04.雲ひとつない晴天の昼下がり

 雲ひとつない晴天の昼下がり。
 真琴は自主訓練をさぼって自室で昼寝をしていた。咎める者が留守って素敵、と思いながらベッドで寝返りをしたときだった。

 ――地面を伝う大きな振動とともに外から低い衝撃音が轟いたのは。

「なにごと……?」
 部屋の置物という置物が、がたがたと揺れてまるでダンスでもして踊っているかのよう。地震かと思って一瞬ベッドの上で身が縮みあがった。が、すぐに収まったのでどうやら違うらしい。
 だけれど尋常ではない気配。真琴はそっと身体を起こして窓から外を覗いてみた。遠くに聳え立つ巨大な壁と、いつもと変わらない景色があるだけだった。

「真琴! いるか!」
 少ししてから急くように扉をノックする音がして、真琴はのそりとベッドから降りて扉を開けた。
「何か用でしょうか?」
「さっきの轟音、気づいたか?」
 ノックをした正体は前回の遠征で負傷した療養中の兵士。なぜか緊迫感を纏っているように感じた。

「なんか、鳴り響いてましたよね? 遠くのほうからでしょうか。地震かと思ったんですが一瞬でしたね」
「ああ、地震じゃないな。屋上を確認したんだが煙が上がっていた。あれは南の方角だ。トロスト区かもしれない。気になるから様子を見に行ってくれないか?」
 俺はこの通りだし。と兵士は松葉杖をついた自分を口惜しそうに見下ろした。
「知っての通り、調査兵はみんな遠征で出払っている。まともに動けるのはお前しかいないんだ」
「分かりました。ボクが様子を見てきます」
 真琴があまり危機感もなく頷くと、兵士は厳しい表情で付け足した。
「念のため立体機動装置を装備していってくれ。……嫌な予感がするんだ」

 市街地の様子を見に行くだけなのに、どうして立体機動装置が必要なのか。納得いかない面持ちのまま、真琴は出掛ける準備をした。
 外套を羽織ってから厩舎へ向かい、リベルタを連れ出して目的の南へ向けて駆ける。
 市街地とトロスト区内門の境目に近づくにつれ、なんだか人間の流れが多くなっていった。
 引っ越しをするのだろうかと思ってしまうほど、市街地に向けてなだれ込んでくる人たちは、手や背に大きな荷物を携えている。その顔は恐慌を貼りつけたように硬い。
 喧騒に混じって、人々の口から聞こえてきた言葉に、真琴は驚愕して息を呑んだ。

「超大型巨人が現れた!」
「トロスト区の外門が破壊された!」
「巨人がのり込んでくるぞ! 早く逃げろ!」

 大波のように押し寄せてくる人間は、呆然としている真琴を避けて逃げていく。モーゼの十戒の有名な海を割るシーンのように。
 ――そんな、これって五年前と同じことが起きてるってこと?
 嘘でしょ、と頭が白くなりかけていると、リベルタの鼻を鳴らす音に真琴は顔を上げた。とりあえずは、もうちょっと詳しいことを聞いてからでないと帰れないと思い、トロスト区内門までやってきた。

 内門周辺は、御神輿を思わせる押し合い圧し合い状態で、我先に逃げようとする人間で溢れかえっていた。付近で誘導している駐屯兵に目を留めて、現状を訊くために捉まえた。
「あの、すみません。詳しいことを教えてほしいのですが」
 馬上から声をかけると、振り返った兵士は一瞬煩わしそうな顔を寄越した。けれど真琴の羽織う外套に目をやると、顔色を変えて飛びかかりそうな剣幕で詰め寄ってきた。

「ありがたい! 調査兵団か!」
「え、あ、はい」
「いま駐屯兵団の先遣隊がトロスト区前衛部を死守しているんだ! あんたも加勢してくれ!」
 真琴は思いがけない反応に呆気に取られるが、無理だと小刻みに首を横に振った。

