02.妙な静けさに居心地の悪さを

 調査兵団の兵舎は、ほとんどもぬけの殻といっても過言ではなかった。妙な静けさに居心地の悪さを真琴は感じていた。
 ふと窓に眼をやると、暗闇の中できらりと光るものがあった。不審に思い窓を開け放って見下ろせば、いつかのように男がひとり立っていた。
 ――フュルスト!
 片手に小さなランプを持ったフュルストが窓の下にいた。男は手招きしながら口パクで何か言っているが、夜の闇でそれを読み取るのは難しかった。
 真琴は物音を立てないように、部屋から出て兵舎の入り口へ向かう。玄関を出ると待っていたかのように、男はそばに植えてある低木の影から現れた。

「なんの用?」
 真琴は面倒そうな顔をしてフュルストに向き合う。
 フュルストは黒装束を着ていて、まさに黒子のようだった。闇に溶けこむ、その姿は瞳だけが月に照らされて蒼く瞬いている。
 フュルストは片腕を腰にあてた。
「ひまでしょ?」
「べつに……」
「ひとり置いていかれちゃって寂しい?」

 真琴は頬を膨らませた。
 この男はなんでも知っている。真琴が壁外遠征に行かないことも。その情報はどこで仕入れるのだろうと不思議に思う。
「貸し切りみたいで気分いいわよ」
「強がりいっちゃって」
 フュルストはからかうように微笑った。図星だから真琴は眼を逸らす。
「私のことはいいから。――なにしに来たのよ。また夜の散歩?」
「そんなところ」
 言ってフュルストは真琴の手を引いた。兵舎の裏へと歩いていく。
 真琴は戸惑って問う。
「どこへ行くの?」
「正面玄関から出るわけにはいかないでしょ。僕、不法侵入者なわけだし」
「そうじゃなくて……」

 主旨が分からなくて、真琴は当惑に眉根を寄せる。
 フュルストは裏手にある立木の隙間へと身を滑り込ませていく。とりわけて塀もない敷地内は、連なる立ち木を超えればそこはもう市街地だ。

 突としてフュルストは振り向く。手には鉢巻きのような黒い布が握られていた。
「目隠しさせてもらう」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 顔に近づいてくる黒い布に不安を覚え、真琴は後退って手で払いのけた。
「どういうこと!? 説明もなしに怖いことしないで!」
「怖いことなんて何もないよ。心配しないで」
「どこに行くのか、なんの目的があるのかを教えてって言ってるの! 何も訊かされずにいきなり目隠しされて、不安になるなっていうほうが無理よ」
「言ってなかったっけ?」
 とぼけて微笑うから、真琴は頬を膨らませた。膨らんだ真琴の風船を割るように、フュルストは指で突いてくる。

「アジトへ連れていってあげようと思って」
「アジト?」
「正確にはいくつもあって、そのひとつへ。研究所として使ってる。フェンデルさんが君を勧誘した、真の目的の場所だね」
 ウィンクするように片目を瞑るフュルストの、その手にある黒い布を真琴は物案じて見やった。
「それでなんで目隠しなの?」
「まだちょっと心配だから」
 肩を竦めて背後に回ったフュルストを、真琴は不安げに眼で追う。
 心配だから、とフュルストは言う。おそらくは真琴を完全に信用していないということだろう。
 目許に布の感触。理由を聞かされても不安を伴う。このまま闇に葬られてしまったらどうしよう、そんな恐怖。
「大丈夫。取って食いやしないよ」
「なにかあったら……、化けて出てやるから」
「だから君が心配しているようなことは起きないから」
 困ったような口調でフュルストは言うと、目隠しをした真琴の手を引いて歩き始めた。

 どれぐらい歩いたろう。距離的にはまだローゼ市内だと思う。早めの歩調で、足の疲れ具合からして三十分ほどだろうか。真琴の手を引くフュルストが一旦立ち止まったかと思うと、扉の開く軋みが耳に入った。
 扉の閉まった音がすると、目許の黒い布越しに仄かな明かりが透ける。合わせて目許の圧迫感がなくなる感触があった。

