03.広い食堂は今宵、少年少女たちで
駐屯兵団本部の広い食堂は、今宵少年少女たちで溢れていた。平時よりも少しばかり豪華な食事が並んでいるのは、今晩訓練兵団の解散式パーティーが開かれているからだった。
「こんばんは!」
真琴は長卓子に座るエレンに声をかけた。肩を叩かれたエレンは振り返って、ちょっと不満げな色を見せた。
「遅いぜ、真琴さん! 来てくれないかと思っただろ!」
「道に迷っちゃって……。ここに来るの初めてだったから」
「まぁ、いいや! 来てくれてありがとな!」
言いながらエレンは自分の隣の椅子を引いてくれる。笑顔で歓迎してくれたことに、ほっとしながら真琴は隣に腰掛けた。
正面にはアルミン、斜め前にはミカサがいた。アルミンは飲み物のボトルを手に取り、真琴に笑顔で視線を送ってきた。
「注ぎます」
「ありがとう」
逆さに置かれたコップを手に取って控えめに差し出す。アルミンは蜜柑色の液体を真琴に注いでくれた。オレンジジュースだろうか。
酸味混じりの甘いジュースをひと口飲んで、真琴は正面のふたりに問いかける。
「配属兵科は決めた?」
さきに頷いたのはミカサだった。
「エレンについていく」
「じゃあ調査兵団を選ぶんだ」
頷くミカサにエレンが口を曲げた。
「ついていくって何だよ。自分の意思で決めろよ」
「エレンの意思は私の意思だから」
ほとんど感情を出さずにミカサが大胆なことを言った。エレンはガックリと項垂れる。
「そんなんだから周りから俺が、からかわれるんだよ。お前がいないと何もできねぇって。腰巾着呼ばわりされてさ」
「エレンが腰巾着って言われちゃうの?」
可笑しくて真琴は笑った。
腰巾着の本来の意味は、偉い人の身辺をひとときも離れず付き従うことをいう。護衛みたいなイメージで、エレンを常に守るミカサという表現が正しいのだろう。
でも現代ではご機嫌取りのような、格好悪い意味で使われるのだ。金魚のフンと似た意味になっている。
エレンがむくれてみせた。
「ガキのころなんか最悪だったぜ」
「エレンはあんまり喧嘩が強くなかったからね」
昔を思い出したのかアルミンが笑みを浮かべた。
「近所のガキ大将にからかわれては、いっつもボロボロに叩きのめされてさ。それでも立ち向かっていっちゃうし」
「俺が向かっていくと、たまにアイツら顔を引き攣らせて逃げ帰るときがあってさ。俺を怖がって逃げやがった! って悦に浸って後ろを振り返れば、怖ぇ顔したミカサがいたってオチとかな」
情けない雰囲気を纏ってまたエレンが項垂れた。
素知らぬ顔でミカサは取り皿をとり、いくつか食べ物を盛ってエレンに差し出す。傍らでは自分で取り分けるアルミンがいて、その待遇の違いにまた可笑しさが沸き上がる。
含み笑いをする真琴に、エレンが決まり悪そうにじろりと横目を流す。むっつりとした顔つきで、差し出された皿を真琴に滑らせてきた。
「ボクはいいよ、自分で取るから。せっかくミカサが取り分けてくれたものだし」
真琴が皿を傍らへ返して、ミカサは色のない瞳でエレンを見据える。
「肉も野菜もバランスよく食べて。じゃないと強くなれない」
「ったく! お前は俺のなんなんだよ一体……」
裏返り調子な声でエレンはまた項垂れた。首元に巻かれた小豆色のマフラーに、ミカサは顎を埋めて頬を染める。
「家族……」
真琴はミカサのマフラーを見やる。
「そのマフラーって夏季の間もずっと着けてたよね? 大事なものなの?」
いまの時期からなら理解できるが、うだるような暑さの中でもミカサはかたときも肌身離さず、マフラーを巻いていた。いつも涼しげな表情をしている彼女だが、人間ならば暑ければ汗をかくだろうし、汗疹ができたりしないのかと人知れず心配していたのだった。
真琴の問いに三人は眼を伏せてしまった。不味いことを訊いたのだろうか。
しばらくしてマフラーに触れながらミカサが口を開いた。
「私は東洋人だから、いままで身の危険が何度かあって、幼少のころから隠れるように人里離れた場所で暮らしてきたのだけど」