「い、いえ、ボクはその、ただ様子を見に――」
「住民の避難が完了したら撤退の鐘がなる! それまで頼んだぞ!」
 早口で一方的に言い、兵士はリベルタの綱を勝手に引く。人垣を割るようにして内門をくぐっていく。
「どいてくれ! 通してくれ!」
「ちょっと、ボク無理です!」
 真琴の張り上げた拒絶は、周りの喧騒によって兵士には届かない。

「リフトはいま停止している! 脱出するときは馬を置いて壁を登ってくれ! なに、大丈夫だ! 巨人は馬は襲わないんだからな!」
「違うって! 戦えないって言ってるの!」

 戦場に駆り出される恐怖で真琴の頭は混乱の極地だった。
 兵士から綱を奪い取って踵を返せばいいものを、そんな簡単なことにも思考が働かないまま、いつの間にかトロスト区内門をくぐり抜けてしまっていた。
 まさか巨人討伐に加勢させられるとは思わなくて、頭が真っ白になっていく。場は喧々としているのに、真琴とリベルタだけ周りから取り残された気分で、途方に暮れて項垂れた。

「失敗したな。調査兵団の外套なんて着けてくるんじゃなかった……」
 弱々しい声がぽつりと落ちた。

 ここはトロスト区内門の後衛部だ。辺りを見回すと、住民の避難にはまだ時間がかかりそうだった。先遣隊になど参加したら生きて帰れない自信がある。情けなくも、その場から動くのが億劫で手を拱(こまね)いていた。
 そんなときだった。
「真琴さん!」
 聞いた声に振り返ればミカサだった。

 こちらへ駆け寄ってくるミカサの腰元には、立体機動装置が装備されている。訓練兵も防衛戦に駆り出されているという事実に愕然とした。もうすぐ正式に兵士になるとしても、彼らはまだ少年少女なのに。
 真琴の元へやって来たミカサは、珍しく落ち着きをなくしていた。

「エレンが中衛部を任されてる。私は……ここを離れられない。真琴さんお願い。エレンの様子を見てきてほしい……」
 さっきから見せていたミカサの不安げな表情は、いまの危機的現状というよりも、エレンを案じてのものらしい。
 真琴より若い子が、命をかけて闘っている事実に心を揺さぶられる。どうやら覚悟を決めなくてはいけないようだ。
 分かった、と真琴は緊張の硬い表情で肯いてみせた。
「エレンを探してみる。ミカサは自分の任務に集中すること。いいね?」
 ミカサの返事も聞かずに、リベルタの手綱を引いて駆け出した。

 しばらく走ると住民はすっかり見かけなくなったので、避難は順調に進んでいるのだろう。もぬけの殻の街を、立体機動で飛びまわる兵士の姿がいくつか遠くに見える。
 中衛部へ差しかかれば、ちらほらと巨人が我が物顔で歩く様子が見てとれた。景観の良かった街は、いまや屋根が崩れていたり煙があちこちで上がっていたりで半壊と化している。

 真琴はいままで災害というものにあったことがない。地震や水害などを経験したことはないので、ほかの地域の様子をニュースで見て知っているだけ。あとは戦争も歴史で習っただけでもちろん体験はしていない。
 なぜこのようなことを考えるのか、それはなんとなく災害を想像させるほど街が崩壊しているからだった。しかしながらこの悲惨な状況は、例えるなら戦争といっても過言ではないのかもしれない。

「エレンはどこだろ」
 巨人を避けながら真琴はエレンを探した。
 リベルタを連れてきて正解であった。未だに立体機動を使いこなせない真琴には装置はお荷物であり、信頼関係のあるリベルタのほうが機動力がある。

 エレ――ン!!
 遠くから悲痛な叫び声が聞こえた。真琴は前方に眼を凝らす。眼に飛び込んできた映像は非常に残酷な光景だった。
 ――巨人がエレンを呑み込んだ瞬間だったのだ。