「ついたよ」
 フュルストの声に真琴は薄く眼を開けた。暗闇に慣れた瞳は、僅かな明るさでさえ眩しく感じる。明るさの正体はフュルストの持つ小型ランプだった。
 真琴の立っている場所は、ふたり並んで立っていると狭いくらいの踊り場で、背後にはここから入ってきたであろう扉があった。前方は地下へと続く石階段があり、奥まで明かりは届いておらず、底なしの闇を連想させた。
「ここ?」
「うん」
 頷いて階段を降りていくフュルストのあとに、真琴も続いた。閉ざされた空間で互いの足音だけが響き渡る。
 意外と深く降りてきた。地下二階分といったところだろう。降りきったところは、やはりふたり分ほどのスペースで、周囲を見渡しても入り口のようなものはどこにもない。

「行き止まりよ」
「アジトのひとつだって言ったでしょ。おおっぴらに扉を設けるわけないじゃない」
 持ってて。と短く言ってフュルストは真琴にランプを手渡してきた。フュルストは四方に囲まれた壁の一面に向き直る。真琴はそこにランプを翳した。
 石壁には三つの燭台が等間隔に取り付けられていた。フュルストが燭台を掴んで引き落とす動作をすると、燭台は音を立てて少し下がった。
 三つの燭台を上げたり下げたりを繰り返していると、何もなかった壁から衝撃音と同時に継ぎ目が現れて、壁は扉のように開いていった。その隙間からは明かりが漏れる。

 見事な仕掛けに真琴は感心して息をついた。
「忍者屋敷……」
「にん、え? なに?」
 つい言葉が落ちた真琴にフュルストは不思議そうな顔をみせた。
「あ、なんでもないっ」
 真琴は慌てて首を振り、曖昧に微笑った。
 ――日本独特の文化を、この世界の人が知っているはずないわよね。
 現れた扉に手を掛けながら、無表情でフュルストが振り返る。
「いまの仕掛け、覚えていたって無駄だよ。定期的に法則を変えているからね」
「私って、そんなに信用されていないの……?」
 なんだか悲しくなって真琴は俯いた。
 リヴァイからは疑われ、この男からも信用されていない。まるで大海原で漂流した気分だ。
 落ち込んだ様子の真琴にフュルストは苦笑した。

「ごめん、そうじゃない。人を疑ってかかる僕の悪いくせだ。真琴に限ったことじゃないから」
「悲しいわね、そんな生き方」

 信用されていないことへの腹いせもあったが、本当に悲しいとそう思った。人を疑ってしまうのは、フュルストのなんでもお見通しな眼のせいかもしれない。だとしたら気の毒だ。
 フュルストは表情に翳りを差して眼を伏せた。そんな彼を急に不憫に思った真琴は、顔の前で手を振る。自責の念にかられたからだった。

「いろんな人間がいるから! それが悪いって言ったわけじゃ――あの、ごめんなさいっ」
「なーんてね! 引っかかった? 役者になれるかな」
 ぱぁっ、と明るい表情でフュルストは顔を上げた。真琴は騙されたと怒って、彼の背中を軽く拳で突いた。
「馬鹿!」
 あは、と飄々と笑い、フュルストは壁の扉をゆっくりと開いていく。暗かった地下階段に明かりが増す。眩しさに顔を少し逸らして真琴は眼を細めた。
「ようこそ。ヴァールハイトの地下アジトへ」

 灰色の石壁で囲まれた室内は、ランプの明かりで満たされていた。四方の壁の上部には窪みがあり、そこに燭台が置かれていて蝋燭の炎がゆらゆらと揺れている。
 ここは地下で扉も閉ざしてしまったが、炎が揺れているということは、どこかに通気口があるのだろう。空気もこれといって淀んでいない。そもそも外から空気を取り入れなければ、あっという間に二酸化炭素中毒になってしまうだろうから。

 しかしながら研究所というわりには、あからさまな道具は見当たらなかった。
 部屋の中心では木製の長卓子で細々とした作業や、何やら書きつけている者の姿が見て取れた。室内にいるのは三人だった。真琴が入って来てもとくに興味もなさそうに、ちらとこちらを窺っただけで、めいめいに熱中して何かに取り組んでいるようだ。
 フュルストが二回軽く手を叩いて注意を惹きつければ、その音は密閉された空間で山彦のようにこだました。