幸運なのか、東洋人という理由で危ない目にあったことは真琴にはない。ほとんどが男装でかつらをかぶって過ごしているし、マコで街をでかけることは極端に少ないからだ。
残念ながら、いまいちピンとこなくて頷けない真琴を置いて、ミカサがぼそぼそと口に出す。
「子供のころに、人身売買の連中が突然家に押し掛けてきた。両親を殺されて、私は誘拐された」
ひゅっと真琴は息を吸い込んだ。それはきっとリヴァイがいつか言っていた、東洋人を狙うという闇ブローカーのことなのでは。さらうだけでなく、彼らは人殺しもする怖い組織だったのだ。
ミカサは続ける。
「誘拐された隠れ家で、もう駄目だと諦めていたとき、偶然エレンがやってきて、助けてくれようとしたのだけど大人に敵うはずもなくて、でもそのとき床に落ちているナイフが目に入って」
「ミカサ! それ以上言うな」
話の腰を折る、エレンの強く咎める口調だった。ミカサが伏せ目がちの瞳を上げて、彼女にしては稀なやる方ないような表情をみせた。
「……ごめん」
どうにも気まずい空気が流れた。ミカサは中略して付け足す。
「――無事に助かったあとで、エレンが首に巻いていたマフラーを私に掛けてくれた。だからこれは大切なもの」
ミカサは哀愁が揺れる瞳で、マフラーを愛しそうに見下ろした。
間違いなく、そのときに大変なことが起きたのだろう。あまり他人に知られたくない事実だから、エレンはミカサの口を塞いだのだ。俯くアルミンの様子から、彼も真相を知っているのだろう。一方で彼らが話したくないのなら、真琴だって訊き出そうとは思わない。
居たたまれない雰囲気を蹴散らそうと、真琴は何とか笑みを作った。
「男らしいね! 女の子を助けてあげるなんて! 格好いいじゃん、エレン!」
「あ、ああ!」
エレンも無理に笑顔を作って応じてくれた。
へらへらと嫌な汗が垂れそうな様子で、エレンと真琴は嘘っぽく笑う。そこへアルミンが無理した笑みで身を乗り出してきた。話題を変えるつもりらしい。
「配属兵科! 僕も調査兵団に決めたんです!」
アルミン! とエレンが反論ありげに詰め寄った。
「お前まで俺についてこなくていいんだよ! お前は頭がいいんだし、技工方面で引く手数多だろう!」
「やだな、エレン。自惚れもいいところだよ」
緩く首を振ってアルミンは微笑んでみせる。
「エレンとミカサが調査兵団に行くから、寂しくて僕も調査兵団に行くわけじゃない。このままじゃいけないと思ったからなんだ。また街に巨人が襲撃してくるようなことがあったら、僕のお爺ちゃんみたいに闘う術のない、無力な人間がまた戦場においやられる。そんな不幸なことはあってはいけないんだ。だから決めたんだよ」
エレンとミカサは合わせて眼を伏せた。そしてよく見ていないと見逃してしまうほど、浅くエレンは顎を引いた。
見届けたアルミンは、
「あとは、――僕の知恵がふたりの恩返しになるといいなって思ってる。いつも助けられてばかりだからさ」
と言ってからアルミンは真琴に視線を寄越して、にこやかに笑った。真琴はいつかを思い出して儚い笑みで返した。
三人とも覚悟を決めてしまったのだ。調査兵団へ入団することを。本当は来てもらいたくない。けれど強い志を前にして、真琴ごときでは反対などできるはずもなかった。そんな資格、ないのだから。
食事をしながらエレンたちと雑談していると、突としてジャンの大きな声がホール全体に響き渡った。
「やっとこの暑苦しい最前線の街から、快適な内地へ行けるぜぇー!」
ひとつ向こうの席にいるジャンは、若干顔を赤らめている。彼の発言は憲兵団へ入ることが決まっているように聞こえた。ということはエレンたちと同様に、十位以内に入ったのだろう。
「ジャンてば顔が赤いね。まさかと思うけどお酒なんて出てないよね?」
テーブルに置かれている飲み物の、瓶のラベルを確かめながら真琴はエレンに声をかけた。返事がないので向き直ってみれば、エレンの機嫌が悪くなっている。さっきまで楽しく話していたのに眉間に皺まで寄せて。
――エレン?