 叫び声の正体はどうやらアルミンのようだった。彼は民家の屋根の上で両膝を突いている。正面にはエレンと十メートル級の巨人。
 エレンはいまにも喰われてしまいそうな状況だった。
 巨人の上顎と下顎を全身で突っ張りながら、喰われまいと抗うエレン。しかし十メートル級の顎の力に敵うはずはなく、無念にも口内に取り込まれてしまう。
 蛇が自分よりも大きい獲物を丸飲みしたときみたいに、巨人は喉元を丸く膨らませてエレンを嚥下(えんげ)した。
 真琴は眼で見たものを理解できなかった。

「そんな、エレン、嘘……でしょ」
 エレンが、死んだ。
 不思議と涙は出てこなくて、リベルタを走らせることなく、真琴はただ気力を失ったように呆然とする。

 ――――!
 少しして声が聞こえる気がした。そんなに遠い距離ではない。
 だけど体が動かなかった。
 ――――!
 子供の声らしい。
 だけど耳鳴りがしてよく聞こえなかった。

 真琴が自失していると、突然リベルタが前足を高く掲げて暴れだした。
 脱力した真琴は簡単に振り落とされてしまい、地面に伏す。その拍子でやっと我に返った。痛む腰をさすりながら、起き上がってリベルタを睨む。
「痛いよ、リベルタ。何する――」

 言葉を切って弾かれるように真琴は振り返った。左右に首を振って何かを探すように辺りを見渡す。
 鮮明に子供の泣き声が耳に入ってきたからだった。声量からそう遠くはなく、逃げ後れたのかもしれない。
「どこ、どこから」
 真琴は泣き声を頼りに走り出した。路地裏へ入って突き当たりを曲がる。その先で、体を丸めて泣いている少女の姿を見つけた。

「大丈夫!? 怪我はない!?」
 駆け寄って、少女に見覚えがあることに気づく。前回の遠征の帰還時に、真琴と対話したおさげの少女だった。
「お婆さんとはぐれちゃったの?」
「うん……」
 顔を覆っていた紅葉のような小さな手を、少し下げて少女が肯いた。
 真琴は少女に腕を伸ばす。
「もう大丈夫だからね。避難場所に連れていってあげるから」

 少女を抱き上げたときだった。
 背後で地震の如く地面が揺れた。身体を一瞬痙攣させて真琴は硬直する。石畳みの割れ目を緊張しながら見詰めた。
 ――知ってる。この感じ。
 重低音を轟かせながらこちらに近づいて来ている。
 ――忘れたくても忘れられない。
 寒くもないのに身内から血潮が凍えていって、身体中が拒絶で震え出す。この感覚には覚えがあった。

 ゆっくり振り返ってみる。丁度真琴たちのいる路地の角から、巨人が曲がって来るところで、建物から頭が半分ほど突き出しているさまが見てとれた。巨人が角を曲がり切って正面にのっそりと立つと、真琴との距離は民家三軒分ほど。
 互いが向き合ったとき、ぎょろりとした巨人の眼と、瞳孔が開ききるほどに見開いた真琴の眼が交差した。獲物を見つけた巨人は、臼(うす)のような大きな歯を剥き出しにして気味悪く嗤う。

 か弱く細い腕が真琴の首に絡まって、少女の震えがリアルに伝わってくる。
 ガチガチと噛み合ない歯を、奥歯を噛み締めることで無理に抑えつけた。恐怖に呑まれている場合ではない。この小さな手を失うわけにはいかない、絶対にいかないのだから。

 真琴は震える脚に活を入れる。身を翻し、地面を蹴って駆け出した。鬼ごっこを待っていたかのように、真琴が決死の覚悟で走り出せば、巨人も地を揺らしながら追いかけてきた。
 何かを抱えながら走るというのは意外と困難なもの。少女の体がゴム毬のように弾むためか脚がもたつく。

 泣きたい気分だった。なんて理不尽なのだろう。
 巨人はきっと、だらしなく口許を緩めているに違いない。まるで嘲笑っているかのように。いや――嘲笑っているのだ、きっと。