「ごめんね、みんな。手を休めてくれる。紹介したい人がいるんだ」
 研究者たち三人の顔ぶれは様様だった。厳つい顔をした腹の出てる男、赤毛の眼鏡をかけた少年、ブロンドの髪を編み込んだ女、それぞれがフュルストのかけ声で顔を上げた。
「新しいメンバー?」
「研究者なの?」
 口々に飛び交う彼らの疑問にフュルストは説明する。
「研究者ではないんだ。新しいメンバーではあるけど。彼女にここを見せてあげたくて」
「は、はじめまして。真琴です」
 真琴が軽く腰を折って挨拶すると、ブロンドの女が口の端を吊り上げた。

「若い子ね。フュルストにたぶらかされちゃった?」
「そんなんじゃ、ないです」
 真琴は否定するために小刻みに首を振った。脅されました、とは言えなかった。
 女はゆったりとした口調で、
「子猫ちゃんはどんな秘密を握られちゃったのかしら?」
 と頬杖をついて上目遣いをしてくる。そんな女を見て、フュルストは微笑みながら眼を眇めた。
「エリ。それはルール違反だ」
「あら、ごめんなさいね、ルース」
 悪びれもせず、エリと呼ばれた女は首を竦めてみせた。
 美しい女だった。フュルストのことをルースと呼んだのは愛称だろうし、砕けた感じからもふたりの仲の良さが窺える。
 真琴の視線に女はにこりと微笑う。

「こんばんは。エリザベートよ。エリって呼んでもらって構わないわ」
「じゃあ、遠慮なく……。エリ、よろしく」
「ええ。仲良くしましょう」
 真琴の両手を握ってエリザベートが楽しげに跳ねる。そんなふたりを見てフュルストは困ったように笑った。
「仲良しクラブじゃないんだけどな」
 そして真琴に耳打ちをする。
「この人は詮索好きだから気をつけて」
 まぁ! とエリザベートはフュルストに向かって眉を顰めた。囁き声が聴こえたのだろう。
 ふいに不機嫌そうに吠える、ポメラニアンのような声が割って入る。甲高い声は、声変わり前の少年のものだった。

「うるさいなっ。これだから女が集まると嫌だよっ」
「騒がしくしちゃってごめんなさい。研究の邪魔でしたよね」
 むくれながら文句を言った少年に真琴は謝った。
 少年の卓子周りには、分厚い本が何冊も開いて置かれてある。ちらりと窺ってみたが、細々とした文字の羅列に真琴は頭痛を起こしそうになった。難しそうな内容に途方もないページ数は、とても読もうという気にはなれない。
 フュルストが少年に向かって手を差し出す。
「ローレンツ。まだ若いけど彼は天才肌なんだ」
「……ロゥでいい」
「だそうだ。良かったね、真琴」
 ぼそっと恥ずかしげに呟いたローレンツにフュルストが笑う。
 真琴はローレンツに目線を合わせる。
「よろしくね、ロゥ」
「……うん」

 こっち。とフュルストが真琴の手を引き、厳つい顔の男のもとへ連れていく。
「マテウス、いい?」
「ああ」
 呼ばれた中年の男が立ち上がった。
「マテウスだ」
「ぁ、よろしく、お願いします……」
 怖々と挨拶をした真琴を見て、フュルストは苦笑した。
「怖がってるじゃない。マテウス! 笑顔、笑顔!」
「生まれつきなもんでな。こればっかりはどうしようもない」
「大丈夫だよ、真琴。顔は怖いけど気のいいおじさんだから」
 真琴は控えめに笑みを浮かべて、マテウスの手許を覗き込んだ。なにやら組み立ての最中のようだ。
「それって、顕微鏡ですよね」
「――ああ」