真琴は指でエレンの腕を突きながら声を落として言う。
「おーい、エレン?」
何度も突いたがエレンは反応せず、ジャンをただ睨んでいるみたいだ。機嫌が斜めなのは、どうやらジャンの発言のせいらしい。
ジャンの大声は続く。
「人類の美名とかってやつのためにここに残るのか? 本音はみんな内地へ行きたいよなー!?」
突然椅子がひっくり返りそうな勢いで、エレンが立ち上がった。その形相に真琴は慌ててエレンの肩を押さえつける。
「座って、エレン! 放っておけばいいんだよ。ジャンはジャン、君は君でしょ! 考えの相違は仕方ないよ!」
止めた甲斐なく、ふたりは熱く火花を散らし出した。
エレンがジャンを挑発する。
「内地が快適だとか言ったな……。 この街も五年前までは内地だったんだぞっ。ジャン……内地へ行かなくても、お前の脳みそは快適だと思うぞっ」
「俺が頭のめでたいヤツだと、そう言いたいのかエレン。それは違うな。俺は誰よりも現実を見てる」
急に暗い翳りを落とし、諦め口調でジャンが語り始めた。
「四年前、巨人に奪われた領土を奪還すべく、人口の二割を投入して総攻撃をしかけた。そしてそのほとんどが巨人の胃袋に直行した。巨人を倒すまでに平均で三十人が死んだ。しかしこの地上を支配する巨人の数は、人口の三十分の一じゃ済まないぞ。もう充分わかった。人類は……巨人には勝てない……」
周囲は四年前の悲劇を思い出して静まり返ってしまった。
確かに、巨人が世界に溢れている限り、人間の力ではどうしようもないのかもしれない。諦めを感じてしまうほど、巨人は人類にとって脅威だからだ。
身をもって体験した真琴にはよく分かる。できれば二度とお目にかかりたくないものだ。
――でもエレンは……。
真琴は強く拳を握りしめているエレンを見上げた。
巨人の脅威を目の当たりにしても、絶望せずに前を歩き続けている。どうしてそんなに強い意志でいられるのか。
いつの間にかエレンは落ち着きを取り戻していた。その顔は真剣そのものだった。
「巨人に物量戦を挑んで負けるのは当たり前だ。四年前の敗因のひとつは、巨人に対しての無知だ……。負けはしたが、得た情報は確実に次の希望へ繋がる。お前は戦術の発達を放棄してまで、大人しく巨人の飯になりたいのか? ……冗談だろ? オレは……」
エレンは拳を見つめながら続ける。
「オレには夢がある。巨人を駆逐して、この狭い壁内を出たら……。外の世界を探検するんだ」
エレンを見つめていた真琴は眼を瞬いた。
息が続かなくて苦しくて、やっとのことで海面に顔を出し、新鮮な酸素を胸いっぱいに吸い込んだ――そんな晴れやかさに目が冴える。
そうだ。エレンの夢はごく普通の感覚だ。なのにこんな当たり前のことでさえ、この世界に住む人々は渇望してはいけなかったのだ。巨人を駆逐したいのは決して肉親を殺された恨みだけではない。広い世界をその眼で見たいがため。
――この世界って可怪しいかも。
人間は手に入らない物には貪欲で、どうにかして手に入れようと躍起になるもの。いくら巨人の脅威があるとはいえ、知ることさえ抑圧するなど可能なのだろうか。
例えばアルミンの本。世界の自然を描いた絵を彼は知らなかった。王政が興味を持つことを禁じていると言っていたが、人間の好奇心に対してコントロールをすることなどできるのだろうか。
――だけどこの世界はそれをやってのけてる……。
普通は反乱や革命のひとつやふたつ、あったとしても可怪しくないのに。つまり王政とはよほど絶対なるもの、いわゆる独裁政治に近いのかもしれない。
真琴が思考に耽っているときだった。様様な物が倒れるような割れるような音ともに、騒然さが耳に入った。
眼に映るものに真琴は唖然と口を開けた。
――なんで喧嘩してるの〜……。
いつとはなしに、エレンとジャンは激しい殴り合いをしていた。襟ぐりを掴み合い、罵倒しながら殴る蹴るを互いに繰り返している。しかしながらジャンを圧すほどのエレンの強さに、止めることを忘れてしまうくらい真琴は驚いていた。
いつものことで見慣れているのか、周囲は呆れた様子でふたりを傍観するだけで、真剣に間に入ろうとする者はいない。
ふいに誰かがのんびりした調子で警告する。
「おーい! エレンの対人格闘成績は今季トップだぞー!」
それはジャンに向かっての言葉らしかった。
やり合いでジャンが僅かに後退した隙を狙い、エレンが半身を捻りながら大きく拳を振り上げた。
――会心の一撃だ!