 例えば、原っぱを自由に飛び跳ねていたバッタが、そこで突然人間どもが遊びはじめて、その反害をくらって踏みつぶされてしまうような、そんな理不尽さだ。でも人間は気づかない。小さな命が散ったことを。
 気づかない分まだいいのかもしれない。殺意があったわけではなく、そこにいたのを知らなかっただけなのだから。
 けれど「こいつら」は「人間」をわざわざ狙ってくる。意思はないと云われている巨人が、はっきりと明確な意思を持って。

 少女の身体をできるだけ自分の身体と密着させる。抵抗を少しでもなくして、真琴はただひたすら必死に走る。
 地響きが真後ろで聴こえる気がする。巨人との距離はもうあまりないのかもしれない。後ろを振り返り、距離を計るなんてことは、恐ろしくてできなかった。とにかくがむしゃしゃらに前だけを睨み据えて、筋肉が疲労で萎えてきた脚を動かす。

 ぶれる視野の前方に、細い路地が見えた。およそ三百メートル先にある。
 ――あの細さなら巨人は入ってこれないはず!
 一生分の体力を使って路地を目指し、全速力で走る。路地に差し掛かる寸前、真琴の背中に巨人の指が掠って寿命が縮んだ。飛び込むように路地へ滑り込んで、すぐさま背後を振り返る。

 三メートル級の巨人は、建物の狭間から腕を伸ばしてきたが、体までは入ってこれない。建物の高さからして、上から覆うように真琴を襲うのも無理なようだ。
「小さめの巨人で……助かった」
 息も切れ切れに真琴は振り仰ぐ。

 辺りには比較的大きい巨人が徘徊している。見つからないうちに、隠れられる場所を探さなくてはならない。
 少女を抱え直して、軒を連ねる民家の手近なドアノブに手を伸ばした。何軒か同じ動作を繰り返すことを覚悟のうえでの行動だったが、一軒目にして扉は呆気なく開いた。きっと混乱のさなか、どの家も鍵を掛けずに避難したのだろうと推測できる。

 ――不用心だな。
 思って、真琴は平和ぼけな考えに苦笑いをする。
 自分の命と家と、どっちが大切かと問われたら、形振りかまっていられないのだから迷わず家を捨てるに決まっていた。いずれにせよ、真琴にとってこの状況はむしろ有り難いと云えた。すぐに隠れられる場所を得たのだし。
 急くように屋内へ入ると、少女は震えながら真琴に抱きついてきた。

「お兄ちゃん……」
「ここなら気づかれないから……」

 巨人に気づかれない確証などない。が、いまは隠れるほか手立てがなかった。
 ――しっかりしなくちゃ。この子が頼れるのは私だけなんだから。
 外の様子が窺えるように窓際へ移動しながら、恐怖を和らげてあげることはできないかと考えを巡らす。
 ふと窓の縁に目をやる。木製のブックスタンドに、少し古びた絵本が数冊立て掛けてあるのと、小さめのぬいぐるみやブリキのおもちゃがあった。この家には小さな子供がいたのだろう。

 子供向けの砕けた絵柄を眺めていると、何となく昔が蘇ってくる。
 あれは何歳のころだったか。小学校入学前だったとは思う。

 怖い夢から逃れるために、幼いころの真琴は悲鳴を上げてベッドの上で目を覚ました。愛情いっぱいに育てられていることを証明するような、ぬいぐるみやカラフルな子供向けの壁紙が貼られた六畳のフローリングで、真琴は火のついたように泣き出した。
 泣き声に気づいた母親はすぐさま駆けつけ、ベッドの傍らに膝を突くと、真琴の背中を優しく撫でてくれた。

(また怖い夢を見ちゃったの?)
(うん……。大きいオバケが後ろから追いかけてくるの。逃げても逃げても追いかけてくるの)
 母親はベッドに腰を降ろし、泣きじゃくる真琴の涙を優しい手つきで拭った。
(じゃあ、真琴が良い夢を見られるようにお母さんがお話してあげるわね)

 真琴は頷いて、母親に促されるままにベッドへ入り直した。母親がゆっくりとしたリズムで胸を叩いてくれる。
(むかーし、むかし――)

