが言っていたことを思い出す。巨人に意思などないと、講義でも習ったことだった。
どういうことなのか真琴には理解できないが、しかしながら絶望の闇に光が差し込んだ。逃げるのならば、この好機を逃す手はない。
あの意思を持つ不思議な奇行種の後ろからついていけば、ほかの巨人に襲われる危険が減るかもしれない。
ここでいつ訪れるか分からない救助を待つよりは、生きる可能性にかけるべきだ。それにどうしてか、あの奇行種に対しては恐怖感が湧かない。
決心して真琴は少女を抱えて窓から外へ飛び出すと、十五メートル級の奇行種の後ろにぴたりとついた。思った通り奇行種は、真琴には目もくれず、自分以外の巨人を倒していく。おかげで巨人の脅威に晒されることはなかった。
撤退の鐘が、街中に響き渡ったのはそのときだった。住民の避難が完了して、内門が閉鎖された合図。
「このまま壁側まで行ければ、脱出できるのにな」
走りながら目の前の奇行種を見て、真琴は歯痒さに独り言を洩らした。思惑通りにはいかないもので、奇行種はそう都合よく壁のほうへは行ってくれなかった。
真琴がもどかしさを感じているとき、前方で巨人に教われているミカサの姿が飛び込んできた。なぜか彼女は地上戦をしており、立体機動装置を装備していない。
「ちょっとあなた! あの女の子を助けてあげてよ!」
指を差し、奇行種に向かって真琴は叫んだ。言葉を理解したとは思えなかったが、言われるまでもなくミカサを襲っている巨人へと突撃していってくれた。その隙を狙って、真琴はミカサのもとへ駆け寄る。
「ミカサ! しっかり!」
両膝を突いているミカサの肩に触れたが反応がない。彼女は自分を助けた巨人を呆然と見詰めていて、そのために声が届いていないのだろう。全身に眼を配る。服は多少傷んでいるが目立つ外傷はないので、とりあえず真琴は安堵の息をはいた。
少しして、背後から近づく立体機動装置の音が聞こえてきた。民家の屋根のほうへ振り仰ぐと、ふたつの影がこちらへやって来るところだった。
「ミカサ!!」
「真琴さん!?」
ふたつの影はコニーとアルミンだった。空中で驚きの声を上げたふたりは、アンカーを近くの民家に放つと、そのまま地上に降り立って駆け寄ってきた。
合流できたことに安心感が芽生えて、真琴は胸を撫で下ろした。訓練兵とはいえ、彼らは心強い味方に変わりない。
けれど途端に疑問が頭をもたげる。撤退の鐘が鳴ってしばらく経つというのに、どうして彼らはまだ脱出していないのだろうか。
「君たち脱出しなかったの?」
真琴が問いかけると、ふたりは重苦しい表情をした。アルミンが口を開く。
「まだ多くの訓練兵が残っています。壁を登るだけのガスが残っていないんです」
「本部の補給所は、巨人が群がっていて近づけねぇんだ。一か八か本部へ突っ込む作戦中に、ミカサが落ちたから俺たちが……」
とコニーが付け加えた。
アルミンがミカサの腰元を気にしながら、不安げに見下ろした。
「立体機動装置、どうして外しているの?」
実は真琴も気になっていた。ミカサは両手に刃を持って、地上で巨人と対峙していたから。
ようやく立ち上がったミカサは眼を伏せた。
「人生に満足してしまって、もう死んでも悔いはないと、闘うことを放棄した」
アルミンを含むその場の三人が悲愴を露わにした。
「僕の、せいだね。エレンは僕を庇って代わりに巨人に……。あのとき大人しく僕が死ねばよかったんだ。そうすればミカサからエレンを奪うこともなかった」
「アルミン」
ミカサはアルミンの肩を叩くと、無表情な顔で淡々と紡ぐ。
「死ねばよかっただなんて、二度と口にしないで。これ以上、大切な家族を失いたくない。大丈夫、死んでもいいと思ったのはほんの一瞬だけ」
何かが、と言って少し柔らかい色を見せる。
「何かが私を奮い立たせるから、生きることを諦めきれなかった」
「ミカサ……。無事でよかった」
アルミンは眼に溜まった涙を拭った。
ミカサはエレンが死んだことを、受け入れられずに自暴自棄になりかけた。けれど死んで楽になることより、生きて苦しむことを選んだのだろう。
「ミカサにも弱いとこがあるんだなって意外で驚いたけどよ、そう感傷に浸ってもいられないぜ。 俺らだけで、どうやって本部へ向かうか考えねぇと」