あれが入ったらただじゃ済まないだろう。なにが良策か判断する時間なんてなかった。真琴は咄嗟に席を立つ。ふたりのところまで走って狭間に滑りこんだ。
「エレン、そこまで!!」
「!!」
両手を広げて待ったをかける真琴に、エレンが気づいて眼を見張ったのが見えた。けれど勢いを殺すことは叶わず、そのまま真琴に突っ込んできた。
受け身を取れなかった真琴は、吹き飛ばされるようにして横倒しになる。肩に思い切り一撃をくらい、苦痛に小さく喘いだ。
「痛っ……!」
痛みに顔を歪め、片手を突いて半身を起こす。そのあとで呆れた笑みを口許に、真琴は独りごちた。
「アニに護身術を教わってたのに、うまくいかないものだな」
「真琴さん、なんで割って入んだよ! 急に止めることなんてできないんだぞ!」
真琴のそばで膝を突いたエレンが、困惑顔で責めてきた。真琴は苦笑し、肩を庇いながら立ち上がる。
「君のその技術って、仲間を傷つけるために高めたの? 違うよね。本当に拳を振り上げる相手は誰? 憎むべきものは何?」
エレンが徐々に項垂れていく。
「わかるよね。なら、すぐ感情的にならないで大人にならないと。衝動的に動いてもいいことなんてないし。……ボクも人のことを言えた義理じゃないけど」
しかも受け売りだしね。と言いながら真琴は苦い色をして笑ってみせた。
そう、憎むべきものは何? この言葉は、いまごろ壁外で死闘を繰り広げているだろう男の言葉だった。
――もう夜だからキャンプ中かな。
姿を思い浮かべると、自然に口許が柔らかく綻んでいくのはどうしてなのだろう。
エレンを見下ろすと、両膝を突いて項垂れたまま黙りこんでいた。けれどその哀しそうな表情は、きっと反省してくれているのだろうなと思った。少し喧嘩っ早いが、根は真面目で良い子なのは知っている。
遅れて駆けつけたミカサが、咎めるような視線をエレンに向けたあとで、真琴に向き直った。
「真琴さん、代わりに謝る。ごめんなさい。エレンの頭を冷やしてくる」
ミカサはそう言い、エレンを軽々と俵担ぎした。
「あ、ううん、いいんだ、べつに。分かってくれたようだし……」
――女にしては背が高いとはいえ、男を担ぎ上げるなんて凄い腕力……。
真琴は思わず眼を丸くして、ミカサが外へ出ていくのを静かに見守った。
周囲を見渡すと、野次馬が真琴たちを中心にして輪になっていた。
――さてと、残るは……。
溜息をつき、ゆっくりとした動作で真琴は後ろを向いた。
「ジャ〜ン」
「んだよ……」
ジャンを眺めると、両の拳が震えているのに気づいた。格闘術でエレンに圧されたことと、またミカサがエレンの世話を焼くことに苛立っているのだろう。
「毎度のことだけどさ。いちいちエレンを挑発するのはやめなよ」
「うっせーな。あんたには関係ねぇだろ」
「関係あるよ。君を庇って肩が痛いんだけどっ」
わざと頬を膨らませ、真琴は肩をさすってみせた。ジャンは唇を尖らせる。
「頼んでねぇし。おせっかいなんだよ」
不服げに言うと、ジャンは手近にあるボトルを取り、コップに中身を注いで飲んだ。
真琴は悪戯な笑みを浮かべて、
「知ってる? 気になるコほどイジメたくなっちゃうってやつ? もしかしてジャンってエレンのこと〜?」
ぶーっ、とジャンは口に含んだものを噴き出した。
「気色悪いこというなよ!」
「ちょっ! 汚いな!」
噴き出したものが真琴の顔面にかかり、ポケットからハンカチを取り出して拭った。しかも顔の周辺がアルコール臭い。
「ちょっと、それお酒じゃん! 君まだ未成年でしょ!」
「今夜は無礼講だろ!」
言いながらジャンは人集りを割って、自分の席へと戻っていった。
騒動が収まって野次馬が散っていく中、誰かが真琴の右肩に触れた。その瞬間真琴の顔が苦痛に歪む。肩に触れた正体は、振り向けばアニだった。
「やっぱり……。脱臼してるよ」
「ウソ!?」
肩の筋肉と筋が捩じれて、縮まったような痛みはあったが、まさか脱臼しているとは思わなかった。意識するとますます痛くなってくるから、人間の身体とは不思議なものだ。
アニは咎めているのか、そうでないのか、よく分からない無表情で真琴に注意をしてくる。
「技術もないくせに止めに入るから」
「だってほっとけなかったから……」
「動かないで、入れてあげる」
承諾もなしに、両手で真琴の肩と二の腕を強く掴んだアニは、そのままゆっくりと回転させる。
――ひーっ!!