 虚を衝かれたといった様子でマテウスは言いしぶり、傍らに立つフュルストは眼を丸くしていた。
 真琴はふたりの顔を交互に見やる。
「え、なに?」
 我に返ったマテウスは、
「あ、いや。よく知ってるな、嬢ちゃん。高価なものでほとんど出回ってねぇんだが」
「え? そうなんですか」
 真琴は眼を見張った。卓子に置いてある顕微鏡は、真琴のよく知る物とはだいぶ形状は違っていたが、しかしこれは顕微鏡だ。昔のレプリカを博物館で見たことがあって、それとほぼ似かよっているのだ。
「倍率はいくつなんですか?」
「こりゃ、たまげたな! 倍率など訊かれるとは!」
 とマテウスは豪快に笑ってから鼻高々に言う。
「百倍に成功したところだ」
「百倍……」
 百倍といったら、ぎりぎり微生物が観察できる倍率だ。プランクトンは観れても細菌までは無理かもしれない。あれは最低でも四百倍〜八百倍は必要だろう。ということは、こちらは細菌という概念はまだないのだろうか。

「真琴」
 フュルストが真琴の肩に手を置いた。
「これを見て」
 そう言って部屋の角に置いてある、腰ほどの高さで白い布が掛かっている物の前に立つ。そしてフュルストが布を滑らせて現れたものは、真琴の知っているものだった。
「天体望遠鏡ね」
 三人の研究者が真琴の言葉でどよめいた。真琴は彼らの反応に不思議がる。さっきの顕微鏡と言い、どうしてこんな顕著に驚くのだろう、と。

「なにか、変なこと言った……?」
「ううん。気にしないで」
 フュルストは歯牙にもかけない感じで言い、望遠鏡のレンズ部分を調節しながら付け加えた。
「ただちょっと、これもあまり出回っていないものだから」
「……そうなんだ」
 高価な物だから一般的ではない、ということだろうか。天体望遠鏡はともかく、顕微鏡は真琴の家にもないし、そういう珍しい感覚なのかもしれない。
 ついとフュルストが真琴に向き直った。試すようなどこか面白がっているような、そんなふうな眼をして。

「真琴は――この世界は丸いと思う? 四角いと思う?」
「やだ、四角いだなんで。いつの時代の話? からかってるの?」
 半笑いで返した真琴に、フュルストは静かな笑みを湛えて続ける。
「なら丸いと思っているんだ?」
「当たり前でしょ」
「なぜそう思うの?」

 なんとなく周囲を見渡すと、どうしてか注目を浴びている。居心地の悪さを感じながらも、真琴は遠い昔の理科を脳裏から引っ張り出す。
「月食が起こるのは星の影が月を隠すからで、その影が丸いのは私たちの住んでいる星が丸いからで……。あとは季節によって見える星が違うから、とかだったかな」
「うん。僕たちと同じ見解だ」
 フュルストは満足げに肯いた。
「それによると、この世界は途方もなく広いはずなんだ。興味を持つなという王政のやり方には納得いかないね」
「……そうね。暮らしていく分には充分なのかもしれないけど、なんだか人生の半分を損する気分よね」
「外を自由に歩きまわれる巨人さんに、僕は嫉妬しちゃうね」

 ねぇ、真琴。と言ってフュルストはまた手を引く。
「空を飛べたら、巨人の脅威なんて気にせずに、世界旅行ができると思わない?」
「そういう研究もしているの?」
 眼を剥く真琴に、フュルストは意欲的な強い瞳で肯いてからローレンツの傍に立った。
「ちょっといい?」
「……うん」
 頷いたローレンツは、ふたりに譲るように席を少しずれた。
 フュルストはたくさんある研究資料のひとつを捲って指で叩いて示す。
「これだよ。いまロゥが頑張って開発してる」
「気球ね!」
 思わず驚喜の声を上げた。それは真琴の知っている気球に、形もほぼ完成に近いものだった。こんなものまでフュルストたちは研究していただなんて驚きだった。
 傍らで息をはきだすようにして微笑ったフュルストを、真琴は不思議に思って見る。

「なによ」
「ううん。――仕組みは、知ってるよね?」
「うん。……でもどっちかしら?」
「え?」
 開いたページには気球の設計図しかなく、絵からは判断しにくい。真琴は次のページを捲ろうとした。その手はフュルストにやんわりと押さえられる。
「カンニングは、なし」