コニーの切羽詰まった形相に、みんなは雰囲気を切り替えて頷いた。
真琴は近くで暴れている奇行種を見詰めながら口を開く。
「あの巨人……。なぜか人間を襲わず、ほかの巨人に敵対心を持っているんだよね」
真琴の言葉に、アルミンとコニーが疑わしげな眼差しで巨人を見やる。
ミカサはしゃがみ込んで、地に転がっている装置に不備がないかを確認しながら、微妙な顔で肯いた。あれのおかげで命拾いをした彼女は、理解しているはずだ。
真琴はアルミンに詰め寄る。
「あの巨人を利用できないかな!?」
確実性はないが、生き残るためにはもはや選択肢はない。
急に質問を振られて困惑するアルミンだがしかし、すぐに現状を打開すべく頭を絞る。
「僕たちで巧くあの巨人を本部まで誘導できればあるいは……でもミカサ、ガス残ってる?」
上目遣いでアルミンが訊くと、ミカサは少しだけ唇を噛んで首を振った。
「ごめん。さっきので使い果たした。私は冷静じゃなかった」
「まじかよ!? ミカサが動けなくて、どうすんだよ!」
ミカサがガス切れだと聞いて、落胆を隠せずにコニーが頭を抱えて吠えた。確かにアルミンの作戦には、身体能力の高いミカサの協力が必要不可欠だった。前途多難。
ところが為す術もなく途方に暮れる三人を尻目に、真琴の口許が自覚なしに緩んでいく。
「ふっ」
緊迫した空気に似つかわしくない笑みが洩れる。気がふれたか、とコニーが怪訝な顔をした。真琴は気にせず、得意げに自分の腰元を指差す。
「ボクのガスは満タンなんだな」
「あんたのガスがあっても意味ねぇだろ。悪いけど期待してねぇし。てかなんで満タンなんだよ、使えよ」
冷ややかな視線を向けるコニー。真琴の意図はは通じなかったらしく、ずっこけそうになった。ついでに言うと、目上の人に対する態度もなっていない。腰に両手をあてて仁王立ちする。
「アホ! ボクのガスボンベを片方ミカサと交換すれば、本部まで充分間に合うでしょ」
小さな希望に、絶望の淵にいたみんなが笑顔をみせた瞬間だった。
真琴と少女、ミカサ、アルミン、コニーは無事本部へ辿り着いた。
五階建ての本部は、トロスト区の中でも巨大な建物で、周囲を楕円形に囲う壁の次に大きい。その三階の窓を突き破って、真琴たちは侵入したのである。
ほかの巨人により、本部の壁を破壊されてしまった直後に滑りこんだ。危ない状態だったので、タイミング的にもベストだったようだ。中にいる兵士を捕らえようとしていた巨人は、真琴たちが引き連れてきた奇行種が倒してくれた。
ざっと見回す。胸に剣の紋章をつけた訓練兵が、二十人ほどいた。全員自分の班員を少なからず失っており、通夜のように消沈している。どうやら正式な兵士は一人もいないみたいだ。
アルミンの話では、エレンを含む三十四班が彼を除いて全滅。エレンを喪ったと知ったミカサが冷静でいられなくなり、本部へ突撃する作戦中にガス切れで落下。アルミンとコニーがミカサを追い、そこで真琴とばったり鉢合わせしたとのことだった。
本部に来たはいいが、しかしながら問題があった。肝心のガス補給室に巨人が侵入していて、入れないらしいのだ。現在アルミンを中心に、どう撃退するか、みんなで作戦を練っている最中である。
これと言って知恵を絞り出せない真琴。遠目にアルミンたちを見守っていた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
ふいに聞こえた少女の声に振り返るが、真琴にかけられたものではなかった。少女は少し離れた位置にいる、ジャンに話しかけたらしい。壁に寄りかかって座りかかっている。
「どこか痛いの?」
「……」
少女が窺うのに、ジャンは顔を伏せたまま返答しない。真琴は彼に近づいて、傍らに膝を突いた。
「どうした、ジャン?」
ジャンは答えない。少女を片膝に座らせて、真琴はジャンの顔を覗き込んだ。
「あら、ほんと。お兄ちゃん、痛そうな顔してるね」
「うん。怪我してるのかな?」
少女が心配そうな顔をした。
「ねぇよ。怪我なんか」
やっと応答したジャン。顔つきは悲痛なものだった。
「なにかあった? って訊くのも変か……。あり過ぎだもんね」