 少女の背を撫でながら、真琴は母の温もりを思い出していた。大好きだった童話を思い浮かべながら。
「むかーし、むかし。海の底に人魚姫という美しい少女が住んでいました」
 静かな声で唐突に物語を話し出すと、少女は顔を上げた。
「うみってなぁに? にんぎょひめって?」

 辿々しい少女の口調に真琴は「あっ」と口を開く。
 この世界の人たちは、海の知識がほとんどないということを忘れていた。ならば人魚姫など想像できなくて当然だった。
 ジャケットの胸ポケットから、メモ用紙とペンを取り出す。
「海はね。とっても大きい水溜り、かな。人魚姫はね――」
 床を机代わりに何やら描き始めた真琴を、少女が四つん這いで覗き込んできた。

「わぁ! 可愛い!」
「腰から下がお魚さんなんだよ」
 人魚姫の絵が描かれた紙を少女に見せれば、「お話して!」と体を擦り寄せてくる。真琴は後ろから抱くようにして、脚の狭間に少女を座らせた。

「人魚姫は海の外の世界に興味を持っていました。十五の誕生日に人魚姫はこっそり海の上に上がっていきます」
 ゆっくりとした口調で真琴は物語を紡ぎ始めた。
 その日は嵐で、難破した船を見つけたこと。人魚姫が王子様を助けて浜辺まで連れていってあげたこと。そこへひとりの娘が通りかかって、王子様は自分を助けてくれたのはその娘だと誤解してしまうこと……。

 少女が真琴のほうへと振り返る。
「人魚姫は、自分が助けたって言えばよかったのに。どうして隠れちゃったの?」
「人魚には掟があったんだ。人間に姿を見られてはいけないという」
 ふーん、と少女は頷くと、真琴の服を引っ張って続きをせがむ。
「厳しい掟があっても人魚姫は伝えたかった。そう、人魚姫は恋に落ちてしまったんだ。王子様に」

 人魚姫は海に住む魔女を訪ねた。すると魔女は言った。この薬を飲めば、声を失う代わりに人間の姿になることができる。しかし恐ろしい条件があった。王子様がほかの娘と結婚したなら、お前は海の泡となって死ぬ、と。
 少女がごくりと喉を鳴らす。

「飲んじゃったの? その薬」
「うん。声を失っても、例え海の泡になって消えようとも、人魚姫はもう一度王子様に会いたかったんだ」
 しかし人魚姫の思いも虚しく、王子様は自分を助けたと思い込んでいる娘と、結婚を決めてしまった。
「……泡になっちゃう?」
 眉根を下げて窺ってくる少女に、真琴は緩く首を振ってみせた。

「ううん。人魚姫の姉妹たちがね、どうにか助けてあげられないかと、魔女を訪ねに行ったんだ」
 魔女は言った。王子を殺して、その血を持ってきたら人魚姫の命は助けてやろうと。
「やらないよ、人魚姫は! そんな酷いこと!」
 話に夢中でつい声を荒げた少女。真琴は人差し指を唇に添える。すると少女は自分の口許を両手で押さえた。
 そんな少女を見て、真琴は眉根を寄せて微笑む。

「そうだよ。大好きな王子様を手にかけるなんてこと、人魚姫にはできなかったんだ」
「それじゃあ……」
 少女の寂しそうな顔に真琴は肯く。
「海の泡になることを、選んだんだ」

 少女の腹の前で交差している真琴の手に、ふいに雫の落ちる感触があった。はっとして少女を盗み見れば、その瞳からはとめどなく涙が溢れていくではないか。
「……人魚姫は、覚悟を決めて海から身を――」

 それ以上は言葉にできなかった。
 というのも、少女の無垢な涙がとても綺麗だったのもある。そのうえいまの絶望的な状況で人魚姫が死んでしまっては、真琴たちの僅かな生きる希望さえ、泡になって消えてしまうのではいかと思ったからだった。