 捲るのを制止されたので、今度は屈んで絵に顔を近づけて良く観察してみる。
 ――バーナーのようなものは付いていないから多分……。
 真琴は下から見上げて答える。
「ガス気球……?」
「正解」
「飛ばしたことはあるの?」
 真琴が訊くと、ローレンツが悔しそうな色を浮かべて横から顔を突き出してきた。
「何度やっても巧くいかないんだよな〜」
「具体的に教えて、ロゥ」
 フュルストの問いにローレンツは肯いてみせた。
「石炭ガスを使うんだけど、どうしても長く留めておくことができないんだよ。五分もしないで抜けていっちゃうんだ。それに引火しやすいし。これじゃあ人間を乗せるなんて無理だよ」
「真琴がさっき言ってた――どっちってどういう意味?」

 気球の資料を捲っていた真琴に、フュルストが問いかけてきた。
 真琴は瞳を上げて、それから口を開きかけて戸惑った。さっきから彼らの興味の眼つきに、落ち着かないでいたからだ。
 フュルストが促すように駄目押しの笑みを見せたから、真琴はおずおずと答える。
「ガス気球と熱、気球、のどっちかなって思って……」
「ねつ気球……。どういう仕組みなの?」
「ガス気球みたいに、空気より軽い物質を利用するのは一緒。違うのは火を使うことで……。熱い空気は冷たい空気よりも軽いという原理を使うの。熱で気球の内部を熱して飛ぶんだけど……」
 フュルストは感心したように口笛を吹いて、次いでローレンツを覗き込んだ。

「どう? いけそう?」
 俯き加減で考え込む仕草をしていたローレンツが、満面の笑みで顔を上げた。
「いける! ガスみたいに空中で補充に困ることはないし、予備のガスをバスケットに用意しておけば、長時間燃焼し続けられる!」
 ローレンツは卓子の上の様様な資料を引っ掻き回す。白紙の紙とペンを探し出して、そして真琴に突き出してきた。
「ねつ、気球だっけ!? 設計図って頭ん中にある!?」
「――設計図っていうか、なんとなくの絵なら、描ける、かな……」
 目の前に突き出された紙とペンを、真琴は困惑ながらも受け取った。
「簡単なもので構わないんだ! ぼくがイメージできれば!」
「えっと、描いてみるね……」

 ローレンツの気迫に押されて、気圧されながらも真琴はペンを握った。描き上げたものは納得のいく出来ではなく、正直これでローレンツがイメージできるのかと不安になった。
 真琴の描いた絵を覗き込んで、ローレンツが喜々として取り上げて掲げた。
「すげー!! いける!!」
「……あの、作れそう?」
 窺う真琴に、ローレンツは腕を前に突き出して親指を立ててみせた。
「充分だよ!!」
 それに返すように真琴は曖昧な笑みを浮かべた。

 真琴の知識を与えても良かったのだろうかと、漠然と不安が過った。だがしかし遅かれ早かれ、彼らは熱気球に辿り着いただろうとは思う。ガス気球を開発中だったのだから。
 歴史を早めただけ、ただそれだけのことと割り切ってよいのかは疑問が残る。けれど完成すれば海へ出れる希望がもてる。延いては海を通じて帰れるかもしれない。帰れるなどという確証はどこにもないが、ひと目でいいから海を見たいという思いは強かった。

 懇願の思いで真琴はフュルストに向き直る。
「あのね、その……。熱気球が完成したら、一番に乗せてほしいのだけど」
「真琴も世界旅行をしたいくち?」
「海へ、行ってみたいの……」
 フュルストは深い瞳で真琴をただ見つめてきた。そこにローレンツが割って入る。
「いーじゃん、ルース! ねつ気球は真琴のアイデアだぜ!」
「そうだね。一番に真琴を乗せてやろう」
 微笑みながら、フュルストはローレンツの頭にぽんと手をおいた。
 するとすぐ後ろで、艶っぽい声色がローレンツをからかう。