「最低だ」
「え?」ぽつりと零したジャンに、真琴は首をかしげてみせる。
「ここへ突入するのに仲間の死を利用した。目の前で喰われていく仲間を見捨てて……オレ」
最低だ……。とそう言ったジャンは、苦しそうに眼を瞑った。歯を噛み締め、
「喰われる仲間を尻目に、いましかチャンスはないとみんなを煽った。オレの合図で何人死んだか……。そもそも、あんなでけぇヤツらに勝てるわけがないんだ。現実を見せつけられちまったら、絶望しかねぇよ」
真琴は眼を伏せた。
「……もしかすると、ここへ辿り着いた兵士より、死んだ兵士の数のほうが多かったのかもね」
「お前、追い打ちかけるようなこと言うなよ」
言いながら顔を上げたジャンは言葉を呑んだ。不幸な話の最中だというのに、真琴が微笑んでいたからだろうか。
「ありがとう、ジャン。みんなを誘導してくれたおかげで、助かる道がきっと開けるよ。どうしてもこの子を、救ってあげたかったんだ」
視線を落とした真琴は、少女の頭を撫でる。
「調査兵団だった両親の、たった一つの忘れ形見。何を託したんだろう、この子に。きっと、いっぱいの未来と希望が詰まってるよね」
瞳を上げてジャンを見る。
「それはもちろん、ジャンたちにも言えることだ」
と真琴は続けて、
「ありがとう。ここにいるみんな、きっと全員助かる。だって、今季の訓練兵で上位の八人が揃ってるんだもん。でしょ?」
「お前、不謹慎なやつだな。悲しんだりもしないのかよ」
微かな困惑を見せたジャンは、掠れ声で言った。真琴は柔らかい表情を消す。
「悲しいよ。だけど悲しんでいるばかりでは、先へ進めないでしょ。仲間の屍を超えてまでここへ辿り着いたのに、何もしないでジャンは死ぬの? あんな化け物の肥やしになるっていうの?」
ぎり、とジャンは唇を噛んだ。
「偉そうなこと言うな。知ってるんだぞ、お前が落ちこぼれだってこと」
ぼやきながらジャンは立ち上がった。さっきまでの翳りはなくなっており、頼もしい顔つきをしている。
真琴は口の端を上げてみせた。
「だって発破をかけたんだもん」
「よく言うぜ。一番役に立ちそうもないヤツが」
ジャンは呆れた感じで吐き捨てた。室内の中心で、塊になっている訓練兵を真琴は顎で示す。
「なにか作戦を練っているみたいだよ」
真琴の示すほうへ目線を投げてから、ジャンは少女の頭に手をおいた。
「大丈夫だ。俺たちが絶対助けてやる。それと、怪我もないから」
「よかった! 心配だったの!」
笑いかけてから、ジャンは作戦中のみんなの輪に入っていった。
ジャンがやる気を取り戻したというのに、真琴の気分は何だか晴れなかった。
「綺麗ごと」
ぽつりと落ちた言葉には、自分への軽蔑が混ざっていた。
助かるかもしれないという感謝は本音。少女を助けてあげられることに光が差したのも本当。だけど、
真琴は両手で顔を覆った。
どうしても屍を乗り越えられない。悲しみにがんじがらめにされる。太い頑丈な鎖に捕らわれて、一歩だって動けなくなりそうになるほど、恐ろしくてつらくて悲しい。
気持ちを切り替えられないのは、兵士としての訓練課程を終えていないための、精神の弱さなのか。それとも、真琴の生まれた世界が、平和過ぎたための裏返しなのだろうか。
「お兄ちゃん? 泣いてるの?」
小さな手が真琴の服を引っ張る。不安を移さないよう、笑顔を貼りつけた。
「ううん、泣いてなんかないよ」
窓際で外を眺めているミカサを、見やりながら言う。
「あのお姉ちゃんに用があるから、みんなの輪の中で待っててくれる?」
少女が肯くのを認めてから、真琴は窓際へと向かった。ミカサの隣に立つと、彼女は熱心に外を見詰めていてた。視線の先には、例の奇行種が映っているようだ。
ミカサに話しかけてみる。
「あの巨人の戦い方、見覚えない……?」
「……格闘術の概念が、あるように感じた」
欲しかった答えと違った。念を入れるため、ミカサを覗き込む。
「それだけ?」
「え……?」
質問の意図が分からないミカサは、向かい合って眼を瞬かせた。
真琴は視線をミカサから窓に戻して、外で暴れている奇行種に眼を凝らした。あの格闘術は見たことがある。そう、解散式の夜だ。エレンとジャンの喧嘩のときと似ている。