 ――違う。ほんとは、私が救いを求めているだけ……。
 強く眼を閉じる。少女の後ろ髪に頬を擦りつけると、細い髪の毛は絹のように柔らかで良い香りがした。

「人魚姫は海に身を投げました。そのとき大好きな王子様の声がしました。王子様は海に飛び込んで、泡になる寸前の人魚姫を助けました。そして王子様は人魚姫に言いました。僕と結婚してください、と。その後、ふたりは末永く幸せに暮らしましたとさ」

「よかった」
 穏やかに笑みを見せた少女に真琴も安心すればしかし、少女はすぐに翳りを帯びる。
「ここで、死んじゃうのかな」
「なに言って――」
 微笑みを湛え、慰めようとした真琴は言葉を失う。

 大丈夫だよ、なんて軽々しく励ますことはできなかった。真琴自身、ここに隠れたときから不安でずっと震えが収まらないでいるのだから。
 頼みの綱であるリベルタは見失ってしまったし、真琴には巨人と闘う術はあっても技術がない。ここに留まっていたって、救助が来るかも分からない。いつ巨人に見つかるかも分からない。

 真琴は外套を脱いで少女に掛けると強く抱きしめた。小さな子一人守る力もないと、無力さに奥歯を強く噛み締める。
 ――私たちに救いの神はいるのだろうか。
 結末を変えた物語のように、救世主は現れるのであろうか。

 少女に掛けた外套ごと、縋るようにして抱き寄せる。自由の翼に皺が寄った。
「なんでこんなときにいないのよ……」
 刹那、真琴の脳裏にある人物が過る。無性に涙を溢れさせた。
「リヴァイ――!!」
 天を仰ぐようにして叫ぶと、堪えていた涙が頬を伝っていった。

 ※ ※ ※

 時を同じく。廃墟と化したウォールマリアにて、遠征中のリヴァイはふいに振り返った。
「どうかしました? 兵長」
「何か聞こえなかったか?」
 突然振り返ったリヴァイに吃驚したペトラ。リヴァイの問いに心当たりはなかったようで、その通りに答える。
「私には何も」
「空耳か」

 独りごちるが、納得いかなくて眉を顰めた。漠然とした不安が全身を巣食っており、どうしてだか落ち着かない。
 伏せた視線を彷徨わせていた。グリップから鋭く伸びる刃が、欠けていることに気づく。惜しむことなく脱着させて捨てた。足許に金属の弾ける音が鳴る。
 新しい刃を装填して前を見据えると、こちらへ駆けてくる人影があった。馬に乗ったエルヴィンだった。
 彼はリヴァイたちのそばまで来ると、手綱を引いて馬を鎮めた。厳しい顔つきをしている。

「リヴァイ!! 退却だ!!」
「退却だと……!? まだ限界まで進んでねぇぞ?」
 退くにはまだ早い。リヴァイは難色を示して詰め寄った。――不機嫌を隠そうともせず。

 先刻、リヴァイの部下が命を落としたときに、「仇を打つ」と、「憎い巨人を根絶やしにしてやる」と約束を交わしたばかりであった。中途半端なままでは死んだ部下が報われない。
「俺の部下は犬死にか? 理由はあるよな?」
「巨人が街を目指して一斉に北上し始めた。五年前と同じだ。街に何かが起きてる。壁が……破壊されたのかもしれない」
「なんだと」
 リヴァイは眼を見開く。五年前の惨状を思い出して背筋に怖気が走った。

 なるほど。であればさっきから感じていた、漠然な不安の正体はこれだったのかと、リヴァイは口許を歪ませた。
 脳裏にある人物が過った。拳に力を込めてグリップを握りしめる。手に馴染んだラバーは、周囲に聴こえない耳障りな軋みを、感触として伝えた。

 置いてくるんじゃなかったと、リヴァイは自分の選択を悔やんでいた。
 ざわりと侵食していく胸騒ぎ。いつかの喪失感を思い出しながら、「杞憂であってくれ」と北をまっすぐに睨み据えたのだった。

参考文献:アンデルセン童話より「人魚姫」


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