「あら、生意気ボウヤが珍しいこと。ずいぶん仲良くなっちゃったのね」
「坊やって言うない! いつもまでも子供扱いすんなよ、エリ!」
 言われたエリザベートは、ローレンツの首を腕で締めて引き寄せた。
「子供にボウヤって言って何が悪いの? あたしから見たらあんたはまだガ、キ、ン、チョよ!」
「は、離せよー! 香水臭ぇんだよー! おばはん!」
「まっ! なーんですってぇ!?」
 少し離れたところから、マテウスが笑いながら茶々を入れる。
「ロゥ! 年増におばはんは禁句だぞ!」
「――言ったわね、マテウス!」
 エリザートはぷんすか肩を怒らせた。真琴の腕を掴み、請うように揺らしてくる。
「二八は年増じゃないわよね!? ね!!」
 強く同意を求められ、真琴は意図せず反射的に頷いていた。
 ほら〜! と腰に両手をあててエリザベートが得意そうにみんなを見回す。

「お前そりゃあ、そんな切羽詰まった顔で訊かれたら頷くだろう」
「そーだ! そーだ!」
 マテウスとローレンツがさらにエリザベートを煽った。そんな喧騒にフュルストはただ苦笑している。
 やにわに愉快そうな笑い声が地下室にこだました。声の正体は腹を抱えながら笑う真琴で、その目尻には涙が滲んでいる。
 エリザベートがショックな顔に変えた。
「ひど〜い! 真琴まであたしのことおばはんだと笑うの〜!」
「ちが――違うの、エリ! そうじゃなくって!」
 真琴は笑い声で言う。
「だって、みんな楽しそうだから。可笑しくてつい……」
「僕たちが楽しそうなのが不思議?」

 フュルストが微笑んで首をかしげてみせた。真琴は目尻に溜まった涙を拭いながら頷き、笑いを落ち着かせるために息を吐き出す。
「ごめんなさい。秘密結社だなんて聞いていたから、もっと殺伐とした雰囲気かと思っていたの」
「あたしたち研究員は、ただ研究していればいいだけだから。自分の好きなことだし趣味だからね」
 苦笑したエリザベートが全員に目配せする。フュルストを除き、ほかの面々も同じような顔をして頷いた。
「だから気楽なのよ。でもフュルストたち諜報員は――命がけだから」
 気遣うような眼差しをするエリザベート。フュルストは控えめな微笑で眼を伏せ、緩く首を横に振った。
 真琴は窺うようにみんなを見渡した。
「……でも秘密を握られているんでしょう? なのにどうして微笑っていられるの」
「ルースを信じているからよ」
 囁いたエリザベートにみんなも笑みを浮かべて頷いた。

「エリ!」
 静かになってしまった雰囲気を、打ち消すような明るい声だった。そう呼んだのはフュルストだ。
 フュルストがエリザベートに向かって悪戯な顔を突き出す。どうしてかエリザベートは俄に頬が赤くなった。
「煽ててくれて、ありがとう。何が欲しいのかな? チョコレート? ケーキ?」
「もぅ! ルースったら!」
 エリザベートに背中を力いっぱい叩かれたフュルストは、わざとらしくよろける真似をした。
「馬鹿! 安い女じゃないのよ! 宝石持ってきなさいよ!」
 つん、と顎を上げてエリザベートは自分の席に戻っていった。
 エリザベートはフュルストのことが好きなのかもしれない。彼女の居丈高な態度は、好意を隠しての強がりなのだろう。フュルストの様子からして、恋人同士というわけではなさそうだけれど。

 地下室を出て帰路をフュルストとふたりで歩いていた。
「帰り、目隠ししなかったけど……いいの?」
「うん。真琴の瞳を信じることにした」
「みんないい人たちね。慕われているんだ、あなたって」
 真琴の一歩前を歩くフュルストが、顔だけで振り返った。
「彼らは自分たちが気楽な研究員だと言っていたけど、実はそうでもないんだよ」
「どういうこと?」
「フェンデルさんの息子さんの話は聞いたね?」
 真琴は肯いてみせた。
「彼らの研究は、王政にとってなぜか脅威なんだ。憲兵に知られた日には命はないだろう。だから彼らも命がけで研究しているんだよ」
「そんなにいけないことなの? 気球や顕微鏡などの開発って」