ひんやりと冷たい窓ガラスをなぞる。
「まさか、そんなはず……」
独り言が真琴の口をついた。ある可能性に、それはあり得ないと頭を振る。あれがエレンのはずはない、と。
エレンが巨人に喰われる瞬間を、確かにこの眼で見た。が、その巨人の中からもう一体巨人が湧いて出てきたのも、また事実である。
エレンの能力を吸収して、新しい巨人が生まれたのか。「そんな馬鹿な、漫画の見過ぎだ」と真琴はこめかみに両手を持っていく。強く押せば、重い頭もすっきりしてくる。
――漫画、か。
真琴からしてみれば、この世界の在り方そのものが既に漫画だった。ならば何でも有りなのかもしれない、と溜息が零れた。
「真琴さん!」
声に振り返れば、アルミンが手を挙げて真琴を呼んでいた。
とうに全員が輪になって集まっており、傍らにいたミカサもいつの間にか消え、みんなの輪に入っていた。真琴が悶々としている間に、どうやら作戦は纏まったらしい。
作戦とは、作業用リフトに乗った囮役が、銃を撃って巨人を惹きつけている隙に、天井に潜む仕留め役が背後から巨人のうなじを狙うというものだ。
補給室を彷徨く巨人は全部で七体。討伐するのに最適だとアルミンが選んだ七人は、ミカサ、ジャン、アニ、コニー、サシャ、ベルトルト、ライナー。それぞれが一体ずつ、責任を持って倒さなければならない。チャンスは一度きり。失敗は許されず、それは死に直結する。
訓練兵のひとりに少女を預けて、真琴は作戦に参加するべく、みんなとともに地下へ向かう。
むろん囮役だ。背中の自由の翼が嘆いていたが、仕留め役は真琴の手に余るのだ。情けないが仕方なかった。
地下の薄暗さと湿り気おびた感触に、じわじわと恐怖と緊張が湧いてくる――氷の張った海に投げ入れられたような凍えを伴う。
でも怖いのはみんな一緒だ。リフトに乗り込んだ面々を見やれば、誰しも不安に咽喉を詰まらせていたのだから。
組んだ両手を額に押しつけ、真琴は祈った。困ったときの神頼みとは、まさに日本生まれならではのもの。無宗教で信心深くない真琴が、こういうときだけ救いを求めても、きっと神様は加護を与えてくれないかもしれない。けれど何かに縋りつきたかったのだ。
作戦決行の合図があった。
みんな一斉に銃を構えて乱射する。リフトにいる人間に気づいた巨人七体。餌におびき寄せられる鯉のように集まってきた。
巨人を惹きつけるために、真琴も思い切り銃のトリガーを引く。
――身体が押される……!
人生で初体験の射撃は、その反動で体が勝手に後ろに下がっていく。銃を構える両手は、強い振動ですぐに痺れがやってきた。しっかりと的に当たっているのかさえ分からない。
タイミングを見計らい、巨人の背後から仕留め役の七人が舞い降りた。次々と仕留めていく。鮮やかな身のこなしは、さすが今季上位の成績で卒兵しただけはある。
作戦は成功だ。安心して体の力が抜けた。
と、そのとき。切羽つまった大声が地下に響き渡る。
「仕留め損ねた! サシャとコニーだ!」
咄嗟に身を乗り出して確認する。二体の巨人が、サシャとコニーを襲おうとしているところだった。
サシャの元へミカサが駆け出すのを目の端で捉えた。真琴は咄嗟に立体機動のトリガーを引いた。
勢いよく飛び出したアンカー。いまにもコニーに襲い掛かろうとしている巨人の背中に、突き刺さる。リフトに足をかけて飛び降りる。高速でワイヤーを巻き取っていく。真琴自身が作る向かい風に、眼を瞬かせながら手早くブレードを装填した。
ある男が真琴の脳裏を過った。
――縦一メートル横十センチ。お前には力だけで削ぐのは無理だ。ならばどうするか。速度を利用し勢いをつける。俺のやり方をよく見ておけ。
できる、できないは関係ない。とにかく無我夢中で、脊髄反射のように体が反応したのだった。
肉を断つ嫌な手応えを感じた。つんのめりながら着地し、真琴はすぐさま背後を振り返る。心臓の音が耳に聴こえるほど脈が早い。両手に血の感触。燃えるさかる炎のように、熱くて気持ち悪い。
倒れている巨人の背中には、細い三日月のような傷がついていた。が、うなじを逸れていた。のそりと巨人は立ち上がる。真琴を睨んできた。
――仕留め損ねた!