ぞわぞわと頭皮の毛が逆立つような悪寒と合わせて、骨がズレる嫌な音がした。次に鈍い痛みが肩から腰にかけて走る。関節が入って肩を押さえていたアニの手が離れていった。
「しばらく安静にしていないと、また外れるからね」
「脱臼ってくせになりやすいとは言うよね」
心臓がくっ付いてしまったかのように、ドクドクと痛みを放つ肩を押さえて真琴は首を竦めた。
「ごめんね……。せっかく護身術を教わってたのに」
「実戦で自然に受けられるようになるには、数ヶ月の訓練じゃ無理だよ」
いつものことながらアニはクールだ。初めてアニと知り合ったころから、彼女には対人格闘術を指南してもらっている。指導は厳しいもので容赦がなく、擦り傷が耐えなかった。だが出来の悪い真琴に今日までずっとつき合ってくれていたのだ。感情が分かりにくいが、アニはとても親切な子だ。
アニは最後まで表情を変えず、踵を返して背を向けた。その後ろ姿に真琴は「あっ!」と声を洩らす。
「アニ! バレッタ壊れてない?」
「え……?」
振り向いたアニが、髪からバレッタを外して確認している。
「ほんとだ」
金具のバネを指でいじりながらアニは呟いた。どうやらバネが劣化して機能しなくなっているようだ。
そうだ! と真琴は思い出して、自分のポケットを弄(まさぐ)った。
「これ、よかったらあげる。使って」
にっこりとして差し出す真琴の手のひらには、大人っぽいビジューのバレッタがあった。
リベルタの腹帯にしてもそうだが、真琴は手作りをするのが趣味だ。このバレッタも土台に好みのビジューをあしらい、コツコツと作ったものだった。
バレッタを見つめるアニの眼が丸くなる。
「……男のあんたが何でこんな物持ってるの」
「え?」
アニの素直な疑問で、何も考えずに女物のアクセサリーを差し出したことを後悔した。けれどいまさらなかったことにはできず、後頭部をわしわし掻きながら真琴は必死に取り繕う。
「い、いや〜……。す、好きなコにプレゼントしようと思ってたんだけど! そ、そのコってば彼氏いたんだよね〜!」
冷や汗を浮かべてお茶を濁す真琴は、客観的にみても滑稽に見えたと思う。
「ふーん。まぁ、くれるのなら貰っとく」
どこ吹く風でそう言い、アニは真琴の手からバレッタを受け取ると、器用に髪に留めた。そしてほんの少し碧眼を伏せる。
「あんた……。いつまで調査兵団にいるつもりなの?」
「いつまでって、何かその言い方って除隊しろって聞こえるんだけど……」
「そういうつもりで言ったんだよ。前にも言ったよね、向いてないって」
そういえばそんなことを、アニと初めて出会った日に言われた気がする。
アニの率直な言葉が言う。
「今夜ここにいるのだって、壁外調査に置いていかれたから来れたんでしょ。要するに戦力として当てにしてないってことじゃない」
「それだけじゃない気はするんだけどねぇ……」
真琴は思いを巡らせて眉を顰めた。きっと置いていかれたのは疑われているからだろう。
なに? と言いたげに眼を凝らすアニに、真琴は何でもないと空笑いしてみせた。
「あんた一人やめたところで、誰も困らないんだろうし。ずっと指導してきたけど、あんたが何で調査兵団にいるのか最後まで見えなかった」
それは真琴にも分からない。どうして調査兵団に属しているのか。
きっかけはフェンデルに潜入しろと言われたからだったが、トラウマを抱えてからはやめてもいいと何度も言ってくれているのに。それでもやめる決心がつかないのは、何でなのか自分でも分からない。
真琴は困って笑う。
「アニは人を見る目があるね。ボクでさえ分からないことなんだから、アニが見えなくて当然だよ」
「中途半端じゃ死ぬよ。いままで運が良かっただけで、この先何があるか分からないんだし」
「心配してくれてるんだ?」
覗き込むように真琴が茶目っ気に言えば、恥ずかしそうにアニは目線を横へ逸らした。
「……根性はあるよね。けっこう厳しくしてきたつもりだけど、逃げなかったし」
「でしょー!? 頑張ったよね、ボク!」
褒められたことで真琴は有頂天になった。アニは素知らぬ顔でばっさり切る。
「そのわりには全然成果を得られなかったけどね」
がっくりと項垂れた真琴を見てからアニは背を向けた。
「あとこれは忠告。――詰めが甘いよ、もっと気をつけな」
去りぎわのアニは、珍しく微笑を浮かべていた。
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mokuji
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