「さぁ……。顕微鏡や望遠鏡は認められてはいるんだ。ただそれ以上の発展を忌むだけで」
「高倍率の顕微鏡を嫌うの? なんでかしら」
 真琴が疑念たっぷりで尋ねると、フュルストは気にも留めていない感じで首を振った。
「さぁね。でも基本的に科学の進歩を忌み嫌うんだよ」
「それだとずっと国は発展しないじゃないの」
「王政になにか秘密があるんだ。知られたくない大きな秘密が」
 フュルストは顎に手を添えて、噛み砕くように言う。
「顕微鏡が進歩すると困る、空を飛んで壁の外へ出られると困る――何かが」
「見られると困るもの、なのかしら……?」
「いい線いってるかもね」

 堅い顔を崩して、くるりとフュルストは半身を捻った。真琴を見据えてくる。
「君も大きな秘密がやっぱりありそうだね。僕の読み通りだ」
 真琴は動揺する。
「な、ないわよ、そんなの」
「いまは騙されてあげる。――あと」
 フュルストは鋭い瞳で忠告してくる。
「行動には気をつけてほしい。君はつけられているよ、あの男に」
「あの男って、リヴァイのこと……?」
 恐る恐る真琴が訊けば、フュルストは頷いた。

「たぶん僕と出逢う前からだ。何か思い当たる節は?」
「それが分からないの……」
「そうだな、例えば。――ねつ気球のことを彼に話したことは?」
 真琴は首を振った。
「ないわ。今日が初めてよ。……あの、そんなに変だった? 私が原理を思い至ったことって」
 浅はかだったと真琴は内心で自分を罵る。やはり研究者でもない真琴が、知識をひけらかしたのは失敗であった。
 フュルストは少しだけ真琴を見つめてから瞳を伏せた。一瞬、藍色に浸る街中で鋭く光ったような気がした。
「そんなことないよ。……そうだな。あとは突拍子もないことを何か言ったとか?」

 真琴はいつかの星空を思い出してポツリと呟いた。
「……海」
「海?」
「あの――」

 真琴は顔を上げて口を濁した。いっそ、この男にすべて話してしまおうか、そんな思いが過った。
 こちらの人間ではないと、遠いところからやってきたのだと。そうすれば隠し事もなくなって楽になるし、信用してもらえるのでは。

「私ね、そのっ!」
 真剣な眼差しでフュルストは見返してきた。
「言って。君の口から何を言われても僕は驚かない。それだけ君は不思議なんだもの」
「海で溺――」
 真琴は思いとどまって言葉を切った。とどのつまり異質な者と見做されるのが怖くて、事情を打ち明ける勇気がもてなかったからだった。そして言おうとしたことを改めて、途切れた言葉をねじ曲げるために内容をすり替える。
「――海水は、塩が含まれているから身体が浮く……って言った」
「いま何か言いかけたよね?」
「ちょっと、とちっただけ!」
 笑って誤魔化したあとで「あ、でも!」と思い出して真琴は声をあげた。

「その話をしたときは、マコのときだったから……」
「それなんだけど、君のことを男だと本当に信じているのかな」
「……と思う。だって男扱いするもの」
「意外と節穴ってことか」
 呆れた眼つきで言ってから、
「そうすると、以前から” 真琴 “を疑う理由は分からないけど、僕と接触したことは知っている。” マコ “に関しては、もしかすると海の話で不審に思ったのかもしれないね。それと憲兵団本部への侵入で完全にアウトになった、そんなところかな」
「両方、疑われているってことよね……」
 真琴は項垂れるしかなかった。

 調査兵団本部が少し向こうに見えたところでフュルストと別れた。真琴はひとり兵舎への道のりをとぼとぼ歩いていた。
 空はきらきらと星が瞬くのに、胸の中は不安の嵐だった。今夜は話し過ぎてしまったかもしれないと、いまさら後悔している。
 フュルストは真琴のことを不思議がっていた。きっと存在を怪しんだに違いない。
 同時にリヴァイにも同じ意味で怪しまれていることに、ようやく気づいた。海の話を、リヴァイの訊かれるままに喋ってしまったことは愚かであった。

 胸が苦しくなる。異質な者として棘だらけのいばらに絡めとられて、そのうえ檻に放り込まれた気分だった。
 そんなに可怪しく思うことなのだろうか、どれも真琴にとっては当たり前の知識なのに。なぜこの世界では通じないのだろうと、真琴はひとり唇を噛んだ。


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