舌打ちしたい気分だった。距離が近すぎる。ここから応戦しても、真琴に勝機はない気がした。
ちらりと傍らに視線を流す。腰を抜かしているコニーがいた。完全に戦意喪失している。
巨人が腕を伸ばしてきた。震える片膝でにじり寄り、真琴はコニーの前に立ち塞がる。刃を胸の前で構えた。
半ば混濁気味の頭では、打開策など一つも浮かんでこない。それでも、「死ぬのだけはごめんだ」と、奥歯を強く噛み締めたときだった。
うなじ付近から血しぶきを上げた巨人が、前のめりに倒れ込んできた。絶命したのか、おびただしい蒸気を発している。背後には僅かに焦った表情のアニ。赤い血を纏った刃を、振り落としたところだった。
蒼白の真琴はほっとして肩を落とした。首筋に汗が光るアニは、顔を伏せて息をつく。
「ったく、できもしないくせに無茶するんだから……」
「……ごめん、ありがと」
結局役には立てず、ただ迷惑かけただけに終わった。でしゃばった行動を取った真琴は、体裁を悪く感じて落ち込んだ。
でも、とアニが流し目をする。
「あんたが時間を稼がなかったら、間に合わなかったと思う」
「こんなんでも、役に立ったのかな……」
おずおずと顔を上げた真琴。普段なら見せないだろう柔らかい瞳を、アニはくれた。
でもやっぱり貢献できたとは思えない。彼女は優しいから、真琴を立ててくれたのだろうと思った。
「真琴〜!!」
泣きべそを掻いているコニーが、真琴に抱きついてきた。
「ありがとな! 助けてくれようとしたんだろ! 意味なかったけど!」
「ほんと意味なかったね」
と苦笑したかったが、頬が堅くて無理だった。
「そんなことねぇよ! 真琴が来てくれなかったら俺、死んでた!」
素直なコニーの気持ちは、真琴の硬い表情をやっと解いてくれた。自然と口許が綻んでいく。目許からは、恐怖からではなく、温かい涙が溢れてきた。
「よかった」
笑みを深くして、真琴はコニーを力強く抱きしめた。強く鼓動を打つ心臓の音が聴こえる。血の通う温かさが、こんなにも嬉しいだなんて知らなかった。
「生きてて良かったっ。みんな、生きてて良かったっ」
たくさん死んだ。これからの未来を担う若い命が、たくさん喪われた。
けれど、
深い悲しみの中で、真琴は曙光を見出した。
仲間を喪っても立ち止まらない。絶望の淵に落とされても、生きることを諦めない生命の強さ。
「真琴……男のクセに泣くなよ!」
「お前もな、コニー!」
泣き笑いする二人は、破顔して互いを毒突いたのだった。
ガスを補充して、ようやく脱出することができる。みんなが次々と脱出していく中、なぜかミカサは思い立ったように、本部の屋根へ向かって飛んでいってしまう。
訝しく思った真琴は、ミカサを追って屋根に登った。理由を眼にする。
わらわらと群がる巨人の中心にいる奇行種。無惨にも体がボロボロで、両腕がもげている。周囲の巨人に、噛みちぎられているらしかった。
ハイエナを見ているようで、気分が悪くなる。
「共食いしてる」
「人類のためになると、思ったのに」
悔しそうにミカサが呟いた。
真琴たちを脱出に導いてくれた巨人は、いまにも力尽きそうだった。物質量の重さを察せられるほどの衝撃音が轟いた。塵や煙混じりの衝撃波を伴い、奇行種はうつ伏せに倒れこんだ。
「倒れたぞ! 死んだのか?」
そばにいたジャンが叫んだ。その場にいるみんなが巨人に注目したとき、それは起きた。
「エレン!!」
ミカサが感情的な声を上げた。
力尽きた巨人のうなじの肉が、左右にぱっくりと割れている。中から、飛び出すようにエレンが顔を見せた。身体中が筋のようなもので巨人と繋がっている。瞳を閉じているので、生きているのか死んでいるのか判断がつかない。
立体機動のアンカーを射出させ、ミカサは下に降りていった。すぐさまエレンの元へと駆け寄る。胸に耳を当てて、生きているかを確認しているようである。
次の瞬間ミカサは涙を浮かべていた。嬉しそうに顔を歪ませた彼女を見て、エレンは生きているのだと、真琴は読み取った。
漠然とそんな予感はしていたから、不思議と驚きは少なかった。――奇行種がエレンであることに。
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mokuji
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